アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
法制史研究(1953 巻 (1953) 3 号)に掲載された、船田 享二著「キリスト審判の再審」1953 年 1953 巻 3 号 p. 112-123, en2 [「キリスト審判の再審」船田享二]をご紹介します。
世の終わりには、全人類がキリストの前で裁かれます。最後の審判です。
ところで、イエズス・キリスト御自身が2000年前に受けた審判について、これが正しいか否かが審理した論文が1953年法制史研究に掲載されました。キリストを裁いた判決が、どれほど法に背いていたか、を論じています。
「サンヘドリンはローマの管理官の裁判を要求した点において、ピラトは判決を言い渡した点において、両者共にキリストの死について責を負うものといわねばならない。福音書の伝えるところにしたがって事実の経過をたどれば、キリストを告発し、管理官を畏怖させてまで死刑の判決を求めたユダヤ人に、実質的に責任のあることは、いうまでもあるまい。」
「キリスト審判の再審」船田享二
ユダヤでは、すでに王政時代に、王の諮間に応じまた裁判を掌(つかさど)ったと想像される重大な会議体が現れ、その会議体は、後にサンヘドリンと呼ばれて、ユダヤの最高機関をなすに至った。サンヘドリンには、政治的・法的その他各種の社会問題について裁断を下すためのものの他に、純粋に宗教的意義をもつものがあったといわれ、いずれも約70人の議官からなり、議官の席は長老や僧侶によって占められ、王国滅亡の後には、ユダヤ人統治の中心をなした。ことに、政治的・法的意義をもつ会議は、ユダヤ人の内政については常に最高の権威をもち、王国を征服したイランの王やアレクサンデル及びその後継者たちも、それがユダヤ人の間のあらゆる紛争を裁定する最高の地位を保有することを認めた。
ローマとユダヤとの開係は、ポムペイウスが、ユダヤの内紛を処理するために、幕僚を派遣した頃から、特に緊密となり、ユダヤ人があらゆる異国人を排斥する結社を作って反抗するに及んで、ローマはイェルサレムを攻略し、ユダヤ領をシリア県の一部に編入し、サンヘドリンの権限に多くの制限を加えるに至った。ことに、紀元前57年のシリア県長官ガビニウスの告示は、従来のユダヤの統治組織を廃止し、ユダヤ領を 5州に分割して、各州にそれぞれサンへドリンを置くこととして、従来のサンヘドリンの権威を著しく低下せしめた。しかし、その征服した国民に自治すなわち『自分の法を用いること』(autonomia、suis legibus uti)を許す政策は、ローマの伝統的政策であって、ユダヤに対しても、ローマは、ユダヤがその中心勢力を確立して反抗するに至ることを防ぐに必要な限りにおいて干渉するに止まった。したがって、ユダヤは、ローマの同盟国と同様の地位に立ち、 各州のサンヘドリンは、管内のユダヤ人について、死刑に至らぬ刑を加えまたその刑を執行し、更に、警察的な取締りを為すことを認められて、常にユダヤ人の生活を支配した。ことに、カエサルは、ユダヤ人の援助に報いるために、これにローマ国民の友好国民の称を与え、兵役と大半の租税を免除し、更に、法及び宗教以外の問題については、5州の区分を廃止した。また、アントニウスとオクタウィウスは、ヘロデにユダヤ人の王の称号を与えて、その権威を高め、また、パルチア人と戦うことを許した。そうして、アントニウスを破ってローマを統一した後、オクタウィウスは、ヘロデがかように王号を保有しローマと友好開係に立つことを確認したばかりでなく、ユダヤ人がその固有の法を用いることを承認した。すなわち、3人の議官からなる小サンヘドリンは人口120人に満たぬ部落の比較的に小さな事件を取扱い、25人の議官からなる中サンヘドリンは重大な民事事件を取扱いまた死刑に至るまでの刑を科することを得る。そうして、イェルサレムには71人の議官からなる最高のサンヘドリンがあって、被告の杜会的又は政治的地位によりあるいは犯罪の性質によって特にその管轄に属するものと定められた事件を取扱い、また、祭司長や預言者の罪を裁き、集団的犯罪を審理し、更に法の解釈を為すことを得る。
これらのサンヘドリンの審理手続きは、特に刑事事件について比較的によく伝えられ、審理は、一日の中に、有責または免訴に関する議官の投票による判決を以て終了せねばならぬけれども、一昼夜の後、サンヘドリンは、再び会議を開いて、その判決を再審議し、刑を軽減することができる。安息日とその前日とには審理は行われ得ない。審理は口頭で行われ、証拠は複数の証人の証言によるべく、被告単独の自白だけでは、被告に不利な判決を言い渡すことはできない。刑としては、罰金刑・笞刑(ちけい)の他に、石で打ち殺しまたは焚き殺し又は首を斬りまたは窒息させるという方法による死刑があり、刑は、判決が確定したら直ちに執行されねばならない。
かように、ローマに征服されてからも、しばらくの間は、ユダヤ人は、その自治権を保有し、その生活は固有の法によって規制される状態を続けたけれども、王位継承をめぐる内紛でユダヤが混乱を続けるに至って、アウグスツスは、紀元4年、完全にユダヤを併合して、管理官(procurator)を派遣してこれを統治することとした。管理官の主な権限は税の徴収にあり、軍事上の権限は5個の予備歩兵隊と1個の予備騎兵隊を率いる範囲に限られるけれども、管内の住民に封する殺害の権(ius gladii)すなわち死刑を科する権をもつ。けれども、かような改革にもかかわらず、ユダヤ固有の制度はなお少なくとも事実上存続を認められ、ユダヤ人相互の間の民事及び刑事の事件は、イェルサレムにおける最高のサンヘドリンを頂点とする各種のサンヘドリンによって審理された。ただ、最高のサンヘドリンを司宰する大祭司は管理官によって任命されることとなったばかりでなく、サンヘドリンが死刑を宣告した揚合には、管内の住民に死刑を科する権は管理官の有するところとなったので、かかる判決は管理官の認可がなければ執行され得ないこととなった。したがって、死刑の判決に至るような重大な刑事事件については、サンヘドリンは管轄権を失い、あるいは、少なくとも、管理官と競合的にこれを持つこととなったものといわねばならない。かようなサンヘドリンの審理判決の手続きと管理官の認可の手続きとがどういう関係にたつかについては、ある学者は、まずサンヘドリンが行った審理判決について、管理官が更に事実を審理して、判決を確認しまたは修正しまたは破棄したものと想像するに対して、他の学者は、有効かつ決定的な審理を行い判決を下す権限はただ管理官にのみ帰属するのであって、ユダヤ人は単にかかる管理官の審理判決を請求し、ユダヤ人の犯罪を管理官に告発する権限を認められたものと解する。そのいずれの見解にしたがうべきかについて、最も貴重な例をなすものは、キリストの審判である。
