アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
こんにちは!
ミサに与りたいけれども、どうしてもコロナウイルスの為に与ることができず、辛い思いをしている方が、次の小冊子を書き写して下さいました。
愛する兄弟姉妹にも御紹介いたします。
『選ばれた人々に』シスター・ジョゼファ・メネンデス“愛の招き”の抜き書き
「人々がわたしの仁慈に信頼し、わたしの愛隣にすべてを期待しわたしがゆるしたいと待っていることを、決して疑わないように」(シスター・ヨゼファへのみ主のみことば)
この小書にあるみことばは、聖心会のシスター・ヨゼファ・メネンデスに、み主が託せられたメッセージから、抜粋したものである。
み主の「愛の使徒」として選まれたこのシスターは、スペイン人であるが、故国を去って、フランスのポアチエにあったファインの聖心会修道院で、沈黙のうちに隠れた生活をおくった。イエズスは、愛に燃ゆるみ心をシスターに啓示され、その秘密を語られた。贖罪事業にあずからせるため、お望みのままにシスターをあしらわれた。またその念願を、シスターに打ち明けられて、世に伝えるよう頼まれた。
この小書の目的はそのお望みに応じて、み主から特に、選ばれ、身を奉献した多くの人々にそのメッセージを伝え広めるためである。
その人々がこのメッセージを受けて読み、日々の光と力を見いだし、み主の愛のご事業の協力者となり、全世界を燃やさんと来たりたもうたみ主の愛の炎を、燃やすまきとならんことを! そのお望みに従って、心の愛の連鎖を、つまり、愛の火に燃え、み主に信頼し、すべてを、み心に期待して、全世界を愛の火に燃やさんことを!
*******
私は愛である。わたしのみ心はやきつくすばかりの炎を、もはや包み隠しておくことはできない。わたしは人々を愛するあまり命さえも犠牲にした。その愛のために、パンの形式のもとに、小さいオスチアの中に、昼夜かくれて、忘恩も孤独も、あざけりも、冒涜も、はずかしめも、無礼も、愛によって堪え忍びながら、二十世紀にわたって住んでいる。
人々を愛するあまり、告解の秘跡を定めた。一度ならず、二度ならず、幾たびでも恩恵を取りもどしたいと望むたびごとに、ゆるしを与えてあげる。わたしはその人々の罪の汚れを水で洗うのではなく、わたし自身の血で清めたいと待っている。
人類に対する愛をいつの時代にも、いろいろの方法で知らせた。救霊の望みがどれほどわたしのみ心をもやしつくすかを示した。わたしの聖心を現わした。このみ心への信心は全世界を照らす光となって、今日それは人々の心を感激させ、み国の来たらんことのために働く人を助けている。
しかし今わたしが願うことがもう一つある。愛に報ゆるに愛をもってすることを求めるばかりでなく、皆がわたしの慈悲深いことを信じ、わたしの愛隣に全く期待し、罪のゆるしを少しも、疑わないことをせつに望む。
わたしは天主であるが、愛の天主で、また父である。しかもやさしく愛する父で、きびしい者ではない。わたしのみ心は無限にとうといが、またさといから、人間の弱さやみじめさをよく知っていて、罪人には無限の愛隣をたれる。へりくだって、ゆるしを求める罪人を、わたしは愛するばかりでなく、二度目の罪でも、またたとえ同じ罪を千たび、万たび繰り返して犯したとしても、ほんとに泣き悔やむ者を、ゆるし、愛して、最初の時と同じように、わたしの血でぬぐってあげる。
わたしは救霊の仕事にうむことはない。わたしのみ心にのがれてくる者を、よろこんで待っている。それがみじめな者であればあるほどなおさらに! 父はじょうぶな子よりも病気の子のめんどうをみる。病人こそ注意深く看護する必要がある。病める子に対しては心配も多く、やさしくするように、わたしも罪人に対しては義人よりも、あわれみも深く、なおやさしくする。
わたしが皆に語りたいのは次のことである。み心の愛隣は限りないことを罪人によく知らせてほしい。わたしのみ心は無関心な、冷たい心を燃やす火である。そのような人々をもわたしは心から愛している。
信心深い者にとってわたしのみ心は、完徳への道、天国に行くたしかな道である。
最初に、わたしに奉献された、司祭、修道者、その人々はわたしから特別に選まれたので、その人々に、わたしが愛を求め、わたしの愛を疑わず、深い信頼をもって、わたしの仁慈を決して忘れないようにと願う。
わたしのみ心にすべてを期待することは、ごくやさしい! わたしの事業が、無であり、みじめさそのものの上に築かれ、永遠より人々を救うためにとそなえられた愛の鎖の最初の輪となることを知らせよう。
またわたしのみ心がどこまで人々を愛するか、ゆるすかを知らせよう。わたしは霊魂の奥底までもみぬくから、わたしをよろこばせたい、慰めたい、わたしに光栄を帰したいと、望むことをよく知っている。……そのうえ、おのれのあまりにも不忠実なのをみて、心からへり下るようになることこそ、かえってわたしを慰め、わたしの光栄となる。
彼らの弱さなどかまわない。……わたしが足りないところを補おう。失われてゆく多くの霊魂を救うために、わたしのみ心は、その弱ささえも利用する。
罪に倒れた者に対して、わたしの愛と慈悲には限りがない。わたしはゆるしたい。……わたしはゆるしてこそ、心を安んずるのである。わたしに来る者をいつも愛をもって待っている。……勇気を落としてはならない。おいで! わたしの愛のかいなに身をなげよ! なにも恐れることはない。わたしはおまえの父である。
天主を全く知らないで、深いやみの中に沈んでいる霊魂や、真の生命を与えてやりたいと、わたしがどんなに望んでいるかも、全く知らない人々を、わたしのみ心に引きよせるため、たくさんのことをすることができるのを、理解しない者が多い。修道者たちの中にも。だからヨゼファ、わたしはおまえに愛の秘訣を教えてあげよう。そうしておまえ自身が、わたしの愛隣の生きた一例となる。みじめさ、無にすぎないおおまえを、こうもわたしが寵愛するならば、おまえより、はるかに寛大な霊魂を、どうしてわたしが愛さずにいられよう!
