2020年2月9日(主日)七旬節の主日
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、会場の場所が変わってしまって、ご不便をおかけしました。
2020年2月9日、七旬節の主日のミサを行なっています。
今日、第1主日のミサではないのですが、先週できなかったので、ミサの直後に御聖体降福式を行ないたいと思っています。特に日本と世界の平和の為にも、そして日本で今度9月にオープンされる、東京の修道院に必要な全ての御恵みを求める為に、お捧げ致しましょう。
月曜日のミサは、残念ながらミサの会場の都合で、ミサを皆さんの為にする事ができなくなりました。どうぞご了承下さい。
次のミサは、いつもと同じ所で次の主日にあります。フォルティン神父様がミサを捧げて下さいます。
“Nos autem incorruptam.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、遂に七旬節の主日がやって来ました。
グロリアもアレルヤも無くなり、そして司祭は紫の祭服を着ます。新しい典礼では無くなってしまった、しかし聖伝の典礼に従った、四旬節の準備の為の期間です。
今日一番のテーマは、聖パウロの言葉に凝縮されています、「私たちは、朽ちない王冠の為に戦っている、走っている。今、それを求めて今現在生きている」という事です。
そこで今日、
⑴私たちが一体何を求めているのか?この人生の究極の目的は何なのか?という事をもう一度、教会の精神に従って思い出す事に致します。
⑵そして次に、その為に一体どんな手段が、どうやったらその朽ちない栄冠を勝ち取る事ができるのか?難しいのか?そうでないのか?
⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴愛する兄弟の皆さん、この目に見える全宇宙、美しい大宇宙、そして大自然は、私たちの為に創られました。私たちがこの地上に今生きているのも、こうやって生まれてきているのも、特別の目的があって、天主様から創造されたからです。
その目的は、私たちの想像をはるかに超える、崇高なものです。なぜかというと、私たちは永遠の命、永遠の無限の幸せ、朽ちない喜び、天主と同じ命を生きる為に、楽しむ為に、この地上に創られたからです。
この地上の人生は、儚い、あっという間の、夢のようなものです。しかし朝起きて、「あぁ、目が覚めた」という時に、太陽が昇り、そして鳥が鳴いているように、おいしい朝ごはんがあるように、私たちもこの人生の夢が終わった後に、「永遠」という決して終わる事のない現実が、私たちの為に微笑んで待っています。そしてその為にこそ、私たちはこの地上に生きています。そして創造を受けました。
「私たちが一体何であるか?」「被造物である」という事、そして「私たちは何の為に、究極の目的が何なのであるか?」「無限の善である、無限の愛である天主を目指している」という事を、私たちは今日、教会の精神によって思い出さなければなりません。
イエズス様は仰いました、「人間が、もしも全世界を勝ち取ったとしても、その交換に霊魂を失ったとしたら、一体何の利益があるだろうか。」
もしも私たちが、私たちにとって永遠の命が無いとするならば、あるいはこの世だけで全てが終わってしまうとするならば、この世の人たちは正しいかもしれません。この世の美味しいものを食べて、この世を面白おかしく住むというのが、もしかしたら合理に適っているかもしれません。
しかし、現実はそうではないのです。この世の人生というのは儚いものであって、あっという間に過ぎ去ってしまうものであって、私たちにはこの後に、決して終わる事のない、「永遠」という現実が待っているからです。
この世の私たちの前に、私たちの先祖で、私たちの前に生きていた人々で、力がある人々がいました。権力を握って、世界の大部分を支配していた王や、皇帝や、財産を自由に使って、奴隷や人々を動かしていた人々もいます。しかしそのような人は、今、その財産をどこにどうやって仕舞ったでしょうか?皆、他の人が持っています。どのような王であっても、ヨーロッパを支配したような皇帝であっても、あるいはインドまで支配したギリシャのアレクサンダー大王であっても、あるいはどのような者であっても、その人生の終わりには、自分のお墓の小さな所に足を突っ込むその直前に、「あぁ、振り返ってみると、自分の持っていた物はみんな、他の人の物になっていた」と気付いて、弱々しく、朽ちて亡くなっていきます。
それで終わりではないのです。その後で、私たちの人生がどのように生きていたか、その細かいところまで正確に天主に報告して、決済を出さなければなりません。悪については罰を、善については報いを、私たちは受け取らなければなりません。
