2020年5月3日(主日)御復活後第3主日聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日御復活後第3の主日、イエズス様は福音で私たちにこう言います、「まもなくあなたたちは私を見ない。また、まもなく私を見るだろう。」
この「まもなく」というのはどういう意味でしょうか?
教会はここで、「私たちの人生がまもないものである。まもなく終わるものである。非常に短いものである。しかしこの人生がまもなく終わるけれども、イエズス様をまもなく見るだろう」と、この世の儚さを教えています。
聖ペトロも同じ事を言います、「愛する者よ、私はあなたたちに勧めたい。あなたたちは他国人であり、旅人である。だから霊魂に逆らう肉の欲を避けよ。」
あなたたちは外国人である。旅人である。この地上に本籍を持っていない。この地上ではよそ者だ。ここの地上にはずっと住処を持つ事ができない。いつかはここを発たなければならない。ほんのしばらくの間いる旅人だ。だから愛着するな。私たちの究極の目的である天国を、復活を、いつも目指していよ。この眼をイエズス・キリスト、復活されたイエズス・キリストにしっかり見据えておけ、と勧めています。
第2のポイントは、ではイエズス様は私たちに、この復活を与える為に、この短い人生が終わった後に、永遠の終わる事のない果てしない復活の喜びを与える為に、何をされたでしょうか?
この世が創造されるその前から、私たちを愛し、その創造する前から、この世が私たちが創られる前から、この世界が始まる前から、特別の愛の計画がありました。それは、「私たちの主が、創造されない天主の御言葉が、天主の御一人子が人間となって、私たちの為に、私たちの罪の償いとして、御自分の人生を、命を、私たちに全く与え尽くす」という事です。
33年間、清貧と、貞潔と、従順の御生涯。沈黙の、労働の、祈りの御生涯。
そして人生の夕べには、その愛の限りを尽くして、私たちの為に御教えを教え、権威を以って教えられ、天国の道に行く道術を教えられ、秘跡を制定され、私たちが永遠の命を受ける事ができるように、「何も恐れるな、ただ私たちを地獄に落とし入れる事ができる者、天主を恐れよ。罪を犯す事を恐れよ」と教えます。
そしてその罪の赦しの為に、私たちの罪の贖いとして、御自分の御血潮を全て流し尽され、愛の極みとして、御自身の御体を私たちに与える御聖体を制定され、ミサを、聖なるミサ聖祭を制定され、そして復活されました。
そしてこの復活が本当である事を、何度も何度も、40日の間弟子たちに御自分をお見せになり、「このような復活が私たちに与えられる」という事を約束されました。
この約束は決して破られる事がありません。私たちは永遠の命を受ける為に、主を天主を知り、信じ、愛し、これに奉仕して、霊魂を救う為に、永遠の命を受ける為に、この世に生まれてきました。
この地上での儚い生活はあっという間に終わりますけれども、イエズス様の御血の功徳によって、イエズス様の愛のその贖いの業によって、イエズス様の望む通り制定されたイエズス様の救いの道を信じ、洗礼を受ける事によって、私たちには永遠の命、復活が待っています。
その為にこそ聖父、天主聖父は聖子さえも容赦せず、恐ろしい十字架の受難を受ける事さえもお許しになりました。イエズス様はあたかも聖父から捨てられたかのように苦しまれました、「我が天主よ、我が天主よ、なぜ私を捨て給うのか。」十字架の上で祈られたほどです。
この十字架の贖いの実りこそ、カトリック教会が、イエズス・キリストが立てた唯一の救いの方舟であるカトリック教会がいつも教えてきた事です。永遠の命。
ですから教会は、洗礼を受けようとする人にこう聞きます、「あなたは、天主の教会に何を求めますか?」「信仰を。」「信仰はあなたに何を与えるのですか?」「永遠の命を。」
私たちはこれをこそ、天主の教会に、カトリック教会に求めています。「真の信仰」そして「永遠の命」これです。
第3に、では愛する兄弟の皆さん、この主の復活の喜びに浸ると共に、この私たちの目を、周りに少し見回してみましょう。
私たちの周りでは、この教えが聞かれる事が無くなってしまっています。ますますこの声がか細くなっています、「永遠の命」、「復活」、「罪」、「地獄」、「聖寵」、「天主聖子が成した贖いの業」について、どれほど聞く事ができるでしょうか?