わたしのみ心の中におはいり! 無にとって愛のふちに、身を沈めるほどやさしいことはない! そうしてわたしはおまえの、弱さ、欠点をだんだんに焼きつくそう。わたしがおまえの中に働き、おまえを通じて語り、おまえによって、わたしのことを知らせよう。
わたしのことばをきいて、多くの人々が生命を見いださんことを! もしわずかな奮発心、忍耐、清貧の行いなどが、わたしのみ心に多くの霊魂を贖う宝となることを知れば、どれほど多くの人々が勇気を得るだろう。わたしは行為をみないで動機をみる。愛をもってする最小の行為もたくさんの功徳をたて、わたしにたくさんの慰めを与える! わたしのみ心はそのようなごくわずかな行いにも、無限の価値を与える。わたしがほしいのは愛で、愛だけを捜し、愛のほかは求めない。 *******
わたしが要求するすべてを物惜しみなく与えてくれる霊魂は自分のためにも他人のためにもたくさんの功徳をつみ、多くの人々を滅びの道から奪い取る。
わたしのみ心が選んだ人々はその犠牲と愛とでわたしの恵みを世にふりそそぐ役目を持っている。世俗には危険がいっぱいだ。あわれな罪人は絶えず悪にいざなわれるから、見える助け、見えない助けが必要だ。
わたしの選んだ人々が物惜しみをすればどんな宝を失い、また人にも失わせるか、よくわかっているだろうか? わたしはもう一度強調したいのだ。
わたしに選ばれたのだから当然欠点や弱さがなくなるはずだなどと思ってはならない。その人々も一度ならず罪を犯すであろう。しかしへり下って自分のつたなさを認め、その罪を、物惜しみない愛の小さな行いで償おうと努力し、再びわたしのみ心に信頼するならば、わたしのみ心は大いなる光栄を得、罪を犯さなかったよりも、もっと他人を助けることができるのだ。いくじなさや、みじめさはたいした問題ではない。わたしが人々に求めるのは愛だ。
そのみじめさにもかかわらず、わたしは気も狂うほどに愛することができる。しかしここでわたしがいう罪は不注意や弱さからくる過失のことで、あらかじめ知って承諾した罪のことをいうのではない。ほんとうにわたしが人々から愛されるようにと願う心をいつももって、不完全な者ながら身をささげ、選ばれた人々が普通の行ないと日常の努力とによって、どんな美しい使命を果たすことができるかがわかるよう。ほかの人々よりも特に愛されたのは、徳が高いからではなく、みじめな者であるからだということを、決して忘れてはいけない。わたしは愛そのもので、わたしの心にもえるその愛は、すべての欠点を焼いてしまう。またおまえにわたしのみ心の秘密を語ろう……わたしがいつも知らせたいと、あせっているのは、皆がわたしのみ心をもっともっと知るということなのである。
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日々の生活をわたしの生活と絶えず一致させることを知る者は、わたしの光栄となり、救霊のために偉大な働きをする。たとえばそれ自身なんの価値もないことをしたとしても、それをわたしの血に浸し、またわたし自身が地上で行ったわざに合わせれば、救霊のためにどれほどのみのりをもたらすかわからない! それは全世界をめぐって説教する以上の収穫となる。学ぶにせよ、話すにせよ、書くにせよ、又は針仕事をしても、掃除をしても、休息するにしても同じ効果がある。それらのわざが命ぜられたことであるとか、義務であるとかであって、ただ気ままにするのでないならば。次にわたしの血に浸して、清い意向をもって、わたしと緊密に一致して行うならば、どんなわざでも偉大な価値あるものとなる。
この事実を多くの者が理解するようにせつに望む。行為それ自身になにか価値があるのではなく、それを行なう動機とわたしとの一致がたいせつなのである。わたしがナザレットの仕事場で掃除をしたり働いたりした時、のちに公生活ちゅうに説教したと同じように天の御父に光栄を帰し奉ったのである。
世間に出てりっぱな仕事をして需要な地位についている人々が、わたしのみ心に大いなる光栄を与えていることも事実であるが、卑しい働きに世の目から隠れた、多くの人々もわたしのぶどう畑にまことに有用な働き手である。彼らこそ愛に動かされて働き、その最小の行為さえもわたしの血を浴びて、超自然的黄金とかえることを知っているからである。
朝まだきよりわたしと深く一致してその一日をわたしが人々の救霊に役立てるようにと懇願し、愛をもって、その義務を一瞬一瞬果たすならば、一日にどれほどの宝を積むことができるであろう!
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わたしの愛をもっともっと彼らに現わそう。わたしの愛は、つきることなく、愛する者にとって、愛に導かれるままにするほど容易なことはない。
わたしのみ心は愛のみで、その愛はすべての人々を抱く、そうして特に選んだ人々をどれほど愛し、また世の危険にさらされている霊魂や、多くの罪人を救うために、どのように手伝ってもらいたいかをわからせることができるであろうか?
そのためにわたしがどんなに、彼らが完徳に進むことであるかを渇望しているかを、またこの完徳とは日常の平凡な行ないをわたしと親しく一致してすることであることを告げたい。もしこれをよく悟るならば、その全行為を聖化することができる。聖化された一日の価値は、いかばかりであろう!
人々が愛したいという望みにかられる時は、なにごとも困難ではない。しかし心がつめたく気力がないとすべてが苦しくつらくなる。……その時こそわたしのみ心へきて、勇気をとりもどすがよい。わたしにその無気力をささげよ! わたしを燃やす愛の熱に心を合わせて安心するがよい。その一日は人々の救霊のため計りがたいとうといものとなる。わたしのみ心は人々のすべてのみじめさを知りいつも深く同情している。わたしは人々がただばく然とわたしと心を合わせるばかりでなく、お互いに相愛しあって、いっしょに暮している人々のような、絶え間ない親しみを望んでいる。そのふたりは絶えず話し合っているわけではないが、少なくとも、お互いにいっしょにいて、愛し合い、こまやかな注意、愛情を傾けつくす。
心が平和で、慰めのなかにある時、わたしのことを考えるのは容易である。しかし無味乾燥となり、苦悩におちいる時も、恐れないで、ただわたしを仰ぎみるがよい。わたしはよくわかっている。その一瞥はわたしのみ心のいともやさしい同情をひきつける。
わたしは繰り返して、いかに人々を愛するかを告げよう。わたしは彼らがわたしをよく知りぬいて、わたしが託する霊魂に、わたしのことを教えてほしい。いつでもわたしを仰ぎみて、目をそらさないように。なまぬるい心の人があるのは、わたしの愛について誤った考え方をしているからである。そんな心のないように。わたしのみ心を愛することはむずかしくもつらいことでもなく、かえってやさしい心地よいことである。愛の高い峯に達するには別段特殊なことをする必要はない。ただ行為の大小を問わず、清い志を持ち、わたしのみ心と親しく一致しながらすれば、愛が他のすべてのことを補う。
ほんとにわたしこそ霊魂をやさしく愛するイエズスなのだ。人々を呼び、保護し、世話するこのみ心を見よ。人々から愛されることを、特に私が選んだ者たちから、愛されたいとの念願に燃えるみ心を見よ!
わたしのみ心は単に愛の深淵であるばかりでなくさらに慈悲の深淵である。天主からいとも愛される霊魂さえも、人間のみじめさをもっていることを知って、わたしは彼らがいかほどささいな行為でも世の救済のため、わたしによって無限の価値を帯びるようにと望んでいる。だれもかれもが皆説教をすることができない。また遠く未開地へ福音をのべ伝えることもできないが、皆ほんとにだれでもわたしのみ心を知らせ愛させることができる。……だれでも互いに助けあいながら選ばれる人々の数をふやすことができる。つまり多くの霊魂が失われることを防ぐことができる。そうしてこれはわたしのみ心の愛と仁慈の結果だからである。もし惜しみなく私の求めるすべてを与えるならば、自分と他人のためにばくだいな宝を積み、多くの者を滅びの底からとりもどすことになる。わたしが選んだ人々に、わたしの愛はもっと多く行うことができることを語ろう。
人々は日常生活のわずかな行ないを利用することができるばかりでなく、救霊のために、みじめさ、過失、罪さえも役だてることができる。ほんとに愛はすべてを変化し、聖化し、あわれみはすべてをゆるす。彼らに対するわたしの愛は、もっと深い。いかにささいな行為にも、聖なる価値を与えて日常生活を生かして行くばかりでなく、そのみじめさ、弱さ、過失さえも、世の救いのためにわたしは利用したいと思う。つまり自分がみじめさに満たされていることを知っている霊魂はどんな善をも自分のてがらとしないで、かえってその不完全さを見いだすことによって、いっそう謙虚な気持ちを抱くようになる。
