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トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての解説:第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」について
第12章 主祷文 天に在す我らの父よ
第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」
また
第2の願い「御国の来たらんことを」
さらに
第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」
を既にご紹介いたしました。

今日は、
第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え
についての箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

第4の願い 我らの日用の糧を今日我らに与え給え

117. 主祷文における第4の願い、およびそれ以降の願いは、霊魂と身体の助力(たすけ)となる種々の事物を個別に願うものですが、最初の3つの願いと密接につながっています。実に、主祷文の祈りは、まず天主に関わることを願った後に、身体および現世の生活を維持するために必要な物事を願うように構成され、秩序立っているからです。

118. なぜなら、人々は皆天主に対して、自らの究極目的として向かうべきであると同様に、まさにこの同じ道理に即して、人間の生活の諸善は、天の諸善へと、その目的として秩序づけられねばならないからです。したがって、私たちは当の善を、天主のお定めになるところがこれを求めるかぎりにおいて、あるいはこれらの善が、神的善を得るための手段となるかぎりにおいてのみ、当の善を望み、願うのでなければなりません。つまり、これらの善をとおして、天主が私たちにお定めになった目的、すなわち天主の御旨の表明に他ならぬ諸々の掟の遵守をとおして天の御父の統治と栄光を実現する、という目的に達し得るがためにこそ、これらを祈り求めるべきなのです。したがって、この祈願の意味し、包含するところの全ては、天主とその栄光とに向けられねばなりません。

§I. いかに現世の事物を願い求めるべきか
119. したがって司牧者は、信徒が現世的事物の使用ないしは享受に関することを願う際、自らの心と願望とを天主の掟に向け、それからいささかも逸(そ)れることのないよう留意すべきことを諭(さと)す必要があります。なぜなら、使徒パウロが「私たちは何を願うべきであるかを知らない1」という言葉をもって示す過ちを私たちが犯すのは、専(もっぱ)らはかない現世の事物を願う際であるからです。ですからこの種の利善を願う際は、天主から「あなたたちは自分が何を願っているかを知らない2」というお咎(とが)めを受けることのないよう、しかるべくこれを祈り求めねばなりません。

120. しかるに、祈り願う者の意向と思惑とが正しいものであるか否かを見分けるための確かな印があります。すなわち、もし誰かが、この世の利善を真の善と見なし、かつあたかも究極の目的としてこれを享受するために願い、それ以上何も加えて求めないならば、当の人がしかるべく祈る者でないことは明白です。なぜなら聖アウグスチノが述べるように3、私たちは現世の事物を私たちにとっての善としてではなく、単に必要な物として願い求めるべきだからです。使徒パウロはコリント人への書簡において、生活上の必要に関すること一切は、天主の栄光に方向付けるべきであることを説いて、「あなたたちは、食べるにせよ、飲むにせよ、全てを天主の御栄えのために為すように4」と記しています。

121. この祈願をなすことがいかに必要であるかを信徒がよく理解するように、司牧者は、私たち人間が糧を得、生活を営むために外的事物をどれほど必要とするものであるかを思い起こさねばなりません。そのために、人祖が生活のために要した物と、他の一切の人間が必要としてきた物とを比較することが肝要です。

122. たしかに人祖が、罪を犯して自らおよびその全ての末裔(まつえい)をそこから離し落としてしまう前に享受していた、とかの輝かしい潔白の状態においても、食物を摂って体を養うことが必要だったとは言え、人祖の生活に必要だった物と、私たちが生活を営むために要する物との間には、きわめて大きな差異があります。事実、人祖は己おのが身を覆うための衣服も、夜露をしのぐための家屋も、身を守るための武具も、健康を保つための医薬品、および私たちのはかなく弱い人間本性を守るために必要なその他多くの物を要しませんでした。人祖が不朽の生命を得るためには、生命の木が、彼自身ないしはその子孫の働きを介することなくもたらしてくれる実を食べることで充分であるはずでした。

123. とは言え、楽園のかくも大きな悦楽の中にあった人祖は、怠惰な生活を送るべきではありませんでした。天主は彼を、働くために当の楽園に置かれたからです。しかるに[もし罪を犯さなかったならば、]人祖にとって、いかなる労働も辛いものではなく、いかなる務めもおっくうなものでなく、却って幸福に満ちた庭園の栽培をとおして、無上に甘美な果実をたゆることなく得ていたことでしょう。また、彼の希望と仕事は、けっして期待を欺あざむくことがなかったはずです。

