アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、第266代ローマ教皇として選ばれた時(2013年3月13日)、なぜ、彼がフランシスコという名前をとったのか、時がたつにつれてますますよく理解できるようになってきました。これは単なる思い付きではなく、深い意味がありました。
かつてアシジの聖フランシスコが教会を霊的に高めて改革したように、カトリック教会を「改革」しようとする、改革者としての「フランシスコ」、ただしアシジの聖フランシスコの一部だけを取り上げたやり方での「改革」をしようと、この名前が取られたかのようです。
教皇フランシスコの最初の回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)の最初の言葉は、アシジの聖フランシスコの「賛美の詩歌」から取られています。
アマゾン・シノドスは、2019年のアシジの聖フランシスコの祝日(10月4日)に始まりました。
アシジの聖フランシスコは、主から教会を立て直す使命をうけました。教会を改革する使命です。そのやり方は、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストをまねることによってでした。
聖フランシスコは、福音を生きました。ですからこそ全キリスト教世界を改革することができました。霊魂らを高めることができました。聖フランシスコは、被造物から、天主へと心を挙げましたが、それと同時に被造物の虚しさ・はかなさをも理解していました。全被造物は、イエズス・キリストを賛美するためにあったのです。
天主は、人間となったのは、私たちが真似ることができるためです。十字架によってイエズス・キリストと似たものとなる。聖フランシスコが、そうでした。
【ヨハネ・パウロ二世】
ヨハネ・パウロ二世の名前は、第二バチカン公会議の実現を意味するものでした。つまり、第二バチカン公会議を開催したヨハネ二十三世と、それを閉会するまで続けたパウロ六世との植えた種を実らせる、という意味で「ヨハネ・パウロ」という名前が取られました。
ヨハネ・パウロ二世の行動原理は、その最初の回勅『人間の贖い主』(1979年3月4日)の中にある一節:「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。
ヨハネ・パウロ二世は、第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit. )の中にあった、「ある意味で」を取り除いて、これを理解していました。
この文章の「すべての人間」を、すでに死んで地獄に堕ちてしまった人々を除いたすべての人間であると理解すると、「ある意味で」は「可能態として」あるいは「現実態として」と理解できます。すべての人は、もしも信仰と愛徳を持つならキリストと一致する「可能性」を持つことになったので、可能態にあるという意味で一致する、ということができますし、もうすでに信仰と愛徳を持っている人の場合であれば、現実に一致しているといえます。
ヨハネ・パウロ二世は、絶対的な意味で、「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」と理解していました。その理解を目に見える形で実現したのが、全ての宗教の代表者を招いて行ったアシジの祈祷集会(1986年10月27日)でした。
【教皇フランシスコ】
『ラウダート・シ』の中核の原理は、第二バチカン公会議の展開である「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」です。
『ラウダート・シ』をどう理解すべきかを目に見える形で実現したのが、2019年10月のアマゾン・シノドスでした。
アマゾン・シノドスの光によって『ラウダート・シ』を見直してみましょう。
教皇フランシスコは、キリストの代理者として聖ペトロの座から権威をもって全カトリック信者たちに教える、兄弟たちの信仰を固める、ということをしているのでしょうか? いいえ。
教皇の教皇としての第一の義務は、カトリック信者たちに教義と倫理について権威をもって教えることですが、しかし、教皇フランシスコは、権威をもって信徒たちを教えているのではいません。
そうではなく「この惑星に住むすべての人々に語りかけたいと思う」(I wish to address every person living on this planet.)と言い、「この回勅で、私はすべての人々と私たちの共通の家について対話をしたいと思う」(In this Encyclical, I would like to enter into dialogue with all people about our common home.)と言っています。
無神論者であろうが、異教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、この地上にいる全ての人々と対話をしたい、と言うのです。そこで、教皇は「教える」という責務を放棄して、対話に入ろうとするのです。
ですから、この回勅には不可謬性は帯びておらず、私たちはこの内容に賛同するのも、これを批判するのも、自由にすることができます。「信じなさい」ではなく、「対話に入りたい」というだけだからです。
アマゾン・シノドスのInstrumentum Laboris にはっきり書かれています。
Pan-Amazon Synod. The Working Document for the Synod of Bishops
ここでも、教会がこの世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うものに変容することが述べられています。
「人々と自然との相互に聞くことによって、教会は、地理的にも構造的にも出ていく一つの教会に変容し、またシノドス性を通して姉妹であり弟子である教会に変わる。」(92. Through mutual listening to peoples and nature, the Church transforms into a Church that goes out in both geographical and structural ways, and a Church that is sister and disciple through synodality.)
