アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
聖ピオ十世会総長の友人と恩人へ皆様への手紙第89号
Letter from the Superior General to Friends and Benefactors, n. 89 - FSSPX.Actualités / FSSPX.NewsMy dear faithful, friends and benefactors,
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Lettre du Supérieur général aux amis et bienfaiteurs, n° 89 - FSSPX.Actualités / FSSPX.NewsChers fidèles, amis et bienfaiteurs,
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聖ピオ十世会総長の友人と恩人へ皆様への手紙第89号2020年2月29日
愛する信者、友人、恩人の皆様、
長い間、私は皆様にどれほどこの言葉をお送りしたかったことでしょうか。私たちは現在、二つの非常に重要な記念日の間におります。一つは、五十年前、新ミサが公布され、それとともに、キリスト教生活についての新しい考え方、いわゆる現代の挑戦に適用した考え方が、信者に押し付けられた記念日です。もう一つは、今年、私たちが聖ピオ十世司祭会の創立五十周年を祝っている記念日です。言うまでもなく、この二つの記念日は非常に密接な関係を持っています。なぜなら、一つ目の出来事に対して、それに釣り合う対応が必要となったからです。
私が皆様に申し上げたいのはこの点についてです。それは、今日の私たちにとって価値ある結論をいくつか引き出すためです。
しかし、まず第一に、私は時をもっとさかのぼりたいと思います。なぜなら、五十年前に公に明らかになったこの対立は、実際には、私たちの主イエズス・キリストの公生活のときに始まっていたからです。
実際、私たちの主が、ご受難の一年前、カファルナウムで主のみ言葉を聞いていた使徒たちと群衆に、ミサおよびご聖体という偉大なる賜物のことを最初に告知なさったとき、主から離れていった人々がいる一方で、その他の人々はさらに激しく主に愛着を見せるようになりました。これは確かに矛盾していますが、最初の「離教」を引き起こし、同時に使徒たちが私たちの主イエズス・キリストというお方に決定的に従属するのに拍車をかけたのは、ご聖体という考えそのものだったのです。
聖ヨハネは、次のように私たちの主のみ言葉とそれを聞いた人々の反応を報告しています。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から下ったパンである。先祖はマンナを食べても死んだが、このパンを食べる者は永遠に生きる。イエズスがこう教えられたのは、カファルナウムの会堂でのことだった。そのとき、弟子たちのほとんどがそれを聞いていて、『むずかしい話だ、そんな話に耳が貸せようか』と言った。・・・そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった」(ヨハネ6章57-61、67節)。
続けて登場する三つの疑問に、一つずつ答えてみましょう。(1)なぜユダヤ人たちはつまずいたのでしょうか、また彼らはそれ以降、何を拒否したのでしょうか?(2)次に、現代のキリスト教徒は何を拒否しているのでしょうか?(3)私たちも、この同じ長年にわたる誤謬に陥らないためには、何をしなければならないでしょうか?
