アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様!
2020年4月26日(主日)御復活後第2主日(良き牧者の主日)を御紹介いたします。
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は良き牧者の主日です。福音で、私たちの主イエズス・キリストの「良き牧者である」という事を読みました。
「良き牧者」とは一体何でしょうか?
良き牧者というのは、羊の為に命を与えて、羊の前を行って羊を導き、そして良い牧草の所まで連れて行って、良い草を与えて、そして羊の為に命をかけて守る牧者です。
イエズス様こそ、イエズス・キリスト様こそ、私たちの本当の良き牧者です。なぜかというと、私たちに本当の食べ物、本当に健全な良い食べ物を、「真理」と「愛」と「聖寵・御恵み」、そして私たちに「天国に対するものすごい望み」を与えてくれるからです。
イエズス様は仰いました、「私は門である。私を通してでなければ、聖父の元に行く事はできない。」「私は道である、命である、私は真理である。私は道・真理・命。聖父に向かう唯一の道。これを通らなければ、聖父に行く事ができない」と仰います。
イエズス様は私たちに「真理」を教えてくれます。私たちは何を信じるべきか、何をするべきか、何をどうやって天国に行くべきかを教えてくれる、真理です。
イエズス様は私たちに「命」を与えてくれます、超自然の命を、特に御聖体において、御自身を与えてくれます。このような良き牧者を持つ私たち羊たちは、何と幸せな事でしょうか。
ところで、イエズス様は同じ福音で、私たちにこうも言います、「でも、雇い人がいる。雇い人というのは、少しでも自分の身に危険があると逃げ去ってしまって、そして羊のことは心にかけない。どうなってもいい。そして羊たちは指導者を失って、牧者を失って、散らされてしまう。打ち捨てられてしまう。」
今、何か私たちは、この時代を生きているかのようです。教会は攻撃を受け、危険に晒されて、この世から、「もっと教えを変えた方がいいんじゃないか」と責められています。するとあたかも、私たちにイエズス・キリストへの愛を、イエズス・キリストへの礼拝を、イエズス様への信仰を教えるべき人が、「あぁ、イエズス様じゃなくても、他の宗教でも救われるんじゃないか」とか、「どの宗教でも、どんな道を通ってもいいんじゃないか」「私たちはもっと自由であればいいんじゃないか」「他の人がこういう風にやりたいと思ったら、じゃあそういう事も、結婚として認めてあげたらいいんじゃないか」「もしもこの人がそれを、罪を犯したいならば、それも権利じゃないか」などと。
そして「イエズスを礼拝したい、御聖体を愛したい、敬いたい」という人はむしろ、牧者から排斥されたり、あるいは罵られたり、馬鹿にされたりします。
御聖体のみならず、「マリア様に対してお祈りをしたい。マリア様に対してお祈りをする」と言うと、「そうしてはいけない」と。
「マリア様が共贖者である、イエズス様と共に私たち人類を贖う為に、共に十字架の下で、私たちの救霊の為に贖いをして下さった第二のエヴァだ」と言うような人には、「あぁ、そんな馬鹿げた話は無い」と。
今までカトリック教会が2000年間大切にしてきたものを、そのまま信じようとすると、そのまま実行しようとすると、却って「破門だ」とか、あるいは「異端だ」とか、あるいは「教会の外にいる」とかと言われます。
あたかも天主ではなくて人間が、天主の座に座りつつあるかのようです。
愛する兄弟の皆さん、この教会の今、この暗闇の時代において、牧者が逃げてしまっているかのように見える、そして羊たちが散らされてしまっているかのように見える今この現代、私たちは、イエズス・キリストを良き牧者として、眼をはっきりとそこに留める事に致しましょう。それに固定する事に致しましょう。イエズス様をしっかりと見つめる事に致しましょう。
イエズス様こそ、私たちに本当の超自然の命の源を与えてくれます。「御聖体」です。
イエズス様こそ、この地を聖化してくれました。何故かというと、御血を流されて、そしてこの私たちに恵みを与えて下さったからです。最も大切なのは、「イエズス様の十字架の、イエズス様御自身」であって、この大地ではありません。
イエズス様こそが、唯一の良き牧者、そして唯一の救い主。
イエズス様の捧げるいけにえ、「十字架のいけにえ」こそが、唯一の本当に、天主の心に適ういけにえ。