私たちのこの記事での考察は、教皇フランシスコを深く理解したいという望みから出ていますが、教皇様には、教皇として権威をもって教えるという聖なる務めに立ち戻っていただきたいと、心から願います。
教皇職を聖なるものとして愛し守っていただきたい、とカトリック教会と教皇とに対する愛に燃えて、心から願います。
では、教皇フランシスコにとっての最大の関心事は何でしょうか? 何が最も大切で、私たちに何を訴えているのでしょうか?
天主に対して犯される罪、贖いの業、霊魂の救いでしょうか?
大罪一つでも、霊魂が永遠に失われてしまうこと、地獄の恐ろしさ、でしょうか?
天主の御稜威、聖寵の状態を保つ必要性、秘蹟の大切さ、でしょうか?
罪を犯して、天主を捨て去ることでしょうか?
そうではありません。
彼にとってもっとも重大な問題の一つは、廃棄物です。「私たちの家である地球は、ますます巨大なごみ溜めのように見え始めている。この惑星の多くの多くの部分では、高齢者たちはかつては美しかった風景が今ではごみに覆われていると嘆いている。」(21. The earth, our home, is beginning to look more and more like an immense pile of filth. In many parts of the planet, the elderly lament that once beautiful landscapes are now covered with rubbish.)
もっとも重大な問題は、使い捨て文化です。例えば、リサイクルをせずに紙を捨てることです。(22. These problems are closely linked to a throwaway culture which affects the excluded just as it quickly reduces things to rubbish. To cite one example, most of the paper we produce is thrown away and not recycled.)
この回勅においては、霊魂が毎日のように失われていることも、毎日のように超自然の信仰を失い教会を離れていく霊魂たちについては、関心がないようです。ファチマで天使が訴えた、罪の償い、についても、ファチマの聖母がお願いした罪びとたちの回心のための祈りと犠牲もありません。
「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」
1917年10月13日、ファチマの聖母はますます悲しそうな様子になられて、こう言われました。「もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」
教皇フランシスコが、全世界にいる全ての人に訴えているのは、永遠に不死の霊魂を救うことでしょうか? そのために天主が人となって十字架の上で贖いを業を成し遂げた霊魂の救いでしょうか? 私たちの主の贖いの御業の無限の価値でしょうか?
そうではありません。
回勅で訴えられているのは、絶滅危惧種の動植物、森林を守ること、生物多様性を保護することです。(32. The loss of forests and woodlands entails the loss of species which may constitute extremely important resources in the future...)
教皇フランシスコが訴えるのは、動植物が失われることの重大さであって、霊魂が永遠に失われることではありません。
何故なら、回勅によると「それぞれの種は、それ自体で価値を持っている」から(ママ)です。(33. It is not enough, however, to think of different species merely as potential “resources” to be exploited, while overlooking the fact that they have value in themselves.)
しかし、カトリック信仰によれば、被造物は天主のより大いなる栄光のために創造されたのですから、どれほど崇高な被造物であったとしても、知性と意志とを備えた人間であったとしても、どれほど高貴な天使であったとしても、それ自体では価値はありません。
回勅は、私たちが直面している悪に対して、全人類にどのような解決策を提案しているのでしょうか?
天主に向かって回心することでしょうか?天主の聖寵の助けを願うこと、秘蹟による恵みを乞うことでしょうか?洗礼の恵みを受けることでしょうか?個人的な聖化に努めることでしょうか?祈りと犠牲とをキリストの十字架に合わせて捧げることでしょうか?すべてを天主の栄光のために秩序付けて、被造物を天主のために、霊魂の救いのためにのみ使うことでしょうか?諸民族が王たるキリストに回心することによるのでしょうか?
そうではありません。
問題の解決は、人間が、動植物や大自然に従うこと、とされます。エコロジーのイデオロギーを信じ、実践すること、とされています。
あたかも原罪が存在していないかのように、罪が存在していないかのように、全ての悪の根源は、社会の構造から、搾取から由来する、とされます。
では、回勅『ラウダート・シ』をもって教皇フランシスコはどこへ教会を連れて行こうとする、教会をどのように「改革」しようとするのでしょうか?