* * *
福音が私たちに教えているのは、ユダヤ人たちは、どのようにして私たちの主がご自分の肉を食べさせるためにそれを彼らにお与えになることができるのかが理解できなかったためにつまずいた、ということです。主はこの困難に直面して、彼らに理性的にもっと分かりやすい説明をなさるのではなく、さらに強い調子で、数回にわたって、永遠のいのちを得るためには、ご自分の肉を食べ、ご自分の血を飲む必要があると再確認なさいました。実際、ユダヤ人たちが目撃したばかりの奇蹟(ヨハネ6章5-14節参照)があったにもかかわらず、彼らにかけていたものは、私たちの主によって指導を受けるのを許すための準備と確信でした。一言で言えば、天の御父が、霊魂を救いの神秘にお導きになるための信仰が彼らには欠けていたのです。「私を遣わし給うた父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠のいのちを受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである」(ヨハネ6章40節)。そうすることによって、ユダヤ人たちは、一年後に決定的に拒絶することになるものをすでに拒絶していたのです。ユダヤ人たちは十字架のいけにえを拒絶することになるのですが、聖なるミサはこのいけにえの継続でありご聖体はその実なのです。前もって、ユダヤ人たちは、信仰の目がなければ理解できなくなる十字架の経綸を拒絶しました。ちょうどご聖体を告知した私たちの主のみ言葉が彼らをつまずかせたように、彼らにとって、十字架がつまずきとなることになるのです。ここで私たちには、同じ「つまずき」が二つ起こったことが分かります。実際、十字架を愛さないならば、ご聖体を愛することはできませんし、ご聖体を愛さないならば、十字架を愛することはできません。
* * *
次に、現代のキリスト教徒は何を拒否しているのしょうか? 彼もまた、自分のための十字架の経綸を受け入れることを拒否しています。彼は、祭壇上で更新される私たちの主イエズス・キリストのいけにえと一体になる【訳者:自分の苦しみを逃げずに、キリストの十字架と合わせて受け入れて捧げること】ことも拒否しています。そうすることを見通すだけで、現代、再び彼をつまずかせています。彼は、天主が一体どうして、彼にそのようなことをお求めになりうるかを理解しません。なぜなら、父なる天主がどのようにして私たちの主に十字架上で死ぬことをお求めになることができたのかが、彼にはもはや理解することができないからです。
このようにして、キリスト教生活についての彼の考えは、回復できないほど変わっているのです。彼はもはや、キリストの苦しみの欠けたところ(コロサイ1章24節参照)を、自分の苦しみで満たすという考え方を受け入れることはできません。ですから、徐々に、十字架の精神はこの世の精神によって置き換えられているのです。
十字架の凱旋を見たいという深淵な望みは、もっと良いこの世を見たい、生態系を尊重し人間性をもっと尊重したもっと住みよい地球を見たいというあいまいな望みへと道を譲っています。しかしどのような目的に向かうのか、どのような手段によるのかを本当に知らないまま、です。ですから現代のキリスト者の特徴的なこの新しい見解には意味がなく、彼らを無関心へと導くとき、全教会、つまり位階階級と平信徒から成る全教会は、その存在理由を失ってしまい、深い危機へと入り込み、その時、この世における新たな使命を自らに与えようと必死に探し求めるのです。
なぜなら、十字架を通して十字架の凱旋だけを求めるという自分の使命を捨ててしまったからです。このキリスト教徒の生き方についての新しい概念および教会についての新しい考えにおいては、十字架自体がもはや居場所を持っていないがゆえに、ミサの聖なるいけにえも、もはやその居場所を持たなくなるのは避けられません。従って、永遠のいのちを得るために人間が食し飲まねばならないとされているイエズス・キリストの御体と御血は、新しい意味を持ちはじめてしまいます。
新ミサとは、新しい典礼様式だけのことではなく、十字架に対して不忠実であることの最後の表現です。私たちの主御自らがユダヤ人に説教なさったままの十字架、また使徒たちが初代教会に説教したままの十字架、この十字架に対する不忠実です。ここに、最近五十年の教会の歴史を解釈するのに鍵となるもの、二千年間にわたって教会を脅かしてきた大多数の誤謬の鍵となるものがあります。
* * *
ですから、十字架の精神とご聖体に対する無条件の愛を維持するために、2020年に、私たちは何を行わなければならないでしょうか? 遅かれ早かれ、ユダヤ人をして私たちの主から離れさせたのと同じ試みが、何らかの形で私たちのところにやって来るでしょう。そのとき私たちの主は、主が使徒たちになさったのと同じ次の質問を私たちにお尋ねになるでしょう。「あなたたちも去っていきたいか?」(ヨハネ6章68節)。それゆえに、私たちは、聖ペトロとともに「主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉を有しておられます。また私たちはあなたがキリスト、天主の御子であると信じていますし、知っています」(ヨハネ6章69-70節)と常にお答えする準備をいかにしてすることができるでしょうか?