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アウグスツスの地位をついだチベリウスの晩年、紀元33年の過越の祭が近づいた日のタ暮、金曜日のはじめ、イェルサレムにあったキリストは、弟子たちと共に、晩餐の後、オリブの山に登った。キリストひとり祈り、弟子たちが眠っているとき、一隊の兵がキリストに襲いかかった。抵抗しようとする弟子たちを制してキリストは、捕らえられ、最高のサンヘドリンへ引き立てられた。この『一隊の兵士』は、『祭司長・学者・長老たち』のところから来た『群衆』であり『祭司長・宮の守衛長・長老たち』もこれにまじっているのであり、『一隊の兵士と千卒長とユダヤ人の下役ら』すなわち、ローマの兵隊ではなくて、サンヘドリン及び大祭司の命に服する宮守のためのユダヤの兵隊である(1)。かかる兵隊は、ユダヤがローマ領となってからも常に存続を許されたばかりでなく、特定の重大な場合には、管理官の命令によらずに自発的に活動することを許され、更に、例外的には、犯人を直ちに死刑に処することができた。したがって、かようなユダヤの兵隊がキリストを捕えたことは、それとしては不適法なものではない。
捕えられたキリストは、そのときの大祭司カヤパの舅アンナスの前に連れられ、ついでカヤパの庭に引き立てられた。大祭司力ヤパの家に集っていた『祭司長・長老・学者たち』の『全議会(2)』はすなわち最高のサンヘドリンであって、ユダヤ人の重大な犯罪を審理する権限をもつ。しかし、キリストがこのサンヘドリンの会議に引き立てられたのは夜であった。それにもかかわらず、会議は直ちに審理を始めている。のみならず、その日は安息日の前日なのである。ただし、ここに注意せねばならぬことは、ユダヤ人の一日が日没に始まって次の日没に終ることである。すなわち、サンヘドリンは、安息日の前日の前半たる夜にキリストを審判しているのである。かかることは、審理は安息日及びその前日に行われてはならず、又、日中に行われねばならぬ、という、審理手続き規定の二つの原則を破るものといわねばならない。
審理に当たって、会議は、キリストを死刑に処しようとして証拠を求めたけれども、容易には得られず、遂に二人の証人が出て、『この人は「天主の聖所をこわして、三日でそれを建てることができる」と言った』、『私たちはこの人が、「私は手で造ったこの聖所をこわそう、そして、手で造らない他のものを、三日で建てよう」と言うのを聞いた』と証言する。しかし、『彼らの証言はやはり合わなかった』。大祭司の訊問に対して、キリストは答えない。よって大祭司は、第二の告発の理由として、キリストが自ら天主の子といったことを指摘する。『お前はキリスト、讃(ほ)むべき者の子であるか』。これに対して、『私はそれである。あなた方は人の子が全能者の右に座を占め、天の雲に乗って来るのを見るであろう』とキリストは答える。『そこで、大祭司はその衣を引裂いて言った。「この上は何の証拠がいるものか。あなた方はこの瀆(けが)し言葉を聞いた。どう思われるか」』。このカヤパの処置は、被告有責の判決を下すためには、被告の自白だけでは十分ではなくて、複敦の証人の証言を要する、という原則を無視するものであって、明らかに違法である。それにもかかわらす、かような力ヤパの問いに対して、サンヘドリンの全員は『彼らすべては死刑が相当であると定めた』(3)。のみならず、死刑の判決の場合には、サンヘドリンは、翌日再び会議を開いて、再審理の上で判決を確定せねばならぬ原則に反して、この揚合のサンヘドリンは、かかる再審理のための会議を開いてはいない。かつ、翌日は安息日に当たるのであるから、かかる会議を開くことは不可能なはずである。
更に、ユダヤがローマに併合されてからは、最高のサンヘドリンの会議は管理官の承認の下に開かれねばならなくなったにもかかわらず、このキリスト審判の会議が管理官ピラトの承認の下に開かれたことについては、全く語られていない。
かように、キリストを死刑に処する判決に至るサンヘドリンの会議は、管轄官の再審の前に行われる審理判決の手続きとしては、徹頭徹尾違法なものであって、かかることは、繊細に過ぎるまでに法の規定を守る形式を整えることにたけたサンヘドリンの祭司長・長老・学者たちに似つかわしからぬものといわねばならない。それならば、この会議は、単にキリストを管理官ピラトに対して告発するについて意見をまとめるための非公式のものであったと解されるか否か。
『夜明けになるやいなや、祭司長らは長老たち、学者ら、そして全議会と共に協議し、イエズスを縛って連れて行き、ピラトに引き渡した』。『さてピラトは彼らのところに出て来て言った。この人に対してどんな訴えを起こすか。これに対し彼らはピラトに言った。この人が、悪いことをしたのでないならば、私たちがこれをあなたに渡すはずはありません。」ピラトは彼らに言った「彼を引取って、あなた方の律法に従って裁きなさい」(4)』。これに対して、サンヘドリンの代表者たちはキリストの罪状を訴えるのであるが、奇妙なことに、それは、前夜の会議でキリスト有責の判決の理由とされたものではない。『私たちは彼が私たちの民族を惑わし、皇帝に税を納めることを妨げ、自らキリスト、王であると言ったのを認めました』。そこで、ピラトは、キリストに『お前はユダヤ人の王であるか』と問い、キリストはこれを肯定して『その通りである』と答えるけれども、ピラトは、『ユダヤ人らのところに出て行って、彼らに言った。「私は彼に何の罪状をも見出さない」』。また、キリストがユダヤ人の納税を妨害したという主張に対しても、『ピラトは祭司長らと群衆とに言った。「この人に私は何の罪状をも見出さない」』。ために、告発者たちは『ますます強く主張した。「彼は全ユダヤにわたって、つまりガリラヤから始めてここまで、民を教えつつ煽動して来ました」(5)』。すなわち、キリストが反乱罪を犯したことを主張する。反乱罪に対するローマ法上の刑罰は、被告が非ローマ市民である場合には、磔刑(crux)である(6)。けれども、この主張に対しても、ピラトは、『お前たちはこの人を「民をまどわす者」として引いて来た。私はお前たちの前で彼を調べたが、見よ、この人にお前たちが訴えるような罪状を見出せない』。『見よ、死に当たるようなことを彼は何もしていない。だから彼を懲しめて釈放しようと思う(7)』という。すなわち、ピラトは、サンヘドリンの代表者たちの告発に理由がなく、キリストに責任がないものと判決しようとしたのである。
