アヴェ・マリア・インマクラータ!
2020年3月21日(土)四旬節第3主日の後の土曜日のミサ聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2020年3月21日、四旬節第3主日の後の土曜日のミサを行なっております。
今日このミサの後の感謝の祈りの後に、コロナウィルスの疫病の一日も早い終息を願って、短い御聖体降福式を行ないたいと思っております。どうぞいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、
⑴ まず指定巡礼教会に霊的に行きましょう。
⑵次に旧約聖書から、ダニエルとスザンナの話これを黙想して、
⑶次に福音の女について黙想する事にします。
⑷そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴ 指定巡礼教会は、旧約聖書のスザンナと同じスザンナですけれども、これはローマの殉教者の聖スザンナから取られています。その祝日は8月11日です。
そしてこの聖スザンナは、教皇カリウスという方の姪御さんでした。とても高貴な生まれで、カトリックの熱心な信者で、美しい知性的な女性でした。
ところが、ローマ皇帝のディオクレチアヌスという、キリスト教を迫害する有名な皇帝がいたのですけれども、その息子ガリレウス・マキシムから求婚をされました。ところが聖スザンナは既に、「終生貞潔を守る」という誓願を立てていたので、「残念だけれども、結婚はできない」と、その申し込みを拒否しました。それに怒ったローマ皇帝によって聖スザンナは殉教しました。
今日その指定巡礼教会に、私たちは霊的に巡礼して、ミサをする事になっています。
⑵ 第2に、旧約のスザンナの話は有名です。
これは初代のカトリック信者はいつもこの事をよく知っていました。そしてカタコンベに行くと、スザンナと思われる祈りをする女性が、「オランテ」という、「祈りをする女性」という名前で、聖画がイコンに描かれています。
この旧約のこの話は、読めばすぐそのままですけれども、罪無く迫害を受け、罪無くユダヤ人あるいは異教徒たちから、ありもしない讒言、あるいは告発を受けて、迫害を受け、そして圧迫を受けていた、カトリック教会の象りでした。
「まさにこのスザンナのように、私たちは今圧迫を受けている。しかしイエズス様は、天主なるダニエルは、私たちカトリック教会を守って下さる。そして罪の無い霊魂たちを守って下さる」という強い信頼から、この聖スザンナがとても有名でした。
しかし、この旧約聖書のこの話だけを見ると、ここに、旧約時代の限界が見えてきます。旧約では、確かに罪の無い者を守る事はできたけれども、しかし罪を犯した者に対しては、死が待っていた。残酷な刑罰が待っていた。そしてそれへの恐れを以って、それを、罪を犯さないようにさせていた。
⑶ところが最後の第3の点、福音では、私たちの主のその愛と憐れみは、大きく表現されています。旧約ではできなかったその限界を、イエズス様は遙かに超えます。
「罪」に対しては、イエズス様がどれほどの事をするかという事は、ゲッセマニの園にてと、あるいは十字架の道行きと、この十字架に付けられたイエズス様を見れば分かります。罪に対する非常な憎しみと、そして罪の結果は恐るべきものである、という事を私たちに教えます。
しかしイエズス様は、愛と、憐みに満ちた愛に満ちて、「罪人」に対しては、それを赦そうとされます。ここに新約の、イエズス様の聖心の満ち溢れる愛が見えてきます。私たちもそれを垣間見る事ができます。
皆さんもご存知の通り、読めばすぐ分かる通り、幕屋祭の時に、ユダヤ人たちは現行犯で罪の女を逮捕してきました。おそらくこの女性は弱さから婚姻の約束を破って、罪を犯してしまいました。
そこでおそらく涙ながらに、ユダヤ人の前で連れて来られた時に、もうこのまま石殺しにされてしまう、死刑になるという事を覚悟していた事でしょう。涙を流しながらおそらく、痛悔の念と、自分の弱さを、至らなさを悔い、そして悲しんでいた事に違いありません。
そしてうなだれて、引きずられて来てユダヤ人たちに囲まれて来ると、ユダヤ人たちの心はイエズス様の目から見れば、この女性、弱さの為に罪を犯したこれよりも、更に邪悪だ、という事を知っていました。
この女性に対して全く関心が無く、ただ法律を守るという事にも実は関心がなく、実は律法を守る事に関心もなく、実はイエズス様を何とか告発したい、言葉尻を捉えて何か悪いところを見つけたい、それだけの為に、彼女は連れられて来たからです。