この根本的な問いに対する答えは、ミサの聖なるいけにえにまことに参与することにあり、またご聖体を中心とする生活様式にあります。聖なるミサは、私たちが十字架の神秘に入り込むほどに、私たちの霊魂に新しいいのちをもたらし、いけにえに対する私たちの信仰を表現する典礼に参列することによってだけでなく、いけにえの中に私たち自身を入らせることによっても、その新しいいのちを私たちのものにしてくれます。それは、このいけにえが完全に私たちの主のいけにえにとどまりながらも、完全に私たちのいけにえとなるという方法によってです。
これを成し遂げるために、私たち自身を私たちの主にお捧げするために、何よりもまず、十字架の意味する結論すべてを含めて真剣に十字架を受け入れることが必要です。それは、すべてのものから自分自身を離脱させるか否かということです。この離脱は、私たちの主イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストを通じて、まことにすべてをお捧げすることができるようにするためです。お捧げするものとは、私たちの自我、私たちの意志、私たちの心、私たちの願い、私たちの大望、私たちの愛情・・・一言で言えば、私たちが在る全てそのまま、私たちの持てる全てそのまま、私たちの失意さえもです。
こういった心構えが前もってあれば、御子がご自身を御父にお捧げになるとき、私たちもまた御子のうちにいるのです。なぜなら、十字架は私たちをして御子に一致させ、私たちの意志を御子のご意志と一つにさせるからです。このようにして、御子と共に、私たちは御父に対していつでも捧げられる準備が整っていることになるのです。もし私たちが主と一つになるように一致していないならば、私たちは本当に自分自身を御父にお捧げすることはできません。
私たち自身をお捧げすることが大いなる価値を得るのは、天主のいけにえとのこの一致を通してのみなのです。また、ミサの聖なるいけにえの間にのみ、そしてミサの聖なるいけにえを通してのみ、これは実現されうるのです。
私たち自身を捧げつくして初めて、この捧げが一つ一つのミサにおいて更新されて初めて、交換として、全てを受ける、つまり聖なるいけにえの実りであるご聖体を受けることができるのです。御聖体において御子はご自分をお捧げになり、また、私たちは御子とともに自分自身をお捧げするのです。ご聖体は私たちを清め、私たちにこの世への嫌悪を増大させ、私たちを聖化します。これは、この変容のための前提条件である徹底的な自己放棄に対して、私たちが抵抗しないならば、の話です。
これがミサの聖なるいけにえが何かであり、こういう訳で私たちはその価値を毎日再発見しなければならないのです。五十年後、私たちは、全時代の聖なるミサを通じて受けた、そして受け続けている恩寵のすばらしさをもっともっと再発見しなければなりません。
このことは矛盾しているように思えます。一方で、ミサの聖なるいけにえは、私たちにとって、私たちが努力を惜しみ制限してはならない戦いの対象として常にあり続けています。他方では、ミサの聖なるいけにえが私たちの霊魂の中にもたらしている大きな変化が、私たちの主だけがつくることのできる言い表せない平和を生み出しています。
事実、私たちの主を受け、主を通して生きる人は、他のすべての欲望を徐々に失っていきます。結局、その人は、自分自身のいのちを含めて、何かを失うことをもはや恐れないのです。その結果、その人の霊魂には、天主の聖なるご意志に一致しないものは残らないのです。
こうして、「古い人」と「新しい人」の間の戦いからやって来る平素の不安は、もはや聖なるミサとご聖体によって変えられた霊魂に触れることはありません。この霊魂は平和のうちに生きており、聖体拝領によって平和を与えられているのです。「私はあなたたちに平和を残し、私の平和を与える。私はこの世が与えるようにしてそれを与えるのではない」(ヨハネ14章27節)。
聖体拝領もまた私たちを変え、特に聖体拝領が私たちの主とともにつくり出すきずなによって、私たちを変えるのです。実際、すべての聖性と霊的ないのちは、主とのこの親密な一致に要約されます。この一致を目的としないものは全て、くだらない空しいおしゃべり以外の何物でもありません。