つい最近数日前まで、天主様の御摂理と御計らいによって、エクアドルのキトで、「善き出来事のマリア様」その所に巡礼に行く事ができました。
400年前、このスペインの人たちは、本当に信仰に満ちていました。その「キト」という都市を造る為に、スペインの王様が送ったのは、軍隊でも警察でも、官僚機構でもありませんでした。スペインの王様がまず、「都市を造る為に必要だ」と送ったのが、観想修道会のシスターたちと、神父様たちと、ブラザーたちで、何千人という人々を送って、そして修道院を建てて、黙想と、お祈りと、断食とをしました。それによって、この大きな帝国は平和に住んでいました。
そのキトを創立した最初の修道院、創立の時の最初から置かれた修道院の中に1つに、「無原罪の御孕りの修道院」というのがあり、その中の修道院長、マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレスという方に、マリア様は特別の御出現やメッセージを与えました。そしてその事は教会によって認められています。
そのマリア様が仰っています、「あぁ、この死すべき人々が、人間たちが、もしも『天国というものがどれほど素晴らしいものである』という事を知っていたら、あるいは『地獄の恐ろしさ』という事を知っていたら、今、今頃、人生の生き方は変わっていた事だろう。今その事を知れば、ちょっとでも知れば、私たちは生き方を変える事だろう。天主を愛して、罪を恐れて生きる事だろう。そしてどんな小さな犠牲でも、あるいは苦しみでも、喜んでそれを受けるだろう」ということを仰っていました。(*)
まさに、その通りです。私たちはこの人生を、永遠の為に生きているのです。
⑵では、どうやったら私たちは、その永遠の冠を、朽ちない冠を得る事ができるでしょうか?オリンピックの選手のように、選ばれた特別な、コーチをつけて、高いお金を払って、一生懸命毎日特訓しなければならないのでしょうか?
いや、そうではないのです。私たちは誰でも、この望めば、永遠の冠を受ける事ができます。もしもその永遠の冠を受けてしまえば、一体誰でさえも、悪魔でさえも、それを私たちから奪う事ができません。私たちが必要なのは、それを「欲しい」と望んで、その為に一歩を進む事です。
その為にはどうするかと言うと、イエズス様が教えています、「絶えず祈れ。」
「祈り」と、そして「私たちの日々の生活を、イエズス様の為にお捧げする。」これだけです。
「もしもお前たちが私の弟子になりたいならば、自分の十字架を取って、私に従え。」
私たちが朝起きてから寝るまで、私たちの考えも、話す事も、行動も、「イエズス様、これをイエズス様の為にお捧げします。」「イエズス様、愛しています。」「イエズス様、この苦しみをお捧げ致します。」「イエズス様、この辱めをお受け取り下さい。」「イエズス様、憐れんで下さい。」「イエズス様、このお仕事を、イエズス様の為に捧げます。」「イエズス様、あの霊魂を回心させて下さい。」「イエズス様、この寒さをお捧げ致します」など。
このような私たちの小さな行ないは、祈りを込めた愛の行ないは、どれほど私たちの主の心に気に入る事でしょうか。私たちはその小さな行ないによって、どれほど朽ちない永遠の冠をたくさん受ける事でしょうか。勲章を受ける事でしょうか。
その事を教会は皆さんに、思い出させたいと思っています。
⑶どうぞ愛する兄弟の皆さん、時はやって来ました。
永遠の冠が待っています。決して朽ちない、黄金の、私たちの想像をはるかに超える、喜びと楽しみが待っています。どうぞこの七旬節の、良い遷善の決心を立てて下さい。ますます祈りと、犠牲と、愛の行ないに、私たちは励む事に致しましょう。
最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御生涯がまさにこれでした。祈りと、イエズス様への愛の連続でした。七旬節の連続でした。マリア様の御取次ぎによって、私たちもマリア様と同じ、朽ちない冠を受ける事ができますように。
“Nos autem incorruptam.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
(*)
“Oh, if all mortal men … knew what Heaven is, what the possession of God is! How differently they would live and never omit any sacrifice to possess it!