124. しかし彼の末裔は、生命の木の実を得る可能性を奪われたのみならず、かの恐るべき宣告を受けるはめとなったのです。「地は汝のゆえに呪われよ!汝は苦労して[地から]糧を得るであろう、命の続くかぎり。地は汝のために、茨とあざみを生やし、汝は野の草を食べねばならない。額に汗して汝は糧を得るであろう、土に帰るまで。汝は土から取られたものだから。汝は塵ちりであり、塵に帰らねばならない。」5

125. したがって、もしアダムが天主の戒律に忠実であったなら、彼とその子孫にとって万事は甚だ異なったものとなっていたでしょう。しかるに、万事は最悪の事態へと成り果ててしまったのです。分けても重大なのは、巨額の出費をし、汗水たらして労苦した後、何の実りも得ないということが往々にしてある、という事実です。すなわちせっかく蒔まいた種が悪い土壌のため、または後から生えてくる雑草に阻まれて育たず、あるいは雨風、あられ、猛暑、害虫によって打ち倒され、かくして一年間の労苦が、自然の災厄のために、わずかな時間の中に無に帰してしまうということですが、これは私たち人間の甚だ大きな罪悪のために他なりません。かかる罪のゆえにこそ、天主は私たちからいわば御顔をそらされ、私たちの労働にあえて祝福を与えるのをお控えになるのです。こうして天主が人祖の教皇の後に下された判決の言葉が成就するのです。6

126. したがって司牧者はこの論点をとり扱うにあたり、人間がこの種の悲境、惨苦に見舞われるようになったのは自らの罪のゆえに他ならぬこと、また、かくして生活に必要なものを得るために身を粉にして働くべきである一方、もし天主が当の働きを祝福してくださらなかったならば一切の希望はむなしく、凡ての努力は徒労と化してしまうことを信徒が悟るよう、図らねばなりません。なぜなら植える者も水を注ぐ者も取るに足らず、ただ尊いのは、それに成長をお与えになる天主のみだからです。7実に、もし天主が家をお建てにならなければ、それを建てるために働く者の働きは虚しいのです。8
127. かくして司牧者は、それなしには生きることも及ばないか、さもなくばきわめて難渋な生活を送ることを余儀なくされるようなものが実に数多くあることを信徒に思い起こさせるべきです。かかる必要と自らの本性の弱さとを省みて、信徒は天の父の御許に馳せ寄り、地上的ならびに天的な諸々の利善を切に請い願うよう促されるものだからです。
こうして彼らは、遠い異郷の地で必要な物に欠き始め、飢える我が身に粗末な食べ物さえも与えてくれる人のないことを見て、我に返り、己に降りかかる災厄から救ってくれるのは実の父親に他ならぬことを悟った放蕩息子に倣うこととなります。

128. しかるに信徒が天主の仁慈を省みて、当の御父がたゆまずその子らの声に耳を傾けておられることを思い起こすならば、より一層の信頼をもって祈りに臨むこととなります。なぜなら、日々の糧を願うようお促しになる天主は、ふさわしく祈り求める者らに豊かにこれをお与えになることをお約束になるからです。またどのように願うべきかをお教えになることをとおして、ご自分に願うことをお促しになり、お促しになることをとおして私たちを駆り立てられ、駆り立てられることをとおして[私たちが願うものをお与えになることを]お約束になり、お約束になることをとおして、当の願いが確実に聞き入れられる希望を私たちの心に育まれます。

129. かくして信徒の心に強い熱意を駆り立てた後、司牧者は次ぎに、「我らの日用の糧を与え給え」というこの祈願によって願うところのものを説明しなければなりませんが、そのためにまず、私たちが求める「糧」とは何であるかを解説する必要があります。

§II. 我らの日用の糧
130. しかるに、聖書中、この「糧」という言葉は多くの意味を有するとは言え、特に2つの意味で用いられることを知るべきです。すなわち第一に食物および身体の生命を維持するために用いるその他の物、第二に私たちの精神と霊魂の生命ならびに救霊のために天主がお恵みくださるもの全てを指します。