究極的には、これだけが主にとって重要なものであり、これこそ主がご自分の教会を創立なさった理由です。主は唯一のことを期待なさっています。それは、この一致が、永遠において完全にかつ不滅であることです。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私とともにいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。
ご聖体を通して、主はすでにこのきずなを開始しておられ、主は私たちに永遠のための準備をさせておられるのです。ご聖体は、永遠のいのちの保障であり、永遠のいのちがすでにここ地上で始まる手段です。必要な心構えをもってご聖体を受ける人は誰であれ、永遠のいのちの種が聖体拝領に隠されているということがよく分かるでしょう。私たちのうちに希望の徳を成長させるのは、聖体拝領なのです。一回一回の聖体拝領は、私たちのうちに永遠のいのちへの望みを増大させ、毎回少しずつ私たちを天国につなぎ止めてくれます。永遠とは、事実、決して終わることのない私たちの主との一致です。なぜなら、主は、最終的に永遠に至るまで、全面的かつ完全に私たちの霊魂を満たしてくださるからです。永遠とは、長くて終わりのない復活祭であり、そのとき主は、主が御復活の日になさったように、もう一度主の栄光を公に見せてくださるでしょう。そして、私たちを仲間として主の喜びと栄光を共にさせてくださるのです。それにもかかわらず、この私たちを仲間として主の喜びと栄光を共にさせてくださることは、今は隠されていても、私たちがご聖体に隠れておられるイエズス・キリストと一致することを通して始まるのです。
私たちは、このすべてによって生きなければなりません。私たちは、聖なるミサおよびご聖体へのこの愛を自分にしみ込ませなければなりません。私たちは、それを他人に、特に若者たちに伝えなければなりません。なぜなら、若者たちはしばしば、自分が私たちの主とこの世との間で恐るべき選択を迫られているのに気付いていますから。若者たちが年長者たちの中にご聖体への無条件の愛を見ることができるのならば、若者たちは私たちの主を選ぶように準備されるでしょう。ご聖体への愛は、神学の授業や教義を通してでは伝えることができません。そうではなく、そのような理想に全く夢中になった、まことのキリスト教生活によってのみ伝えられるのです。
ミサの聖なるいけにえは、多くの不信仰の人々が私たちを非難するような単なる典礼様式、私たちが愛着を持っている典礼様式をはるかに超えたものです。聖なるミサは私たちのいのちです。なぜなら、イエズスが私たちのいのちであるからです! 私たちは、すべてを求めて主を頼りにするのであって、主以外のものを頼りにすることは決してありません。ですから、私たちが主から期待するすべてのもの、それを、私たちはご聖体のうちに毎日確実に見いだしているのです。「いのちのパンとは私のことだ。私に来る者はもう飢えることがなく、私を信じる者はいつまでも渇きを知らぬだろう」(ヨハネ6章35節)
このようにして、私たちは、十字架の精神を維持するために、常に霊魂を若返らせなければなりません。十字架の精神は、同時に、償いと喜びの精神であり、苦業といのちの精神であり、この世を軽んじつつご聖体を愛する精神です。このようにして、私たちは復活祭の準備をしなければなりません。この復活祭を私たちは何週間後かにお祝いしますが、さらにまた何にもまして、私たちは永遠において復活祭をお祝いすることでしょう。
皆様に天主様の祝福がありますように!2020年3月1日、四旬節第一主日にメンツィンゲンにて聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父
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聖ピオ十世会だより「マニラのeそよ風」カトリック教会の聖ピオ十世会に所属しているトマス小野田圭志神父は、フィリピンのマニラの修道院から「マニラのeそよ風」をメールマガジンとして発信中です。主に、カトリック教会の伝統的な霊性、教義の説明をはじめ、キリスト教文化、芸術、グレゴリオ聖歌、音楽、建築の源であるラテン語の聖伝ミサについてのお話や、黙想のメッセージなどが紹介しています。