そのような声は、他の雑音にかき消されてしまっているかのようです。そうではなくて、この地上の事、この物理的な物質的な事だけがこだまして、大きく騒がれているかのようです。
あたかもこの私たちがこの地上で永遠に生きるかのように、あたかもこの地上で永遠に住処を備えなければならないかのように聞かれています。
ファチマのシスタールチアは、まだ生きている間こう言っていました、「ローマから、あるいは司教様から、罪の償いをする呼びかけがあるなどと期待しないで下さい。私たち自身でそうしなければなりません。ロザリオを唱えて下さい。マリア様はこの時代に、『ロザリオに特別の力を与えた』と言っています。ロザリオによって解決できない問題はない」と。
愛する兄弟の皆さん、ですからこの最後に、5月聖母聖月、良い遷善の決心を立てましょう。
私たちがこの地上の儚さをよく理解する事ができますように、罪の儚さ、罪の醜さ、罪の邪悪さを、私たちが深く理解する事ができますように、永遠の復活の命が待っているという事が、私たちがこれを深く確信する事ができますように。
今まで、どれほど復活が無いように生きてきた事でしょうか、どれほど息を吸うように罪を犯してきた事でしょうか、どれほどイエズス様が私たちを見ていないかのように、私たちはイエズス様が天主がいないかのように生活してきた事でしょうか。
そうではなくて、イエズス様がいつも私たちの生活を見て喜ばれるように、良き、イエズス様へと向かう旅人として、この地上のよそ者として生活する事ができますように。
マリア様にお祈り致しましょう。ロザリオを唱える事によって、ロザリオの15の玄義を黙想する事によって、ロザリオをよく唱える事によって、聖母の聖月を聖なる日々を送る事によって、特にロザリオをよく唱える事によって、この信仰の御恵みを乞い求めましょう。私たちの愛する兄弟姉妹の皆さん、家族の方々、友人の方々、隣人の方々の為に、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日御復活後第3の主日、イエズス様は福音で私たちにこう言います、「まもなくあなたたちは私を見ない。また、まもなく私を見るだろう。」
この「まもなく」というのはどういう意味でしょうか?
教会はここで、「私たちの人生がまもないものである。まもなく終わるものである。非常に短いものである。しかしこの人生がまもなく終わるけれども、イエズス様をまもなく見るだろう」と、この世の儚さを教えています。
聖ペトロも同じ事を言います、「愛する者よ、私はあなたたちに勧めたい。あなたたちは他国人であり、旅人である。だから霊魂に逆らう肉の欲を避けよ。」
あなたたちは外国人である。旅人である。この地上に本籍を持っていない。この地上ではよそ者だ。ここの地上にはずっと住処を持つ事ができない。いつかはここを発たなければならない。ほんのしばらくの間いる旅人だ。だから愛着するな。私たちの究極の目的である天国を、復活を、いつも目指していよ。この眼をイエズス・キリスト、復活されたイエズス・キリストにしっかり見据えておけ、と勧めています。
第2のポイントは、ではイエズス様は私たちに、この復活を与える為に、この短い人生が終わった後に、永遠の終わる事のない果てしない復活の喜びを与える為に、何をされたでしょうか?
