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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖木曜日のイエズス様の燃えるような思いは、御聖体の秘跡を世の終わりまで続けるカトリック司祭職制定だった

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2020年4月9日(木)聖木曜日 最後の晩餐のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

“Desiderio Desideravi”「私は、この過越を食べる事を、望みに望んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、イエズス様は、この地上での生活の最後の瞬間、御自分がお持ちになっている私たちに対する愛を、お見せになろうとされました。特に、御自分の司祭たちに持つ愛を、お見せになろうとしました。
「私が苦しむ前に、あなたと一緒に、この過越を食べる事を望みに望んだ」と言われます。
何回か弟子たちと過越を食べたはずですけれども、イエズス様が望んだのは、特にこの今晩の過越でした。一体なぜ?
なぜかというと、この夜こそ、「御聖体の秘跡」を制定しようと望まれたからです。御自分を全く完全に、私たち人間に与え尽くそうと思われます。しかも、パンと葡萄酒の外見のもとに、御自分を食べ物として、新約のマンナとして、私たちの霊魂を、御自分の肉体と尊き御血で養おうとする為に、今日この聖なる夜に、御聖体の秘跡を制定されました。
イエズス様の聖心の計り知れない、想像を超えるような、愚かなほどをも私たちを愛する愛。
今日この夜、最後の晩餐のミサで、これを見る事ができます。
しかし、イエズス様の聖心の望みはそれだけでは終わりませんでした。もっと夢がありました。
イエズス様の燃えるような熱い思いは、この御聖体の秘跡を世の終わりまで続ける、「司祭職」を制定する事でした。
自分の弟子たちを、永遠の聖なる新約の司祭職、天と地を繋げる橋として、天使たちの階級よりも更に高いものとして、御自分と全く似たものとする事を御望みになりました。
しかも、あたかもイエズス様が奴隷であるかのように、全くカトリックの司祭たちに依存して、服従して、司祭が望むままに、御自分が取り扱われる事さえも御望みになりました。
御自分を、この儚い人間の手に、司祭の聖別された手に、依存しようと思われました。
イエズス様はこの夜、御自分が、天主性と人間性が一致したこのヒュポスタシスにおける結合、この御恵みを、特別に愛された弟子たちに、カトリックの司祭に、この御恵みを分け与えようとされました。
そうです、今日、カトリックの司祭が、その叙階式が、初めて行なわれました。カトリック司祭職の誕生です。
四旬節の黙想のクライマックスに入ります。イエズス様の私たちに対する永遠の愛、特に選ばれた司祭たちに対する愛が、ここに滲み出ます。イエズス様は言われます、「もう、お前たちをしもべとは言わない。友と呼ぶ」と。
イエズス様のこの聖心の愛、この中に深く入りましょう。
「私はこのパスカを、この過越を、お前たちと食べる事を望みに望んだ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






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