聖ピオ十世会だより「マニラのeそよ風」
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愛する信者、友人、恩人の皆様、
長い間、私は皆様にどれほどこの言葉をお送りしたかったことでしょうか。私たちは現在、二つの非常に重要な記念日の間におります。一つは、五十年前、新ミサが公布され、それとともに、キリスト教生活についての新しい考え方、いわゆる現代の挑戦に適用した考え方が、信者に押し付けられた記念日です。もう一つは、今年、私たちが聖ピオ十世司祭会の創立五十周年を祝っている記念日です。言うまでもなく、この二つの記念日は非常に密接な関係を持っています。なぜなら、一つ目の出来事に対して、それに釣り合う対応が必要となったからです。
私が皆様に申し上げたいのはこの点についてです。それは、今日の私たちにとって価値ある結論をいくつか引き出すためです。
しかし、まず第一に、私は時をもっとさかのぼりたいと思います。なぜなら、五十年前に公に明らかになったこの対立は、実際には、私たちの主イエズス・キリストの公生活のときに始まっていたからです。
実際、私たちの主が、ご受難の一年前、カファルナウムで主のみ言葉を聞いていた使徒たちと群衆に、ミサおよびご聖体という偉大なる賜物のことを最初に告知なさったとき、主から離れていった人々がいる一方で、その他の人々はさらに激しく主に愛着を見せるようになりました。これは確かに矛盾していますが、最初の「離教」を引き起こし、同時に使徒たちが私たちの主イエズス・キリストというお方に決定的に従属するのに拍車をかけたのは、ご聖体という考えそのものだったのです。
聖ヨハネは、次のように私たちの主のみ言葉とそれを聞いた人々の反応を報告しています。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る。生きてまします御父が私を遣わし、その御父によって私が生きているように、私を食べる者も私によって生きる。これは天から下ったパンである。先祖はマンナを食べても死んだが、このパンを食べる者は永遠に生きる。イエズスがこう教えられたのは、カファルナウムの会堂でのことだった。そのとき、弟子たちのほとんどがそれを聞いていて、『むずかしい話だ、そんな話に耳が貸せようか』と言った。・・・そのときから、弟子の多くは退いてイエズスについて来なくなった」(ヨハネ6章57-61、67節)。
続けて登場する三つの疑問に、一つずつ答えてみましょう。(1)なぜユダヤ人たちはつまずいたのでしょうか、また彼らはそれ以降、何を拒否したのでしょうか?(2)次に、現代のキリスト教徒は何を拒否しているのでしょうか?(3)私たちも、この同じ長年にわたる誤謬に陥らないためには、何をしなければならないでしょうか?
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福音が私たちに教えているのは、ユダヤ人たちは、どのようにして私たちの主がご自分の肉を食べさせるためにそれを彼らにお与えになることができるのかが理解できなかったためにつまずいた、ということです。主はこの困難に直面して、彼らに理性的にもっと分かりやすい説明をなさるのではなく、さらに強い調子で、数回にわたって、永遠のいのちを得るためには、ご自分の肉を食べ、ご自分の血を飲む必要があると再確認なさいました。実際、ユダヤ人たちが目撃したばかりの奇蹟(ヨハネ6章5-14節参照)があったにもかかわらず、彼らにかけていたものは、私たちの主によって指導を受けるのを許すための準備と確信でした。一言で言えば、天の御父が、霊魂を救いの神秘にお導きになるための信仰が彼らには欠けていたのです。「私を遣わし給うた父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな永遠のいのちを受けさせ、終わりの日に彼らを復活させることである」(ヨハネ6章40節)。そうすることによって、ユダヤ人たちは、一年後に決定的に拒絶することになるものをすでに拒絶していたのです。ユダヤ人たちは十字架のいけにえを拒絶することになるのですが、聖なるミサはこのいけにえの継続でありご聖体はその実なのです。前もって、ユダヤ人たちは、信仰の目がなければ理解できなくなる十字架の経綸を拒絶しました。ちょうどご聖体を告知した私たちの主のみ言葉が彼らをつまずかせたように、彼らにとって、十字架がつまずきとなることになるのです。ここで私たちには、同じ「つまずき」が二つ起こったことが分かります。実際、十字架を愛さないならば、ご聖体を愛することはできませんし、ご聖体を愛さないならば、十字架を愛することはできません。