またその使徒的働きや職務についても、おのが無能をはっきり感じ、人々を自分がまだ達しえない道にまで、助けなければならぬことを心苦しく思い、自然とへり下るようになる。そうしてもしこの弱さを、謙そんに自覚して、わたしのもとにかけより、努力の足りないことをわび、力と勇気をわたしの聖心に願うならばどんなに深く愛のまなこをそそぎ、またどんなに、わたしが、その働きを有効なものにするか、計り知れないほどである。ある者は毎日の努力や犠牲を一瞬ごとに、心惜しみなくささげることを知らない。その一生は約束ばかりでなにも実行せずに過ぎてしまうものが多い。しかしここに差別がある。もしこの種の人々が、約束することが一つの習慣となってしまい、実行するために少しの無理も押し通さず、愛を表わすために何もしないなら、わたしは次のことばをいうほかはない。「おまえがその穀物倉に積み重ねた藁(わら)に火がつかないように注意せよ。また風が一瞬にして吹き飛ばしてしまわぬよう警戒せよ」と。しかしわたしがここでいうのは他の種類の人々で、どうかしてその愛を表わそうと善意をもってせつに望みながらその日を始める、そうして「この機会には自分を忘れて、物惜しみなくいたしましょう。こんな場合には」と約束する。しかしその折りがくると、もちまえの性質や、自愛心、また心持ちの悪さとか、何かに負けてしまい、数時間前にあんなに心から約束したことを、実行できなくなる。しかし心をとり直してへり下ってその弱さを認め、ゆるしをこう。そうしてふたたびわたしのみ心に信頼し、より頼んで決心を新たにし。愛や寛大な行ないをもって、償おうと努力する。この霊魂は、あやまちを犯さなかった者より私に光栄を帰するであろう。
註(み主はこれによって、承諾したり、又は直そうと努力しない習慣的となった過失と、人間的弱さからでるもの、また償った過失とを明らかに区別された。心のこもった償いは弱さから起こる過失のないことよりも、み心を慰めることを、説明された。実際償いが含む謙そん、信頼、寛大は、弱さから犯す過失の中にはないほどのはっきりした意志がなければ果たせない。)
わたしはゆるしたい。わたしは人々を治め、王となって、世界のはてまで、平和をひろめたい。わたしは英知であり、幸福そのものである。わたしは愛であり仁慈である。わたしは平和そのもので、世を統治しよう。人々の忘恩をぬぐい去るためのめぐみの雨をふりそそごう。その罪悪を償い、ゆるしを求めるいけにえを選ぼう。ほんとにわたしをよろこばせたいと願う人が世の中にもたくさんいる。また持てるすべてをささげて、わたしの欲するように、望むままに役立ちたいと、願う寛大な心の人がいる。わたしは愛と平和のうちに治めよう。まず皆の上に慈悲をたれることから始めよう。これこそわたしの目標で、これが愛の大事業である。わたしは万民によびかける。身を奉献した者にも、世俗に住む人々にも、義人にも罪人にも、学問のある人にも、無学な人にも、命ずる者にも、従う者にも。めいめいにわたしは告げに来た。……もし富を望むならば、わたしこそ無限の富だ。もし平和を欲するならばわたしのうちにのみ平和を見いだす。もし幸福を追うならば、わたしのうちに見つけることができる。わたしは慈悲であり、愛である! そうしてわたしのみが最上の王である。
わたしがせつに願うことは人々の心を愛の火でもやすことで……全世界の人々を……悲しいことには皆がこの炎に背を向ける、だがわたしは勝って、皆わたしの民となり、わたしは王となる。世の人々がわたしを知り、わたしのもとに来るよう、いっしょに苦しんでおくれ、苦しみによって愛は勝利をうる。真の光が人々の心にさし込むようにと願うわたしを知らずに、霊魂のとうとさに無知無関心のまま成長する無邪気な子供たちの心をかち得たいし、ほんとにわたしの喜びであるこれらの小さい心がわたしを知り、おきてを守り、わたしのみ心の愛を学ぶ園が欲しい。わたしは愛の力で人々の心を征服したい。よき道徳心を目ざまし、人々が地上のためのみでなく、天に心をあげ、そこへ向かって生きて行くようにと望むのである。これは人間社会の進歩を妨げるどころか、かえってわたしは人々がその知恵や、才能や、力を利用することをせつに望むが、人間的知識の上に天主に対する知識を加えて、地上の幸福を求めながらも何が人を真に偉大にし、幸福にするかを悟ってもらいたいのである。わたしはおまえたちをこの愛の事業の助け手として選んだ。わたしの念願はおまえたちが、わたしが全世界に燃えひろめようとする愛の火のまきとなるということである。火をつけても燃やすものなしでは炎も役にたたない……それゆえわたしは次から次へと炎をうつす愛の連鎖をつくりたい。わたしのみ心に信頼しすべてを期待する愛、その炎にもえて全世界の果てまで燃やしつくすため。
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十字架以外のことを語ろうとはしない。十字架をもってわたしは世を救った。今わたしはまた十字架によって世を、信仰と愛の道に連れもどそう。おまえたちにわたしの念願を打ち明けよう。わたしが十字架の上から世を救ったというのは苦しみによってということである。罪は天主に対する無限の侮辱で、無限の償いを要求する。だからわたしはおまえたちが忍ぶ苦しみや働きをわたしのみ心の無限の功徳に合わせてささげるようにと願うのである。わたしのみ心はおまえのものであるからそれを取って償いとし、ささげるがよい。おまえたちに近づく人々に愛と信頼の念をふき込み、わたしの愛のうちに彼らを浸すよう、み心の仁慈、愛隣への信頼に浸すよう。わたしのことを語り知らせる機会があるたびに、いつもわたしは愛の天主で、なにも恐れることはないと告げておくれ。わたしは三つのことをおまえたちに特にすすめる。聖時間の信心。それは御子イエズス・キリストの仲介によって無限の償いを御父にささげることのできる一つの方法である。五つの傷をあがめて五たび主祷文を唱える信心、このおん傷を通じて世は救われた。最後にみ心の功徳への絶えざる一致、こうしてこそすべての行ないに無限の価値が与えられる。わたしの生涯、わたしの血、わたしの聖心を絶えず利用すること……恐れず、うまずわたしのみ心に信頼すること。この秘訣を多くの者が十分に理解しない。お前たちこそこれを知って利用するように。
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わたしの愛が太陽のように人々を照らし、暖めるようにと願う。わたしのことばが皆に知れわたり、わたしは愛の天主で、慈悲深くゆるすことを願っていることを知ってほしい。一番みじめな者も恐れず近づき、わたしがどんなにゆるしたいと望んでいるかを全世界の人々に知ってもらいたい。もっとも罪深い者もわたしから遠ざからないで、皆がわたしに来るように、わたしは父のごとく両手を広げ、生命と真の幸福を与えようと待っている。
世の人々にわたしの仁慈を知らせるため、わたしのみ心を開いて、教える使徒が欲しい。が、まずわたしのことを、よく知らなければ、どうして他人に知らせることができよう。だからここ二、三日の間わたしは司祭、修道者、修道女たちに語ろう。みんながはっきりとわたしが欲することを悟るように。ささげられた霊魂たちが愛に団結して一つとなり世の果てまで、わたしの愛と仁慈をのべ伝えてほしい。世の人々は罪に走ってゆく。ゆえに信者やことに選まれた人々は償いの必要と望みに目ざめて、ますます償うように。ほんとに今世界の国々は天主の正義の御怒りを招いているが、愛のみ国の来たらんことを望みたもう主は、選まれた人々、ことにこの国の人々によびかけたもう。まずゆるしをこい、償いを求め、この民の上に新しいめぐみを降ろしたもうようにと。(この国とはフランスの意)わたしのみ心を知り、その信心を広めたのはまずこのフランスであった。
わたしは世の救いを求める。平和と一致の御代が来ることを。わたしは世を治めることをせつに望むが、それは選まれた人々の償いとわたしの愛と仁慈を皆が更に悟ってこそ、治めるようになる。
わたしのことばは数知れぬ人々に光と命を与えるであろう。すべて印刷され、読まれ、ひろめられる。わたしは人々の心を照らし聖化する特別の恩寵を与えよう。
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今日はまたわたしに身を奉献した者に語りたい。罪人と世の人々にわたしのことを知らせることができるように。
