2020年1月4日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年1月4日、新年の初土曜日のミサで、聖母の汚れなき御心のミサをしています。
今日はこのミサの後に、感謝のお祈りをいつもの通り致します。その後にできれば、幼きイエズス様の御像に接吻をするところですが、1月は私たちは恒例の、踏み絵の罪の償いをする為に捧げられています。
少し早めですけれども、踏み絵の儀式を行ないたいと思っています。
長い、何百年もの間、カトリック信者を見出す為に使われた踏み絵の所に、今度は私たちはここに、信仰を表す為に接吻をしたいと思っています。どうぞなさって下さい。
そしてその後に簡単な休憩を入れて、数年前から始めております、ファチマのマリア様の聖母行列を、初土曜日、この新年早々行ないたいと思っています。
是非日本に、マリア様の汚れなき御心の御取次ぎによって、信仰の御恵みと、そして本当の平和と、イエズス様への愛に満ちた平和が、私たちの家族やこの国に、そして世界中に広がりますように、お願いしたいと思っています。
今年の次のミサは、また第2主日にフォルティン神父様、それから最後の主日にはワリエ神父様がいらして下さいます。
また、2月の初土曜日は残念ながらできないのですけれども、2月2日の主日にはフォルティン神父様がまた日本にいらして下さって、ミサを捧げて下さる予定です。その時には2月の初土の信心も主日になさって下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は新年の最初の土曜日で、私たちはマリア様の汚れなき御心に対する奉献を更新しようと思っています。
そこで、
⑴一体なぜ、このような「奉献」というのが大切なのか?という事をもう一度思い出す事に致しましょう。
⑵そして、その奉献によってどんな効果があるのか?皆さんよく知っている話ですけれども、もう一度思い出す事に致します。
⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事にします。
⑴聖母の汚れなき御心に対する奉献、あるいはイエズス様の聖心に対する奉献というものには、色々な意味があります。しかし今日特に強調したいのは、「天主の御摂理によって、贖いの事業においては、被造物の協力が必要である」という事です。
少し難しい話ですけれども、被造物の協力とはどういう事かというと、私たちがこの世に生まれた時には、あるいはこの全宇宙が創られた時には、天主の御望みのままに、被造物の同意なく、無から有るへと、有へと創られました。
そして私たちが存在し始めるというのは、全くの素晴らしい善であるからです。そしてこの創造の目的は、「天主の幸せに、私たちが導かれる事」でした。
残念ながら私たちは、特に私たちの先祖は、そして私たちは、それに従ってその後を踏んで、この創造の目的から離れてしまいました。それにも関わらず、天主は私たちをもう一度創造の目的に、つまり「永遠の命」へと招いて下さいます。これが贖いの玄義です。
ところで今度の、その贖いの御業の為には、天主は私たちに、「はい」と言う事を要求します。天主の御言葉が人となる時にも、人類を代表してマリア様が、「はい」と同意しなければなりませんでした。
そして私たちが救われる為に、あるいは私たちが御恵みを頂く為にも、私たちは「お願いします」と言わなければならなくなっています。洗礼を受ける、罪が赦される時には、私たちが「はい」と言って、水を数滴、私たちの額に受けなければなりません。あるいは私たちが天主の御恵みを受ける為には、跪いて、口に小さなパンの欠片のように見えるものを、イエズス・キリストを受けなければなりません。しかし私たちの同意が必要です。
それと同じように、私たちが御恵みを受ける為にも、私たちは謙遜に、「この御恵みを必要としています」と祈らなければなりません。
例えばマリア様は、その事を象徴的に、聖カタリナ・ラブレにお見せになりました。マリア様の美しい御姿から、手を開いている姿から光線が、眩い光線がたくさん出ていましたが、ある所の手からは、光線が出ていませんでした。「一体なぜか?」と聞くと、「なぜかと言うと、これはお祈りをしなかったから。お願いしなかったので、マリア様は与えたくても与える事ができない。」
つまり、天主様イエズス・キリストとマリア様は、私たちに溢れるばかりの、私たちの必要とする以上の莫大な富と、財産と、御恵みと、祝福をお持ちであります。これを私たちに、「さぁ、今か今か」と与えようと思っている大富豪のようです。そして私たちは何も持っていない乞食のようでありますが、その私たちがその富を頂く為には、ただイエズス様に、「あぁ、どうぞ恵んで下さい」と、一言お願いすれば良いわけです。
