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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆(ぼうとく)の最善の償いである

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聖体礼拝の理由
聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆(ぼうとく)の最善の償いである
 礼拝 万物の主である天主を認めないで、信仰の教えるところに反して天主をあなどる者は、天主の御稜威の冒瀆(ぼうとく)者である。そればかりでなく、天主が人となって地上においでになり、この世にお住みになったのであるから、彼らは同時に、天主且つ人イエズス・キリストの冒瀆者である。
 彼らは主が天主であることを否み、主の童貞マリアからお生まれになったことを信ぜず、主のご生涯を物語とみなし、主、および、主が世の終わりに至るまで人類の光明として建設された聖会の権威をけいべつする。また彼らは主の制定されたいっさいの秘跡をあざけり、主が模範を示されたすべての信心のわざをあなどる。
 彼らによると、天主とはひとつの空虚な名称にすぎず、イエズス・キリストは幻覚にとらわれた狂人で、天啓はすべて虚偽であって、教会は人間の権利を侵害する野心家の団体にほかならない。以上の事がらは公に説かれて多数の人々に信用され、紙上の論説となって大衆の間に広がってゆく。
 すべてこれらは、全世界をおおう濁流である。ちょうど地獄が口を開いてすべての悪魔を出だし、彼らの呪いを地上に吐かせたようである。
 侮辱は賛美を、憎悪は愛を、冒瀆(ぼうとく)は礼拝を要求する。
 だから、主を信じている私たちは、まことの天主、まことの人なるイエズス・キリストが生き、またこの中にお住まいになっている聖体の秘跡を礼拝しよう。
 聖体の前にひれ伏して、できるかぎりの信仰と愛とをもって、主キリストが唯一まことの天主、聖の聖なる御者でおいでになり、天地の創造主であることを公言しよう。
 主が万物のはじめであり、終わりであること、天においても地においても、いっさいの天使と人類とは、みな主に属し、主に服従し、主の御おきてをあがめ、主のみ前に礼拝しなければならないことを告白しよう。
 主が天主の御ひとり子のペルソナと合わせられたまことの人で、いっさいの徳、いっさいの能力をそなえておいでになることを主張しよう。
 このような信徳と愛徳との祈りを繰り返し、この祈りをイエズスご自身にほかならぬ尊いホスチアにささげよう。そして、もしできれば、これによってあの恐ろしい冒瀆(ぼうとく)が主に達しないために、賛美をもってホスチアを包囲しよう。
 感謝 絶えず繰り返される無数の冒瀆(ぼうとく)は、主の愛と御稜威を考えるとき、まことに極悪無道の行ないであるといわなければならない。私たちはこの事実を前にして、心の張り裂けるのをおぼえる。かの恐ろしい冒瀆を償い、無礼を除く方法を案出しなければ、私たちはとうてい安心することができない。
 ところがこの方法は、私たちの手の届くところに存在する。すなわち至聖なる聖体の礼拝がこれである。
 天主のみ前において、善業の功徳は冒瀆を消す。だから天主は、賛美をもって汚聖を、尊敬をもってけいべつを、けんそんな信仰をもって不信を、愛をもって憎悪を償わせたもうのである。
 ところが聖体の礼拝は、これらの善業のすべてを含んでいる。すなわち私たちが聖体を礼拝するのは、イエズス・キリストのうちに存在する神性の完徳を認め、イエズス・キリストのもっておられる天主的主権を認めるからである。またそれは、イエズス・キリストによって、天主がいっさいの恩恵の恵み豊かな与え主でいらっしゃることを、喜びと感謝とをもってお認めするからである。なおそのうえ、御血であがなわれた人々が繰り返し犯す罪によって破ったイエズスのみ心をお慰めするためである。これらすべては、冒瀆(ぼうとく)の正反対である賛美、信仰、愛徳、その他の善業でなくて何であろうか。
 そのうえ、主のおいでになる場所に来て、直接にイエズスにこのけいけんな務めをささげるのであるから、私たちの礼拝はいっそう完全になる。なぜなら、他の事がらをさしおいて主のみもとに来るためには、私たちはたびたび、かなり大きなぎせいをはらわなければならないからである。
 このように確実で容易な、しかも完全な償いの方法を与えてくださった主の御慈悲を感謝し、同時にこれを利用して、尊い救い主に冒瀆が加えられるのを見るたびに私たちが感ずる心の苦しみを、これによって慰めようではないか。
 償い 心からいっさいの冒瀆を悲しみ嘆こう。心に、この悪魔的行為の醜さと恐ろしさとをよく刻みつけよう。なぜ冒瀆がこのように忌まわしいかというと、冒瀆は、ただ愛によってのみ私たちを造り、すべてのよいものを私たちに与えることを唯一の喜びとしておられる天主に対して直接の反逆となるからである。
 天主は愛によって私たちと同じ人間となり、いっさいの恩恵と天国の相続権とを私たちに与えるために、そのご霊魂をすべての悲哀のなかにひたし、そのご肉身をすべての苦痛にわたし、そのご生命をいとも悲惨な死によって失われたのである。
 天主の愛から出たこの大いなるお恵みを、冒瀆者のあざけりと不信とに対比しよう。このようにあわれみ深い天主を無理に冒瀆するとは、いかなる憎悪いかなる盲目の結果であろうか。
 主のために同情し主のために嘆こう。また御許しを願おう。聖母が十字架のもとに立って、御子の苦悩を見守りながらお感じになった御苦しみをわかとう。自分の償いを補うために、聖母の償いをおささげしよう。
 祈願 冒瀆者の陥っている悲惨な状態、彼らが招いた天主の激しい御怒りと、彼らを待っている恐ろしい刑罰とを考えるなら、どうして彼らのために熱心に祈らないでいられるだろうか。
 彼らがついに目ざめて、あなどられたもう天主を知ることができるようお願いしよう。冒瀆が地上にあとを断って、この世から消失することをお願いしよう。聖母とともに祈り、聖母とともに冒瀆者のために泣こう。祭壇の上で絶えずささげられるイエズスご自身の祈りに声をお合わせしよう。『父よ彼らを許したまえ。そは彼らそのなすところを知らざればなり』と。
 実行 聖体のうちにおいでになる天主に対し、大いなる反逆を償う心をもって、すべての善業を行なおう。
















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