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2020年1月5日(主日)イエズスの聖名の祝日のミサ 聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

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2020年1月5日(主日)イエズスの聖名の祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2020年1月5日、イエズス様の至聖なる聖名の祝日のミサを捧げております。

今日この御ミサの直後に、いつもの通り感謝のお祈りの後に、一年の最初の御聖体降福式を行ないたいと思っています。この御聖体降福式には、今回は特別に、「イエズス様の聖名の連祷」を日本語で唱えたいと思っています。少し長くなりますが、どうぞご容赦下さい。

その後には、いつも1月に行なっているのですけれども、次のミサが第3・第4と、フォルティン神父様・ワリエ神父様と外国の神父様がいらして下さるので、もしかしたらやり損なわれてしまう事を恐れて、少し早めですけれども、踏み絵に対する罪の償いの儀式を行ないたいと思っています。どうぞ皆さん、幼きイエズス様の代わりに、この踏み絵に皆さんの感謝と愛を表明なさって下さい。

それから今日新年の最初のこのミサにおいて、どうぞ私からの新年の挨拶をする事をお許し下さい。この新年が皆様にとって、皆様のご家族やお友達やそのご近所の方、あるいは職場の方々、あるいは日本の全ての人々にとって、本当に祝福された、良い聖なる新年でありますように、良い本当の意味で幸せな一年となりますように、イエズス様がますます愛されて、そして私たちがますます聖徳に進む事ができますように、特に今年は日本にとっては大きな出来事が待っています、司祭の常駐。この多くの祝福に恵まれた年となりますように、心からお祈り致します。



「イエズスの聖名の前で、天にある者、地にある者、地の下にある者、全ての膝はその膝を屈める。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日イエズスの至聖なる聖名の祝日において、

⑴イエズス様の聖名が讃美させられなければならない事、一体どこで、どのように讃美されるのか?

⑵第2に、一体なぜそうされなければならないのか?それを黙想しましょう。

⑶そして最後に、では今日、1年の最初のミサにおいて、どのような遷善の決心を取らなければならないかを簡単に黙想致しましょう。


⑴今日のミサ聖祭のテキストに従えば、本当にこの3つの点がうまく説明されています、順序通り説明されています。

聖パウロは、「天においても、地においても、地獄においても、全ての膝は、イエズス様の前にこれを屈める」と言います。これを見ると、イエズス様の聖名が尊まれるという事は、「普遍的な法則である」という事が分かります。

「天において」という事もよく分かります。天においては、全ての何千何万何兆という天使たちが、イエズス様の聖名を讃えています。天にいる全ての聖人たちが、イエズス様の聖名を讃えています。この事を逆に言うと、裏返して言うと、「イエズス様の聖名を讃美する人のみが、天国に入る」という事です。

地上でもイエズス様の聖名は讃美されなければなりません。イエズス様は私たちに、「こう祈れ」と言いました、「まず、お前たちが祈る時には、『天に在す、我らの聖父よ。願わくは聖名の尊まれん事を。』」私たちはまず、「主の聖名が尊まれる」という事を最初に祈らなければなりません。イエズス様の聖名が尊まれなければなりません。

全地球の地表において、イエズス様の聖名が尊まれなければなりません。「あぁ、私はアマゾンに住んでいるから、アマゾンのジャングルではいいんです」とか、「私は中国人だから、中国ではいいんです」とか、あるいは「俺、日本人だから、」とは言う事ができません。なぜかと言うと、これは地域と、国と、言語と、民族と、時間を全て超越して超えて、どこの時代においても、全世界のどこであっても、普遍的に変わる事なく、尊まれなければならない名前であるからです。

聖パウロは言います、「地においても、地獄においても、」
地獄において一体、どうしてそうなのか?

もちろん煉獄においてはそうです。煉獄においては、成聖の状態にある人が霊魂たちが、天国に行くのを待っているのですから。

しかし呪われた人でさえも霊魂でさえも、イエズス様の前では、どうしてもその主の権威を認めなければなりません、「確かに、この方こそ、本当に私たちの創り主であった」と認めざるを得ません。例え強制的にであったとしても、たとえそれを望まなかったとしても、たとえ愛を以てでなかったとしても、全被造物が、「確かに、イエズス・キリストこそが、真の救い主であって、創造主であって、そしてこの方以外に他に、真の礼拝すべき天主はない」という事を認めざるを得ません。

これこそが現実なのです。この「現実」という事は、「リアリティ」という事は、私たちが好きであろうが好きでなかろうが、そう思おうが賛成しようが賛成しまいが、私たちが決定する事ができない、私たちが思い通りに変える事ができない、その事実を、「現実」と言います。

たとえ私が好きでないからと言って、その壁に頭をぶつけたとしても、困るのは私です。車が来た!「あぁ、そんな事信じない」と言っても、轢かれてしまって困るのは私です。

「選挙で何とかすれば変わるかもしれない!国民投票をすれば。」日本の人が皆、「この車がない」あるいは「この壁がない」と投票しても、現実は変わる事ができません。

それと同じように、私たちがいかに思おうといかに望もうと、好きであろうがなかろうが、私たちの前に厳然と存在する現実、それが聖パウロの言う事です、「天にある者も、地にある者も、地の下の者も、地獄も、好きであろうがなかろうが、イエズス・キリストの前に、その膝を屈めて礼拝しなければならない。」
 

⑵一体なぜ、イエズス様の聖名はそれほど高貴であって、それほど重要なのでしょうか?