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次に、現代のキリスト教徒は何を拒否しているのしょうか? 彼もまた、自分のための十字架の経綸を受け入れることを拒否しています。彼は、祭壇上で更新される私たちの主イエズス・キリストのいけにえと一体になる【訳者:自分の苦しみを逃げずに、キリストの十字架と合わせて受け入れて捧げること】ことも拒否しています。そうすることを見通すだけで、現代、再び彼をつまずかせています。彼は、天主が一体どうして、彼にそのようなことをお求めになりうるかを理解しません。なぜなら、父なる天主がどのようにして私たちの主に十字架上で死ぬことをお求めになることができたのかが、彼にはもはや理解することができないからです。
このようにして、キリスト教生活についての彼の考えは、回復できないほど変わっているのです。彼はもはや、キリストの苦しみの欠けたところ(コロサイ1章24節参照)を、自分の苦しみで満たすという考え方を受け入れることはできません。ですから、徐々に、十字架の精神はこの世の精神によって置き換えられているのです。
十字架の凱旋を見たいという深淵な望みは、もっと良いこの世を見たい、生態系を尊重し人間性をもっと尊重したもっと住みよい地球を見たいというあいまいな望みへと道を譲っています。しかしどのような目的に向かうのか、どのような手段によるのかを本当に知らないまま、です。ですから現代のキリスト者の特徴的なこの新しい見解には意味がなく、彼らを無関心へと導くとき、全教会、つまり位階階級と平信徒から成る全教会は、その存在理由を失ってしまい、深い危機へと入り込み、その時、この世における新たな使命を自らに与えようと必死に探し求めるのです。
なぜなら、十字架を通して十字架の凱旋だけを求めるという自分の使命を捨ててしまったからです。このキリスト教徒の生き方についての新しい概念および教会についての新しい考えにおいては、十字架自体がもはや居場所を持っていないがゆえに、ミサの聖なるいけにえも、もはやその居場所を持たなくなるのは避けられません。従って、永遠のいのちを得るために人間が食し飲まねばならないとされているイエズス・キリストの御体と御血は、新しい意味を持ちはじめてしまいます。
新ミサとは、新しい典礼様式だけのことではなく、十字架に対して不忠実であることの最後の表現です。私たちの主御自らがユダヤ人に説教なさったままの十字架、また使徒たちが初代教会に説教したままの十字架、この十字架に対する不忠実です。ここに、最近五十年の教会の歴史を解釈するのに鍵となるもの、二千年間にわたって教会を脅かしてきた大多数の誤謬の鍵となるものがあります。
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ですから、十字架の精神とご聖体に対する無条件の愛を維持するために、2020年に、私たちは何を行わなければならないでしょうか? 遅かれ早かれ、ユダヤ人をして私たちの主から離れさせたのと同じ試みが、何らかの形で私たちのところにやって来るでしょう。そのとき私たちの主は、主が使徒たちになさったのと同じ次の質問を私たちにお尋ねになるでしょう。「あなたたちも去っていきたいか?」(ヨハネ6章68節)。それゆえに、私たちは、聖ペトロとともに「主よ、誰のところに行きましょう。あなたは永遠のいのちの言葉を有しておられます。また私たちはあなたがキリスト、天主の御子であると信じていますし、知っています」(ヨハネ6章69-70節)と常にお答えする準備をいかにしてすることができるでしょうか?