ところが、この判決に不服なユダヤ人たちは、キリストを『十字架につけよ、十字架につけよ』と叫ぶ。それにもかかわらず、ピラトは更に『お前たち自分で連れて行って十字架につけよ。私はこの人に何らの罪状を見出さないのだ』と説く。これに対してユダヤ人は、『私たちには律法があります。その律法によれば彼は死に当たるべきものです。彼は自分を天主の子としているからです』と叫ぶ。この群集の力に圧倒され、ピラトは『ますます恐ろしくなり、』次第に譲歩する。ピラトは先ずキリストを赦すことを提案する。『私は彼に何の罪状も見出さない。過越の祭に私が一人の罪人をお前たちに釈放してやる慣例がある。それで、お前たちはユダヤ人の王を釈放してもらいたいか』。『祭に当たり総督が、人民の望むところの囚人一人を彼らに釈放してやる慣習があった。その時バラバという有名な囚人がいた。そこで、人々が集まった時、ピラトは彼らに言った。「バラバと、キリストと呼ばれているイエズスと、どちらを釈放してもらいたいか」』。ところが、このバラバは、『有名な囚人』、『都で起こった暴動と人殺しとのかどによって、牢舎に入れられていた者』、『強盗』である。キリストに責なしとしながら、かようなバラバとの選択を提案することは、それ自身矛盾であり、ピラトは、かかる提案によって、キリスト処刑を要求するユダヤ人に一歩を譲っているのである。これに対してユダヤ人は、バラバを釈放してキリストを『十字架につけよ』と叫び、『もしあなたがこの人を釈放したならば、あなたは皇帝の忠臣ではない。自分を王とするものは誰であっても皇帝に背くものである』と主張する。かかる強訴を斥けても『何の効果もないばかりか、かえって騒動になりそうなのを見て』、ピラトは遂にキリストに死刑の判決を下す。『そこでピラトは彼らの要求を認めると判決した。そして暴動と人殺しとのかどにより牢舎に入れられている者を、求めにより、釈放し、イエズスを彼らに渡して思うままにさせることとした』。『イエズスを十字架につけるために彼らに渡した(8)』。
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すなわち、ピラトの判決は、キリストに責あるものとの十分な理由によるものではなくて、政治的考慮にもとづくものなのであるが、しかも、ピラトは、かような判決を下すまでに、それを避けるためのいろいろな手段をとっているのである。まず、ピラトは、サンヘドリンの代表者たちがキリストをつれて来たときに、まずこれをヘロデのもとに送った。『イエズスがヘロデの領内の者だということを知ったので、その時エルサレムに来ていたヘロデのもとに、イエズスを送った(9)』。ヘロデに管轄権があるというのである。これに対して、ヘロデは、訴訟がイェルサレムで提起されたのであるから、管轄権は管理官にあるものとして、キリストをピラトに送り返す。次いで、ピラトは、過越の祭の日に民衆の望む囚人一人を釈放する慣例を利用して、キリストをゆるそうとする。この釈放または赦免は、ローマ法上の一般的な規定によるものではない。それは、刑の免除ではなくて単に訴訟を停止する恩赦(abolitio)でも、訴訟を停止せずに刑の執行を免除する赦免(indulgentia)でもない。ただ、比較的に新しくローマの領土となった地方の管理官は、皇帝の認可の下に、特定の刑を執行せぬことを許されたことが伝えられており、この場合は恐らくはこれに当たるものと考えられる。最後に、ピラトは、キリストに笞刑(ちけい)を加えるだけに止めようとしたものの如くであるが、これに関する福音書の記事は矛盾している。ヨハネ伝によれば、『ピラトはイエズスを受取って鞭打った』。それでもなおユダヤ人が死刑を主張するので、ピラトもついに死刑を宣告するに至った。この記事にしたがえば、ピラトがキリストを鞭打ったことは、明らかな判決によらず不適法なものであるけれども、ピラトがキリストの死刑を避けようとして最後まで努カしたさまがうかがえる。これに反して、 マタイ伝及びマルコ伝は、『バラバを彼らに釈放してやり、イエズスを鞭うって十字架につけるために引渡した』といい、すなわち、ピラトが死刑の判決の後にキリストを鞭打ったことを伝えており、これによれば、ピラトは、一般の慣例にしたがって、刑の加重の意味で鞭打ったものと考えられるのである(10)。
ピラトの、判決文の詳細は、福音書によって伝えられないけれども、適法な形式による判決があったことは、ヨハネ伝の記事によって想像される。すなわち、『ピラトもまた札を書いて、十字架の上に掲げた。それには、「ユダヤ人の王ナザレのイエズス」と記してあった』。『ユダヤ人の祭司長らはピラトに言つた。「ユダヤ人の王」と記さないで、自らユダヤ人の王と言った、と書いて下さい」。これに対してピラトは言った。「私が書いたことは私が書いたものだ」』。「ユダヤ人の王ナザレのイエズス」は、判決の主文を要約した標題に他ならないのである(11)。
かように、サンヘドリンのキリスト審判の手続きは、ユダヤ人の法に合しない不適法なものであるばかりでなく、ユダヤ人たちのキリスト糾弾の理由は、このサンヘドリンの手続きにおいては、宗教的意義のものであるのに対して、ピラトの面前における手続きにおいては政治的なものであって、両者は相異なる。かかることは、サンヘドリンの審判がピラトの審判の前審の意義をもつものではなくて、単に、後者を求めるためにユダヤ人たちの意見をまとめるための非公式のものであったことを示すものと解されねばならない。ユダヤが完全にローマに併合されるまでは、最高のサンヘドリンは、涜神者を審判しまた判決を執行し得たと想像されるけれども、併合後は、これを捕えて管理官の面前に引きつれその裁判を求め得るにしても、単にかような摘発者であり告発人であるに過ぎぬものとなったのであって、これを裁判する権限は管理官だけがこれをもつことになったものといわねばならない。サンヘドリンのキリスト審判の手続きがユダヤの法によらずに進められたのは、この間の事情を物語るものと考えられる。それにもかかわらず、ピラトが、ユダヤ人たちに向って、キリストを『引取って、あなた方の律法に従って裁きなさい』といっているのは、単に、かれらを揶揄したものと解される。
これに対して、ユダヤ人たちの告発をうけて行われたピラトの裁判は、たといピラトがその意に反して政治的考慮によって判決に達したにしても、手続きとしては適法であり、その判決の執行もまた、適法に運ばれた。学説彙纂(四八・一九・三八・二)のパウルス文によれば、反乱罪の被告は、その身分により、磔刑または猛獣に投げ与えられる刑または流刑に処せられるのであるが、その中の磔刑は、被告を十字架にはりつけて執行される。被告はまず横木に縛りつけられ、地にうち込まれた柱の上部まで吊し挙げられ、手と足を釘で横木と柱にうちつけられる。その執行に当たる兵卒は、被告の衣服をはいで分配する。『兵卒たちは、イエズスを十字架につけてから、その上衣を取り、四つにわけて、めいめいそのーつを取った。またイエズスの下着には縫い目がなく、上から全体を編んだものであった。兵卒たちは互に言った。「それは裂くまい。誰がそれをとるか、くじ引きにしよう」。これは聖書の次の言葉が事実となって現れるためであった。「彼らは互に私の上衣を分け、私の衣をくじ引きにした」。実際その通りに兵卒たちはしたのであった』。かような残忍な方法によって、被告は、流血と苦痛の末に死に至るのであって、キリストは、『私は渇く』といい、これに対して兵卒は『葡萄酒を含ませた海綿を、ヒソプ(葦)に結びつけ、イエズスのロもとに持って行った』。葡萄酒はローマの兵卒たちの普通の飲料である。『イエズスはその葡萄酒を受けてから言われた。「完成された」。そして頭を垂れて霊を渡し給うた』。