131. 教父らが権威をもって教えているところにしたがえば、この祈願をとおして私たちは、この地上での生活に必要なものを願い求めます。

132. したがって、キリスト者が天主にこの世の地上的利善を求めることは許されない、と言い張る者らの声に耳を傾けてはなりません。事実、この誤謬の誤りを明かすために、教父らの一致した教えのみならず、旧約、新約の聖書中に見られる数多(あまた)の事例を挙げることができます。例えばヤコブは誓いを立てて、こう祈っています。「天主が私と共にいて、私のこの旅を守り、食べ物と着物とをくださり、私が無事に父の家に帰ることができたら、主を我が天主とします。私が立石
たていしとして立てたこの石は、天主の家となり、主が私にくださる全ての物の十分の一を納めましょう。9」サロモンもまた、「私に貧しさも、富も与えてくださるな。ただ、私が生きるのに必要なだけのものをお与えください10」と祈って、この世の生活に必要な助けを願ったのです。
さらには人類の救い主もが、次のように述べて、身体の生命に関することを願うようお命じになったことを、誰が疑い得るでしょうか。すなわち、「あなたたちの逃避が冬、あるいは安息日に起こらないよう祈れ11」と。また使徒ヤコボもこう記しています。「あなたたちの中に苦しんでいる人が在るなら、その人は祈れ。喜んでいる人がいるなら、その人は賛美を歌え。12」使徒パウロも同様に、ローマ人に宛ててこう著しています。「兄弟たちよ、主イエズス・キリストによって、また聖霊の愛によって、私がユダヤにいる不信仰者から逃れることができるよう、天主に祈るよう、あなたたちに願う。13」

133. したがって、天主が信徒に現世的利善を求めることをお許しになり、また主キリストが私たちに残されたこの祈りは完全なものであるため、当の祈りを構成する7つの祈願の中、1つがこの種の利善に当てられるということに疑問の余地はありません。

134. さて私たちは「日用の糧(パン)14」、すなわち生きるために必要なものを願うのですが、この「糧(パン)」という言葉の中に体を覆うための衣服、ならびにパンのみならず、肉、魚およびその他一切の食物が含まれます。預言者エリシャがイスラエルの王に、アッシリアの兵士らにパンを与えるよう促した際15も、この広い意味で「パン」という言葉を用いたのです。事実、当の兵士らには、この要請に応じてありとあらゆる種類の食物が与えられたからです。同様のことが、福音書の次のくだりにも当てはまります。「ある安息日のこと、イエズスはパンを食する、ために、ある著名なファリサイ人の一人の家にお入りになった。16」ここで言う「パン」が、飲食物一般を指していることは自明の理です。

135. しかるに、「我らの日用の糧を与え給え」というこの祈願の意味を正しく理解するために、ここで言う「糧」が山と盛られたごちそうや、豊富にそろった衣服を指すのではなく、あくまで必要なだけの簡素な食物、衣類を意味するものであることを把握しなければなりません。使徒パウロが言っているように、私たちは「食べる物と着る物とがあれば、それで満足すべき17」なのであり、先に引用したサロモン王のように、「ただ、私が生きるのに必要なだけのものをお与えください18」と祈るべきなのです。

136. 同祈願中に含まれる「我らの」という言葉も、このように質素な物で満足し、節度を守るよう私たちを促すものです。なぜなら、「我らの糧」をと唱える際、贅沢(ぜいたく)に生きるための糧ではなしに、私たちに必要なだけの糧を求めることになるからです。すなわち、「我らの糧」と唱えるのは、天主の助力なしに私たちの努力だけでこれを得ることができるからではなく、(このことはダビドが詩篇で次のように詠うたって示していところです。すなわち、「かれらは皆、御身がかれらに時が来れば糧をお与えになるのを待っている。御身はかれらにお与えになり、かれらはそれを拾い集める。御身が御手を開けば、かれらは良い物に満たされる19」のであり、また「すべてのものの目が御身に希望をかけ、時が来れば御身はそのすべてに糧をお与えになる20」のです。)却って、これが私たちにとって必要なものだからであり、また万物の造り主であり、全ての生き物を養われる天主から与えられるからです。