この根本的な問いに対する答えは、ミサの聖なるいけにえにまことに参与することにあり、またご聖体を中心とする生活様式にあります。聖なるミサは、私たちが十字架の神秘に入り込むほどに、私たちの霊魂に新しいいのちをもたらし、いけにえに対する私たちの信仰を表現する典礼に参列することによってだけでなく、いけにえの中に私たち自身を入らせることによっても、その新しいいのちを私たちのものにしてくれます。それは、このいけにえが完全に私たちの主のいけにえにとどまりながらも、完全に私たちのいけにえとなるという方法によってです。
これを成し遂げるために、私たち自身を私たちの主にお捧げするために、何よりもまず、十字架の意味する結論すべてを含めて真剣に十字架を受け入れることが必要です。それは、すべてのものから自分自身を離脱させるか否かということです。この離脱は、私たちの主イエズス・キリストとともに、イエズス・キリストを通じて、まことにすべてをお捧げすることができるようにするためです。お捧げするものとは、私たちの自我、私たちの意志、私たちの心、私たちの願い、私たちの大望、私たちの愛情・・・一言で言えば、私たちが在る全てそのまま、私たちの持てる全てそのまま、私たちの失意さえもです。
こういった心構えが前もってあれば、御子がご自身を御父にお捧げになるとき、私たちもまた御子のうちにいるのです。なぜなら、十字架は私たちをして御子に一致させ、私たちの意志を御子のご意志と一つにさせるからです。このようにして、御子と共に、私たちは御父に対していつでも捧げられる準備が整っていることになるのです。もし私たちが主と一つになるように一致していないならば、私たちは本当に自分自身を御父にお捧げすることはできません。
私たち自身をお捧げすることが大いなる価値を得るのは、天主のいけにえとのこの一致を通してのみなのです。また、ミサの聖なるいけにえの間にのみ、そしてミサの聖なるいけにえを通してのみ、これは実現されうるのです。
私たち自身を捧げつくして初めて、この捧げが一つ一つのミサにおいて更新されて初めて、交換として、全てを受ける、つまり聖なるいけにえの実りであるご聖体を受けることができるのです。御聖体において御子はご自分をお捧げになり、また、私たちは御子とともに自分自身をお捧げするのです。ご聖体は私たちを清め、私たちにこの世への嫌悪を増大させ、私たちを聖化します。これは、この変容のための前提条件である徹底的な自己放棄に対して、私たちが抵抗しないならば、の話です。
これがミサの聖なるいけにえが何かであり、こういう訳で私たちはその価値を毎日再発見しなければならないのです。五十年後、私たちは、全時代の聖なるミサを通じて受けた、そして受け続けている恩寵のすばらしさをもっともっと再発見しなければなりません。
このことは矛盾しているように思えます。一方で、ミサの聖なるいけにえは、私たちにとって、私たちが努力を惜しみ制限してはならない戦いの対象として常にあり続けています。他方では、ミサの聖なるいけにえが私たちの霊魂の中にもたらしている大きな変化が、私たちの主だけがつくることのできる言い表せない平和を生み出しています。
事実、私たちの主を受け、主を通して生きる人は、他のすべての欲望を徐々に失っていきます。結局、その人は、自分自身のいのちを含めて、何かを失うことをもはや恐れないのです。その結果、その人の霊魂には、天主の聖なるご意志に一致しないものは残らないのです。
こうして、「古い人」と「新しい人」の間の戦いからやって来る平素の不安は、もはや聖なるミサとご聖体によって変えられた霊魂に触れることはありません。この霊魂は平和のうちに生きており、聖体拝領によって平和を与えられているのです。「私はあなたたちに平和を残し、私の平和を与える。私はこの世が与えるようにしてそれを与えるのではない」(ヨハネ14章27節)。
聖体拝領もまた私たちを変え、特に聖体拝領が私たちの主とともにつくり出すきずなによって、私たちを変えるのです。実際、すべての聖性と霊的ないのちは、主とのこの親密な一致に要約されます。この一致を目的としないものは全て、くだらない空しいおしゃべり以外の何物でもありません。