そのときには既に夜が近づき安息日が始まろうとしていたので、ユダヤ人たちはピラトに対してキリストの死骸を取り下すことを要請する。けだし、ローマ人の普通の執行方法では、死骸を十字架にはりつけたままとして、野獣が食いつくすにまかせるからである。これに対してピラトは、ユダヤ人たちを満足させるために、兵卒が死骸を折ってとり去ることを許すけれども、『イエズスが死んでおられるのを見た時に、彼らはイエズスの脚を折らなかった』。兵卒が立ち去った後に『アリマタヤ出のヨセフという人で、ユダヤ人を恐れてひそかにイエズスの弟子になっていた者が、イエズスの死体を引き取りたいと、ピラトに願い出た。ピラトはこれを許したので、彼は行ってこれを引き取った』。『イエズスが十字架に付けられたところに園があった。その園に新しい墓があり、その墓にはまだ一度も人を葬ったことがなかった』。『この墓が間近なままに、彼らはイエズスをそこに葬った(13)』。学説彙纂(四八・二四・三)の『受刑者の死骸は、誰でもこれを要求する者に、埋葬のために引き渡されなければならない』というパウルス文は、かようなキリストの死骸の引き渡しが適法に行われたものであることを知らしめる。
1933年4月25日午後2時、特殊な審判が、イェルサレムのある教会で、公衆を前にして開かれて、キリストの審判が正しいか否かが審理された。4票対1票の表決で、審判は再審にふせられねばならぬものと決定され、キリストの無罪は証明され、これを有罪とした判決は、人間の犯した過誤の中で最も怖ろしいものであり、ヘブライ民族は、これを破棄することによってその名誉を回復するであろうということが宣言された。それから10年、ある学者はキリスト処刑について、ユダヤ人の裁判とローマの裁判とのいずれが、史眼から観て、多くの責任をもつべきかを問題とした(14)。けれども、問題をかように提出することは不適当であって、サンヘドリンはローマの管理官の裁判を要求した点において、ピラトは判決を言い渡した点において、両者共にキリストの死について責を負うものといわねばならない。福音書の伝えるところにしたがって事実の経過をたどれば、キリストを告発し、管理官を畏怖させてまで死刑の判決を求めたユダヤ人に、実質的に責任のあることは、いうまでもあるまい(15)。
(1)マルコ伝14・43、ルカ伝22・52、ヨハネ伝18・3、12。
(2)マルコ伝14・53、55。
(3)マタイ伝26・57―66、マルコ伝14・58―64。
(4)マルコ伝15・1。ヨハネ伝18・29。
(5)ルカ伝23・2ー5、ヨハネ伝18・37ー9。
(6)学説彙纂48・4・1・1(ウルビアヌス〕、48・19・38・2(パウルス)。
(7)ルカ伝23・14ー6。
(8)マタイ伝27・15ー7、マタイ伝、27・24、 ルカ伝、23・19、24・24ー25、ョハネ伝18・6ー8、39ー40、19・12、16。
(9)ルカ伝23・7。
(10)ヨハネ伝19・1、マタイ伝27・26、マルコ伝15・15。
(11)ヨハネ伝19・19ー22。
(12)ヨハネ伝19・23ー30。
(13)ヨハネ伝19・31ー42。
(14)Daniel Rops Jesus et son temps 1943.
(15)Cf.Besnier Le proces du Chirist,Tijdschrift voor Rechtsgeschiedenis 18.1950,191sq.Besnier Le proces du Chirist,Tijdschrift voor Rechtsgeschiedenis 18.1950,191sq(諸文献については、192頁註1参照)。
A Retrial of Christ's Trial
By Kyoji Funada
Sanhedrin was the supreme organ of the Hebrew people, which led the people in . political, legal and. all other kinds ofjocial activities and which gave judgement on various questions. After the downfall of the Kingdom Sanhedrin became the machinery to rule the Hebrews. Thus the Iranian king,King Alexander and his successors all admitted that it had the supreme power to judge all disputes among the Hebrews. Now, in order to understand its position - and, therefore, to what degree the Hebrews were allowed autonomy----, after the whole Judea became the Roman territory, the trial of Christ provides valuable materials. When we examine the proceedings and others in this trial, upon the Scriptures which is our main source, we come to the con- elusion that the trial proceebings in the Sanhedrin were in complete disregard of the rules of procedure and that the Sanhedrin there was not much more than a conference to give shape to the will of the Hebrews to prosecute Christ to the Roman tribunal. Therefore we can see that autonomy in the sense that the Hebrews were allowed to enjoy laws of their own through the activities of Sanhedrin had ceased to be allowed to them. But we must admit that Pilate carried out the trial of Christ lawfully as regards form.
