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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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天主様が私たちに下さった最も貴重で最も価値のある、私たちを最も高貴なるものとする『尊厳』とは一体何なのか?どれほど素晴らしいものを、イエズス様が私たちに下さったか?

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2019年12月6日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。 今日は2019年12月6日、12月の初金のイエズス様の聖心の随意ミサを行なっています。 今日は初金曜日ですので、ミサの後に聖時間を行ないましょう。特に聖母の汚れなき無原罪の御孕りの祝日の準備の為にも御捧げ致します。

それから来年のカレンダーが出来ています。一部200円です。クリスマスのプレゼントの為にもお持ちになって、お友達の皆さんにも差し上げて下さい。 日本語の版も今準備中で、次の機会に出来ます。楽しみにしていて下さい。

明日は聖ピオ十世会では大小斎の日ですが、皆さんももしもできればご参加なさって下さい。

 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。 愛する兄弟の皆さん、イエズス様の聖心の愛の深さを、一緒に黙想する事に致しましょう。

今日特に黙想したいと思っているテーマは、「一体、天主様が私たちに下さった、最も貴重で、私たちを最も高貴なるものとする『尊厳』、私たちの存在において最も価値のある、私たちを最も高貴なるものとするその、というものは一体何なのか?どれほど素晴らしいものを、イエズス様が私たちに下さったか?」という事を黙想したいと思います。

そこでまず、 ⑴私たちにとって一番大切で、私たちを最も高貴なものとするものとは、一体何なのか?是非知って下さい。

⑵第2に、これを私たちに下さる為に、イエズス様は一体何をなさったのか?私たちにそれを下さる為に、支払った値が何であるか?是非その愛の結晶を知って下さい。

⑶第3に、現代の人は、あるいは第二バチカン公会議は、「私たち人間にとって、一番の貴重なものは何であるか」と言っているかを知って下さい。

⑷そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 

⑴実は今回、飛行機に乗って来る時に、マニラの空港に着いた時に、飛行機の会社の、マニラでのスーパーバイザーと言うのでしょうか、一番偉いような人が隅の所に立っていました。男の人ですが、ある夫婦のお供をして、お世話をしていて、荷物を持ったり、飛行機に乗る時には、その夫婦が、そのスーパーバイザーと一緒に一番に搭乗しました。 普通は、体の弱い人とか、乳幼児を連れている親たちがまず搭乗しますが、それよりも最初にその夫婦が搭乗しました。どれほど偉い方でいらっしゃるか、と想像される待遇を受けていました。空港に降りた時も、やっぱりその方がおそらく空港で役員の方と一緒に出てこられて、すぐにお荷物も出てきて、「あぁ、きっと偉い方なのだなぁ」と思いました。

では一体、何が私たち人間を偉くして、高貴にして、私たちを最も尊いものとするのでしょうか?お金なのでしょうか?それとも社会的な地位でしょうか?

天主様の目によれば、全宇宙の全ては天主のものであって、天主に属するものであって、私たちに与えられたものです。

ところで、全世界の被造物の中で、特別に私たち人間に「これだ!」という、ものすごい価値が、尊厳が与えられました。 金銀宝石ダイヤモンドではありません。この地球を支配する権力、それでもありません。それよりももっと高貴な、ものすごい価値が人間に与えられました。

教会は2000年間「これだ」と教えています。 それは何かと言うと、それは「私たちが、人間の分際であるにもかかわらず、この人間の惨めなその身分から、天主の命にまで高められて、天主の命の、永遠の命、至福直観、天主の本性を共に与る事ができる、それを私たちの一部とする事ができる、というほど高められた」ということです。

「私たちが、言ってみれば、天主になる、天主のようになる、天使たちの本性をはるかに超える天主の命を、私たちも受ける事ができる、そして受けている、そこにこそ、人間の最も価値、最も深い尊厳と価値がある」という事を教えています。

天主の本性と人間の本性の違いがどれほどかと言うと、ローソクの炎とかあるいはこのLEDの小さな球1つと、太陽の光を比べても、それでも足りないほどです。 天主の栄光と比べれば、ぎらぎら輝く太陽の光が全くただの影に過ぎないほど、天主の栄光がものすごい、天主の命の無限の輝きがあります。 昼間を照らす太陽とこの小さなポツンとした光の違い、それも、天主の本性の素晴らしさと人間本性との差と比べても、比べ物にならないほどの差があります。

このちっぽけな私たちが、何でもない私たちが、天主の本性の高みにまで上げられた。そこにこそ、人間に下さったその高貴さがあります。

これは残念ながら、アダムとエヴァが捨て去ってしまった、ゴミ箱に入れてしまった、そして亡きものにしてしまった、特別の宝でした。

しかし天主は、イエズス・キリストは、私たちを愛するがあまり、私たちにこの失われた、この天主の命を「もう一度与えよう」とされました。

 

⑵では第2の点に、どれほどの事が私たちの為にされたかを知って下さい。

これは私たちがクリスマスを準備する為にも非常に必要な事です。 この永遠の命、天主の本性を私たちに与る事ができるようにする為に、天主は、全能の天主、命それ自体である天主、永遠の命である天主が、無限の御方である天主、この全宇宙もその中に閉じ込める事ができないほどの偉大な方が、全てを超越している天主なる御方が、私たちの為に、時に於いて、幼き赤子となってお生まれになった。それがクリスマスです。