まだ奉献した人々のうちにさえ、わたしの心情を深く、くむことを知らない者がいる。わたしをあたかも、どこか遠くに住む者、よく知らない人、あまり信頼できない人のように取り扱う。わたしはその人々が信仰をあつくし愛をかきたて、愛し、また愛される御者と、親しく、信頼して暮らすよう、願うのである。
普通家庭では、総領の子が一番よく父の心持ち、秘密などを知っている。父もまた彼に全く信頼する。年下の子は、まだ重大な事柄について、心をくばることもできないし、ものごとの深いことはわからない。もし父親が死ねば、その意志、望みなどを兄弟に伝えるのは、兄の務めである。わたしの教会にも年長者がいる。それはわたしが特に選んだ人々である。司祭職や修道誓願によって奉献された者は、わたしと一番親しく暮らし、特別の恩寵をこうむり、わたしもまた秘密を打ち明ける。彼らの弟、妹であるわたしの子供たちを直接、間接に教え導き、わたしの望みを伝えるのも彼らであり、その義務なのである。
これらの選まれた人々が、まことにわたしを知るならば、他の人々にわたしを知らせることができる。知らなければどうして教えることができよう。ひとつたずねるが,あまりよく知らない人を愛することができるであろうか? 縁遠い者、信頼のおけぬ人のことを真の親しみをもって語ることができるであろうか? わたしはもっと親しくとりなしてもらいたい。霊魂が恩恵に浴していれば聖霊の神殿であることを知って、わたしを心の中に求めてほしい。心の中にほんとにわたしがいることを考えてもらいたい。天主、しかも愛の天主が。愛が恐れに打ち勝ち、ことにわたしが愛していることを決して忘れないように。多くの者は特別愛されて、選ばれたことをよく承知しているが自分のみじめさ、過失に悲しみ沈んで、前のようには愛されないなどという考えに捕われてしまう。この人々はわたしをよく知らないから、そんなことを思うのだ。わたしのみ心がなんであるかを了解しない。そのみじめさ過失こそ、わたしの慈悲をよびくだすのではないか。おのが弱さを認める時にこそ、へり下り、信頼をもって、わたしにくることができる。その時こそ過失を犯した前よりも、もっとわたしに光栄を帰することになる。
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自分のため他人のために祈る時も、きき入れられないかと、疑ったりすれば、同じように、わたしのみ心を尊敬することにならない。百夫長が、わたしのもとにきて、召使いの病気をなおしてくださいと願った時、彼は謙そんしていった。「主よ、われは主がわが家に入りたもうにはふさわしきものにはあらず」と。しかし信仰と信頼にみちたことばをつけ加えた。「されど主よ、ただひと言をだにのたまわば、わがしもべはいえん」と。この人はわたしをよく知っていた。わたしに期待する者の懇願を、拒みがたいことを知っていた。謙そんに加えて、堅い全き信頼があったから、わたしのみ心にたいへん光栄を帰した。ほんとにこの人はわたしのみ心を知りぬいていた。でもわたしは選まれた人々にしたように、彼にわたしを示したわけではなかった。
信頼こそ、つきぬ恩寵を、自分のためにも他人のためにもうるのである。心の底まで、わたしみ心を了解して、わたしをまだ知らないあわれな人々にその仁慈を示しておくれ。
わたしはふたたび繰り返す。今語ることはなにも新しいことではないが、ちょうど火を燃やし続けるためにまきが必要であるように霊魂も進歩し、新たに鼓舞するためには、新しい刺激がいる。わたしに身をささげた人々の中にも真の信頼を持っている者が少ない。それはわたしと緊密に一致して、暮らさないからである。わたしはあるがままの姿で皆を愛していることを知ってもらいたい。弱いから一度ならずつまずくであろう。たびたび約束したことを守らないであろう。でも更によくしようとの善意はわたしの光栄となる。またころんだのちに、へり下りわたしに信頼をおくこともわたしをたたえることとなるので、わたしのみ心は、その人々の上にめぐみの雨をふりそそぐのである。
どれほど、わたしは皆が、この親しい生活を更に新しい気持ちで始めたいと望んでいるかを知ってもらいたい。ただ祭壇のもとにある時ばかり、わたしと語ることに満足しないで、わたしはほんとに聖櫃の中にいるが、また彼らのうちにも生きているから。すべてのことをいっしょにしなければ気がすまない。なにごともわたしに語り、相談し、なんでもわたしに願うように。……わたしは彼らのうちの生命となって生き、力となって住んでいる。その心の中で親しく会合し、談話し、愛し、わたしの愛に答えるのを待っている。
多くの者が毎日黙想をするが、それは愛の密談よりも、一つの形式的なことにすぎないのではなかろうか? ミサにもあずかり聖体も受けるけれども、ひとたび聖堂から出ると、自分の仕事に夢中になって、ひと言もわたしに呼びかけようと思いもしないのではなかろうか? この人々の心の中で、わたしはさばくに住んでいる心地だ。わたしになにもいわず、なにも願わない……慰められたいと思う時、彼らの中にいる間近かの創造主であるわたしをさしおいて、被造物の他人に走ってゆく。これは一致も内的生活もないので、つまり愛のないことではなかろうか。
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再びわたしに身をささげた人々に言おう。どんなに特別にわたしが彼らを選び、わたしと親しく暮らし、わたしの心を痛めるすべての人に代わって、わたしを慰め、償ってもらうためであるか。その人々にわたしは、み心をよく学び、その心情をくみ、その念願をできる限り実現するつとめがあることを思い出させたい。
農夫は自分の畑を耕す時には、まず雑草をぬき、よい畑となるよう、どんな困難辛苦もいとわない。同じように選ばれた人々はわたしの念願を知った以上、熱心にこれをかなえるよう励み、わたしの光栄を増し、世の罪を償うため、どんな努力も苦しみも、いとわないように。ことにわたしと親しく一致して、わたしをひとりぼっちにしないこと、ああわたしをひとりしないこと! ……ある人々はこれを了解しないで、相手となって、わたしを慰めるはずであることを忘れている。……最後にわたしのみ心の中に一つとなって、すべての人が、真理の光に浴し、罪のゆるしをうるために、愛の連盟をつくるようにと願う。
わたしが受ける屈辱を見て、悲しみに貫かれれば、選ばれた者たちは、身をささげて、これを償い、わたしの事業のために働くにちがいない。その時こそ全き信頼を持って願え。わたしはその願いをしりぞけることはできず、すべてかなえてあげる。
ゆえに皆がわたしのみ心を学ぶように努力し、わたしを深く愛し、親しくわたしに語り、相談するように。またその行為をわたしの功徳でおおい、わたしの血に浸し、その一生を人々の救済と、わたしの光栄のためにささげるよう。自分の小さな考えに、ちぢこまってしまわないで、わたしの血、わたしの功徳の力強さを身にまとうことのできる喜びに満ちて、おのが力ではなにも大きいことはできないが、わたしといっしょに、わたしの名によって、わたしの光栄のために働くならば、どんなに力強いことであろう。
奉献された者たちは、償いの望みをいきいきとさせ、信頼をもって聖なる王の御代の来ることを願え。わたしが全世界の王となるよう。なにも恐れず、わたしに信頼し、わたしに期待せよ。罪人の改心の熱愛にもえ、彼らに同情して祈り、やさしさを尽くすよう。いかにわたしが同情深く、愛であり、仁慈であるかを世の人々に語るように。
祈りと苦業に身をかため、ことに信頼をあつくして、おのが力にたよらず、常にともにいるわたしのみ心の力と仁慈にすべてを期待して、使徒的働きに向かうよう。わたしの使徒たちは貧しい。無知な者であったが、天主の富と英知に満たされて賢い者となり、「み主のみ名によりて、働くゆえに、なにごともできるようになるでしょう」と。わたしは身を奉献した者から三つのことを願う。……
償い ― 償いは聖なる贖主と親しく一致して生活することで、彼と共に彼のために、彼の中に、その感情、念願に心をぴったりと合わせて、償いの精神をもって働くことである。愛 ― 愛とは、被造物の愛を求め、その低きにまで下りたもうた御者、全き愛にまします御者と親しく暮らし、愛をささげることである。信頼 ― 信頼とは善にましまし、あわれみ深き御者により頼み、その御者と昼夜生活することで、わたくしをよく知り、わたくしも知り奉る御者……わたくしを愛し、わたくしも愛する御者……選まれた人々を特に招きたもう御者と共に暮らし、そのみ心をよく知りすべてを期待することである。
昭和37年12月5日初版発行 聖心女子学院編
愛する兄弟姉妹の皆様!
