無原罪の御孕りというこの美しい祝日に、私たちは、聖母があらゆる罪の汚れを免れておられたこと、特に原罪を免れておられたことを記念します。天主はなぜ、聖母にこのまことに素晴らしい特権をお与えになったのでしょうか? この説教で、私は無原罪という特権について説明し、さらにこれが人類の共贖者という聖母のもう一つの特権とどのように関係しているかについて説明します。
約一世紀前のイエズス会司祭、リーン神父によると、彼は聖母について、非常に美しく書いています。創世記第3章には、人類の恐るべき堕落が記録されている。そこには、男と女、木とヘビ(悪魔)が関わっている。ヘビが女を欺き、女は男をつまずかせて(男に不従順による罪を犯させ)、男に木の実を食べさせた。状況を正すために、天主はすべてを逆向きにさせられるであろう。女とその子孫(かの男=キリスト)が、木(十字架)という手段によって悪魔を打ち負かすことになる。同じこと[逆向きにすること]が、この恐るべき状況を、最も美しくふさわしい方法で正すことになるであろう。私たちはこれから、堕落と贖いの間にある、またエバと聖母の間にある、似たところと違うところを見ていきます。
アダムとエバは最初に、すべての人類の中で最も偉大な者、完全なカップルでした。原初の義において創造されたため、彼らは天主の恩寵に満ちており、どのような悪も知ることなく、霊的にも肉体的にも、どのような善も剥奪されることはありませんでした。罪によって、彼らは、自分たちの死をもたらしました。肉体的な死だけでなく、最も悪い霊的な死さえも、もたらしたのです。それは、天主との友情関係を失うことなのです。地上で長年にわたって苦しみ、そのあと年老いて死ぬ運命となったのです。
彼らのあと、時が満ちたとき、最も偉大なる人間である聖母、そして、私たちの主が来られました。このお二人だけが、最初のカップルのように、罪なくして孕った人間でいらっしゃいます。私たちの主は、ちょうどアダムのように父親なしでこの世に入られました。
最初の女であるエバは、すべての生けるものの母という名です。なぜなら、エバからすべての人類の自然のいのちが存在したからです。第二のエバは、天主の御母にして、天主の恩寵によってすべての生けるものの母となられることになっていました。アダムとエバは、楽園では一つの肉からの二人でした。エバはアダムの体から造られましたが、彼らは共に一つでした。ちょうど私たちの主と聖母が一つとなっておられたように、主はご自分の体をすべて聖母から取り込まれたのであり、聖母はご自分がお受けになった恩寵の充満によって、被造物として可能な限り[主に]酷似しておられました。これが、聖母が天主の御母となられるようにした無原罪の御孕りというこの素晴らしい特権の理由です。聖母は、聖なるお方である必要があり、あらゆる罪の痕跡から完全に免れておられる必要があったのです。
堕落の際、エバは、私たちの贖いにおいて必要な役割を演じました。エバがいなければ、おそらく原罪はなかったはずであり、そのため贖いもご托身も必要なかったはずです。この罪はアダムによって全人類に伝わりましたが、この罪はエバの胎内を通じても伝わりました。彼らは共に罪を犯し、そのため彼らは共に罪を伝えたのです。彼らは、その創造において一つであり、その堕落と彼らから出た人類において一つだったのです。
ちょうど堕落という出来事に対してエバがアダムと完全に一つだったように、贖いに対して聖母は私たちの主と完全に一つになっておられました。主の聖心と聖母の御心は、人間を贖うという贖いのみわざにおいて肉体的、霊的に一つでした。ちょうど悪魔がエバのかしらを傲慢によって堕落させたように、御子とともに聖母が贖いのわざを成し遂げられることで、聖母のけんそんによって砕かれるのは悪魔のかしらなのです。その際、聖母の役割は必要でしたが、[主の次の]二次的なものでした。教皇聖ピオ十世によると、「聖母は御子とともに人類を贖われたと言うことが可能である。聖母がわれらの主の御母であるという事実によって、聖母は主の生涯のあらゆる面に参与され、とりわけ贖いに関して参与されたのである」。