137. 「我らの糧」と唱えるのは、当の糧が、詐欺や盗みをはじめとした不正行為によってではなく、正当な手段で得るべきものであるからでもあります。邪よこしまな術策によって得る物は、私たちの物ではなく、他人の物だからです。また、これら不正な仕方で求められる事物の獲得、保持および喪失は、往々にして大きな不幸を伴います。反対に、義人がまっとうに労苦して得る儲けは、預言者ダビドが、「あなたは労苦の実を食べ、繁栄と幸福を受ける21」と述べて表しているように、心の平安と大きな幸福感をもたらします。

138. 事実、まっとうに働いて糧を得ようとする者たちに、仁慈なる天主は、よい実りをお約束になります。第二法の書に、「主があなたの穀倉とあなたの手の働き全てに祝福をくだし、またあなた自身をも祝福されます22」とあるとおりです。

139. また、私たちは、私たちが自らの汗と労苦によって、主の憐れみ深い助力に支えられて得たもの―これこそ私たちのものと呼び得るものですが―を用いることができることだけでなく、こうして正当にかち得たものを、ふさわしい心構えをもって正しく賢明に用いることができるよう天主に願うのです。

140. 「日用の」という言葉には、先に述べたように、節度と質素さの概念が含まれています。なぜならこの祈りをとおして、私たちは大量の美味極まる食物ではなく、かえって自然本性の必要を満たすのに充分なだけの糧を求めるからです。これに反して、ありきたりの食物に嫌気がさし、凝こりに凝った特上の飲食物を求めてやまぬ者たちは、深く恥じ入るべきです。

141. 預言者イザヤが、次の恐るべき脅しの言葉をもって弾劾する者たちも、同様にこの「日用の」という言葉が指すところに悖もとっています。「土地を独り占めにし、家に家を足し、畑に畑を加える汝らに災いあれ。汝らは、地に独り住むことを臨むのか?23」この類の者たちの強欲は納まることを知らず、「金を好むものは、どれほど金を集めても飽き足らない24」というサロモンの格言、また「富を求める者らは、誘いと悪魔の罠に陥る25」という使徒パウロの警句は、まさに彼らに当てはまります。

142. しかるに「日用の糧」と私たちが呼ぶのは、毎日、身体活動によって消耗する熱量(カロリー)を補充するにたるだけの食物に他なりません。

143. 最後に、この「日用の」という言葉が主祷文に含まれているのは、私たちが当の糧を、天主を愛し、拝む習慣を常に保つために、又私たちの生命と救霊は天主に依存するという真理を深く心に刻むために、日々欠かさず祈り求めるべきだからです。


§III. 今日我らに与え給え
144. 「我らに」「与え給え」というこの2つの言葉に、信徒らをして、御手の内に全てを含む天主の無限の権能を敬虔かつ聖きよい心をもって崇め尊び、同時に、「私には万事が委ねられ、私の望む者にこれを与えるのだ26」という、サタンの不敬きわまる欺瞞(ぎまん)を忌み嫌うよう促す材料がどれほど含まれていることでしょうか。事実、ただ天主の思し召しによってのみ万物が配分され、保全され、育まれるのだからです。

145. しかるに、ありとあらゆる物に恵まれた金持ちに、日々の糧を願う義務が果たして課されるのかと、問う人があるかも知れません。たしかに富む者たちは、天主の仁慈によって彼らが豊かに持っている諸々の物が、自らに与えられるように祈る必要を有しませんが、これを失わないよう祈る必要があります。このようにして彼らは、「高ぶることなく、不確かな富にではなく、私たちに用いさせるために、全てを豊かにお与えになる天主にこそ望みを置く27」よう説く使徒パウロの教えにしたがって生きることを学ぶのです。聖ヨハネ・クリゾストモは、当の祈願を為すもう一つの理由として、私たちはただ糧が与えられることのみならず、これが当の糧に健康的で有益な効能を付加される天主の御手をとおして与えられ、かくしてこの糧が身体の益となり、かつ身体が霊魂に従うよう願うべきであることを挙げています。

146. しかるに、私たちはどうして「我に与え給え」と言わず、却って「我らに与え給え」と複数形で祈るのでしょうか。それは、各人が、自分のことに気を配るだけでなく、隣人のことにも留意し、自らの利害について思いめぐらす際、他人のことをも配慮することがキリスト教愛徳に固有の則のりだからです。また、ある人に、特定の賜が天主から与えられるのは、当人が単独でこれを保有するためでも、これを用いて贅沢(ぜいたく)に暮らすためでもなく、却って自分の必要を満たした上で余るものを他の人々に分かち与えるためなのです。実に聖バジリオ28と聖アンブロジオが述べているように、「あなたが手放そうとしないパンは、飢える者たちのパンであり、あなたがしまい込む衣服は、着る物のない者たちの衣服であり、あなたが地に埋めるお金は、貧者を買い戻し、解放するための資金なのです。29」