こんにちは!
ミサに与りたいけれども、どうしてもコロナウイルスの為に与ることができず、辛い思いをしている方が、次の小冊子を書き写して下さいました。
愛する兄弟姉妹にも御紹介いたします。
『選ばれた人々に』シスター・ジョゼファ・メネンデス“愛の招き”の抜き書き
「人々がわたしの仁慈に信頼し、わたしの愛隣にすべてを期待しわたしがゆるしたいと待っていることを、決して疑わないように」(シスター・ヨゼファへのみ主のみことば)
この小書にあるみことばは、聖心会のシスター・ヨゼファ・メネンデスに、み主が託せられたメッセージから、抜粋したものである。
み主の「愛の使徒」として選まれたこのシスターは、スペイン人であるが、故国を去って、フランスのポアチエにあったファインの聖心会修道院で、沈黙のうちに隠れた生活をおくった。イエズスは、愛に燃ゆるみ心をシスターに啓示され、その秘密を語られた。贖罪事業にあずからせるため、お望みのままにシスターをあしらわれた。またその念願を、シスターに打ち明けられて、世に伝えるよう頼まれた。
この小書の目的はそのお望みに応じて、み主から特に、選ばれ、身を奉献した多くの人々にそのメッセージを伝え広めるためである。
その人々がこのメッセージを受けて読み、日々の光と力を見いだし、み主の愛のご事業の協力者となり、全世界を燃やさんと来たりたもうたみ主の愛の炎を、燃やすまきとならんことを! そのお望みに従って、心の愛の連鎖を、つまり、愛の火に燃え、み主に信頼し、すべてを、み心に期待して、全世界を愛の火に燃やさんことを!
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私は愛である。わたしのみ心はやきつくすばかりの炎を、もはや包み隠しておくことはできない。わたしは人々を愛するあまり命さえも犠牲にした。その愛のために、パンの形式のもとに、小さいオスチアの中に、昼夜かくれて、忘恩も孤独も、あざけりも、冒涜も、はずかしめも、無礼も、愛によって堪え忍びながら、二十世紀にわたって住んでいる。
人々を愛するあまり、告解の秘跡を定めた。一度ならず、二度ならず、幾たびでも恩恵を取りもどしたいと望むたびごとに、ゆるしを与えてあげる。わたしはその人々の罪の汚れを水で洗うのではなく、わたし自身の血で清めたいと待っている。
人類に対する愛をいつの時代にも、いろいろの方法で知らせた。救霊の望みがどれほどわたしのみ心をもやしつくすかを示した。わたしの聖心を現わした。このみ心への信心は全世界を照らす光となって、今日それは人々の心を感激させ、み国の来たらんことのために働く人を助けている。
しかし今わたしが願うことがもう一つある。愛に報ゆるに愛をもってすることを求めるばかりでなく、皆がわたしの慈悲深いことを信じ、わたしの愛隣に全く期待し、罪のゆるしを少しも、疑わないことをせつに望む。
わたしは天主であるが、愛の天主で、また父である。しかもやさしく愛する父で、きびしい者ではない。わたしのみ心は無限にとうといが、またさといから、人間の弱さやみじめさをよく知っていて、罪人には無限の愛隣をたれる。へりくだって、ゆるしを求める罪人を、わたしは愛するばかりでなく、二度目の罪でも、またたとえ同じ罪を千たび、万たび繰り返して犯したとしても、ほんとに泣き悔やむ者を、ゆるし、愛して、最初の時と同じように、わたしの血でぬぐってあげる。
わたしは救霊の仕事にうむことはない。わたしのみ心にのがれてくる者を、よろこんで待っている。それがみじめな者であればあるほどなおさらに! 父はじょうぶな子よりも病気の子のめんどうをみる。病人こそ注意深く看護する必要がある。病める子に対しては心配も多く、やさしくするように、わたしも罪人に対しては義人よりも、あわれみも深く、なおやさしくする。
わたしが皆に語りたいのは次のことである。み心の愛隣は限りないことを罪人によく知らせてほしい。わたしのみ心は無関心な、冷たい心を燃やす火である。そのような人々をもわたしは心から愛している。
信心深い者にとってわたしのみ心は、完徳への道、天国に行くたしかな道である。
最初に、わたしに奉献された、司祭、修道者、その人々はわたしから特別に選まれたので、その人々に、わたしが愛を求め、わたしの愛を疑わず、深い信頼をもって、わたしの仁慈を決して忘れないようにと願う。
わたしのみ心にすべてを期待することは、ごくやさしい! わたしの事業が、無であり、みじめさそのものの上に築かれ、永遠より人々を救うためにとそなえられた愛の鎖の最初の輪となることを知らせよう。
またわたしのみ心がどこまで人々を愛するか、ゆるすかを知らせよう。わたしは霊魂の奥底までもみぬくから、わたしをよろこばせたい、慰めたい、わたしに光栄を帰したいと、望むことをよく知っている。……そのうえ、おのれのあまりにも不忠実なのをみて、心からへり下るようになることこそ、かえってわたしを慰め、わたしの光栄となる。
彼らの弱さなどかまわない。……わたしが足りないところを補おう。失われてゆく多くの霊魂を救うために、わたしのみ心は、その弱ささえも利用する。
罪に倒れた者に対して、わたしの愛と慈悲には限りがない。わたしはゆるしたい。……わたしはゆるしてこそ、心を安んずるのである。わたしに来る者をいつも愛をもって待っている。……勇気を落としてはならない。おいで! わたしの愛のかいなに身をなげよ! なにも恐れることはない。わたしはおまえの父である。
天主を全く知らないで、深いやみの中に沈んでいる霊魂や、真の生命を与えてやりたいと、わたしがどんなに望んでいるかも、全く知らない人々を、わたしのみ心に引きよせるため、たくさんのことをすることができるのを、理解しない者が多い。修道者たちの中にも。だからヨゼファ、わたしはおまえに愛の秘訣を教えてあげよう。そうしておまえ自身が、わたしの愛隣の生きた一例となる。みじめさ、無にすぎないおおまえを、こうもわたしが寵愛するならば、おまえより、はるかに寛大な霊魂を、どうしてわたしが愛さずにいられよう!