何の為に?私たちに命を、天主の命を与える為に。

しかもこの幼子は、30年間、天主であるにもかかわらず、被造物の聖ヨゼフとマリア様の下に、従順に、貧しく、謙遜に御暮らしになった。

私たちに天主の命を与える為に。 それにもかかわらず、更に、私たちに御自分の愛の極みを御見せになる為に、十字架の苦しみを受けられた。 天主が、この世の裁き主が、創造主が、人間の手によって裁かれて、「罪人だ!」と言われて、十字架に付けられて、鞭で打たれて、茨の冠を被せられて、屈辱を受けて、真の王が、なぶり者にされ、わるふざけの目にあって、永遠の命が死を受けました。そうして私たちの罪の償いをされたのです。

イエズス様のこの御受難は、私たちが遂には、天主の命の高みまで上げられる、その為でした。

イエズス様が復活されて、昇天され、そしてその昇天の前に弟子たちを集めて言われました、「全天と地の全ての力は私に与えられている。行って、全被造物に私の教えた事を教えよ。そして信じて洗礼を受けるならば、彼らは救われる。天主の命にまで高められる。そうでなければ、滅ぼされる。」

私たちはその天主の命を、洗礼を受ける事によって頂きました。全ての罪を赦されて、御血の功徳を、無限の功徳を受けて、そしてすっかりと赦されて、そして美しい霊魂になることによって、天主の友となり、そして天主の子供となり、天主に嘉されるものとなりました。天国の門は開かれて、そしてこの世の命が終わった後には、永遠の喜びに入る事ができる、という特別の尊厳を頂きました。

天皇陛下が色々今年は、外国のお客様をお迎えになって、そしてその玉座に天皇の地位に着かれる色々な行事がありました。

ところで、あたかもイエズス様が御自分の地位を人間にも譲るかのように、イエズスは天主の命を私たちに与える為に、人となって、「さぁ、お前が天主の子となれ」と言われているかのように、そして私たちも洗礼を受けた時に、その偉大な地位に着いたのです。

「天主の子供」、名前で言われるのみならず、本当にそうなったのです。 それほどの地位が与えられたというのは、「イエズス様の無限の苦しみの御血」のおかげでした。 イエズス様に私たちは、どれほど感謝しなければならないでしょうか。

 

⑶では、軽く簡単に見ると、では第二バチカン公会議では私たちに何と言っているのでしょうか?

それによると、私たちの尊厳は、自由にある。なぜかと言うと、天主は自由にこの被造物を創ったので、私たちが自由に善と悪を選択して全被造物を支配する時に、私たちの尊厳の価値が最も現れ、天主に栄光が帰される。人間がこの世界を管理すればするほど天主に栄光が帰される。「こうして万物が人間に服従すれば、全世界において天主の名が賛美されるであろう」(現代世界憲章34)とあります。

しかし、カトリック教会はいつも教えていました。この地上のものは、ただ手段に過ぎない。永遠の命に行く為のほんの儚い手段に過ぎない。人間の自由というのは、善を行なう為にのみある。悪を行なう自由はない。もしも私たちが悪を行なうならば、その時に私たちの最も価値のあるものは失われてしまう。私たちの本当の幸せは、栄光は、この地上のものを支配する事にあるのではなくて、被造物をコントロールする事、統治する事にあるのではなくて、そうではなくて、天主の命を受けて、天主を、永遠の真理を至福直感し、これを永遠に観想する、そこにある。

人間が物質世界を支配するよりも、人間が悪魔と罪と肉欲に打ち勝って、常に真善美である天主を選び愛することによりより大いなる栄光を天主に帰する、こうして全てにおいて人間が天主に愛をもって服従し、人間が永遠の救霊を全うすれば、天主の聖なる御名とその無限の憐れみ深い愛とが賛美される、と教えています。

真理を目の当たりにして、その素晴らしさと美しさと、その私たちがどれほど愛されているか、という事を知れば知るほど、私たちは永遠に、感謝と、讃美と、感動で、幸せになるしかないからです。

 

⑷では最後に、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?

私たちは、これほどの愛を受けたにもかからず、そしてそれほどの高貴な身分を受けたにもかかわらず、残念ながらそれを、ちょうどアダムとエヴァがしたように、私たちも罪を犯す事によって、これをドブに何度捨ててしまった事でしょうか。

イエズス様があれほどの高い価値を支払ってくださった聖寵、私たちの為に勝ち取って下さったその尊い価値を、ちっぽけな私のつまらない欲求や、あるいは自己満足や、あるいは自分の都合で、それを捨ててしまった、交換してしまった、取り返しのつかない事をしてしまったことが、何度ある事か!

その価値を「どれほどのものを受けたか」という事も認識もせずに、感謝もせずに、冷淡に、そして足蹴にしてしまったことが幾度あることか!

イエズス様をどれほど悲しませてしまったか。 私たちは、もしかしたら、第二バチカン公会議を知的に非難するかもしれません。

しかし、たとえ「その誤謬はこれだ!」と言ったとしても、それと同時に、イエズス様の最も大切なものを捨ててしまうとしたら、やっていることが人間中心主義であったなら、私たちのせっかくの分析も、信仰も、一体何の役に立つ事でしょうか。

ですから今日は、イエズス様の聖心の愛のその前で、私たち、そして全人類の受けた御恵みに感謝致しましょう。そして私たちの過去、そして多くの人々がしてしまった過去の誤りの償いを、一緒に果たす事に致しましょう。 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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