究極的には、これだけが主にとって重要なものであり、これこそ主がご自分の教会を創立なさった理由です。主は唯一のことを期待なさっています。それは、この一致が、永遠において完全にかつ不滅であることです。「父よ、あなたの与え給うた人々が、私のいる所に、私とともにいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた光栄を、彼らに見せるためであります。あなたは、世の始まるよりも前に、私を愛し給いました」(ヨハネ17章24節)。
ご聖体を通して、主はすでにこのきずなを開始しておられ、主は私たちに永遠のための準備をさせておられるのです。ご聖体は、永遠のいのちの保障であり、永遠のいのちがすでにここ地上で始まる手段です。必要な心構えをもってご聖体を受ける人は誰であれ、永遠のいのちの種が聖体拝領に隠されているということがよく分かるでしょう。私たちのうちに希望の徳を成長させるのは、聖体拝領なのです。一回一回の聖体拝領は、私たちのうちに永遠のいのちへの望みを増大させ、毎回少しずつ私たちを天国につなぎ止めてくれます。永遠とは、事実、決して終わることのない私たちの主との一致です。なぜなら、主は、最終的に永遠に至るまで、全面的かつ完全に私たちの霊魂を満たしてくださるからです。永遠とは、長くて終わりのない復活祭であり、そのとき主は、主が御復活の日になさったように、もう一度主の栄光を公に見せてくださるでしょう。そして、私たちを仲間として主の喜びと栄光を共にさせてくださるのです。それにもかかわらず、この私たちを仲間として主の喜びと栄光を共にさせてくださることは、今は隠されていても、私たちがご聖体に隠れておられるイエズス・キリストと一致することを通して始まるのです。
私たちは、このすべてによって生きなければなりません。私たちは、聖なるミサおよびご聖体へのこの愛を自分にしみ込ませなければなりません。私たちは、それを他人に、特に若者たちに伝えなければなりません。なぜなら、若者たちはしばしば、自分が私たちの主とこの世との間で恐るべき選択を迫られているのに気付いていますから。若者たちが年長者たちの中にご聖体への無条件の愛を見ることができるのならば、若者たちは私たちの主を選ぶように準備されるでしょう。ご聖体への愛は、神学の授業や教義を通してでは伝えることができません。そうではなく、そのような理想に全く夢中になった、まことのキリスト教生活によってのみ伝えられるのです。
ミサの聖なるいけにえは、多くの不信仰の人々が私たちを非難するような単なる典礼様式、私たちが愛着を持っている典礼様式をはるかに超えたものです。聖なるミサは私たちのいのちです。なぜなら、イエズスが私たちのいのちであるからです! 私たちは、すべてを求めて主を頼りにするのであって、主以外のものを頼りにすることは決してありません。ですから、私たちが主から期待するすべてのもの、それを、私たちはご聖体のうちに毎日確実に見いだしているのです。「いのちのパンとは私のことだ。私に来る者はもう飢えることがなく、私を信じる者はいつまでも渇きを知らぬだろう」(ヨハネ6章35節)
このようにして、私たちは、十字架の精神を維持するために、常に霊魂を若返らせなければなりません。十字架の精神は、同時に、償いと喜びの精神であり、苦業といのちの精神であり、この世を軽んじつつご聖体を愛する精神です。このようにして、私たちは復活祭の準備をしなければなりません。この復活祭を私たちは何週間後かにお祝いしますが、さらにまた何にもまして、私たちは永遠において復活祭をお祝いすることでしょう。
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聖ピオ十世会だより「マニラのeそよ風」カトリック教会の聖ピオ十世会に所属しているトマス小野田圭志神父は、フィリピンのマニラの修道院から「マニラのeそよ風」をメールマガジンとして発信中です。主に、カトリック教会の伝統的な霊性、教義の説明をはじめ、キリスト教文化、芸術、グレゴリオ聖歌、音楽、建築の源であるラテン語の聖伝ミサについてのお話や、黙想のメッセージなどが紹介しています。
聖ピオ十世会だより「マニラのeそよ風」