わたしのみ心の中におはいり! 無にとって愛のふちに、身を沈めるほどやさしいことはない! そうしてわたしはおまえの、弱さ、欠点をだんだんに焼きつくそう。わたしがおまえの中に働き、おまえを通じて語り、おまえによって、わたしのことを知らせよう。
わたしのことばをきいて、多くの人々が生命を見いださんことを! もしわずかな奮発心、忍耐、清貧の行いなどが、わたしのみ心に多くの霊魂を贖う宝となることを知れば、どれほど多くの人々が勇気を得るだろう。わたしは行為をみないで動機をみる。愛をもってする最小の行為もたくさんの功徳をたて、わたしにたくさんの慰めを与える! わたしのみ心はそのようなごくわずかな行いにも、無限の価値を与える。わたしがほしいのは愛で、愛だけを捜し、愛のほかは求めない。 *******
わたしが要求するすべてを物惜しみなく与えてくれる霊魂は自分のためにも他人のためにもたくさんの功徳をつみ、多くの人々を滅びの道から奪い取る。
わたしのみ心が選んだ人々はその犠牲と愛とでわたしの恵みを世にふりそそぐ役目を持っている。世俗には危険がいっぱいだ。あわれな罪人は絶えず悪にいざなわれるから、見える助け、見えない助けが必要だ。
わたしの選んだ人々が物惜しみをすればどんな宝を失い、また人にも失わせるか、よくわかっているだろうか? わたしはもう一度強調したいのだ。
わたしに選ばれたのだから当然欠点や弱さがなくなるはずだなどと思ってはならない。その人々も一度ならず罪を犯すであろう。しかしへり下って自分のつたなさを認め、その罪を、物惜しみない愛の小さな行いで償おうと努力し、再びわたしのみ心に信頼するならば、わたしのみ心は大いなる光栄を得、罪を犯さなかったよりも、もっと他人を助けることができるのだ。いくじなさや、みじめさはたいした問題ではない。わたしが人々に求めるのは愛だ。
そのみじめさにもかかわらず、わたしは気も狂うほどに愛することができる。しかしここでわたしがいう罪は不注意や弱さからくる過失のことで、あらかじめ知って承諾した罪のことをいうのではない。ほんとうにわたしが人々から愛されるようにと願う心をいつももって、不完全な者ながら身をささげ、選ばれた人々が普通の行ないと日常の努力とによって、どんな美しい使命を果たすことができるかがわかるよう。ほかの人々よりも特に愛されたのは、徳が高いからではなく、みじめな者であるからだということを、決して忘れてはいけない。わたしは愛そのもので、わたしの心にもえるその愛は、すべての欠点を焼いてしまう。またおまえにわたしのみ心の秘密を語ろう……わたしがいつも知らせたいと、あせっているのは、皆がわたしのみ心をもっともっと知るということなのである。
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日々の生活をわたしの生活と絶えず一致させることを知る者は、わたしの光栄となり、救霊のために偉大な働きをする。たとえばそれ自身なんの価値もないことをしたとしても、それをわたしの血に浸し、またわたし自身が地上で行ったわざに合わせれば、救霊のためにどれほどのみのりをもたらすかわからない! それは全世界をめぐって説教する以上の収穫となる。学ぶにせよ、話すにせよ、書くにせよ、又は針仕事をしても、掃除をしても、休息するにしても同じ効果がある。それらのわざが命ぜられたことであるとか、義務であるとかであって、ただ気ままにするのでないならば。次にわたしの血に浸して、清い意向をもって、わたしと緊密に一致して行うならば、どんなわざでも偉大な価値あるものとなる。
この事実を多くの者が理解するようにせつに望む。行為それ自身になにか価値があるのではなく、それを行なう動機とわたしとの一致がたいせつなのである。わたしがナザレットの仕事場で掃除をしたり働いたりした時、のちに公生活ちゅうに説教したと同じように天の御父に光栄を帰し奉ったのである。
世間に出てりっぱな仕事をして需要な地位についている人々が、わたしのみ心に大いなる光栄を与えていることも事実であるが、卑しい働きに世の目から隠れた、多くの人々もわたしのぶどう畑にまことに有用な働き手である。彼らこそ愛に動かされて働き、その最小の行為さえもわたしの血を浴びて、超自然的黄金とかえることを知っているからである。
朝まだきよりわたしと深く一致してその一日をわたしが人々の救霊に役立てるようにと懇願し、愛をもって、その義務を一瞬一瞬果たすならば、一日にどれほどの宝を積むことができるであろう!
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わたしの愛をもっともっと彼らに現わそう。わたしの愛は、つきることなく、愛する者にとって、愛に導かれるままにするほど容易なことはない。
わたしのみ心は愛のみで、その愛はすべての人々を抱く、そうして特に選んだ人々をどれほど愛し、また世の危険にさらされている霊魂や、多くの罪人を救うために、どのように手伝ってもらいたいかをわからせることができるであろうか?
そのためにわたしがどんなに、彼らが完徳に進むことであるかを渇望しているかを、またこの完徳とは日常の平凡な行ないをわたしと親しく一致してすることであることを告げたい。もしこれをよく悟るならば、その全行為を聖化することができる。聖化された一日の価値は、いかばかりであろう!
人々が愛したいという望みにかられる時は、なにごとも困難ではない。しかし心がつめたく気力がないとすべてが苦しくつらくなる。……その時こそわたしのみ心へきて、勇気をとりもどすがよい。わたしにその無気力をささげよ! わたしを燃やす愛の熱に心を合わせて安心するがよい。その一日は人々の救霊のため計りがたいとうといものとなる。わたしのみ心は人々のすべてのみじめさを知りいつも深く同情している。わたしは人々がただばく然とわたしと心を合わせるばかりでなく、お互いに相愛しあって、いっしょに暮している人々のような、絶え間ない親しみを望んでいる。そのふたりは絶えず話し合っているわけではないが、少なくとも、お互いにいっしょにいて、愛し合い、こまやかな注意、愛情を傾けつくす。
心が平和で、慰めのなかにある時、わたしのことを考えるのは容易である。しかし無味乾燥となり、苦悩におちいる時も、恐れないで、ただわたしを仰ぎみるがよい。わたしはよくわかっている。その一瞥はわたしのみ心のいともやさしい同情をひきつける。
わたしは繰り返して、いかに人々を愛するかを告げよう。わたしは彼らがわたしをよく知りぬいて、わたしが託する霊魂に、わたしのことを教えてほしい。いつでもわたしを仰ぎみて、目をそらさないように。なまぬるい心の人があるのは、わたしの愛について誤った考え方をしているからである。そんな心のないように。わたしのみ心を愛することはむずかしくもつらいことでもなく、かえってやさしい心地よいことである。愛の高い峯に達するには別段特殊なことをする必要はない。ただ行為の大小を問わず、清い志を持ち、わたしのみ心と親しく一致しながらすれば、愛が他のすべてのことを補う。
ほんとにわたしこそ霊魂をやさしく愛するイエズスなのだ。人々を呼び、保護し、世話するこのみ心を見よ。人々から愛されることを、特に私が選んだ者たちから、愛されたいとの念願に燃えるみ心を見よ!
わたしのみ心は単に愛の深淵であるばかりでなくさらに慈悲の深淵である。天主からいとも愛される霊魂さえも、人間のみじめさをもっていることを知って、わたしは彼らがいかほどささいな行為でも世の救済のため、わたしによって無限の価値を帯びるようにと望んでいる。だれもかれもが皆説教をすることができない。また遠く未開地へ福音をのべ伝えることもできないが、皆ほんとにだれでもわたしのみ心を知らせ愛させることができる。……だれでも互いに助けあいながら選ばれる人々の数をふやすことができる。つまり多くの霊魂が失われることを防ぐことができる。そうしてこれはわたしのみ心の愛と仁慈の結果だからである。もし惜しみなく私の求めるすべてを与えるならば、自分と他人のためにばくだいな宝を積み、多くの者を滅びの底からとりもどすことになる。わたしが選んだ人々に、わたしの愛はもっと多く行うことができることを語ろう。
人々は日常生活のわずかな行ないを利用することができるばかりでなく、救霊のために、みじめさ、過失、罪さえも役だてることができる。ほんとに愛はすべてを変化し、聖化し、あわれみはすべてをゆるす。彼らに対するわたしの愛は、もっと深い。いかにささいな行為にも、聖なる価値を与えて日常生活を生かして行くばかりでなく、そのみじめさ、弱さ、過失さえも、世の救いのためにわたしは利用したいと思う。つまり自分がみじめさに満たされていることを知っている霊魂はどんな善をも自分のてがらとしないで、かえってその不完全さを見いだすことによって、いっそう謙虚な気持ちを抱くようになる。