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
(続く)
愛する兄弟姉妹の皆様、
ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)を利用して、教皇フランシスコの考えをよく理解するようにしましょう。
ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が、第266代ローマ教皇として選ばれた時(2013年3月13日)、なぜ、彼がフランシスコという名前をとったのか、時がたつにつれてますますよく理解できるようになってきました。これは単なる思い付きではなく、深い意味がありました。
かつてアシジの聖フランシスコが教会を霊的に高めて改革したように、カトリック教会を「改革」しようとする、改革者としての「フランシスコ」、ただしアシジの聖フランシスコの一部だけを取り上げたやり方での「改革」をしようと、この名前が取られたかのようです。
教皇フランシスコの最初の回勅『ラウダート・シ』(2015年5月24日)の最初の言葉は、アシジの聖フランシスコの「賛美の詩歌」から取られています。
アマゾン・シノドスは、2019年のアシジの聖フランシスコの祝日(10月4日)に始まりました。
アシジの聖フランシスコは、主から教会を立て直す使命をうけました。教会を改革する使命です。そのやり方は、イエズス・キリストを通して、イエズス・キリストをまねることによってでした。
聖フランシスコは、福音を生きました。ですからこそ全キリスト教世界を改革することができました。霊魂らを高めることができました。聖フランシスコは、被造物から、天主へと心を挙げましたが、それと同時に被造物の虚しさ・はかなさをも理解していました。全被造物は、イエズス・キリストを賛美するためにあったのです。
天主は、人間となったのは、私たちが真似ることができるためです。十字架によってイエズス・キリストと似たものとなる。聖フランシスコが、そうでした。
【ヨハネ・パウロ二世】
ヨハネ・パウロ二世の名前は、第二バチカン公会議の実現を意味するものでした。つまり、第二バチカン公会議を開催したヨハネ二十三世と、それを閉会するまで続けたパウロ六世との植えた種を実らせる、という意味で「ヨハネ・パウロ」という名前が取られました。
ヨハネ・パウロ二世の行動原理は、その最初の回勅『人間の贖い主』(1979年3月4日)の中にある一節:「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」です。
ヨハネ・パウロ二世は、第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」(Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit. )の中にあった、「ある意味で」を取り除いて、これを理解していました。
この文章の「すべての人間」を、すでに死んで地獄に堕ちてしまった人々を除いたすべての人間であると理解すると、「ある意味で」は「可能態として」あるいは「現実態として」と理解できます。すべての人は、もしも信仰と愛徳を持つならキリストと一致する「可能性」を持つことになったので、可能態にあるという意味で一致する、ということができますし、もうすでに信仰と愛徳を持っている人の場合であれば、現実に一致しているといえます。
ヨハネ・パウロ二世は、絶対的な意味で、「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた」と理解していました。その理解を目に見える形で実現したのが、全ての宗教の代表者を招いて行ったアシジの祈祷集会(1986年10月27日)でした。
【教皇フランシスコ】
『ラウダート・シ』の中核の原理は、第二バチカン公会議の展開である「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」です。
『ラウダート・シ』をどう理解すべきかを目に見える形で実現したのが、2019年10月のアマゾン・シノドスでした。
アマゾン・シノドスの光によって『ラウダート・シ』を見直してみましょう。
教皇フランシスコは、キリストの代理者として聖ペトロの座から権威をもって全カトリック信者たちに教える、兄弟たちの信仰を固める、ということをしているのでしょうか? いいえ。
教皇の教皇としての第一の義務は、カトリック信者たちに教義と倫理について権威をもって教えることですが、しかし、教皇フランシスコは、権威をもって信徒たちを教えているのではいません。
そうではなく「この惑星に住むすべての人々に語りかけたいと思う」(I wish to address every person living on this planet.)と言い、「この回勅で、私はすべての人々と私たちの共通の家について対話をしたいと思う」(In this Encyclical, I would like to enter into dialogue with all people about our common home.)と言っています。
無神論者であろうが、異教徒であろうが、キリスト教徒であろうが、ユダヤ教徒であろうが、この地上にいる全ての人々と対話をしたい、と言うのです。そこで、教皇は「教える」という責務を放棄して、対話に入ろうとするのです。
ですから、この回勅には不可謬性は帯びておらず、私たちはこの内容に賛同するのも、これを批判するのも、自由にすることができます。「信じなさい」ではなく、「対話に入りたい」というだけだからです。
アマゾン・シノドスのInstrumentum Laboris にはっきり書かれています。
Pan-Amazon Synod. The Working Document for the Synod of Bishops
ここでも、教会がこの世に聴従し、「弟子」として「姉妹」としてこの世に従うものに変容することが述べられています。
「人々と自然との相互に聞くことによって、教会は、地理的にも構造的にも出ていく一つの教会に変容し、またシノドス性を通して姉妹であり弟子である教会に変わる。」(92. Through mutual listening to peoples and nature, the Church transforms into a Church that goes out in both geographical and structural ways, and a Church that is sister and disciple through synodality.)