そしてイエズス様の歩いた「十字架の道」こそ、唯一復活に導く、超自然の命へ導く道。
そしてイエズス様の立てた「聖なるカトリック教会」こそが、唯一の真のキリストの群れ。それ以外にはありません。
この真理を、この世は拒否するかもしれません、「もっと別のイデオロギーとか、もっと別の思想を受け入れるべきだ」と言うかもしれません。
でも私たちは、イエズス・キリストに、良き牧者に従いたい思います。天主様の御恵みによって、特別の御助けによって、真の良き牧者の仰る、本当の声を聞き分けたいと思っています。イエズス・キリストのみを真の救い主として、真の天主として、人となった真の天主として、礼拝したいと思っています。天主様の御恵みによって、イエズス・キリストを信じ、イエズス様の御教えに忠実でありたい、2000年間ずっと忠実であったその教会が、ずっと教え続けてきたその教えに、忠実でありたい、それを信じ続けたい、それと同じ事を信じ、実践し、愛したい、と願います。
聖パウロは言います、「たとえ、天からの天使であろうと、もしも他の福音を伝えるならば、彼は排斥されよ。」
イエズス・キリストの御言葉は決して過ぎ去る事はありません。天と地が過ぎ去っても、イエズス様の御言葉は、真理は、そのまま残ります。
イエズス様は私たちに本当の礼拝を教えてくれました。被造物が私たちの天主に為さなければならない、第一の義務です、「被造物として、創造主を認識して、そして愛を込めて礼拝する」という事です。
知性もそして意志もない動物植物たちは、この大地は、ただ有る、存在しているだけで主を礼拝します。自然の本能に従って、主を讃美します。
しかし知性と意思を持っている私たち人間は、この「理性」を使って、全ての被造物をその手段として、これを通して、主の為にこれを使い、主を創造主として認めなければなりません。これは人間にのみ、理性的な存在にのみ課せられている、特別な義務です。「礼拝」という事です。
私たちはその事を教えて下さった、イエズス・キリストに従いたいと思います。
私たちは今言われているような、全ては、私たちの心も、体も、精神も、全てを込めて、環境を大切にする、そうではなくて、心を尽くして、力を尽くして、全てを尽くして、「真の主なる天主を愛し、そしてその尊き御旨を果たす。イエズス・キリストがいつも教えて下さったその教えを、信じ続けたい、やり続けたい」と思います。
つまり私たちは、integralな、欠ける事のない、そのままのカトリック信仰を信じる事によって、その声を聞き分ける事によって、真の牧者イエズス・キリストに付き従いたいと思います。
過去、私たちにはそのような立派な牧者たちが、イエズス様に倣う聖なる牧者たちがいました。日本に遠くから来て下さった聖フランシスコ・ザビエル、あるいは日本の為に殉教した多くの司祭たち、あるいは司教様等々、私たちもそのような牧者たちの声に従いたいと思います。
過去そのような方々もいましたが、つい最近でもいました。それはルフェーブル大司教様です。ルフェーブル大司教様こそ、私たちに、「イエズス様に従う、今この現代において、従うとはどのような事か」という事を、模範を以て示して下さいました。自分の名誉とか、自分の利益よりも、霊魂の為に、超自然の命の為に、命をかけて、体を張って、私たちに聖伝の教えを、カトリックの教えを伝える事ができるように助けて下さいました。
私たち聖ピオ十世会の司祭も、非常に不肖ながら、そして非常に力は劣るものでありながら、天主様の御助けによって、マリア様の御助けによって、イエズス様の御跡を従いたいと思っています。
そして特に今のこの時代、感染病が流行っている今この時に、皆さんの傍に留まる事ができて、私は本当に天主様に感謝しています。良き牧者としてミサを捧げる事ができて、そしてイエズス・キリストを与える事ができて、イエズス様の教えを何とかして伝える事ができて、本当に感謝しております。
願わくは、イエズス様に従う多くの聖なる司祭が、イエズス様を真似る良き牧者たちが、第2の牧者たちが、日本から、それから世界中から出てきますように、与えられますように、お祈り致しましょう。
マリア様にお祈り致します、聖母の汚れなき御心、大司祭イエズス様の御母であるマリア様、私たちの為にいつもお祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様!