147. 「今日」
この言葉は、私たち人間に皆共通の弱さに言及するものです。なんとなれば、たとえ自分一人の力で長い期間にわたって生活に必要なものをかち得ることはできないにしても、今日一日に要るだけの物なら自力で都合できると誰が思わないでしょうか。しかるに毎日の糧を願うようお命じになった天主は、わずかこれだけのことについても自負を抱くことをお許しにならないのです。

148. このことの理由は、私たちは皆、毎日の糧を必要とするため、同じく毎日、主祷文を各自唱えるべきであるという事実に存します。
以上、身体を養い支える物質的な糧(パン)について述べましたが、「悪人の上にも善人の上にも陽を昇らせ、義人にも不義の人にも雨をお降らせになる30」天主は、感嘆すべき仁慈の心により、当の糧を信徒にも不信仰者にも、敬虔な者にも不敬虔な者にもお与えになります。

§IV. 霊的な糧

149. 次に、当の祈願において同時に願う霊的な糧について述べなければなりません。この糧には、地上での生活において霊魂の救いと無事安寧とに必要な全てのものを含みます。身体を養い保つために多様な食物が必要であるように、同様に霊魂および精神の生命を維持するための糧も一種にかぎらず、多彩を極めます。事実、天主の御み言葉は霊魂の糧となりますが、これは天主の知恵が、「来て私のパンを食べよ。また私があなたのためにととのえたぶどう酒を飲め31」と述べて表していることに他なりません。

150. しかるに天主が御言葉のもたらす効益を人々のもとから除かれるとき―天主がこのように為されるのは、私たちの罪によって著しく侮辱を受けられたときなのでありますが―、人類を飢えで懲らしめられると言うのです。アモスの書の次の章句は、このことの端緒な例です。「その日、私は地に飢えを送る。パンの飢えではなく、水の乾きでもなく、主の御言葉を聞こうと望む餓かつえである。32」

151. さて、人が食物をもはや摂ることができないか、あるいは摂った食物を受けつけない場合、これは死が間近に迫った印となります。同様に、ある人々が天主の御言葉を請い求めないか、又はこれを耳にしたとき、受けつけず、却って「私たちのもとから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない33」、という不敬きわまりない言葉を天主に対して放つなら、彼らの救霊が絶望的であることを暗示する印であると言えます。

152. しかるにカトリックの正当な権威者、すなわち司教、司祭を軽んじ、さらにローマ教会から離反したあげく、天主の御言葉を歪める異端者に追従する者たちは、まさにかかる心の迷妄、精神の盲目に陥っているのです。

153. さて、主キリストこそは霊魂の糧なのですが、これは主ご自身が、「私は天から降った生けるパンである34」と仰せになって示しておられることです。
この「パン」が敬虔な信者の心を、とりわけ彼らがこの世の生活に伴う艱難、苦渋において、どれほどの満足と喜びをもって満たすものであるかは、およそ想像し難いことです。主の御名を告げ知らせたために鞭打たれた後、「喜びにあふれて衆議所を去った35」使徒らの例はこれを如実に示すものですが、聖人伝をひもとけば、この種の例は枚挙にいとまがありません。また天主ご自身も、義人の味わうこの種のいたって内的な喜びを指して、「私は勝つ者にマンナを与える36」と述べておられます。
154. しかるにご聖体の秘蹟の中うちに実体的に現存される主キリストご自身は、特別な意味で私たちの糧であります。御父の御許に戻られる前に、主は「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私におり、私もまたその人の中うちにある37」、「とって食べなさい。これは私の体である38」と仰せられて、ご自分の愛の名状しがたい証あかしを私たちにお与えになりました。
司牧者は信徒にとって有益な事柄を、この秘蹟の効力と本質について別個に取り扱った箇所39で見出すことができます。

155. しかるにこの糧が「我らの」ものと呼ばれるのは、信者、すなわち信仰に愛徳を伴わせ、罪の汚れを悔悛の秘蹟によって洗い清める者たちに固有な糧だからです。彼らのみが、自らが天主の子らであることを忘れず、この神的な秘蹟をこの上なく聖きよい心で深い崇敬をもって拝領し、礼拝するからです40。

