聖母月中の祈祷
我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
二 十 二 日
被 造 物 よ り の 離 脱
(一)聖(み)主(あるじ)イエズス・キリストは、始終(しじゅう)我等に向かって「我が子よ、汝の心を我に献(ささ)げよ」と招き給う。
即ちイエズス・キリストは我等の心を全く求めていられるのである。それであるからこの世のはかない物に溺(おぼ)れる事は、天主と一致するため、叉、完全なる人となるために、大いなる妨(さまた)げである。
そこで主イエズス・キリストは「我よりも、父もしくわ母を愛する人は我にふさわしからず」と申していられる。聖書にも記録(しる)してあるが、イエズス・キリストはある時、一人の富(と)める青年に向かって「汝もし完全ならんと欲すれば、行きて持てる物を売り、之を貧者にほどこせ。しかして来たりて、我に従(したが)え」と申された。
その時、青年は悲しんでそこを去った。なぜならば青年の心はこの世の総(すべ)ての物に溺(おぼ)れていたからである。そして彼はついに約束された如く完全な人となる事が出来なかった之に反し聖マリアは、既に子供の時、この世と総(すべ)てのものから離れ、三歳の時、父母にはなれ、エルザレムの聖(せい)殿(でん)に於(お)いて己(おのれ)を全く天主に献(ささ)げられた。我等も聖母マリアにならい、この世の総(すべ)ての物から心を離さなければならぬ。
それのみならず総(すべ)ての物をただ天に上がるための階段として利用しよう。
人がある物に溺(おぼ)れている程度は、それを失ったときの悲しみの深さによって知られる。
それ故(ゆえ)、好(この)む物を失ってあまり甚だしくいつまでも嘆(なげ)き悲(かな)しむ人は、万事を天主の御摂(ごせつ)理(り)に任(まか)せているのでもなく、また万事に超(こ)えて、天主を愛しているのでもないのである。
(二)すべての物から離れるとは、決してその物を嫌(きら)う事ではない。この世の総(すべ)ての物は天主の御栄(みさかえ)を現(あらわ)す物としていかにもよく造(つく)られている。
われらはそれによって天主のわれらに対する愛の深さを知らなければならない。ただそれらの物は如何様(いかよう)にも用(もち)いる事が出来る。われらは注意して、天主に仕(つか)えるためのみに被造物(ひぞうぶつ)を用(もち)いなければならぬ。
聖パウロは「この世の宝、楽しみ、叉、総(すべ)ての物を利用する人は、それを利用せざるが如くになるべき外(ほか)なし」と、申された。即ちこれは、天主に仕(つか)える為と、自分の霊魂(れいこん)の救(たす)霊(かり)のために、世の物を用(もち)いる方法である。
○ 聖マリアによりて、この世のはかなき物に離るる御恵(おんめぐ)みを得(え)ん為に
「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
主イエズス・キリスト、主は我等を愛し我等に与えんとて、総ての物を創造(つく)り給えり。
願わくはわれらをしてすべての被造物(ひぞうぶつ)をば、ただ主の御旨(みむね)のままに、且(か)つ主に至る階段として用い、もってあやまりなく主に仕(つか)うるを得(え)せしめ、救(きゅう)霊(れい)の障害(しょうがい)となるべき物は、甘(あま)んじて退(しりぞ)け、主に対する愛の犠牲として、これを献(ささ)ぐるの聖寵(せいちょう)を与え給え。 アメン。
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我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン
二 十 二 日
被 造 物 よ り の 離 脱
(一)聖(み)主(あるじ)イエズス・キリストは、始終(しじゅう)我等に向かって「我が子よ、汝の心を我に献(ささ)げよ」と招き給う。
即ちイエズス・キリストは我等の心を全く求めていられるのである。それであるからこの世のはかない物に溺(おぼ)れる事は、天主と一致するため、叉、完全なる人となるために、大いなる妨(さまた)げである。
そこで主イエズス・キリストは「我よりも、父もしくわ母を愛する人は我にふさわしからず」と申していられる。聖書にも記録(しる)してあるが、イエズス・キリストはある時、一人の富(と)める青年に向かって「汝もし完全ならんと欲すれば、行きて持てる物を売り、之を貧者にほどこせ。しかして来たりて、我に従(したが)え」と申された。
その時、青年は悲しんでそこを去った。なぜならば青年の心はこの世の総(すべ)ての物に溺(おぼ)れていたからである。そして彼はついに約束された如く完全な人となる事が出来なかった之に反し聖マリアは、既に子供の時、この世と総(すべ)てのものから離れ、三歳の時、父母にはなれ、エルザレムの聖(せい)殿(でん)に於(お)いて己(おのれ)を全く天主に献(ささ)げられた。我等も聖母マリアにならい、この世の総(すべ)ての物から心を離さなければならぬ。
それのみならず総(すべ)ての物をただ天に上がるための階段として利用しよう。
人がある物に溺(おぼ)れている程度は、それを失ったときの悲しみの深さによって知られる。
それ故(ゆえ)、好(この)む物を失ってあまり甚だしくいつまでも嘆(なげ)き悲(かな)しむ人は、万事を天主の御摂(ごせつ)理(り)に任(まか)せているのでもなく、また万事に超(こ)えて、天主を愛しているのでもないのである。
(二)すべての物から離れるとは、決してその物を嫌(きら)う事ではない。この世の総(すべ)ての物は天主の御栄(みさかえ)を現(あらわ)す物としていかにもよく造(つく)られている。
われらはそれによって天主のわれらに対する愛の深さを知らなければならない。ただそれらの物は如何様(いかよう)にも用(もち)いる事が出来る。われらは注意して、天主に仕(つか)えるためのみに被造物(ひぞうぶつ)を用(もち)いなければならぬ。
聖パウロは「この世の宝、楽しみ、叉、総(すべ)ての物を利用する人は、それを利用せざるが如くになるべき外(ほか)なし」と、申された。即ちこれは、天主に仕(つか)える為と、自分の霊魂(れいこん)の救(たす)霊(かり)のために、世の物を用(もち)いる方法である。
○ 聖マリアによりて、この世のはかなき物に離るる御恵(おんめぐ)みを得(え)ん為に
「めでたし」三度唱(とな)えん。
祈 願 せ ん
主イエズス・キリスト、主は我等を愛し我等に与えんとて、総ての物を創造(つく)り給えり。
願わくはわれらをしてすべての被造物(ひぞうぶつ)をば、ただ主の御旨(みむね)のままに、且(か)つ主に至る階段として用い、もってあやまりなく主に仕(つか)うるを得(え)せしめ、救(きゅう)霊(れい)の障害(しょうがい)となるべき物は、甘(あま)んじて退(しりぞ)け、主に対する愛の犠牲として、これを献(ささ)ぐるの聖寵(せいちょう)を与え給え。 アメン。
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