愛する兄弟姉妹の皆様、
法制史研究(1953 巻 (1953) 3 号)に掲載された、船田 享二著「キリスト審判の再審」1953 年 1953 巻 3 号 p. 112-123, en2 [「キリスト審判の再審」船田享二]をご紹介します。
世の終わりには、全人類がキリストの前で裁かれます。最後の審判です。
ところで、イエズス・キリスト御自身が2000年前に受けた審判について、これが正しいか否かが審理した論文が1953年法制史研究に掲載されました。キリストを裁いた判決が、どれほど法に背いていたか、を論じています。
「サンヘドリンはローマの管理官の裁判を要求した点において、ピラトは判決を言い渡した点において、両者共にキリストの死について責を負うものといわねばならない。福音書の伝えるところにしたがって事実の経過をたどれば、キリストを告発し、管理官を畏怖させてまで死刑の判決を求めたユダヤ人に、実質的に責任のあることは、いうまでもあるまい。」
「キリスト審判の再審」船田享二
ユダヤでは、すでに王政時代に、王の諮間に応じまた裁判を掌(つかさど)ったと想像される重大な会議体が現れ、その会議体は、後にサンヘドリンと呼ばれて、ユダヤの最高機関をなすに至った。サンヘドリンには、政治的・法的その他各種の社会問題について裁断を下すためのものの他に、純粋に宗教的意義をもつものがあったといわれ、いずれも約70人の議官からなり、議官の席は長老や僧侶によって占められ、王国滅亡の後には、ユダヤ人統治の中心をなした。ことに、政治的・法的意義をもつ会議は、ユダヤ人の内政については常に最高の権威をもち、王国を征服したイランの王やアレクサンデル及びその後継者たちも、それがユダヤ人の間のあらゆる紛争を裁定する最高の地位を保有することを認めた。
ローマとユダヤとの開係は、ポムペイウスが、ユダヤの内紛を処理するために、幕僚を派遣した頃から、特に緊密となり、ユダヤ人があらゆる異国人を排斥する結社を作って反抗するに及んで、ローマはイェルサレムを攻略し、ユダヤ領をシリア県の一部に編入し、サンヘドリンの権限に多くの制限を加えるに至った。ことに、紀元前57年のシリア県長官ガビニウスの告示は、従来のユダヤの統治組織を廃止し、ユダヤ領を 5州に分割して、各州にそれぞれサンへドリンを置くこととして、従来のサンヘドリンの権威を著しく低下せしめた。しかし、その征服した国民に自治すなわち『自分の法を用いること』(autonomia、suis legibus uti)を許す政策は、ローマの伝統的政策であって、ユダヤに対しても、ローマは、ユダヤがその中心勢力を確立して反抗するに至ることを防ぐに必要な限りにおいて干渉するに止まった。したがって、ユダヤは、ローマの同盟国と同様の地位に立ち、 各州のサンヘドリンは、管内のユダヤ人について、死刑に至らぬ刑を加えまたその刑を執行し、更に、警察的な取締りを為すことを認められて、常にユダヤ人の生活を支配した。ことに、カエサルは、ユダヤ人の援助に報いるために、これにローマ国民の友好国民の称を与え、兵役と大半の租税を免除し、更に、法及び宗教以外の問題については、5州の区分を廃止した。また、アントニウスとオクタウィウスは、ヘロデにユダヤ人の王の称号を与えて、その権威を高め、また、パルチア人と戦うことを許した。そうして、アントニウスを破ってローマを統一した後、オクタウィウスは、ヘロデがかように王号を保有しローマと友好開係に立つことを確認したばかりでなく、ユダヤ人がその固有の法を用いることを承認した。すなわち、3人の議官からなる小サンヘドリンは人口120人に満たぬ部落の比較的に小さな事件を取扱い、25人の議官からなる中サンヘドリンは重大な民事事件を取扱いまた死刑に至るまでの刑を科することを得る。そうして、イェルサレムには71人の議官からなる最高のサンヘドリンがあって、被告の杜会的又は政治的地位によりあるいは犯罪の性質によって特にその管轄に属するものと定められた事件を取扱い、また、祭司長や預言者の罪を裁き、集団的犯罪を審理し、更に法の解釈を為すことを得る。
これらのサンヘドリンの審理手続きは、特に刑事事件について比較的によく伝えられ、審理は、一日の中に、有責または免訴に関する議官の投票による判決を以て終了せねばならぬけれども、一昼夜の後、サンヘドリンは、再び会議を開いて、その判決を再審議し、刑を軽減することができる。安息日とその前日とには審理は行われ得ない。審理は口頭で行われ、証拠は複数の証人の証言によるべく、被告単独の自白だけでは、被告に不利な判決を言い渡すことはできない。刑としては、罰金刑・笞刑(ちけい)の他に、石で打ち殺しまたは焚き殺し又は首を斬りまたは窒息させるという方法による死刑があり、刑は、判決が確定したら直ちに執行されねばならない。
かように、ローマに征服されてからも、しばらくの間は、ユダヤ人は、その自治権を保有し、その生活は固有の法によって規制される状態を続けたけれども、王位継承をめぐる内紛でユダヤが混乱を続けるに至って、アウグスツスは、紀元4年、完全にユダヤを併合して、管理官(procurator)を派遣してこれを統治することとした。管理官の主な権限は税の徴収にあり、軍事上の権限は5個の予備歩兵隊と1個の予備騎兵隊を率いる範囲に限られるけれども、管内の住民に封する殺害の権(ius gladii)すなわち死刑を科する権をもつ。けれども、かような改革にもかかわらず、ユダヤ固有の制度はなお少なくとも事実上存続を認められ、ユダヤ人相互の間の民事及び刑事の事件は、イェルサレムにおける最高のサンヘドリンを頂点とする各種のサンヘドリンによって審理された。ただ、最高のサンヘドリンを司宰する大祭司は管理官によって任命されることとなったばかりでなく、サンヘドリンが死刑を宣告した揚合には、管内の住民に死刑を科する権は管理官の有するところとなったので、かかる判決は管理官の認可がなければ執行され得ないこととなった。したがって、死刑の判決に至るような重大な刑事事件については、サンヘドリンは管轄権を失い、あるいは、少なくとも、管理官と競合的にこれを持つこととなったものといわねばならない。かようなサンヘドリンの審理判決の手続きと管理官の認可の手続きとがどういう関係にたつかについては、ある学者は、まずサンヘドリンが行った審理判決について、管理官が更に事実を審理して、判決を確認しまたは修正しまたは破棄したものと想像するに対して、他の学者は、有効かつ決定的な審理を行い判決を下す権限はただ管理官にのみ帰属するのであって、ユダヤ人は単にかかる管理官の審理判決を請求し、ユダヤ人の犯罪を管理官に告発する権限を認められたものと解する。そのいずれの見解にしたがうべきかについて、最も貴重な例をなすものは、キリストの審判である。