156. それでは、どのような意味でこの糧は私たちの「日用の糧」であるのでしょうか。それはまず第一に、カトリック教会の神聖な祭儀において御聖体は毎日天主に捧げられ、これを敬虔かつ聖きよい心で求める者たちに与えられるからです。第二に、私たちは毎日この糧を摂る、ないしは少なくとも、もし可能であればこれを毎日摂るに値する仕方で生きるべきだからです。
反対に、長い期間を空けてでなければ、このしごく有益な糧を摂るべきでないと唱える者たちは、聖アンブロジオの言葉に耳を傾けるべきです。「もしこれが日用の糧であるならば、どうしてこれを一年後に食べようとするのか41」. . . 。
157. しかるにこの祈願を説明するにあたって、信徒に特に言い聞かせるべきことは、生活に必要な事物を得るために知恵と努力をしかるべく傾注した後、その結果を天主にお委ねし、自らの望みをその御旨に合わせる必要があるということです。天主は「義人が永久(とわ)に揺るがされることをお許しにならない42」からです。なぜなら、もし天主が願う物をお与えになるなら、彼らの望みは叶かなえられるのであり、あるいはもし天主がこれをお与えにならないならば、義人に拒まれる当の物が彼らにとって有益な物ではないことのきわめて確かな印となります。実際、天主は彼らの救済について当人自身よりも、より深くご配慮されるからです。司牧者はこの点を解き明かすにあたって、聖アウグスチヌスがプロバに宛てた有名な書簡中で挙げている諸々の理由を引くことができます。

158. この祈願の説明を終えるにあたって、富む者らが、自分たちの富、財産を、これを天主から受けたものであることを謙虚に認め、またそれが自らに与えられたのは、貧しい者たちに分かち与えるためであることを思い起こさせねばなりません。この真理を説くにあたり、使徒パウロがティモテへの前の手紙で述べていること43を引き合いに出すのが適切です。司牧者は、当の章句に含まれる神的戒律の中に、この点を解説するためにきわめて有益な材料を見出すことができます。

1 ローマ人への手紙 8章26節
2 マタイ 20章22節
3 Lib.2 de serm. Dom. in monte cap.16. / Epist.121
4 コリント人への手紙前 10章31節
5 創世記 3章27節以下
6 創世記 3章
7 コリント人への手紙前 3章7節
8 詩編126 1節
9 創世記 28章20~22節
10 格言の書 30章8節
11 マタイ 24章20節
12 ヤコボの手紙 5章13節
13 ローマ人への手紙 15章30節
14 聖書および当公教要理の原文では「日用のパン」。
15 列王記上 6章22節
16 ルカ 14章1節
17 ティモテへの前の手紙 6章8節
18 格言の書 30章8節
19 詩編 103 27-28節
20 詩編 144 15節
21 詩編 127 2節
22 第二法の書 28章8節
23 イザヤ書 5章8節
24 伝道の書 5章9節
25 ティモテへの前の手紙 6章9節
26 ルカ 4章6節
27 ティモテへの前の手紙 6章17節
28 Homil. 14 oper. imperf. in Matth.
29 Homil. 6 variorum arg.
30 マタイ 5章45節
31 格言の書 9章5節
32 アモスの書 8章11節
33 ヨブの書 21章14節
34 ヨハネ 6章41節
35 使徒行録 5章41節
36 黙示録 2章17節
37 ヨハネ 6章57節
38 マタイ 26章26節
39 ローマ公教要理 第2部秘蹟に関する部第4章「聖体の秘蹟について」
40 Tertul. lib. de or. Cypr. item. de or. Aug. et alii 参照
41 Lib. 5 de Sac. cap,4 および De consec. dist.2 参照
42 詩編54 23節
43 ティモテへの前の手紙 6章17節


トリエント公会議による公教要理 主祷文 天に在す我らの父よ 第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」の意味について(1-50)

トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します(51-81)

トリエント公会議による公教要理の「主祷文」についての解説:第3の願い「御旨の天に行われる如く、地にもおこなわれんことを」(82-116)

トリエント公会議による公教要理 祈りについて 「よく祈るために必要な心の状態」 (聖ピオ十世会訳)




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