その「この私たちが、その恵みを必要とする、という事を認める。」これが言ってみれば、私たちの奉献です。
「私たちはもはや、悪魔の方には属していずに、天主の元にいる。天主の御旗の元にいたい。たとえ私たちの行動が相応しくなかったとしても、私たちがそれに値しないようなみすぼらしいものであったとしても、憐れみを信じて、私たちの身を、イエズス様の御元に置く」という事です。
それによって人々は、私たちは、多くの御恵みを受ける事ができるようになります。ですので、イエズス様の聖心もあるいはマリア様も、私たちにこの「奉献」というものを求めます。
⑵幼きイエズスの聖テレジアは、お母さんが亡くなった時に、まだ年端のいかない子供でしたが、自分の母が亡くなった時に、マリア様の御像の前で、「お母さんとなって下さい」と頼みました。勝利の聖母のマリア様。そしてそのマリア様から、特別の御恵みを頂きました。
そして幼きイエズスの聖テレジアは、「特にマリア様を通すと、特別の御恵みを頂く事ができる。奉献を通して、特別の御恵みを頂く事ができる」と知っていたので、大胆にお祈りしました。
ある時には有名な話ですが、フランス中を震わせた恐るべき大悪党がいました。ブランジニという男で、全く痛悔をせずに、そしてこの悪さを、極悪犯罪人はその自分の凶悪な罪を、自慢していたかのようでした。司祭の呼びかけにも応えようとせず、そしてそのまま死刑を受けるべき男でした。
幼きイエズスの聖テレジアはマリア様に、この罪人の回心を願いました。すると彼は、その死刑執行のその直前、司祭に、イエズス様の十字架像を要求して、それに接吻をしてから、死刑を受ける事になりました。というニュースがフランス中に渡り、それを見た幼きイエズスの聖テレジアは、「自分の祈りが聞き入れられた。私の罪人が回心した!」と言っていました。
あるいは1931年5月13日に、ポルトガル中の司教様たちがファチマに集まって、ポルトガルを聖母の汚れなき御心に奉献しました。その時には30万人の信徒が集まりました。壮大な、荘厳な式がありました。荘厳であれば荘厳であるほど、マリア様はそれを受け入れて下さり、それに対する御恵みを下さいます。
その5年後、スペインではその隣では、ものすごい恐ろしい戦争が起こりました。共産主義者が世界中からやって来て、スペインを共産革命を起こさせようとしました。多くの教会が破壊されました。焼かれました。150万人のカトリックが、司祭も修道者も殉教しました。無残に殺されました。その多くの人々が列聖されたりしました。
その時にポルトガルの司教様たちは、「もしも、」国境と言っても何もないようなものですから、「もしも共産主義の手から守られたら、私たちはこのマリア様に対する奉献を更新します」と約束しました。スペイン市民戦争が、共産主義革命が起ころうとしたのが1936年の事でした。その2年後、ポルトガルの司教様たちはもう一度ファチマに集まって、「共産主義から守られた」という事を感謝して、奉献を更新しました。
マリア様はその司教様たちの最初の奉献を快く思って、その特別の保護を、ポルトガルになさいました。司教様たちも自分たちの約束した通り、守られた事を感謝して、マリア様に奉献を更新しました。
そればかりか、その直後に起こった第二次世界対戦からも、ポルトガルは守られました。
スペイン市民戦争の時に、共産主義によって150万人以上のカトリック信者が殉教した、拷問を受けた、口で言い表す事もできない残酷な死に方をしていきました。教会は破壊されました。が、セビリア大司教区では、一人も死ぬ方がいませんでした。カトリック信徒は守られました。
なぜかと言うと、セビリア大司教はその時に、スペイン市民戦争前に、自分の司教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献しているからです。
ところで、大阪の大司教区も、去年、マリア様の汚れなき御心に、宣教150周年の感謝として、奉献されました。
この話はもちろん皆さん、もしかしたら聞いた事があるかもしれません。あるいは聞いた事があっても、「あぁ、本当かなぁ?」と思っていらっしゃるかもしれません。
しかしイエズス会のフベルト・シファー(Father Hubert Schiffer)という神父様は、1945年8月6日、日本の広島に、イエズス会の司祭館に他の司祭と、4名の司祭が住んでいました。8月6日朝8時15分、皆さんご存知のように、広島で原爆が炸裂しました。何万人もの人々がそれで一瞬のうちに亡くなりました。その原爆のほんの数メートル、8ブロックの所に、イエズス会のその司祭館があって、教会がありました。
ところが、何十人もの医学者が、その神父様たちを調査したにも関わらず、そのお医者さんたちが驚くにも関わらず、この神父様たちは、原爆の被害を何も受けずに、何の放射能の影響を受けずに、そのまま生き延びて、寿命を全うしました。