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アウグスツスの地位をついだチベリウスの晩年、紀元33年の過越の祭が近づいた日のタ暮、金曜日のはじめ、イェルサレムにあったキリストは、弟子たちと共に、晩餐の後、オリブの山に登った。キリストひとり祈り、弟子たちが眠っているとき、一隊の兵がキリストに襲いかかった。抵抗しようとする弟子たちを制してキリストは、捕らえられ、最高のサンヘドリンへ引き立てられた。この『一隊の兵士』は、『祭司長・学者・長老たち』のところから来た『群衆』であり『祭司長・宮の守衛長・長老たち』もこれにまじっているのであり、『一隊の兵士と千卒長とユダヤ人の下役ら』すなわち、ローマの兵隊ではなくて、サンヘドリン及び大祭司の命に服する宮守のためのユダヤの兵隊である(1)。かかる兵隊は、ユダヤがローマ領となってからも常に存続を許されたばかりでなく、特定の重大な場合には、管理官の命令によらずに自発的に活動することを許され、更に、例外的には、犯人を直ちに死刑に処することができた。したがって、かようなユダヤの兵隊がキリストを捕えたことは、それとしては不適法なものではない。
捕えられたキリストは、そのときの大祭司カヤパの舅アンナスの前に連れられ、ついでカヤパの庭に引き立てられた。大祭司力ヤパの家に集っていた『祭司長・長老・学者たち』の『全議会(2)』はすなわち最高のサンヘドリンであって、ユダヤ人の重大な犯罪を審理する権限をもつ。しかし、キリストがこのサンヘドリンの会議に引き立てられたのは夜であった。それにもかかわらず、会議は直ちに審理を始めている。のみならず、その日は安息日の前日なのである。ただし、ここに注意せねばならぬことは、ユダヤ人の一日が日没に始まって次の日没に終ることである。すなわち、サンヘドリンは、安息日の前日の前半たる夜にキリストを審判しているのである。かかることは、審理は安息日及びその前日に行われてはならず、又、日中に行われねばならぬ、という、審理手続き規定の二つの原則を破るものといわねばならない。
審理に当たって、会議は、キリストを死刑に処しようとして証拠を求めたけれども、容易には得られず、遂に二人の証人が出て、『この人は「天主の聖所をこわして、三日でそれを建てることができる」と言った』、『私たちはこの人が、「私は手で造ったこの聖所をこわそう、そして、手で造らない他のものを、三日で建てよう」と言うのを聞いた』と証言する。しかし、『彼らの証言はやはり合わなかった』。大祭司の訊問に対して、キリストは答えない。よって大祭司は、第二の告発の理由として、キリストが自ら天主の子といったことを指摘する。『お前はキリスト、讃(ほ)むべき者の子であるか』。これに対して、『私はそれである。あなた方は人の子が全能者の右に座を占め、天の雲に乗って来るのを見るであろう』とキリストは答える。『そこで、大祭司はその衣を引裂いて言った。「この上は何の証拠がいるものか。あなた方はこの瀆(けが)し言葉を聞いた。どう思われるか」』。このカヤパの処置は、被告有責の判決を下すためには、被告の自白だけでは十分ではなくて、複敦の証人の証言を要する、という原則を無視するものであって、明らかに違法である。それにもかかわらす、かような力ヤパの問いに対して、サンヘドリンの全員は『彼らすべては死刑が相当であると定めた』(3)。のみならず、死刑の判決の場合には、サンヘドリンは、翌日再び会議を開いて、再審理の上で判決を確定せねばならぬ原則に反して、この揚合のサンヘドリンは、かかる再審理のための会議を開いてはいない。かつ、翌日は安息日に当たるのであるから、かかる会議を開くことは不可能なはずである。
更に、ユダヤがローマに併合されてからは、最高のサンヘドリンの会議は管理官の承認の下に開かれねばならなくなったにもかかわらず、このキリスト審判の会議が管理官ピラトの承認の下に開かれたことについては、全く語られていない。
かように、キリストを死刑に処する判決に至るサンヘドリンの会議は、管轄官の再審の前に行われる審理判決の手続きとしては、徹頭徹尾違法なものであって、かかることは、繊細に過ぎるまでに法の規定を守る形式を整えることにたけたサンヘドリンの祭司長・長老・学者たちに似つかわしからぬものといわねばならない。それならば、この会議は、単にキリストを管理官ピラトに対して告発するについて意見をまとめるための非公式のものであったと解されるか否か。
『夜明けになるやいなや、祭司長らは長老たち、学者ら、そして全議会と共に協議し、イエズスを縛って連れて行き、ピラトに引き渡した』。『さてピラトは彼らのところに出て来て言った。この人に対してどんな訴えを起こすか。これに対し彼らはピラトに言った。この人が、悪いことをしたのでないならば、私たちがこれをあなたに渡すはずはありません。」ピラトは彼らに言った「彼を引取って、あなた方の律法に従って裁きなさい」(4)』。これに対して、サンヘドリンの代表者たちはキリストの罪状を訴えるのであるが、奇妙なことに、それは、前夜の会議でキリスト有責の判決の理由とされたものではない。『私たちは彼が私たちの民族を惑わし、皇帝に税を納めることを妨げ、自らキリスト、王であると言ったのを認めました』。そこで、ピラトは、キリストに『お前はユダヤ人の王であるか』と問い、キリストはこれを肯定して『その通りである』と答えるけれども、ピラトは、『ユダヤ人らのところに出て行って、彼らに言った。「私は彼に何の罪状をも見出さない」』。また、キリストがユダヤ人の納税を妨害したという主張に対しても、『ピラトは祭司長らと群衆とに言った。「この人に私は何の罪状をも見出さない」』。ために、告発者たちは『ますます強く主張した。「彼は全ユダヤにわたって、つまりガリラヤから始めてここまで、民を教えつつ煽動して来ました」(5)』。すなわち、キリストが反乱罪を犯したことを主張する。反乱罪に対するローマ法上の刑罰は、被告が非ローマ市民である場合には、磔刑(crux)である(6)。けれども、この主張に対しても、ピラトは、『お前たちはこの人を「民をまどわす者」として引いて来た。私はお前たちの前で彼を調べたが、見よ、この人にお前たちが訴えるような罪状を見出せない』。『見よ、死に当たるようなことを彼は何もしていない。だから彼を懲しめて釈放しようと思う(7)』という。すなわち、ピラトは、サンヘドリンの代表者たちの告発に理由がなく、キリストに責任がないものと判決しようとしたのである。