この世が創造されるその前から、私たちを愛し、その創造する前から、この世が私たちが創られる前から、この世界が始まる前から、特別の愛の計画がありました。それは、「私たちの主が、創造されない天主の御言葉が、天主の御一人子が人間となって、私たちの為に、私たちの罪の償いとして、御自分の人生を、命を、私たちに全く与え尽くす」という事です。
33年間、清貧と、貞潔と、従順の御生涯。沈黙の、労働の、祈りの御生涯。
そして人生の夕べには、その愛の限りを尽くして、私たちの為に御教えを教え、権威を以って教えられ、天国の道に行く道術を教えられ、秘跡を制定され、私たちが永遠の命を受ける事ができるように、「何も恐れるな、ただ私たちを地獄に落とし入れる事ができる者、天主を恐れよ。罪を犯す事を恐れよ」と教えます。
そしてその罪の赦しの為に、私たちの罪の贖いとして、御自分の御血潮を全て流し尽され、愛の極みとして、御自身の御体を私たちに与える御聖体を制定され、ミサを、聖なるミサ聖祭を制定され、そして復活されました。
そしてこの復活が本当である事を、何度も何度も、40日の間弟子たちに御自分をお見せになり、「このような復活が私たちに与えられる」という事を約束されました。
この約束は決して破られる事がありません。私たちは永遠の命を受ける為に、主を天主を知り、信じ、愛し、これに奉仕して、霊魂を救う為に、永遠の命を受ける為に、この世に生まれてきました。
この地上での儚い生活はあっという間に終わりますけれども、イエズス様の御血の功徳によって、イエズス様の愛のその贖いの業によって、イエズス様の望む通り制定されたイエズス様の救いの道を信じ、洗礼を受ける事によって、私たちには永遠の命、復活が待っています。
その為にこそ聖父、天主聖父は聖子さえも容赦せず、恐ろしい十字架の受難を受ける事さえもお許しになりました。イエズス様はあたかも聖父から捨てられたかのように苦しまれました、「我が天主よ、我が天主よ、なぜ私を捨て給うのか。」十字架の上で祈られたほどです。
この十字架の贖いの実りこそ、カトリック教会が、イエズス・キリストが立てた唯一の救いの方舟であるカトリック教会がいつも教えてきた事です。永遠の命。
ですから教会は、洗礼を受けようとする人にこう聞きます、「あなたは、天主の教会に何を求めますか?」「信仰を。」「信仰はあなたに何を与えるのですか?」「永遠の命を。」
私たちはこれをこそ、天主の教会に、カトリック教会に求めています。「真の信仰」そして「永遠の命」これです。
第3に、では愛する兄弟の皆さん、この主の復活の喜びに浸ると共に、この私たちの目を、周りに少し見回してみましょう。
私たちの周りでは、この教えが聞かれる事が無くなってしまっています。ますますこの声がか細くなっています、「永遠の命」、「復活」、「罪」、「地獄」、「聖寵」、「天主聖子が成した贖いの業」について、どれほど聞く事ができるでしょうか?
そのような声は、他の雑音にかき消されてしまっているかのようです。そうではなくて、この地上の事、この物理的な物質的な事だけがこだまして、大きく騒がれているかのようです。
あたかもこの私たちがこの地上で永遠に生きるかのように、あたかもこの地上で永遠に住処を備えなければならないかのように聞かれています。
ファチマのシスタールチアは、まだ生きている間こう言っていました、「ローマから、あるいは司教様から、罪の償いをする呼びかけがあるなどと期待しないで下さい。私たち自身でそうしなければなりません。ロザリオを唱えて下さい。マリア様はこの時代に、『ロザリオに特別の力を与えた』と言っています。ロザリオによって解決できない問題はない」と。
愛する兄弟の皆さん、ですからこの最後に、5月聖母聖月、良い遷善の決心を立てましょう。
私たちがこの地上の儚さをよく理解する事ができますように、罪の儚さ、罪の醜さ、罪の邪悪さを、私たちが深く理解する事ができますように、永遠の復活の命が待っているという事が、私たちがこれを深く確信する事ができますように。
今まで、どれほど復活が無いように生きてきた事でしょうか、どれほど息を吸うように罪を犯してきた事でしょうか、どれほどイエズス様が私たちを見ていないかのように、私たちはイエズス様が天主がいないかのように生活してきた事でしょうか。
そうではなくて、イエズス様がいつも私たちの生活を見て喜ばれるように、良き、イエズス様へと向かう旅人として、この地上のよそ者として生活する事ができますように。
マリア様にお祈り致しましょう。ロザリオを唱える事によって、ロザリオの15の玄義を黙想する事によって、ロザリオをよく唱える事によって、聖母の聖月を聖なる日々を送る事によって、特にロザリオをよく唱える事によって、この信仰の御恵みを乞い求めましょう。私たちの愛する兄弟姉妹の皆さん、家族の方々、友人の方々、隣人の方々の為に、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。