天主である聖体
聖体は万物の主宰者である
礼拝 聖体をあなたの主人、あなたの君主として敬まいながら、心からのおそれと尊敬とをもってそのみ前にひれ伏そう。
主は万物を虚無からお造りになった。また、主がおいでにならなければ被造物は何ひとつとして一瞬間もその存在をつづけることができないだろう。主はこうして万物を所有し、永遠にこれを支配されるのである。
だからあなたは大きな愛をもって、この絶対普遍永遠の支配者を礼拝しなければならない。
旧約のエステルが深い信頼をもって唱えた祈りを繰り返して、主の光栄ある主権を賛美しよう。『全能なる天主よ、万物は主によりて支配され、主のおぼしめしに反抗しうるものはひとつだにあることなし。なんとなれば、天と地と、またふたつのものの含むいっさいを造りたまいしは主にして、主は万物の最上の主宰者なればなり』と。
天主の主権は次に述べるふたつの特徴を具備している。
(一)あらゆるものは、天主だけに属し、主はどんなものをも、そのおぼしめしのままに、どうにでも取り扱うことができる。すなわち天主は、万物をあるいは生かし、あるいは殺し、あるいは飾り、あるいは醜くし、あるいは完成し、あるいは滅ぼされる。これは主が被造物に対して所有権に基づいて行われるところである。
(二)主は望まれるままに、あるいは命じ、あるいは禁じ、あるいは許し、あるいは賞し、あるいは罰される。これは主が被造物に対して支配権に基づいて行われるところである。
このふたつの権利、すなわち天主の所有権と支配権とは、際限なく終りがない。あらゆる被造物に関して、それらの本体とそれらの存在とに及び、主はおぼしめしのままにご自由に、これらの権利を行使されるのである。
なぜなら、天主は万物の創造と支持との唯一のあるじであり、被造物は彼ら自身では虚無にすぎない。また、天主の生きた御助けがなくては、何ひとつなすことができず、何ひとつ思うことさえできないからである。
ああ、感嘆すべき広大な天主の主権よ。私たちはどんなに深い、無限の絶え間ない礼拝を主にささげ、いかなる服従、いかなる協力を主にしなければならないであろうか。
今私たち被造物にお与えになったホスチアのうちに、いかに天主の最上の主権が輝いているかをみよう。主はおおせられた。『食せよ、飲めよ、わがからだを食するものは永遠の生命を有して、死することなし』と。
聖体はどんな民のもとにおいても、また、どんな時代においても人類の支配者である。聖体は時間と国境とを超越して、すべての人々の尊敬を要求し、ご自身に近づく者に純潔、けんそん、服従などの諸徳の実行をお命じになる。
また聖体は、教会の諸階級の聖職者を通じて、世界を統治される。これらの人々は、上は教皇から、下は一司祭に至るまで、聖体の王国の召使いであり、軍人である。彼らの第一の任務は世人を聖体に服従させ、献身させることである。このようにして聖体は全人類のひとりひとりと、社会の全体とを同様に統治されるのである。
だからあなたは最上の主なるホスチアを拝し、王の王、主の主としてこれを賛えなければならない。
感謝 天主の最上の主権はさきに延べたとおり広大であるから、私たちに信頼よりは、むしろおそれの念を起こさせるかのようにみえる。主という名は、愛よりもむしろ力を示すものである。それにもかかわらず、聖体の主は柔和にして愛深く、自ら私たちの感謝を呼び起こす御方である。
このように主に仕え、このように主にだけ属していることは、私たちにとっていかなる名誉と祝福とであろうか。この世の権威者は実は天主の権威の代表者にすぎない。だから、私たちが服従するところの唯一のまことの主は天主だけであるといわなければならない。
しかも天主が被造物を支配されるに際して、もっておいでになる目的は、彼らを完璧に導いて、大きな愛をもって創造されたときに準備なさった天国に彼らをお招きになることである。このすべてが天主のまことの慈愛のあらわれではないだろうか。
しかし、天主の慈愛が最も明らかに知られるのは、聖体によって世をお治めになるときにおいてである。主が聖体の中で示されるその親切、慈愛、同情にまさるものが、はたしてほかにあるだろうか。
聖ひつの中のけんそんにして愛すべきホスチアの姿は、なんのおそれをも起こさせない。ホスチアが私たちを支配なさるその方法は暴力でも威嚇でもなく、ただ純粋な愛だけである。
主が私たちに対して、常にやさしく忍耐に富み、私たちの怠惰、不忠、反抗をもお怒りにならず、愛だけをもって私たちの心を従わせようとされるのは、なんとありがたいことではないか。
