アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ルネッサンスから近代にかけて、人間はまず教会の権威から、次に王の権威から解放されようとしてきました。
人間中心主義という新しい精神の要求することは「自由」でした。ルネッサンスから由来するヒューマニズム(人文主義・人間中心主義)は、リベラリズム(自由主義)を生み出します。
第二バチカン公会議が、新しい時代において人間を促進することを約束します。第二バチカン公会議が、人間の尊厳の中で一番大切だと考えていることも、自由です。
リベラリズムは、人間の最高の価値として自由を置きます。ヒューマニズムは、何故リベラリズムへとたどり着いたのでしょうか?
ヒューマニズムは、ルネッサンス(つまり生まれ変わり、再生、再誕生)として起こり、超自然の抜きにした、純粋に人間的な価値を擁護しようとしました。一体何故、ルネッサンスという名前のもとにそのような人間中心の運動が起こったのでしょうか?
13世紀、中世ヨーロッパで、キリスト教世界の最盛期には、もっとも高いキリスト教的霊性が実践されていました。キリストが山上の垂訓で教えたような内容であり、三つの福音的勧告と呼ばれているものに要約されます。清貧(富を否定すること)、貞潔(肉体的な快楽を否定すること)、従順(自分の意志を否定すること)です。これは、自然な考えからは、否定的に思われます。しかし、キリスト教世界は、人間にとって価値があると思われるようなことを、十字架に付け、祭壇の上で天主に捧げました。
原罪の後の人類は、悪魔とこの世と肉との奴隷となってしまったのですから、本当の意味での自由を得させるのは、私たちの主イエズス・キリストが指し示した道に従うしかありません。それが十字架の道です。
イエズス・キリストは、ベトレヘムで清貧に生まれ、ナザレトで清貧に貞潔に従順に生活し、十字架の担って、私たちを御自分の方に招いておられます。
キリスト者たちも、ベトレヘムの優しき赤子に倣い、福音の教えに従い、イエズス・キリストの復活の栄光に入るために、主の後を慕って自分の十字架を担い、祈りと犠牲の生活、愛徳の生活を送っていました。自分たちの苦しみを主の御受難と御死去に合わせて捧げ、生活しました。
しかし、残念なことに、信心の熱が冷めた人々は十字架を担ぐことを恐れ、さらには、主に背を向けた人もいました。聖徳を求める代わりに、生ぬるくなって快適な生活を求めたのでした。
ヒューマニズムは、冷淡と無関心と背教の運動でした。
ただし、ヒューマニズムは、全てを最初から捨てたわけではありません。最初に反対したのは、もっとも高度な福音的勧告の「従順」という徳でした。従順の代わりに、自律を求め始めました。自律を求める運動は、自由放埒にどうしても向かってしまいます。しかし、ヒューマニストたちが求めたのは自由放埒と言うよりは、人権の要求でした。天主は、教会を通して、人間に聖徳を要求しすぎる、天主の権利によって、人権は侵害されている、と。
キリスト教ヒューマニストたちは、天主に直接反抗しようとしたわけではありませんでした。天主の代表者である聖職者たちに、抗おうとしました。教会の教えもそうだけれど、自分で考えて自分で信じる責任があるのではないか、自分の行動の道徳性も自分で決めることが出来るのではないか、教会の指導に従わなくても良いではないか、と。
そこで、啓示の前に人間理性を、神学に対立して哲学を、もっと大切にすべきではないか、天主の聖寵よりも人間の自然本性の価値を認めるべきではないか、と徐々に合理主義、自然主義へと向かっていきます。
もちろん、人間理性は、現実を認めなければなりません。大自然の秩序と人間の自然本性とそれを創った創造主という現実を認めなければなりません。
ところで、人間の中で、純粋に人間らしいもので天主の領域に属さないものがあるとすれば、それは自由意志です。ヒューマニズムは、「自由」を人間の最高の価値と考え始めます。
ただし、「自由」は、私たちが考える自由と、ヒューマニズムの考える「自由」とは意味が違います。
私たち人間は究極の目的であり最高の善である天主に向かって創られていますが、それへ向かう手段としての真の善を選ぶ能力としての自由を持っています。真理と善とを私たちは自由に選ぶことが出来る自由選択能力があります。神学は、私たちが常に善を選ぶことが出来るためには、天主のお恵みが必要であると教えています。私たちには、悪を選ぶ権利はありません。悪を自由に選ぶ権利がありません。私たちは善を自由に選ぶ義務があります。もしも悪を選ぶとき、人間はその尊厳を失います。以上が私たちが考える真の自由です。
ところが、ヒューマニズムの「自由」は、善と悪とを選ぶ「自由」です。自分で何が善で何が悪かを決定する自律です。「自由」が最高の人間の尊厳であり、この自由を行使するところに尊厳が輝くとされるので、悪を選んでも尊厳は保たれるとされます。
ヒューマニズムは、初めはキリスト教の運動でした。天主の権威から逃れて自律しようとする運動でした。しかし、自律し、自分の責任で行動することを追求する結果、善と悪を選ぶ能力を、人間の最高の価値としての自由と考えるようになりました。
人間の自律、天主の権威からの独立運動は、カトリック教会内では反聖職主義を生み出しました。カトリック教会外では、プロテスタント運動を引き起こしました。現実世界の外では、無神論運動にまでなりました。
第二バチカン公会議は、この分裂の運動をカトリックの一致に引き戻そうとして、自らヒューマニズムを採用します。
つまり、カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、うまく説明しようとします。
では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?