またその使徒的働きや職務についても、おのが無能をはっきり感じ、人々を自分がまだ達しえない道にまで、助けなければならぬことを心苦しく思い、自然とへり下るようになる。そうしてもしこの弱さを、謙そんに自覚して、わたしのもとにかけより、努力の足りないことをわび、力と勇気をわたしの聖心に願うならばどんなに深く愛のまなこをそそぎ、またどんなに、わたしが、その働きを有効なものにするか、計り知れないほどである。ある者は毎日の努力や犠牲を一瞬ごとに、心惜しみなくささげることを知らない。その一生は約束ばかりでなにも実行せずに過ぎてしまうものが多い。しかしここに差別がある。もしこの種の人々が、約束することが一つの習慣となってしまい、実行するために少しの無理も押し通さず、愛を表わすために何もしないなら、わたしは次のことばをいうほかはない。「おまえがその穀物倉に積み重ねた藁(わら)に火がつかないように注意せよ。また風が一瞬にして吹き飛ばしてしまわぬよう警戒せよ」と。しかしわたしがここでいうのは他の種類の人々で、どうかしてその愛を表わそうと善意をもってせつに望みながらその日を始める、そうして「この機会には自分を忘れて、物惜しみなくいたしましょう。こんな場合には」と約束する。しかしその折りがくると、もちまえの性質や、自愛心、また心持ちの悪さとか、何かに負けてしまい、数時間前にあんなに心から約束したことを、実行できなくなる。しかし心をとり直してへり下ってその弱さを認め、ゆるしをこう。そうしてふたたびわたしのみ心に信頼し、より頼んで決心を新たにし。愛や寛大な行ないをもって、償おうと努力する。この霊魂は、あやまちを犯さなかった者より私に光栄を帰するであろう。
註(み主はこれによって、承諾したり、又は直そうと努力しない習慣的となった過失と、人間的弱さからでるもの、また償った過失とを明らかに区別された。心のこもった償いは弱さから起こる過失のないことよりも、み心を慰めることを、説明された。実際償いが含む謙そん、信頼、寛大は、弱さから犯す過失の中にはないほどのはっきりした意志がなければ果たせない。)
わたしはゆるしたい。わたしは人々を治め、王となって、世界のはてまで、平和をひろめたい。わたしは英知であり、幸福そのものである。わたしは愛であり仁慈である。わたしは平和そのもので、世を統治しよう。人々の忘恩をぬぐい去るためのめぐみの雨をふりそそごう。その罪悪を償い、ゆるしを求めるいけにえを選ぼう。ほんとにわたしをよろこばせたいと願う人が世の中にもたくさんいる。また持てるすべてをささげて、わたしの欲するように、望むままに役立ちたいと、願う寛大な心の人がいる。わたしは愛と平和のうちに治めよう。まず皆の上に慈悲をたれることから始めよう。これこそわたしの目標で、これが愛の大事業である。わたしは万民によびかける。身を奉献した者にも、世俗に住む人々にも、義人にも罪人にも、学問のある人にも、無学な人にも、命ずる者にも、従う者にも。めいめいにわたしは告げに来た。……もし富を望むならば、わたしこそ無限の富だ。もし平和を欲するならばわたしのうちにのみ平和を見いだす。もし幸福を追うならば、わたしのうちに見つけることができる。わたしは慈悲であり、愛である! そうしてわたしのみが最上の王である。
わたしがせつに願うことは人々の心を愛の火でもやすことで……全世界の人々を……悲しいことには皆がこの炎に背を向ける、だがわたしは勝って、皆わたしの民となり、わたしは王となる。世の人々がわたしを知り、わたしのもとに来るよう、いっしょに苦しんでおくれ、苦しみによって愛は勝利をうる。真の光が人々の心にさし込むようにと願うわたしを知らずに、霊魂のとうとさに無知無関心のまま成長する無邪気な子供たちの心をかち得たいし、ほんとにわたしの喜びであるこれらの小さい心がわたしを知り、おきてを守り、わたしのみ心の愛を学ぶ園が欲しい。わたしは愛の力で人々の心を征服したい。よき道徳心を目ざまし、人々が地上のためのみでなく、天に心をあげ、そこへ向かって生きて行くようにと望むのである。これは人間社会の進歩を妨げるどころか、かえってわたしは人々がその知恵や、才能や、力を利用することをせつに望むが、人間的知識の上に天主に対する知識を加えて、地上の幸福を求めながらも何が人を真に偉大にし、幸福にするかを悟ってもらいたいのである。わたしはおまえたちをこの愛の事業の助け手として選んだ。わたしの念願はおまえたちが、わたしが全世界に燃えひろめようとする愛の火のまきとなるということである。火をつけても燃やすものなしでは炎も役にたたない……それゆえわたしは次から次へと炎をうつす愛の連鎖をつくりたい。わたしのみ心に信頼しすべてを期待する愛、その炎にもえて全世界の果てまで燃やしつくすため。
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十字架以外のことを語ろうとはしない。十字架をもってわたしは世を救った。今わたしはまた十字架によって世を、信仰と愛の道に連れもどそう。おまえたちにわたしの念願を打ち明けよう。わたしが十字架の上から世を救ったというのは苦しみによってということである。罪は天主に対する無限の侮辱で、無限の償いを要求する。だからわたしはおまえたちが忍ぶ苦しみや働きをわたしのみ心の無限の功徳に合わせてささげるようにと願うのである。わたしのみ心はおまえのものであるからそれを取って償いとし、ささげるがよい。おまえたちに近づく人々に愛と信頼の念をふき込み、わたしの愛のうちに彼らを浸すよう、み心の仁慈、愛隣への信頼に浸すよう。わたしのことを語り知らせる機会があるたびに、いつもわたしは愛の天主で、なにも恐れることはないと告げておくれ。わたしは三つのことをおまえたちに特にすすめる。聖時間の信心。それは御子イエズス・キリストの仲介によって無限の償いを御父にささげることのできる一つの方法である。五つの傷をあがめて五たび主祷文を唱える信心、このおん傷を通じて世は救われた。最後にみ心の功徳への絶えざる一致、こうしてこそすべての行ないに無限の価値が与えられる。わたしの生涯、わたしの血、わたしの聖心を絶えず利用すること……恐れず、うまずわたしのみ心に信頼すること。この秘訣を多くの者が十分に理解しない。お前たちこそこれを知って利用するように。
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わたしの愛が太陽のように人々を照らし、暖めるようにと願う。わたしのことばが皆に知れわたり、わたしは愛の天主で、慈悲深くゆるすことを願っていることを知ってほしい。一番みじめな者も恐れず近づき、わたしがどんなにゆるしたいと望んでいるかを全世界の人々に知ってもらいたい。もっとも罪深い者もわたしから遠ざからないで、皆がわたしに来るように、わたしは父のごとく両手を広げ、生命と真の幸福を与えようと待っている。
世の人々にわたしの仁慈を知らせるため、わたしのみ心を開いて、教える使徒が欲しい。が、まずわたしのことを、よく知らなければ、どうして他人に知らせることができよう。だからここ二、三日の間わたしは司祭、修道者、修道女たちに語ろう。みんながはっきりとわたしが欲することを悟るように。ささげられた霊魂たちが愛に団結して一つとなり世の果てまで、わたしの愛と仁慈をのべ伝えてほしい。世の人々は罪に走ってゆく。ゆえに信者やことに選まれた人々は償いの必要と望みに目ざめて、ますます償うように。ほんとに今世界の国々は天主の正義の御怒りを招いているが、愛のみ国の来たらんことを望みたもう主は、選まれた人々、ことにこの国の人々によびかけたもう。まずゆるしをこい、償いを求め、この民の上に新しいめぐみを降ろしたもうようにと。(この国とはフランスの意)わたしのみ心を知り、その信心を広めたのはまずこのフランスであった。
わたしは世の救いを求める。平和と一致の御代が来ることを。わたしは世を治めることをせつに望むが、それは選まれた人々の償いとわたしの愛と仁慈を皆が更に悟ってこそ、治めるようになる。
わたしのことばは数知れぬ人々に光と命を与えるであろう。すべて印刷され、読まれ、ひろめられる。わたしは人々の心を照らし聖化する特別の恩寵を与えよう。
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今日はまたわたしに身を奉献した者に語りたい。罪人と世の人々にわたしのことを知らせることができるように。