イエズス様はそのような人々を見て、その相手をしようとされなかったように思われます。地面に座って、何かを書いておられます、砂に。教父たちによると、「この告発をしてきた人々の犯した罪を、その心の中に隠れているその罪を、一つ一つ書いていた」と言われています。
そしてイエズス様は彼らに、「それでは、罪の無い者から最初に石を投げろ」と仰います。
そして、「ところで、この男は一体何を書いているのだろう?何をやってるんだろう?」と興味本意でこう見ると、自分がやった、あの日あの時のあの事を、よく書かれている、という事を見て、そして自分が石を投げる事ができない、「お前、これやっただろう」という事を、老人から一人一人、何も言わずに、「やばい。」
実はこの現行犯で捕まえられた女性よりも更に酷い事がある、という事を一人一人帰って行きます。
そしてしばらくすると、イエズス様は辺りを見回して、「誰もお前に石を投げないのか?そういう人はどこにいるのか?」と聞くと、「誰もいません。」
するとイエズス様は、もちろんイエズス様は、彼女を死罪にする事ができる裁判官でした。そして罪の無い御方でした。彼女に石を投げる事ができる、罪の無い方でした。
しかしイエズス様も仰います、「私も、お前を断罪しない。もう罪を犯すな」と、憐れみと愛に満ちて、彼女をそのまま家に帰らせます。
この女は今後一切、決して罪を犯さなかった事に違いありません。イエズス様のその憐れみにどれほど感謝した事でしょうか。
⑷ちょうど現代、コロナウィルスあるいはその他で、私たちは何か罰を受けようとしているようにも思われます。
しかし私たちは、イエズス様の御憐れみと、全能の力に信頼致しましょう。私たちを憐み、罪を赦して下さるイエズス様に、回心の実りを捧げる事に致しましょう。
イエズス様はそのような私たちを見て、「私ももう、お前たちを罰しない。もう、これで十分だ。コロナもこれで終息するだろう」と仰るに違いありません。そして、「もはやこれで罪を犯さずに、平和に生きるように」と仰るに違いありません。
マリア様に是非お祈り致しましょう。このイエズス様のその憐みに信頼して、罪の回心、罪を忌み憎む、そして罪を犯さない生活をする御恵みを、マリア様の御取り次ぎで受ける事ができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2020年3月21日(土)四旬節第3主日の後の土曜日のミサ聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2020年3月21日、四旬節第3主日の後の土曜日のミサを行なっております。
今日このミサの後の感謝の祈りの後に、コロナウィルスの疫病の一日も早い終息を願って、短い御聖体降福式を行ないたいと思っております。どうぞいらして下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、
⑴ まず指定巡礼教会に霊的に行きましょう。
⑵次に旧約聖書から、ダニエルとスザンナの話これを黙想して、
⑶次に福音の女について黙想する事にします。
⑷そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
⑴ 指定巡礼教会は、旧約聖書のスザンナと同じスザンナですけれども、これはローマの殉教者の聖スザンナから取られています。その祝日は8月11日です。
そしてこの聖スザンナは、教皇カリウスという方の姪御さんでした。とても高貴な生まれで、カトリックの熱心な信者で、美しい知性的な女性でした。
ところが、ローマ皇帝のディオクレチアヌスという、キリスト教を迫害する有名な皇帝がいたのですけれども、その息子ガリレウス・マキシムから求婚をされました。ところが聖スザンナは既に、「終生貞潔を守る」という誓願を立てていたので、「残念だけれども、結婚はできない」と、その申し込みを拒否しました。それに怒ったローマ皇帝によって聖スザンナは殉教しました。
今日その指定巡礼教会に、私たちは霊的に巡礼して、ミサをする事になっています。
⑵ 第2に、旧約のスザンナの話は有名です。
これは初代のカトリック信者はいつもこの事をよく知っていました。そしてカタコンベに行くと、スザンナと思われる祈りをする女性が、「オランテ」という、「祈りをする女性」という名前で、聖画がイコンに描かれています。
この旧約のこの話は、読めばすぐそのままですけれども、罪無く迫害を受け、罪無くユダヤ人あるいは異教徒たちから、ありもしない讒言、あるいは告発を受けて、迫害を受け、そして圧迫を受けていた、カトリック教会の象りでした。