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は、会場の場所が変わってしまって、ご不便をおかけしました。
2020年2月9日、七旬節の主日のミサを行なっています。
今日、第1主日のミサではないのですが、先週できなかったので、ミサの直後に御聖体降福式を行ないたいと思っています。特に日本と世界の平和の為にも、そして日本で今度9月にオープンされる、東京の修道院に必要な全ての御恵みを求める為に、お捧げ致しましょう。
月曜日のミサは、残念ながらミサの会場の都合で、ミサを皆さんの為にする事ができなくなりました。どうぞご了承下さい。
次のミサは、いつもと同じ所で次の主日にあります。フォルティン神父様がミサを捧げて下さいます。
“Nos autem incorruptam.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、遂に七旬節の主日がやって来ました。
グロリアもアレルヤも無くなり、そして司祭は紫の祭服を着ます。新しい典礼では無くなってしまった、しかし聖伝の典礼に従った、四旬節の準備の為の期間です。
今日一番のテーマは、聖パウロの言葉に凝縮されています、「私たちは、朽ちない王冠の為に戦っている、走っている。今、それを求めて今現在生きている」という事です。
そこで今日、
⑴私たちが一体何を求めているのか?この人生の究極の目的は何なのか?という事をもう一度、教会の精神に従って思い出す事に致します。
⑵そして次に、その為に一体どんな手段が、どうやったらその朽ちない栄冠を勝ち取る事ができるのか?難しいのか?そうでないのか?
⑶そして最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴愛する兄弟の皆さん、この目に見える全宇宙、美しい大宇宙、そして大自然は、私たちの為に創られました。私たちがこの地上に今生きているのも、こうやって生まれてきているのも、特別の目的があって、天主様から創造されたからです。
その目的は、私たちの想像をはるかに超える、崇高なものです。なぜかというと、私たちは永遠の命、永遠の無限の幸せ、朽ちない喜び、天主と同じ命を生きる為に、楽しむ為に、この地上に創られたからです。
この地上の人生は、儚い、あっという間の、夢のようなものです。しかし朝起きて、「あぁ、目が覚めた」という時に、太陽が昇り、そして鳥が鳴いているように、おいしい朝ごはんがあるように、私たちもこの人生の夢が終わった後に、「永遠」という決して終わる事のない現実が、私たちの為に微笑んで待っています。そしてその為にこそ、私たちはこの地上に生きています。そして創造を受けました。
「私たちが一体何であるか?」「被造物である」という事、そして「私たちは何の為に、究極の目的が何なのであるか?」「無限の善である、無限の愛である天主を目指している」という事を、私たちは今日、教会の精神によって思い出さなければなりません。
イエズス様は仰いました、「人間が、もしも全世界を勝ち取ったとしても、その交換に霊魂を失ったとしたら、一体何の利益があるだろうか。」
もしも私たちが、私たちにとって永遠の命が無いとするならば、あるいはこの世だけで全てが終わってしまうとするならば、この世の人たちは正しいかもしれません。この世の美味しいものを食べて、この世を面白おかしく住むというのが、もしかしたら合理に適っているかもしれません。
しかし、現実はそうではないのです。この世の人生というのは儚いものであって、あっという間に過ぎ去ってしまうものであって、私たちにはこの後に、決して終わる事のない、「永遠」という現実が待っているからです。
この世の私たちの前に、私たちの先祖で、私たちの前に生きていた人々で、力がある人々がいました。権力を握って、世界の大部分を支配していた王や、皇帝や、財産を自由に使って、奴隷や人々を動かしていた人々もいます。しかしそのような人は、今、その財産をどこにどうやって仕舞ったでしょうか?皆、他の人が持っています。どのような王であっても、ヨーロッパを支配したような皇帝であっても、あるいはインドまで支配したギリシャのアレクサンダー大王であっても、あるいはどのような者であっても、その人生の終わりには、自分のお墓の小さな所に足を突っ込むその直前に、「あぁ、振り返ってみると、自分の持っていた物はみんな、他の人の物になっていた」と気付いて、弱々しく、朽ちて亡くなっていきます。