私たちのこの記事での考察は、教皇フランシスコを深く理解したいという望みから出ていますが、教皇様には、教皇として権威をもって教えるという聖なる務めに立ち戻っていただきたいと、心から願います。
教皇職を聖なるものとして愛し守っていただきたい、とカトリック教会と教皇とに対する愛に燃えて、心から願います。
では、教皇フランシスコにとっての最大の関心事は何でしょうか? 何が最も大切で、私たちに何を訴えているのでしょうか?
天主に対して犯される罪、贖いの業、霊魂の救いでしょうか?
大罪一つでも、霊魂が永遠に失われてしまうこと、地獄の恐ろしさ、でしょうか?
天主の御稜威、聖寵の状態を保つ必要性、秘蹟の大切さ、でしょうか?
罪を犯して、天主を捨て去ることでしょうか?
そうではありません。
彼にとってもっとも重大な問題の一つは、廃棄物です。「私たちの家である地球は、ますます巨大なごみ溜めのように見え始めている。この惑星の多くの多くの部分では、高齢者たちはかつては美しかった風景が今ではごみに覆われていると嘆いている。」(21. The earth, our home, is beginning to look more and more like an immense pile of filth. In many parts of the planet, the elderly lament that once beautiful landscapes are now covered with rubbish.)
もっとも重大な問題は、使い捨て文化です。例えば、リサイクルをせずに紙を捨てることです。(22. These problems are closely linked to a throwaway culture which affects the excluded just as it quickly reduces things to rubbish. To cite one example, most of the paper we produce is thrown away and not recycled.)
この回勅においては、霊魂が毎日のように失われていることも、毎日のように超自然の信仰を失い教会を離れていく霊魂たちについては、関心がないようです。ファチマで天使が訴えた、罪の償い、についても、ファチマの聖母がお願いした罪びとたちの回心のための祈りと犠牲もありません。
「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。”イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」
1917年10月13日、ファチマの聖母はますます悲しそうな様子になられて、こう言われました。「もうこれ以上天主なる私たちの主に罪を犯してはなりません。すでに主はあまりにも多く犯されています。」
教皇フランシスコが、全世界にいる全ての人に訴えているのは、永遠に不死の霊魂を救うことでしょうか? そのために天主が人となって十字架の上で贖いを業を成し遂げた霊魂の救いでしょうか? 私たちの主の贖いの御業の無限の価値でしょうか?
そうではありません。
回勅で訴えられているのは、絶滅危惧種の動植物、森林を守ること、生物多様性を保護することです。(32. The loss of forests and woodlands entails the loss of species which may constitute extremely important resources in the future...)
教皇フランシスコが訴えるのは、動植物が失われることの重大さであって、霊魂が永遠に失われることではありません。
何故なら、回勅によると「それぞれの種は、それ自体で価値を持っている」から(ママ)です。(33. It is not enough, however, to think of different species merely as potential “resources” to be exploited, while overlooking the fact that they have value in themselves.)
しかし、カトリック信仰によれば、被造物は天主のより大いなる栄光のために創造されたのですから、どれほど崇高な被造物であったとしても、知性と意志とを備えた人間であったとしても、どれほど高貴な天使であったとしても、それ自体では価値はありません。
回勅は、私たちが直面している悪に対して、全人類にどのような解決策を提案しているのでしょうか?
天主に向かって回心することでしょうか?天主の聖寵の助けを願うこと、秘蹟による恵みを乞うことでしょうか?洗礼の恵みを受けることでしょうか?個人的な聖化に努めることでしょうか?祈りと犠牲とをキリストの十字架に合わせて捧げることでしょうか?すべてを天主の栄光のために秩序付けて、被造物を天主のために、霊魂の救いのためにのみ使うことでしょうか?諸民族が王たるキリストに回心することによるのでしょうか?
そうではありません。
問題の解決は、人間が、動植物や大自然に従うこと、とされます。エコロジーのイデオロギーを信じ、実践すること、とされています。
あたかも原罪が存在していないかのように、罪が存在していないかのように、全ての悪の根源は、社会の構造から、搾取から由来する、とされます。
では、回勅『ラウダート・シ』をもって教皇フランシスコはどこへ教会を連れて行こうとする、教会をどのように「改革」しようとするのでしょうか?
聖ヨゼフ、我らのために祈り給え!
(続く)