そこに居た、先ほど申し上げたフベルト・シファー神父様は、「なぜかと言うと、」こう説明しています、「その家では、毎日ロザリオを唱えていて、私たちはファチマのメッセージを実践していた。マリア様の汚れなき御心に対する償いを果たそうとしていた。汚れなき御心の信心を実践していた。すると何と、原爆からも生き延びる事が、何の影響も受けずに生き延びる事ができた。」
ポルトガルの司教様がファチマに集まって、マリア様の汚れなき御心に奉献したその同じ年、スペインでは、イエズス様の聖心がシスタールチアに、リアンホ(Rianjo)という所でこう言います、「私の教会の聖職者たちに、この事を知らせなさい。彼らは、フランスの王の後を真似をしている。そして私の要求した命令を実行するのを遅らせている。彼らは、フランスの王の不幸の後を追うだろう」と。
皆さんご存知のように、フランスの王は、イエズス様の聖心に対する奉献を求められていながらもそれを、知りながらもそれを遅らせて、100年後に王としての権能を奪われて、そしてギロチンで亡くなります。牢獄の中で、ルイ16世はフランスをイエズスの聖心に奉献するのですけれども、あまりにもみすぼらしくやり方が、そしてあまりにも遅すぎました。
私たちはそこで、出来る限り、「マリア様の御心に対して奉献されている」という事を更新したいと思っています。できるだけ公に、マリア様の名誉となるように、できるだけ公式に、できるだけ荘厳にしたいと思っています。それをすればするほど、マリア様が受ける侮辱や悲しみが慰められるからです。
⑶では私たちは、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
福音書によると、クリスマスこそ、あるいはイエズス様の生まれた幼年期こそ、マリア様の御心が、「その全ての事を、その御心に留めておいた」という事が書かれてあります。聖ルカの福音書の中には2回、その記事があります。
マリア様の御心に、このクリスマス、この御降誕節に、深く入る事に致しましょう。
そして、「私たちもマリア様の子供である、マリア様の御恵みを必要としている、マリア様からの御恵みをたくさん必要としている」という事を宣言致しましょう。そしてマリア様がその私たちの願いを聞き入れて、この2020年を多くの恵みで満たして下さいますように、お願い致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年1月4日、新年の初土曜日のミサで、聖母の汚れなき御心のミサをしています。
今日はこのミサの後に、感謝のお祈りをいつもの通り致します。その後にできれば、幼きイエズス様の御像に接吻をするところですが、1月は私たちは恒例の、踏み絵の罪の償いをする為に捧げられています。
少し早めですけれども、踏み絵の儀式を行ないたいと思っています。
長い、何百年もの間、カトリック信者を見出す為に使われた踏み絵の所に、今度は私たちはここに、信仰を表す為に接吻をしたいと思っています。どうぞなさって下さい。
そしてその後に簡単な休憩を入れて、数年前から始めております、ファチマのマリア様の聖母行列を、初土曜日、この新年早々行ないたいと思っています。
是非日本に、マリア様の汚れなき御心の御取次ぎによって、信仰の御恵みと、そして本当の平和と、イエズス様への愛に満ちた平和が、私たちの家族やこの国に、そして世界中に広がりますように、お願いしたいと思っています。
今年の次のミサは、また第2主日にフォルティン神父様、それから最後の主日にはワリエ神父様がいらして下さいます。
また、2月の初土曜日は残念ながらできないのですけれども、2月2日の主日にはフォルティン神父様がまた日本にいらして下さって、ミサを捧げて下さる予定です。その時には2月の初土の信心も主日になさって下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は新年の最初の土曜日で、私たちはマリア様の汚れなき御心に対する奉献を更新しようと思っています。
そこで、
⑴一体なぜ、このような「奉献」というのが大切なのか?という事をもう一度思い出す事に致しましょう。
⑵そして、その奉献によってどんな効果があるのか?皆さんよく知っている話ですけれども、もう一度思い出す事に致します。
⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事にします。
⑴聖母の汚れなき御心に対する奉献、あるいはイエズス様の聖心に対する奉献というものには、色々な意味があります。しかし今日特に強調したいのは、「天主の御摂理によって、贖いの事業においては、被造物の協力が必要である」という事です。