主が聖体の秘跡において大いなる愛をもってあなたに対されることを考えるなら、心の底から感謝の讃美歌が自らあふれ出ることだろう。 償い それでは、もし私たちが、自分自身および自分のもっている健康、才能、財産等は全く自分のものであって、気ままにそれを使用することができると考えるなら、それは大きな罪である。なぜなら、天主だけが人間と人間の所有しているいっさいのものとの真正な持ち主あられるからである。
また人間が『人の権利』を絶対的に主張するとき同じようにこの罪が犯される。なぜならその実、私たちには、天主が人間に与えられた権利、すなわち自由に天主に服従する権利のほかには、なんの権利もないからである。権利は持ち主のほかにないはずである。
ところが人には何ひとつほんとうに所有するものがない。彼の思想も、良心も、また社会上の地位も、実は天主のものである。だから天主を除外して、思想、良心、社会の自由を説くのは、天主の権利に対しての冒瀆である。
だから、あなたは、天主の権利を声高く宣言して、この冒瀆を償わなければならない。天主の権利こそ、あらゆるまことの神聖な自由の保証である。あなたは天主の最上主権のもとに、この自由を使役して、はじめてあなたの永遠の目的に至ることができるであろう。
また、主は人類を支配なさるために、聖体の秘跡の中に隠れて、これを主の光栄の玉座とされた。だから、あなたは、たびたびひとりで聖体の前に出て、あるいは、人々といっしょにそのみ前に集まって、これを礼拝し、賛美し、償いをささげなければならない。
祈願 常に天主のおきてを守り、天主の啓示を重んじ、特に天主のお送りになる試練を堪え忍んで、天主の最上主権をあがめるよう決心し、それに必要な恩恵を願い求めよう。試練のうちに主に従うことは、困難に際してもなお創造主のおぼしめしを礼拝することである。
だからどんな場合にも主の御知恵に信頼して、主が誤られることがないと信じ、また主の慈愛に信頼して、主がその主権を乱用されないことを、かたく信じなければならない。
実行 それゆえ私たちは、イエズスご自身が御父におおせられた御言葉を一刻も忘れないようにしよう。『しかり父よ、そはなんじのみ心にかないたればなり』と。
聖体は万物の主宰者である
礼拝 聖体をあなたの主人、あなたの君主として敬まいながら、心からのおそれと尊敬とをもってそのみ前にひれ伏そう。
主は万物を虚無からお造りになった。また、主がおいでにならなければ被造物は何ひとつとして一瞬間もその存在をつづけることができないだろう。主はこうして万物を所有し、永遠にこれを支配されるのである。
だからあなたは大きな愛をもって、この絶対普遍永遠の支配者を礼拝しなければならない。
旧約のエステルが深い信頼をもって唱えた祈りを繰り返して、主の光栄ある主権を賛美しよう。『全能なる天主よ、万物は主によりて支配され、主のおぼしめしに反抗しうるものはひとつだにあることなし。なんとなれば、天と地と、またふたつのものの含むいっさいを造りたまいしは主にして、主は万物の最上の主宰者なればなり』と。
天主の主権は次に述べるふたつの特徴を具備している。
(一)あらゆるものは、天主だけに属し、主はどんなものをも、そのおぼしめしのままに、どうにでも取り扱うことができる。すなわち天主は、万物をあるいは生かし、あるいは殺し、あるいは飾り、あるいは醜くし、あるいは完成し、あるいは滅ぼされる。これは主が被造物に対して所有権に基づいて行われるところである。
(二)主は望まれるままに、あるいは命じ、あるいは禁じ、あるいは許し、あるいは賞し、あるいは罰される。これは主が被造物に対して支配権に基づいて行われるところである。
このふたつの権利、すなわち天主の所有権と支配権とは、際限なく終りがない。あらゆる被造物に関して、それらの本体とそれらの存在とに及び、主はおぼしめしのままにご自由に、これらの権利を行使されるのである。
なぜなら、天主は万物の創造と支持との唯一のあるじであり、被造物は彼ら自身では虚無にすぎない。また、天主の生きた御助けがなくては、何ひとつなすことができず、何ひとつ思うことさえできないからである。
ああ、感嘆すべき広大な天主の主権よ。私たちはどんなに深い、無限の絶え間ない礼拝を主にささげ、いかなる服従、いかなる協力を主にしなければならないであろうか。
今私たち被造物にお与えになったホスチアのうちに、いかに天主の最上の主権が輝いているかをみよう。主はおおせられた。『食せよ、飲めよ、わがからだを食するものは永遠の生命を有して、死することなし』と。