私たちは、聖母が、私たちの主をお生みになることによって、人間の贖いにどのように関与しておられるのかを見ます。聖母は、私たちの主をこの世にもたらされ、主を養育なさるという範囲を超えて、どのようにして人類を贖うのをお助けになることになったのでしょうか。贖いという言葉は、買い戻すことを意味します。人間は、多くの恐るべき罪を犯し、天主に対する大きな不正義を引き起こした多くの恐るべき罪を犯し、原罪を犯し、そのあとに続いて起こる自罪を犯しました。この不正義に対して、償いすなわち代価の支払いがなされなければなりません。そのわざは、超自然的であって価値のあるものでなければならず、また天主ご自身だけにふさわしいものでなければなりません。しかし、代価の支払いを行うためには、そのわざは、それに伴う犠牲があるような痛みのあるものでなければなりません。
私たちの主はご自分をお捧げになることによって代価の支払いをされました。聖母は御子をお捧げになることによって代価の支払いをされました。主は御血を流されることによって代価の支払いをされました。聖母は永遠の御父に御子の御血をお捧げになることによって代価の支払いをされました。その全生涯を通じて、聖母は、御父のご意志に対する御子の完全な服従において、けんそん、清貧、苦しみという聖徳の完全性において、主と一つになっておられました。しかし、聖母は、主を十字架上でお捧げになる時が到来したとき、贖いの使命においてとりわけ一つになっておられました。十字架のふもとにたたずんでおられた聖母は、主とともにほとんど死ぬほどの苦しみを受けておられましたから、聖母の苦しみは主と密接に一つになっていたのです。ですから、この苦しみの一致という理由で、聖母に殉教者の元后、共贖者になるという功徳が与えられたのです。このことは、本当に真実です。多くを愛する人々は、多くを苦しみます。苦しみのない愛はあり得ません。聖母は、他の被造物が所有することのない特別な三重の愛を持っておられました。それは、(1)汚れのない童貞としての純粋な愛(2)母としての自然の愛(3)罪のない被造物としての無垢の愛―です。他のすべての被造物には、一つの愛しかあり得ません。なぜなら、聖母のみが童貞にして母でいらっしゃり、聖母のみが無原罪の御孕りでいらっしゃるからです。無原罪の汚れなき御心は、すべての心の中で最も愛する心であり、イエズスの聖心の次に最も苦しんだ心なのです。
聖母は、最も罪のない御子である私たちの主のご受難と死を目撃され、そのあと、主を墓にお納めして、主から歩いて離れなければなりませんでした。私たちが、旧約でアブラハムが自分の大切な子のイサクを犠牲にするよう天主に呼ばれたときを振り返ってみても、イサクには主と比べられるようなものは何もありません。天使が、自分の子を殺そうとしたアブラハムの手を止めたように、天使が来て、十字架刑を止めることはありませんでした。すべての子のうちで最高の子が、すべての母のうちで最高の母から取り去られ、殺されたのです。
聖母は、無限の大きさをもって私たち自身の贖いのために代価を支払うことはおできになりませんでしたが、限定された聖母の能力に従って、それをおできになりました。聖トマスは、「どの聖人も多くの霊魂の救いに十分な恩寵を持っているが、主と聖母にあるすべての人類の救いに十分な恩寵を聖母が持っておられることを想像してほしい。素晴らしいことである」と書いています。
共贖者という教理は、人間の贖いのための天主のご計画の一部です。女によって完全に男が堕落したのを逆にさせて、天主にして人間(男)であるお方によって成し遂げるというのが、天主の永遠のご計画です。天主は新たな母を、人類にとってより良い母を、悪魔と会話をせず、けんそんと自己犠牲の性質によって悪魔を滅ぼす母を与えてくださいました。滅びと死に生まれる罪深い子どもたちではなく、光と恩寵といのちに生まれる子どもたちとしての私たちに。アダムとエバの堕落に関して、天主は人間を贖うために新しいアダムと新しいエバを呼び出されました。ある意味において、私たちは、贖い主を生み出したのみならず、偉大なる共贖者をも生み出した罪を喜ぶことができるのです。聖母が他の特権をお受けになるのを可能にした無原罪の御孕りというこの素晴らしい特権を聖母にお与えになったことに対して、特に天主に感謝を捧げましょう。
2019年の無原罪の御孕りの祝日の説教 大阪
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父