少し難しい話ですけれども、被造物の協力とはどういう事かというと、私たちがこの世に生まれた時には、あるいはこの全宇宙が創られた時には、天主の御望みのままに、被造物の同意なく、無から有るへと、有へと創られました。
そして私たちが存在し始めるというのは、全くの素晴らしい善であるからです。そしてこの創造の目的は、「天主の幸せに、私たちが導かれる事」でした。
残念ながら私たちは、特に私たちの先祖は、そして私たちは、それに従ってその後を踏んで、この創造の目的から離れてしまいました。それにも関わらず、天主は私たちをもう一度創造の目的に、つまり「永遠の命」へと招いて下さいます。これが贖いの玄義です。
ところで今度の、その贖いの御業の為には、天主は私たちに、「はい」と言う事を要求します。天主の御言葉が人となる時にも、人類を代表してマリア様が、「はい」と同意しなければなりませんでした。
そして私たちが救われる為に、あるいは私たちが御恵みを頂く為にも、私たちは「お願いします」と言わなければならなくなっています。洗礼を受ける、罪が赦される時には、私たちが「はい」と言って、水を数滴、私たちの額に受けなければなりません。あるいは私たちが天主の御恵みを受ける為には、跪いて、口に小さなパンの欠片のように見えるものを、イエズス・キリストを受けなければなりません。しかし私たちの同意が必要です。
それと同じように、私たちが御恵みを受ける為にも、私たちは謙遜に、「この御恵みを必要としています」と祈らなければなりません。
例えばマリア様は、その事を象徴的に、聖カタリナ・ラブレにお見せになりました。マリア様の美しい御姿から、手を開いている姿から光線が、眩い光線がたくさん出ていましたが、ある所の手からは、光線が出ていませんでした。「一体なぜか?」と聞くと、「なぜかと言うと、これはお祈りをしなかったから。お願いしなかったので、マリア様は与えたくても与える事ができない。」
つまり、天主様イエズス・キリストとマリア様は、私たちに溢れるばかりの、私たちの必要とする以上の莫大な富と、財産と、御恵みと、祝福をお持ちであります。これを私たちに、「さぁ、今か今か」と与えようと思っている大富豪のようです。そして私たちは何も持っていない乞食のようでありますが、その私たちがその富を頂く為には、ただイエズス様に、「あぁ、どうぞ恵んで下さい」と、一言お願いすれば良いわけです。
その「この私たちが、その恵みを必要とする、という事を認める。」これが言ってみれば、私たちの奉献です。
「私たちはもはや、悪魔の方には属していずに、天主の元にいる。天主の御旗の元にいたい。たとえ私たちの行動が相応しくなかったとしても、私たちがそれに値しないようなみすぼらしいものであったとしても、憐れみを信じて、私たちの身を、イエズス様の御元に置く」という事です。
それによって人々は、私たちは、多くの御恵みを受ける事ができるようになります。ですので、イエズス様の聖心もあるいはマリア様も、私たちにこの「奉献」というものを求めます。
⑵幼きイエズスの聖テレジアは、お母さんが亡くなった時に、まだ年端のいかない子供でしたが、自分の母が亡くなった時に、マリア様の御像の前で、「お母さんとなって下さい」と頼みました。勝利の聖母のマリア様。そしてそのマリア様から、特別の御恵みを頂きました。
そして幼きイエズスの聖テレジアは、「特にマリア様を通すと、特別の御恵みを頂く事ができる。奉献を通して、特別の御恵みを頂く事ができる」と知っていたので、大胆にお祈りしました。
ある時には有名な話ですが、フランス中を震わせた恐るべき大悪党がいました。ブランジニという男で、全く痛悔をせずに、そしてこの悪さを、極悪犯罪人はその自分の凶悪な罪を、自慢していたかのようでした。司祭の呼びかけにも応えようとせず、そしてそのまま死刑を受けるべき男でした。
幼きイエズスの聖テレジアはマリア様に、この罪人の回心を願いました。すると彼は、その死刑執行のその直前、司祭に、イエズス様の十字架像を要求して、それに接吻をしてから、死刑を受ける事になりました。というニュースがフランス中に渡り、それを見た幼きイエズスの聖テレジアは、「自分の祈りが聞き入れられた。私の罪人が回心した!」と言っていました。
あるいは1931年5月13日に、ポルトガル中の司教様たちがファチマに集まって、ポルトガルを聖母の汚れなき御心に奉献しました。その時には30万人の信徒が集まりました。壮大な、荘厳な式がありました。荘厳であれば荘厳であるほど、マリア様はそれを受け入れて下さり、それに対する御恵みを下さいます。
その5年後、スペインではその隣では、ものすごい恐ろしい戦争が起こりました。共産主義者が世界中からやって来て、スペインを共産革命を起こさせようとしました。多くの教会が破壊されました。焼かれました。150万人のカトリックが、司祭も修道者も殉教しました。無残に殺されました。その多くの人々が列聖されたりしました。