ところが、この判決に不服なユダヤ人たちは、キリストを『十字架につけよ、十字架につけよ』と叫ぶ。それにもかかわらず、ピラトは更に『お前たち自分で連れて行って十字架につけよ。私はこの人に何らの罪状を見出さないのだ』と説く。これに対してユダヤ人は、『私たちには律法があります。その律法によれば彼は死に当たるべきものです。彼は自分を天主の子としているからです』と叫ぶ。この群集の力に圧倒され、ピラトは『ますます恐ろしくなり、』次第に譲歩する。ピラトは先ずキリストを赦すことを提案する。『私は彼に何の罪状も見出さない。過越の祭に私が一人の罪人をお前たちに釈放してやる慣例がある。それで、お前たちはユダヤ人の王を釈放してもらいたいか』。『祭に当たり総督が、人民の望むところの囚人一人を彼らに釈放してやる慣習があった。その時バラバという有名な囚人がいた。そこで、人々が集まった時、ピラトは彼らに言った。「バラバと、キリストと呼ばれているイエズスと、どちらを釈放してもらいたいか」』。ところが、このバラバは、『有名な囚人』、『都で起こった暴動と人殺しとのかどによって、牢舎に入れられていた者』、『強盗』である。キリストに責なしとしながら、かようなバラバとの選択を提案することは、それ自身矛盾であり、ピラトは、かかる提案によって、キリスト処刑を要求するユダヤ人に一歩を譲っているのである。これに対してユダヤ人は、バラバを釈放してキリストを『十字架につけよ』と叫び、『もしあなたがこの人を釈放したならば、あなたは皇帝の忠臣ではない。自分を王とするものは誰であっても皇帝に背くものである』と主張する。かかる強訴を斥けても『何の効果もないばかりか、かえって騒動になりそうなのを見て』、ピラトは遂にキリストに死刑の判決を下す。『そこでピラトは彼らの要求を認めると判決した。そして暴動と人殺しとのかどにより牢舎に入れられている者を、求めにより、釈放し、イエズスを彼らに渡して思うままにさせることとした』。『イエズスを十字架につけるために彼らに渡した(8)』。
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すなわち、ピラトの判決は、キリストに責あるものとの十分な理由によるものではなくて、政治的考慮にもとづくものなのであるが、しかも、ピラトは、かような判決を下すまでに、それを避けるためのいろいろな手段をとっているのである。まず、ピラトは、サンヘドリンの代表者たちがキリストをつれて来たときに、まずこれをヘロデのもとに送った。『イエズスがヘロデの領内の者だということを知ったので、その時エルサレムに来ていたヘロデのもとに、イエズスを送った(9)』。ヘロデに管轄権があるというのである。これに対して、ヘロデは、訴訟がイェルサレムで提起されたのであるから、管轄権は管理官にあるものとして、キリストをピラトに送り返す。次いで、ピラトは、過越の祭の日に民衆の望む囚人一人を釈放する慣例を利用して、キリストをゆるそうとする。この釈放または赦免は、ローマ法上の一般的な規定によるものではない。それは、刑の免除ではなくて単に訴訟を停止する恩赦(abolitio)でも、訴訟を停止せずに刑の執行を免除する赦免(indulgentia)でもない。ただ、比較的に新しくローマの領土となった地方の管理官は、皇帝の認可の下に、特定の刑を執行せぬことを許されたことが伝えられており、この場合は恐らくはこれに当たるものと考えられる。最後に、ピラトは、キリストに笞刑(ちけい)を加えるだけに止めようとしたものの如くであるが、これに関する福音書の記事は矛盾している。ヨハネ伝によれば、『ピラトはイエズスを受取って鞭打った』。それでもなおユダヤ人が死刑を主張するので、ピラトもついに死刑を宣告するに至った。この記事にしたがえば、ピラトがキリストを鞭打ったことは、明らかな判決によらず不適法なものであるけれども、ピラトがキリストの死刑を避けようとして最後まで努カしたさまがうかがえる。これに反して、 マタイ伝及びマルコ伝は、『バラバを彼らに釈放してやり、イエズスを鞭うって十字架につけるために引渡した』といい、すなわち、ピラトが死刑の判決の後にキリストを鞭打ったことを伝えており、これによれば、ピラトは、一般の慣例にしたがって、刑の加重の意味で鞭打ったものと考えられるのである(10)。
ピラトの、判決文の詳細は、福音書によって伝えられないけれども、適法な形式による判決があったことは、ヨハネ伝の記事によって想像される。すなわち、『ピラトもまた札を書いて、十字架の上に掲げた。それには、「ユダヤ人の王ナザレのイエズス」と記してあった』。『ユダヤ人の祭司長らはピラトに言つた。「ユダヤ人の王」と記さないで、自らユダヤ人の王と言った、と書いて下さい」。これに対してピラトは言った。「私が書いたことは私が書いたものだ」』。「ユダヤ人の王ナザレのイエズス」は、判決の主文を要約した標題に他ならないのである(11)。
かように、サンヘドリンのキリスト審判の手続きは、ユダヤ人の法に合しない不適法なものであるばかりでなく、ユダヤ人たちのキリスト糾弾の理由は、このサンヘドリンの手続きにおいては、宗教的意義のものであるのに対して、ピラトの面前における手続きにおいては政治的なものであって、両者は相異なる。かかることは、サンヘドリンの審判がピラトの審判の前審の意義をもつものではなくて、単に、後者を求めるためにユダヤ人たちの意見をまとめるための非公式のものであったことを示すものと解されねばならない。ユダヤが完全にローマに併合されるまでは、最高のサンヘドリンは、涜神者を審判しまた判決を執行し得たと想像されるけれども、併合後は、これを捕えて管理官の面前に引きつれその裁判を求め得るにしても、単にかような摘発者であり告発人であるに過ぎぬものとなったのであって、これを裁判する権限は管理官だけがこれをもつことになったものといわねばならない。サンヘドリンのキリスト審判の手続きがユダヤの法によらずに進められたのは、この間の事情を物語るものと考えられる。それにもかかわらず、ピラトが、ユダヤ人たちに向って、キリストを『引取って、あなた方の律法に従って裁きなさい』といっているのは、単に、かれらを揶揄したものと解される。
これに対して、ユダヤ人たちの告発をうけて行われたピラトの裁判は、たといピラトがその意に反して政治的考慮によって判決に達したにしても、手続きとしては適法であり、その判決の執行もまた、適法に運ばれた。学説彙纂(四八・一九・三八・二)のパウルス文によれば、反乱罪の被告は、その身分により、磔刑または猛獣に投げ与えられる刑または流刑に処せられるのであるが、その中の磔刑は、被告を十字架にはりつけて執行される。被告はまず横木に縛りつけられ、地にうち込まれた柱の上部まで吊し挙げられ、手と足を釘で横木と柱にうちつけられる。その執行に当たる兵卒は、被告の衣服をはいで分配する。『兵卒たちは、イエズスを十字架につけてから、その上衣を取り、四つにわけて、めいめいそのーつを取った。またイエズスの下着には縫い目がなく、上から全体を編んだものであった。兵卒たちは互に言った。「それは裂くまい。誰がそれをとるか、くじ引きにしよう」。これは聖書の次の言葉が事実となって現れるためであった。「彼らは互に私の上衣を分け、私の衣をくじ引きにした」。実際その通りに兵卒たちはしたのであった』。かような残忍な方法によって、被告は、流血と苦痛の末に死に至るのであって、キリストは、『私は渇く』といい、これに対して兵卒は『葡萄酒を含ませた海綿を、ヒソプ(葦)に結びつけ、イエズスのロもとに持って行った』。葡萄酒はローマの兵卒たちの普通の飲料である。『イエズスはその葡萄酒を受けてから言われた。「完成された」。そして頭を垂れて霊を渡し給うた』。