(続く)
Photo Credit
これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。
愛する兄弟姉妹の皆様、
ルネッサンスから近代にかけて、人間はまず教会の権威から、次に王の権威から解放されようとしてきました。
人間中心主義という新しい精神の要求することは「自由」でした。ルネッサンスから由来するヒューマニズム(人文主義・人間中心主義)は、リベラリズム(自由主義)を生み出します。
第二バチカン公会議が、新しい時代において人間を促進することを約束します。第二バチカン公会議が、人間の尊厳の中で一番大切だと考えていることも、自由です。
リベラリズムは、人間の最高の価値として自由を置きます。ヒューマニズムは、何故リベラリズムへとたどり着いたのでしょうか?
ヒューマニズムは、ルネッサンス(つまり生まれ変わり、再生、再誕生)として起こり、超自然の抜きにした、純粋に人間的な価値を擁護しようとしました。一体何故、ルネッサンスという名前のもとにそのような人間中心の運動が起こったのでしょうか?
13世紀、中世ヨーロッパで、キリスト教世界の最盛期には、もっとも高いキリスト教的霊性が実践されていました。キリストが山上の垂訓で教えたような内容であり、三つの福音的勧告と呼ばれているものに要約されます。清貧(富を否定すること)、貞潔(肉体的な快楽を否定すること)、従順(自分の意志を否定すること)です。これは、自然な考えからは、否定的に思われます。しかし、キリスト教世界は、人間にとって価値があると思われるようなことを、十字架に付け、祭壇の上で天主に捧げました。
原罪の後の人類は、悪魔とこの世と肉との奴隷となってしまったのですから、本当の意味での自由を得させるのは、私たちの主イエズス・キリストが指し示した道に従うしかありません。それが十字架の道です。
イエズス・キリストは、ベトレヘムで清貧に生まれ、ナザレトで清貧に貞潔に従順に生活し、十字架の担って、私たちを御自分の方に招いておられます。
キリスト者たちも、ベトレヘムの優しき赤子に倣い、福音の教えに従い、イエズス・キリストの復活の栄光に入るために、主の後を慕って自分の十字架を担い、祈りと犠牲の生活、愛徳の生活を送っていました。自分たちの苦しみを主の御受難と御死去に合わせて捧げ、生活しました。
しかし、残念なことに、信心の熱が冷めた人々は十字架を担ぐことを恐れ、さらには、主に背を向けた人もいました。聖徳を求める代わりに、生ぬるくなって快適な生活を求めたのでした。
ヒューマニズムは、冷淡と無関心と背教の運動でした。
ただし、ヒューマニズムは、全てを最初から捨てたわけではありません。最初に反対したのは、もっとも高度な福音的勧告の「従順」という徳でした。従順の代わりに、自律を求め始めました。自律を求める運動は、自由放埒にどうしても向かってしまいます。しかし、ヒューマニストたちが求めたのは自由放埒と言うよりは、人権の要求でした。天主は、教会を通して、人間に聖徳を要求しすぎる、天主の権利によって、人権は侵害されている、と。
キリスト教ヒューマニストたちは、天主に直接反抗しようとしたわけではありませんでした。天主の代表者である聖職者たちに、抗おうとしました。教会の教えもそうだけれど、自分で考えて自分で信じる責任があるのではないか、自分の行動の道徳性も自分で決めることが出来るのではないか、教会の指導に従わなくても良いではないか、と。
そこで、啓示の前に人間理性を、神学に対立して哲学を、もっと大切にすべきではないか、天主の聖寵よりも人間の自然本性の価値を認めるべきではないか、と徐々に合理主義、自然主義へと向かっていきます。
もちろん、人間理性は、現実を認めなければなりません。大自然の秩序と人間の自然本性とそれを創った創造主という現実を認めなければなりません。
ところで、人間の中で、純粋に人間らしいもので天主の領域に属さないものがあるとすれば、それは自由意志です。ヒューマニズムは、「自由」を人間の最高の価値と考え始めます。
ただし、「自由」は、私たちが考える自由と、ヒューマニズムの考える「自由」とは意味が違います。
私たち人間は究極の目的であり最高の善である天主に向かって創られていますが、それへ向かう手段としての真の善を選ぶ能力としての自由を持っています。真理と善とを私たちは自由に選ぶことが出来る自由選択能力があります。神学は、私たちが常に善を選ぶことが出来るためには、天主のお恵みが必要であると教えています。私たちには、悪を選ぶ権利はありません。悪を自由に選ぶ権利がありません。私たちは善を自由に選ぶ義務があります。もしも悪を選ぶとき、人間はその尊厳を失います。以上が私たちが考える真の自由です。
ところが、ヒューマニズムの「自由」は、善と悪とを選ぶ「自由」です。自分で何が善で何が悪かを決定する自律です。「自由」が最高の人間の尊厳であり、この自由を行使するところに尊厳が輝くとされるので、悪を選んでも尊厳は保たれるとされます。
ヒューマニズムは、初めはキリスト教の運動でした。天主の権威から逃れて自律しようとする運動でした。しかし、自律し、自分の責任で行動することを追求する結果、善と悪を選ぶ能力を、人間の最高の価値としての自由と考えるようになりました。
人間の自律、天主の権威からの独立運動は、カトリック教会内では反聖職主義を生み出しました。カトリック教会外では、プロテスタント運動を引き起こしました。現実世界の外では、無神論運動にまでなりました。
第二バチカン公会議は、この分裂の運動をカトリックの一致に引き戻そうとして、自らヒューマニズムを採用します。
つまり、カトリック教義の枠組みにおいて、教会の組織において、人間の自由を最高の価値であると、うまく説明しようとします。
では、第二バチカン公会議は、どのようにして、自由が人間の尊厳の中で一番大切だと説いているのでしょうか?
(続く)
Photo Credit
これを書くに当たってPrometeo. La religion del hombre (2010) by Padre Alvaro Calderon を参考にしました。