その時にポルトガルの司教様たちは、「もしも、」国境と言っても何もないようなものですから、「もしも共産主義の手から守られたら、私たちはこのマリア様に対する奉献を更新します」と約束しました。スペイン市民戦争が、共産主義革命が起ころうとしたのが1936年の事でした。その2年後、ポルトガルの司教様たちはもう一度ファチマに集まって、「共産主義から守られた」という事を感謝して、奉献を更新しました。
マリア様はその司教様たちの最初の奉献を快く思って、その特別の保護を、ポルトガルになさいました。司教様たちも自分たちの約束した通り、守られた事を感謝して、マリア様に奉献を更新しました。
そればかりか、その直後に起こった第二次世界対戦からも、ポルトガルは守られました。
スペイン市民戦争の時に、共産主義によって150万人以上のカトリック信者が殉教した、拷問を受けた、口で言い表す事もできない残酷な死に方をしていきました。教会は破壊されました。が、セビリア大司教区では、一人も死ぬ方がいませんでした。カトリック信徒は守られました。
なぜかと言うと、セビリア大司教はその時に、スペイン市民戦争前に、自分の司教区を、マリア様の汚れなき御心に奉献しているからです。
ところで、大阪の大司教区も、去年、マリア様の汚れなき御心に、宣教150周年の感謝として、奉献されました。
この話はもちろん皆さん、もしかしたら聞いた事があるかもしれません。あるいは聞いた事があっても、「あぁ、本当かなぁ?」と思っていらっしゃるかもしれません。
しかしイエズス会のフベルト・シファー(Father Hubert Schiffer)という神父様は、1945年8月6日、日本の広島に、イエズス会の司祭館に他の司祭と、4名の司祭が住んでいました。8月6日朝8時15分、皆さんご存知のように、広島で原爆が炸裂しました。何万人もの人々がそれで一瞬のうちに亡くなりました。その原爆のほんの数メートル、8ブロックの所に、イエズス会のその司祭館があって、教会がありました。
ところが、何十人もの医学者が、その神父様たちを調査したにも関わらず、そのお医者さんたちが驚くにも関わらず、この神父様たちは、原爆の被害を何も受けずに、何の放射能の影響を受けずに、そのまま生き延びて、寿命を全うしました。
そこに居た、先ほど申し上げたフベルト・シファー神父様は、「なぜかと言うと、」こう説明しています、「その家では、毎日ロザリオを唱えていて、私たちはファチマのメッセージを実践していた。マリア様の汚れなき御心に対する償いを果たそうとしていた。汚れなき御心の信心を実践していた。すると何と、原爆からも生き延びる事が、何の影響も受けずに生き延びる事ができた。」
ポルトガルの司教様がファチマに集まって、マリア様の汚れなき御心に奉献したその同じ年、スペインでは、イエズス様の聖心がシスタールチアに、リアンホ(Rianjo)という所でこう言います、「私の教会の聖職者たちに、この事を知らせなさい。彼らは、フランスの王の後を真似をしている。そして私の要求した命令を実行するのを遅らせている。彼らは、フランスの王の不幸の後を追うだろう」と。
皆さんご存知のように、フランスの王は、イエズス様の聖心に対する奉献を求められていながらもそれを、知りながらもそれを遅らせて、100年後に王としての権能を奪われて、そしてギロチンで亡くなります。牢獄の中で、ルイ16世はフランスをイエズスの聖心に奉献するのですけれども、あまりにもみすぼらしくやり方が、そしてあまりにも遅すぎました。
私たちはそこで、出来る限り、「マリア様の御心に対して奉献されている」という事を更新したいと思っています。できるだけ公に、マリア様の名誉となるように、できるだけ公式に、できるだけ荘厳にしたいと思っています。それをすればするほど、マリア様が受ける侮辱や悲しみが慰められるからです。
⑶では私たちは、どのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか?
福音書によると、クリスマスこそ、あるいはイエズス様の生まれた幼年期こそ、マリア様の御心が、「その全ての事を、その御心に留めておいた」という事が書かれてあります。聖ルカの福音書の中には2回、その記事があります。
マリア様の御心に、このクリスマス、この御降誕節に、深く入る事に致しましょう。
そして、「私たちもマリア様の子供である、マリア様の御恵みを必要としている、マリア様からの御恵みをたくさん必要としている」という事を宣言致しましょう。そしてマリア様がその私たちの願いを聞き入れて、この2020年を多くの恵みで満たして下さいますように、お願い致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。