2020年4月26日(主日)御復活後第2主日(良き牧者の主日)を御紹介いたします。
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は良き牧者の主日です。福音で、私たちの主イエズス・キリストの「良き牧者である」という事を読みました。
「良き牧者」とは一体何でしょうか?
良き牧者というのは、羊の為に命を与えて、羊の前を行って羊を導き、そして良い牧草の所まで連れて行って、良い草を与えて、そして羊の為に命をかけて守る牧者です。
イエズス様こそ、イエズス・キリスト様こそ、私たちの本当の良き牧者です。なぜかというと、私たちに本当の食べ物、本当に健全な良い食べ物を、「真理」と「愛」と「聖寵・御恵み」、そして私たちに「天国に対するものすごい望み」を与えてくれるからです。
イエズス様は仰いました、「私は門である。私を通してでなければ、聖父の元に行く事はできない。」「私は道である、命である、私は真理である。私は道・真理・命。聖父に向かう唯一の道。これを通らなければ、聖父に行く事ができない」と仰います。
イエズス様は私たちに「真理」を教えてくれます。私たちは何を信じるべきか、何をするべきか、何をどうやって天国に行くべきかを教えてくれる、真理です。
イエズス様は私たちに「命」を与えてくれます、超自然の命を、特に御聖体において、御自身を与えてくれます。このような良き牧者を持つ私たち羊たちは、何と幸せな事でしょうか。
ところで、イエズス様は同じ福音で、私たちにこうも言います、「でも、雇い人がいる。雇い人というのは、少しでも自分の身に危険があると逃げ去ってしまって、そして羊のことは心にかけない。どうなってもいい。そして羊たちは指導者を失って、牧者を失って、散らされてしまう。打ち捨てられてしまう。」
今、何か私たちは、この時代を生きているかのようです。教会は攻撃を受け、危険に晒されて、この世から、「もっと教えを変えた方がいいんじゃないか」と責められています。するとあたかも、私たちにイエズス・キリストへの愛を、イエズス・キリストへの礼拝を、イエズス様への信仰を教えるべき人が、「あぁ、イエズス様じゃなくても、他の宗教でも救われるんじゃないか」とか、「どの宗教でも、どんな道を通ってもいいんじゃないか」「私たちはもっと自由であればいいんじゃないか」「他の人がこういう風にやりたいと思ったら、じゃあそういう事も、結婚として認めてあげたらいいんじゃないか」「もしもこの人がそれを、罪を犯したいならば、それも権利じゃないか」などと。
そして「イエズスを礼拝したい、御聖体を愛したい、敬いたい」という人はむしろ、牧者から排斥されたり、あるいは罵られたり、馬鹿にされたりします。
御聖体のみならず、「マリア様に対してお祈りをしたい。マリア様に対してお祈りをする」と言うと、「そうしてはいけない」と。
「マリア様が共贖者である、イエズス様と共に私たち人類を贖う為に、共に十字架の下で、私たちの救霊の為に贖いをして下さった第二のエヴァだ」と言うような人には、「あぁ、そんな馬鹿げた話は無い」と。
今までカトリック教会が2000年間大切にしてきたものを、そのまま信じようとすると、そのまま実行しようとすると、却って「破門だ」とか、あるいは「異端だ」とか、あるいは「教会の外にいる」とかと言われます。
あたかも天主ではなくて人間が、天主の座に座りつつあるかのようです。
愛する兄弟の皆さん、この教会の今、この暗闇の時代において、牧者が逃げてしまっているかのように見える、そして羊たちが散らされてしまっているかのように見える今この現代、私たちは、イエズス・キリストを良き牧者として、眼をはっきりとそこに留める事に致しましょう。それに固定する事に致しましょう。イエズス様をしっかりと見つめる事に致しましょう。
イエズス様こそ、私たちに本当の超自然の命の源を与えてくれます。「御聖体」です。
イエズス様こそ、この地を聖化してくれました。何故かというと、御血を流されて、そしてこの私たちに恵みを与えて下さったからです。最も大切なのは、「イエズス様の十字架の、イエズス様御自身」であって、この大地ではありません。
イエズス様こそが、唯一の良き牧者、そして唯一の救い主。
イエズス様の捧げるいけにえ、「十字架のいけにえ」こそが、唯一の本当に、天主の心に適ういけにえ。