「まさにこのスザンナのように、私たちは今圧迫を受けている。しかしイエズス様は、天主なるダニエルは、私たちカトリック教会を守って下さる。そして罪の無い霊魂たちを守って下さる」という強い信頼から、この聖スザンナがとても有名でした。
しかし、この旧約聖書のこの話だけを見ると、ここに、旧約時代の限界が見えてきます。旧約では、確かに罪の無い者を守る事はできたけれども、しかし罪を犯した者に対しては、死が待っていた。残酷な刑罰が待っていた。そしてそれへの恐れを以って、それを、罪を犯さないようにさせていた。
⑶ところが最後の第3の点、福音では、私たちの主のその愛と憐れみは、大きく表現されています。旧約ではできなかったその限界を、イエズス様は遙かに超えます。
「罪」に対しては、イエズス様がどれほどの事をするかという事は、ゲッセマニの園にてと、あるいは十字架の道行きと、この十字架に付けられたイエズス様を見れば分かります。罪に対する非常な憎しみと、そして罪の結果は恐るべきものである、という事を私たちに教えます。
しかしイエズス様は、愛と、憐みに満ちた愛に満ちて、「罪人」に対しては、それを赦そうとされます。ここに新約の、イエズス様の聖心の満ち溢れる愛が見えてきます。私たちもそれを垣間見る事ができます。
皆さんもご存知の通り、読めばすぐ分かる通り、幕屋祭の時に、ユダヤ人たちは現行犯で罪の女を逮捕してきました。おそらくこの女性は弱さから婚姻の約束を破って、罪を犯してしまいました。
そこでおそらく涙ながらに、ユダヤ人の前で連れて来られた時に、もうこのまま石殺しにされてしまう、死刑になるという事を覚悟していた事でしょう。涙を流しながらおそらく、痛悔の念と、自分の弱さを、至らなさを悔い、そして悲しんでいた事に違いありません。
そしてうなだれて、引きずられて来てユダヤ人たちに囲まれて来ると、ユダヤ人たちの心はイエズス様の目から見れば、この女性、弱さの為に罪を犯したこれよりも、更に邪悪だ、という事を知っていました。
この女性に対して全く関心が無く、ただ法律を守るという事にも実は関心がなく、実は律法を守る事に関心もなく、実はイエズス様を何とか告発したい、言葉尻を捉えて何か悪いところを見つけたい、それだけの為に、彼女は連れられて来たからです。
イエズス様はそのような人々を見て、その相手をしようとされなかったように思われます。地面に座って、何かを書いておられます、砂に。教父たちによると、「この告発をしてきた人々の犯した罪を、その心の中に隠れているその罪を、一つ一つ書いていた」と言われています。
そしてイエズス様は彼らに、「それでは、罪の無い者から最初に石を投げろ」と仰います。
そして、「ところで、この男は一体何を書いているのだろう?何をやってるんだろう?」と興味本意でこう見ると、自分がやった、あの日あの時のあの事を、よく書かれている、という事を見て、そして自分が石を投げる事ができない、「お前、これやっただろう」という事を、老人から一人一人、何も言わずに、「やばい。」
実はこの現行犯で捕まえられた女性よりも更に酷い事がある、という事を一人一人帰って行きます。
そしてしばらくすると、イエズス様は辺りを見回して、「誰もお前に石を投げないのか?そういう人はどこにいるのか?」と聞くと、「誰もいません。」
するとイエズス様は、もちろんイエズス様は、彼女を死罪にする事ができる裁判官でした。そして罪の無い御方でした。彼女に石を投げる事ができる、罪の無い方でした。
しかしイエズス様も仰います、「私も、お前を断罪しない。もう罪を犯すな」と、憐れみと愛に満ちて、彼女をそのまま家に帰らせます。
この女は今後一切、決して罪を犯さなかった事に違いありません。イエズス様のその憐れみにどれほど感謝した事でしょうか。
⑷ちょうど現代、コロナウィルスあるいはその他で、私たちは何か罰を受けようとしているようにも思われます。
しかし私たちは、イエズス様の御憐れみと、全能の力に信頼致しましょう。私たちを憐み、罪を赦して下さるイエズス様に、回心の実りを捧げる事に致しましょう。
イエズス様はそのような私たちを見て、「私ももう、お前たちを罰しない。もう、これで十分だ。コロナもこれで終息するだろう」と仰るに違いありません。そして、「もはやこれで罪を犯さずに、平和に生きるように」と仰るに違いありません。
マリア様に是非お祈り致しましょう。このイエズス様のその憐みに信頼して、罪の回心、罪を忌み憎む、そして罪を犯さない生活をする御恵みを、マリア様の御取り次ぎで受ける事ができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。