聖体はどんな民のもとにおいても、また、どんな時代においても人類の支配者である。聖体は時間と国境とを超越して、すべての人々の尊敬を要求し、ご自身に近づく者に純潔、けんそん、服従などの諸徳の実行をお命じになる。
また聖体は、教会の諸階級の聖職者を通じて、世界を統治される。これらの人々は、上は教皇から、下は一司祭に至るまで、聖体の王国の召使いであり、軍人である。彼らの第一の任務は世人を聖体に服従させ、献身させることである。このようにして聖体は全人類のひとりひとりと、社会の全体とを同様に統治されるのである。
だからあなたは最上の主なるホスチアを拝し、王の王、主の主としてこれを賛えなければならない。
感謝 天主の最上の主権はさきに延べたとおり広大であるから、私たちに信頼よりは、むしろおそれの念を起こさせるかのようにみえる。主という名は、愛よりもむしろ力を示すものである。それにもかかわらず、聖体の主は柔和にして愛深く、自ら私たちの感謝を呼び起こす御方である。
このように主に仕え、このように主にだけ属していることは、私たちにとっていかなる名誉と祝福とであろうか。この世の権威者は実は天主の権威の代表者にすぎない。だから、私たちが服従するところの唯一のまことの主は天主だけであるといわなければならない。
しかも天主が被造物を支配されるに際して、もっておいでになる目的は、彼らを完璧に導いて、大きな愛をもって創造されたときに準備なさった天国に彼らをお招きになることである。このすべてが天主のまことの慈愛のあらわれではないだろうか。
しかし、天主の慈愛が最も明らかに知られるのは、聖体によって世をお治めになるときにおいてである。主が聖体の中で示されるその親切、慈愛、同情にまさるものが、はたしてほかにあるだろうか。
聖ひつの中のけんそんにして愛すべきホスチアの姿は、なんのおそれをも起こさせない。ホスチアが私たちを支配なさるその方法は暴力でも威嚇でもなく、ただ純粋な愛だけである。
主が私たちに対して、常にやさしく忍耐に富み、私たちの怠惰、不忠、反抗をもお怒りにならず、愛だけをもって私たちの心を従わせようとされるのは、なんとありがたいことではないか。
主が聖体の秘跡において大いなる愛をもってあなたに対されることを考えるなら、心の底から感謝の讃美歌が自らあふれ出ることだろう。 償い それでは、もし私たちが、自分自身および自分のもっている健康、才能、財産等は全く自分のものであって、気ままにそれを使用することができると考えるなら、それは大きな罪である。なぜなら、天主だけが人間と人間の所有しているいっさいのものとの真正な持ち主あられるからである。
また人間が『人の権利』を絶対的に主張するとき同じようにこの罪が犯される。なぜならその実、私たちには、天主が人間に与えられた権利、すなわち自由に天主に服従する権利のほかには、なんの権利もないからである。権利は持ち主のほかにないはずである。
ところが人には何ひとつほんとうに所有するものがない。彼の思想も、良心も、また社会上の地位も、実は天主のものである。だから天主を除外して、思想、良心、社会の自由を説くのは、天主の権利に対しての冒瀆である。
だから、あなたは、天主の権利を声高く宣言して、この冒瀆を償わなければならない。天主の権利こそ、あらゆるまことの神聖な自由の保証である。あなたは天主の最上主権のもとに、この自由を使役して、はじめてあなたの永遠の目的に至ることができるであろう。
また、主は人類を支配なさるために、聖体の秘跡の中に隠れて、これを主の光栄の玉座とされた。だから、あなたは、たびたびひとりで聖体の前に出て、あるいは、人々といっしょにそのみ前に集まって、これを礼拝し、賛美し、償いをささげなければならない。
祈願 常に天主のおきてを守り、天主の啓示を重んじ、特に天主のお送りになる試練を堪え忍んで、天主の最上主権をあがめるよう決心し、それに必要な恩恵を願い求めよう。試練のうちに主に従うことは、困難に際してもなお創造主のおぼしめしを礼拝することである。
だからどんな場合にも主の御知恵に信頼して、主が誤られることがないと信じ、また主の慈愛に信頼して、主がその主権を乱用されないことを、かたく信じなければならない。
実行 それゆえ私たちは、イエズスご自身が御父におおせられた御言葉を一刻も忘れないようにしよう。『しかり父よ、そはなんじのみ心にかないたればなり』と。