そしてイエズス様の歩いた「十字架の道」こそ、唯一復活に導く、超自然の命へ導く道。
そしてイエズス様の立てた「聖なるカトリック教会」こそが、唯一の真のキリストの群れ。それ以外にはありません。
この真理を、この世は拒否するかもしれません、「もっと別のイデオロギーとか、もっと別の思想を受け入れるべきだ」と言うかもしれません。
でも私たちは、イエズス・キリストに、良き牧者に従いたい思います。天主様の御恵みによって、特別の御助けによって、真の良き牧者の仰る、本当の声を聞き分けたいと思っています。イエズス・キリストのみを真の救い主として、真の天主として、人となった真の天主として、礼拝したいと思っています。天主様の御恵みによって、イエズス・キリストを信じ、イエズス様の御教えに忠実でありたい、2000年間ずっと忠実であったその教会が、ずっと教え続けてきたその教えに、忠実でありたい、それを信じ続けたい、それと同じ事を信じ、実践し、愛したい、と願います。
聖パウロは言います、「たとえ、天からの天使であろうと、もしも他の福音を伝えるならば、彼は排斥されよ。」
イエズス・キリストの御言葉は決して過ぎ去る事はありません。天と地が過ぎ去っても、イエズス様の御言葉は、真理は、そのまま残ります。
イエズス様は私たちに本当の礼拝を教えてくれました。被造物が私たちの天主に為さなければならない、第一の義務です、「被造物として、創造主を認識して、そして愛を込めて礼拝する」という事です。
知性もそして意志もない動物植物たちは、この大地は、ただ有る、存在しているだけで主を礼拝します。自然の本能に従って、主を讃美します。
しかし知性と意思を持っている私たち人間は、この「理性」を使って、全ての被造物をその手段として、これを通して、主の為にこれを使い、主を創造主として認めなければなりません。これは人間にのみ、理性的な存在にのみ課せられている、特別な義務です。「礼拝」という事です。
私たちはその事を教えて下さった、イエズス・キリストに従いたいと思います。
私たちは今言われているような、全ては、私たちの心も、体も、精神も、全てを込めて、環境を大切にする、そうではなくて、心を尽くして、力を尽くして、全てを尽くして、「真の主なる天主を愛し、そしてその尊き御旨を果たす。イエズス・キリストがいつも教えて下さったその教えを、信じ続けたい、やり続けたい」と思います。
つまり私たちは、integralな、欠ける事のない、そのままのカトリック信仰を信じる事によって、その声を聞き分ける事によって、真の牧者イエズス・キリストに付き従いたいと思います。
過去、私たちにはそのような立派な牧者たちが、イエズス様に倣う聖なる牧者たちがいました。日本に遠くから来て下さった聖フランシスコ・ザビエル、あるいは日本の為に殉教した多くの司祭たち、あるいは司教様等々、私たちもそのような牧者たちの声に従いたいと思います。
過去そのような方々もいましたが、つい最近でもいました。それはルフェーブル大司教様です。ルフェーブル大司教様こそ、私たちに、「イエズス様に従う、今この現代において、従うとはどのような事か」という事を、模範を以て示して下さいました。自分の名誉とか、自分の利益よりも、霊魂の為に、超自然の命の為に、命をかけて、体を張って、私たちに聖伝の教えを、カトリックの教えを伝える事ができるように助けて下さいました。
私たち聖ピオ十世会の司祭も、非常に不肖ながら、そして非常に力は劣るものでありながら、天主様の御助けによって、マリア様の御助けによって、イエズス様の御跡を従いたいと思っています。
そして特に今のこの時代、感染病が流行っている今この時に、皆さんの傍に留まる事ができて、私は本当に天主様に感謝しています。良き牧者としてミサを捧げる事ができて、そしてイエズス・キリストを与える事ができて、イエズス様の教えを何とかして伝える事ができて、本当に感謝しております。
願わくは、イエズス様に従う多くの聖なる司祭が、イエズス様を真似る良き牧者たちが、第2の牧者たちが、日本から、それから世界中から出てきますように、与えられますように、お祈り致しましょう。
マリア様にお祈り致します、聖母の汚れなき御心、大司祭イエズス様の御母であるマリア様、私たちの為にいつもお祈り下さい。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。