まだ奉献した人々のうちにさえ、わたしの心情を深く、くむことを知らない者がいる。わたしをあたかも、どこか遠くに住む者、よく知らない人、あまり信頼できない人のように取り扱う。わたしはその人々が信仰をあつくし愛をかきたて、愛し、また愛される御者と、親しく、信頼して暮らすよう、願うのである。
普通家庭では、総領の子が一番よく父の心持ち、秘密などを知っている。父もまた彼に全く信頼する。年下の子は、まだ重大な事柄について、心をくばることもできないし、ものごとの深いことはわからない。もし父親が死ねば、その意志、望みなどを兄弟に伝えるのは、兄の務めである。わたしの教会にも年長者がいる。それはわたしが特に選んだ人々である。司祭職や修道誓願によって奉献された者は、わたしと一番親しく暮らし、特別の恩寵をこうむり、わたしもまた秘密を打ち明ける。彼らの弟、妹であるわたしの子供たちを直接、間接に教え導き、わたしの望みを伝えるのも彼らであり、その義務なのである。
これらの選まれた人々が、まことにわたしを知るならば、他の人々にわたしを知らせることができる。知らなければどうして教えることができよう。ひとつたずねるが,あまりよく知らない人を愛することができるであろうか? 縁遠い者、信頼のおけぬ人のことを真の親しみをもって語ることができるであろうか? わたしはもっと親しくとりなしてもらいたい。霊魂が恩恵に浴していれば聖霊の神殿であることを知って、わたしを心の中に求めてほしい。心の中にほんとにわたしがいることを考えてもらいたい。天主、しかも愛の天主が。愛が恐れに打ち勝ち、ことにわたしが愛していることを決して忘れないように。多くの者は特別愛されて、選ばれたことをよく承知しているが自分のみじめさ、過失に悲しみ沈んで、前のようには愛されないなどという考えに捕われてしまう。この人々はわたしをよく知らないから、そんなことを思うのだ。わたしのみ心がなんであるかを了解しない。そのみじめさ過失こそ、わたしの慈悲をよびくだすのではないか。おのが弱さを認める時にこそ、へり下り、信頼をもって、わたしにくることができる。その時こそ過失を犯した前よりも、もっとわたしに光栄を帰することになる。
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自分のため他人のために祈る時も、きき入れられないかと、疑ったりすれば、同じように、わたしのみ心を尊敬することにならない。百夫長が、わたしのもとにきて、召使いの病気をなおしてくださいと願った時、彼は謙そんしていった。「主よ、われは主がわが家に入りたもうにはふさわしきものにはあらず」と。しかし信仰と信頼にみちたことばをつけ加えた。「されど主よ、ただひと言をだにのたまわば、わがしもべはいえん」と。この人はわたしをよく知っていた。わたしに期待する者の懇願を、拒みがたいことを知っていた。謙そんに加えて、堅い全き信頼があったから、わたしのみ心にたいへん光栄を帰した。ほんとにこの人はわたしのみ心を知りぬいていた。でもわたしは選まれた人々にしたように、彼にわたしを示したわけではなかった。
信頼こそ、つきぬ恩寵を、自分のためにも他人のためにもうるのである。心の底まで、わたしみ心を了解して、わたしをまだ知らないあわれな人々にその仁慈を示しておくれ。
わたしはふたたび繰り返す。今語ることはなにも新しいことではないが、ちょうど火を燃やし続けるためにまきが必要であるように霊魂も進歩し、新たに鼓舞するためには、新しい刺激がいる。わたしに身をささげた人々の中にも真の信頼を持っている者が少ない。それはわたしと緊密に一致して、暮らさないからである。わたしはあるがままの姿で皆を愛していることを知ってもらいたい。弱いから一度ならずつまずくであろう。たびたび約束したことを守らないであろう。でも更によくしようとの善意はわたしの光栄となる。またころんだのちに、へり下りわたしに信頼をおくこともわたしをたたえることとなるので、わたしのみ心は、その人々の上にめぐみの雨をふりそそぐのである。
どれほど、わたしは皆が、この親しい生活を更に新しい気持ちで始めたいと望んでいるかを知ってもらいたい。ただ祭壇のもとにある時ばかり、わたしと語ることに満足しないで、わたしはほんとに聖櫃の中にいるが、また彼らのうちにも生きているから。すべてのことをいっしょにしなければ気がすまない。なにごともわたしに語り、相談し、なんでもわたしに願うように。……わたしは彼らのうちの生命となって生き、力となって住んでいる。その心の中で親しく会合し、談話し、愛し、わたしの愛に答えるのを待っている。
多くの者が毎日黙想をするが、それは愛の密談よりも、一つの形式的なことにすぎないのではなかろうか? ミサにもあずかり聖体も受けるけれども、ひとたび聖堂から出ると、自分の仕事に夢中になって、ひと言もわたしに呼びかけようと思いもしないのではなかろうか? この人々の心の中で、わたしはさばくに住んでいる心地だ。わたしになにもいわず、なにも願わない……慰められたいと思う時、彼らの中にいる間近かの創造主であるわたしをさしおいて、被造物の他人に走ってゆく。これは一致も内的生活もないので、つまり愛のないことではなかろうか。
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再びわたしに身をささげた人々に言おう。どんなに特別にわたしが彼らを選び、わたしと親しく暮らし、わたしの心を痛めるすべての人に代わって、わたしを慰め、償ってもらうためであるか。その人々にわたしは、み心をよく学び、その心情をくみ、その念願をできる限り実現するつとめがあることを思い出させたい。
農夫は自分の畑を耕す時には、まず雑草をぬき、よい畑となるよう、どんな困難辛苦もいとわない。同じように選ばれた人々はわたしの念願を知った以上、熱心にこれをかなえるよう励み、わたしの光栄を増し、世の罪を償うため、どんな努力も苦しみも、いとわないように。ことにわたしと親しく一致して、わたしをひとりぼっちにしないこと、ああわたしをひとりしないこと! ……ある人々はこれを了解しないで、相手となって、わたしを慰めるはずであることを忘れている。……最後にわたしのみ心の中に一つとなって、すべての人が、真理の光に浴し、罪のゆるしをうるために、愛の連盟をつくるようにと願う。
わたしが受ける屈辱を見て、悲しみに貫かれれば、選ばれた者たちは、身をささげて、これを償い、わたしの事業のために働くにちがいない。その時こそ全き信頼を持って願え。わたしはその願いをしりぞけることはできず、すべてかなえてあげる。
ゆえに皆がわたしのみ心を学ぶように努力し、わたしを深く愛し、親しくわたしに語り、相談するように。またその行為をわたしの功徳でおおい、わたしの血に浸し、その一生を人々の救済と、わたしの光栄のためにささげるよう。自分の小さな考えに、ちぢこまってしまわないで、わたしの血、わたしの功徳の力強さを身にまとうことのできる喜びに満ちて、おのが力ではなにも大きいことはできないが、わたしといっしょに、わたしの名によって、わたしの光栄のために働くならば、どんなに力強いことであろう。
奉献された者たちは、償いの望みをいきいきとさせ、信頼をもって聖なる王の御代の来ることを願え。わたしが全世界の王となるよう。なにも恐れず、わたしに信頼し、わたしに期待せよ。罪人の改心の熱愛にもえ、彼らに同情して祈り、やさしさを尽くすよう。いかにわたしが同情深く、愛であり、仁慈であるかを世の人々に語るように。
祈りと苦業に身をかため、ことに信頼をあつくして、おのが力にたよらず、常にともにいるわたしのみ心の力と仁慈にすべてを期待して、使徒的働きに向かうよう。わたしの使徒たちは貧しい。無知な者であったが、天主の富と英知に満たされて賢い者となり、「み主のみ名によりて、働くゆえに、なにごともできるようになるでしょう」と。わたしは身を奉献した者から三つのことを願う。……
償い ― 償いは聖なる贖主と親しく一致して生活することで、彼と共に彼のために、彼の中に、その感情、念願に心をぴったりと合わせて、償いの精神をもって働くことである。愛 ― 愛とは、被造物の愛を求め、その低きにまで下りたもうた御者、全き愛にまします御者と親しく暮らし、愛をささげることである。信頼 ― 信頼とは善にましまし、あわれみ深き御者により頼み、その御者と昼夜生活することで、わたくしをよく知り、わたくしも知り奉る御者……わたくしを愛し、わたくしも愛する御者……選まれた人々を特に招きたもう御者と共に暮らし、そのみ心をよく知りすべてを期待することである。
昭和37年12月5日初版発行 聖心女子学院編