それで終わりではないのです。その後で、私たちの人生がどのように生きていたか、その細かいところまで正確に天主に報告して、決済を出さなければなりません。悪については罰を、善については報いを、私たちは受け取らなければなりません。
つい最近数日前まで、天主様の御摂理と御計らいによって、エクアドルのキトで、「善き出来事のマリア様」その所に巡礼に行く事ができました。
400年前、このスペインの人たちは、本当に信仰に満ちていました。その「キト」という都市を造る為に、スペインの王様が送ったのは、軍隊でも警察でも、官僚機構でもありませんでした。スペインの王様がまず、「都市を造る為に必要だ」と送ったのが、観想修道会のシスターたちと、神父様たちと、ブラザーたちで、何千人という人々を送って、そして修道院を建てて、黙想と、お祈りと、断食とをしました。それによって、この大きな帝国は平和に住んでいました。
そのキトを創立した最初の修道院、創立の時の最初から置かれた修道院の中に1つに、「無原罪の御孕りの修道院」というのがあり、その中の修道院長、マザー・マリアナ・デ・ヘスス・トレスという方に、マリア様は特別の御出現やメッセージを与えました。そしてその事は教会によって認められています。
そのマリア様が仰っています、「あぁ、この死すべき人々が、人間たちが、もしも『天国というものがどれほど素晴らしいものである』という事を知っていたら、あるいは『地獄の恐ろしさ』という事を知っていたら、今、今頃、人生の生き方は変わっていた事だろう。今その事を知れば、ちょっとでも知れば、私たちは生き方を変える事だろう。天主を愛して、罪を恐れて生きる事だろう。そしてどんな小さな犠牲でも、あるいは苦しみでも、喜んでそれを受けるだろう」ということを仰っていました。(*)
まさに、その通りです。私たちはこの人生を、永遠の為に生きているのです。
⑵では、どうやったら私たちは、その永遠の冠を、朽ちない冠を得る事ができるでしょうか?オリンピックの選手のように、選ばれた特別な、コーチをつけて、高いお金を払って、一生懸命毎日特訓しなければならないのでしょうか?
いや、そうではないのです。私たちは誰でも、この望めば、永遠の冠を受ける事ができます。もしもその永遠の冠を受けてしまえば、一体誰でさえも、悪魔でさえも、それを私たちから奪う事ができません。私たちが必要なのは、それを「欲しい」と望んで、その為に一歩を進む事です。
その為にはどうするかと言うと、イエズス様が教えています、「絶えず祈れ。」
「祈り」と、そして「私たちの日々の生活を、イエズス様の為にお捧げする。」これだけです。
「もしもお前たちが私の弟子になりたいならば、自分の十字架を取って、私に従え。」
私たちが朝起きてから寝るまで、私たちの考えも、話す事も、行動も、「イエズス様、これをイエズス様の為にお捧げします。」「イエズス様、愛しています。」「イエズス様、この苦しみをお捧げ致します。」「イエズス様、この辱めをお受け取り下さい。」「イエズス様、憐れんで下さい。」「イエズス様、このお仕事を、イエズス様の為に捧げます。」「イエズス様、あの霊魂を回心させて下さい。」「イエズス様、この寒さをお捧げ致します」など。
このような私たちの小さな行ないは、祈りを込めた愛の行ないは、どれほど私たちの主の心に気に入る事でしょうか。私たちはその小さな行ないによって、どれほど朽ちない永遠の冠をたくさん受ける事でしょうか。勲章を受ける事でしょうか。
その事を教会は皆さんに、思い出させたいと思っています。
⑶どうぞ愛する兄弟の皆さん、時はやって来ました。
永遠の冠が待っています。決して朽ちない、黄金の、私たちの想像をはるかに超える、喜びと楽しみが待っています。どうぞこの七旬節の、良い遷善の決心を立てて下さい。ますます祈りと、犠牲と、愛の行ないに、私たちは励む事に致しましょう。
最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御生涯がまさにこれでした。祈りと、イエズス様への愛の連続でした。七旬節の連続でした。マリア様の御取次ぎによって、私たちもマリア様と同じ、朽ちない冠を受ける事ができますように。
“Nos autem incorruptam.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
(*)
“Oh, if all mortal men … knew what Heaven is, what the possession of God is! How differently they would live and never omit any sacrifice to possess it!