そのときには既に夜が近づき安息日が始まろうとしていたので、ユダヤ人たちはピラトに対してキリストの死骸を取り下すことを要請する。けだし、ローマ人の普通の執行方法では、死骸を十字架にはりつけたままとして、野獣が食いつくすにまかせるからである。これに対してピラトは、ユダヤ人たちを満足させるために、兵卒が死骸を折ってとり去ることを許すけれども、『イエズスが死んでおられるのを見た時に、彼らはイエズスの脚を折らなかった』。兵卒が立ち去った後に『アリマタヤ出のヨセフという人で、ユダヤ人を恐れてひそかにイエズスの弟子になっていた者が、イエズスの死体を引き取りたいと、ピラトに願い出た。ピラトはこれを許したので、彼は行ってこれを引き取った』。『イエズスが十字架に付けられたところに園があった。その園に新しい墓があり、その墓にはまだ一度も人を葬ったことがなかった』。『この墓が間近なままに、彼らはイエズスをそこに葬った(13)』。学説彙纂(四八・二四・三)の『受刑者の死骸は、誰でもこれを要求する者に、埋葬のために引き渡されなければならない』というパウルス文は、かようなキリストの死骸の引き渡しが適法に行われたものであることを知らしめる。
1933年4月25日午後2時、特殊な審判が、イェルサレムのある教会で、公衆を前にして開かれて、キリストの審判が正しいか否かが審理された。4票対1票の表決で、審判は再審にふせられねばならぬものと決定され、キリストの無罪は証明され、これを有罪とした判決は、人間の犯した過誤の中で最も怖ろしいものであり、ヘブライ民族は、これを破棄することによってその名誉を回復するであろうということが宣言された。それから10年、ある学者はキリスト処刑について、ユダヤ人の裁判とローマの裁判とのいずれが、史眼から観て、多くの責任をもつべきかを問題とした(14)。けれども、問題をかように提出することは不適当であって、サンヘドリンはローマの管理官の裁判を要求した点において、ピラトは判決を言い渡した点において、両者共にキリストの死について責を負うものといわねばならない。福音書の伝えるところにしたがって事実の経過をたどれば、キリストを告発し、管理官を畏怖させてまで死刑の判決を求めたユダヤ人に、実質的に責任のあることは、いうまでもあるまい(15)。
(1)マルコ伝14・43、ルカ伝22・52、ヨハネ伝18・3、12。
(2)マルコ伝14・53、55。
(3)マタイ伝26・57―66、マルコ伝14・58―64。
(4)マルコ伝15・1。ヨハネ伝18・29。
(5)ルカ伝23・2ー5、ヨハネ伝18・37ー9。
(6)学説彙纂48・4・1・1(ウルビアヌス〕、48・19・38・2(パウルス)。
(7)ルカ伝23・14ー6。
(8)マタイ伝27・15ー7、マタイ伝、27・24、 ルカ伝、23・19、24・24ー25、ョハネ伝18・6ー8、39ー40、19・12、16。
(9)ルカ伝23・7。
(10)ヨハネ伝19・1、マタイ伝27・26、マルコ伝15・15。
(11)ヨハネ伝19・19ー22。
(12)ヨハネ伝19・23ー30。
(13)ヨハネ伝19・31ー42。
(14)Daniel Rops Jesus et son temps 1943.
(15)Cf.Besnier Le proces du Chirist,Tijdschrift voor Rechtsgeschiedenis 18.1950,191sq.Besnier Le proces du Chirist,Tijdschrift voor Rechtsgeschiedenis 18.1950,191sq(諸文献については、192頁註1参照)。
A Retrial of Christ's Trial
By Kyoji Funada
Sanhedrin was the supreme organ of the Hebrew people, which led the people in . political, legal and. all other kinds ofjocial activities and which gave judgement on various questions. After the downfall of the Kingdom Sanhedrin became the machinery to rule the Hebrews. Thus the Iranian king,King Alexander and his successors all admitted that it had the supreme power to judge all disputes among the Hebrews. Now, in order to understand its position - and, therefore, to what degree the Hebrews were allowed autonomy----, after the whole Judea became the Roman territory, the trial of Christ provides valuable materials. When we examine the proceedings and others in this trial, upon the Scriptures which is our main source, we come to the con- elusion that the trial proceebings in the Sanhedrin were in complete disregard of the rules of procedure and that the Sanhedrin there was not much more than a conference to give shape to the will of the Hebrews to prosecute Christ to the Roman tribunal. Therefore we can see that autonomy in the sense that the Hebrews were allowed to enjoy laws of their own through the activities of Sanhedrin had ceased to be allowed to them. But we must admit that Pilate carried out the trial of Christ lawfully as regards form.