なぜかと言うと、イエズス・キリストは、その名前が示す通り、『天主、我らを救う』イエズス・キリストこそが、私たちを救う唯一の救い主であって、これ以外には、私たちには救いを得る名前が与えられていないからです。それは聖ペトロが、ユダヤ人たちの前にはっきりと言った事です。

しかし、救いが与えられるこの名前によっては、大きな力があり、私たちには救いが与えられるのです。この「救い」というのは、主に主要に「超自然の永遠の命」の事です、「天国の至福」の事です。しかしそれ以外にも、今日聖ペトロがユダヤ人の前に行なったように、この地上においても、多くの祝福を与える事ができます。

例えば聖ペトロは、イエズス・キリストの聖名によって、生まれつき身体不自由であった乞食を、「私は金を持っていないけれども、しかしイエズス・キリストの聖名によってお前に言う、治れ。立ち上がれ。」イエズス・キリストの聖名によって、肉体的な善が与えられました。

これはカトリックの教会の歴史を見ても、聖人たちの行なったものを見ても、私たちは確認する事ができます。イエズス・キリストの聖名によって、多くの祈りが叶えられます。イエズス様も仰った通りです、「今まで私の聖名の名前によって祈った事がなかったが、これからは私の名前によって祈れ。そうすれば、聖父が聞いて下さるだろう。」

多くの聖人たちにとって、『イエズス・キリスト』というのは、どれほどその口には甘く、話すのも楽しく、聞くのも美しいメロディだと思った事でしょうか。

ちょうどどこかのテレビか、あるいは何かの歌手かに熱中になっているファンの人が、その歌手の名前を聞くと、「あぁ!」眠っていたのも目が覚める、「あぁ、この人の名前を聞くと嬉しい!」と思うように、多くのカトリック信者たちにとって、『イエズス』という聖名は、どれほど心に優しく、胸が高鳴るほどの愛の思いでいっぱいになった事でしょうか。

イエズス様が最初にこの名前を受けた時には、イエズス様が割礼を受けるその時でした。御誕生の後8日目、つまり1月1日の事です。その時に最初に、天主としての血を流されました。これによってイエズス様が、私たちがイエズス・キリストのその聖名を聞いて愛するように、それに更にもっと、イエズス様は私たちを愛しておられる、という事を確認できます。

「天主が人となった」そして「貧しく生まれた」というだけでも、ここに、この無限の愛を見る事ができます。「十字架に付けられて亡くなった」というのでは、更にその叫ぶような愛が聞こえてきます。そして今日皆さん、もうすぐ御聖体拝領で、イエズス様が皆さんを愛して、極みなく愛する天主が、皆さんの霊魂に入って来られますが、御聖体として入って来られますが、御聖体を見ると、狂気のばかり、狂ったあまりに、皆さんを一人一人を愛しておられるイエズス様の事が分かります。

皆さんの名前の一人一人が、イエズス様の聖心には、深く刻まれています、「おぉ、愛しているよ。お前の事を愛している。お前の事を祝福して、そして恵みたい。お前の為に全てを与えたい」と、イエズス様の聖心は愛に高鳴っております。皆さんの名前が刻まれています。そして御聖体で御自分を全て与え尽くそうとされています。

その愛の『イエズス・キリスト』、これをその聖名は、どれほど私たちにとって愛すべき名前である事でしょうか。

しかし残念ながら、このイエズス様の尊い聖名は、今日このここに集まった皆さんは愛して、そして崇敬して、そしてその前に喜んで膝を屈めようとしますが、残念ながら多くの方にとってはその名は、あるいは冷たい無関心、あるいは無視、あるいは特には、そのイエズス様の愛を認めようとしない、忘恩の心に侵されています。

そのような人たちの心に代わって、是非今日は、イエズス様をお愛し申し上げる事に致しましょう。


⑶では今日、どのような決心を立てたらよろしいでしょうか?

遷善の一年の決心を立てて下さい、「この一年は令和2年は、イエズス様の聖名を、そしてイエズス様の聖心を愛する年とする。そして私たちは、イエズス様を愛する事においては、金メダルを取りたい。」

その為に、この一年を既に今日、イエズス様の聖心にお捧げ致しましょう、「今年の全ての私たちの悲しみも、苦しみも、喜びも、幸せも、全ての日常の行為も、考えも、言葉も、全て、イエズス様御身を愛するが為に、聖名の讃美の為にお捧げします」と。

マリア様にお願い致しましょう、「マリア様、どうぞこのイエズス様の聖名を、いつも愛する事ができるように助けて下さい。」

そのような皆さんを見て、イエズス様はますますしっかりと皆さんの名前を御自分の聖心に深く刻み込んで、ますますこの一年を豊かな祝福で満たして下さるに違いありません。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。







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