アヴェ・マリア・インマクラータ!
人である聖体
聖体は霊魂の医師である
礼拝 あなたの肉体と霊魂とは無数の病を蔵している。この事実を深く自覚し、あつい望み、けんそんな信頼をもって、いとも親切で力のある医師イエズスを礼拝しよう。
主は医師と呼ばれることを望んでおられ、地上でのかつてのご生涯におけるように、今日聖体のうちにおいても、医師の務めを果たされるのである。『医師を要するは壮健なる人にあらずして病める人なり』とおおせになった主は、いつもどこででも人間の霊魂と肉身との医師でおいでになる。
今日世間は重病に伏し、まことに力のある医師を要している。だから、天来の医師がみ手を休められることなく、ししとしてお励みくださるのは、まことにありがたいかぎりである。
人祖が禁断の木の実を食べてから、病毒は人類の血液中にはいりこみ、諸器官を侵し、血液を腐敗させた。これによって人類は虚弱となり、害毒を受けやすく、その恐ろしい結果として手のくだしようがない難治の病をもつようになった。霊魂の病の本態は、肉身の病よりもいっそうわかりにくい。聖アウグスチノは、『全世界の上に横たわるこの大病人には偉大なる医師が必要である』といった。
主はこの病をいやすために地上においでになった。実に主のご托身それ自身が、すでに根本的に全人類をいやしてくださるものだったのである。主が天主性を、人性すなわち人間の霊魂と肉身とに一致させてくださったことは、そのまま人類を健全な生きた体となされたことである。
天主性に一致されたキリストの人性は、すべての病に対する力のある解毒剤となった。イザヤが『われらは主の御傷によりていやされたり』といったのは、その意味にほかならない。主はそのご教訓をもって私たちの病んだ知能をいやし、愛をもって私たちの死んだ心をよみがえらせ、秘跡をもって主のすべての御徳とご生命とを私たちの霊魂のうちに循環させてくださる。また医師であるキリストは私たちの肉身をも顧みてくださり、あるいは奇跡によって病をいやしてこれを健康体にし、あるいは聖体拝領によって心の苦しみを和らげて光栄ある復活の御約束の保証を与えてくださるのである。
『医師を尊め。そは全能の主われらをあわれみ、病をいやさんとて彼らを送りたまいたればなり』と聖霊もおおせになった。医師としての完全な知識と経験とをもって、私たちのすべての病をいやす方法を知っていらっしゃるイエズスをあがめ、そして礼拝しよう。どんな傷にも献身的な愛を示し、またどんなにわがままで恩知らずの病人であっても忍耐を失われない主をあがめ、そして礼拝しよう。私たちは主の治療に信頼し、その処方を忠実に守って、その全知、全能、全善に依頼して少しも疑ってはならない。
感謝 主が地上のご生涯の間、霊魂または肉体的な病人に、いかなる慈愛と忍耐と熱心とをもって近づかれたかを思うとき、私たちは感謝の心を抱かないではいられない。
主は、彼らを訪問し、また彼らが群れ集まることを許された。『病をいやされんとて群集おびただしく集まり来たり』『彼はそのすべてをいやしたまえり』とは聖書のところどころに見られる言葉である。ある時は、ただ一言をもって、または手を触れただけで病をいやされた。またある時は病人に近づいて御身をかがめ、肉体の健康とともに、慰藉と信仰、改心と心の平和とを与えてくださった。
肉体的な病人よりももっと苦しんでいる精神的な病人、すなわち悲しむ者、泣く者たちに対しても、主は彼らをいやそうと約束なさった。その際、主がお求めになったのは、主の御もとに来てその心に信頼し、いっさいの重荷をおまかせすることだけであった。『われに来たれ、すべて労苦して重荷を負える者よ、われ汝らを回復せしめん』と。
もしあなたが求めるなら、主は今日、より以上のことをしていっそうの愛を示し、私たちのためにその御力を用いて、各人の霊魂のすべての不安、すべての病をいやしてくださるのである。この際のあらゆる薬剤が、たったひとつの偉大な薬のうちに含まれている。それは主ご自身である。主は天主性と人性、ご霊魂とご肉身、御血と御肉、御徳とその御功力とのすべてをもって、ひとつの霊薬をつくり、日々これを私たちに施してくださるのである。アンチオキアの聖イグナチオは『聖体は不死の薬、死の解毒剤、罪を清め悪を追う霊薬である』といった。 主の薬は非常に飲みやすい。『天よりの医師は甘味に満てるよき香油もて薬をつくり、われらを見守りたもうに倦(う)みたもうことなし』とあるとおりである。たびたび全快はおそく、不明瞭であり、また病人の不注意と不従順とによって妨げられる。しかし主は、少しもこれを意にかけられず、いつも同じ慈愛と深い心づかいとをもっておいでになり、病人の最後の日までこれを繰り返されるのである。
ああ慈悲深いよき医師よ、倦むことなく私たちをいやそうと努めてくださる御身に、すべてをおまかせしない者があるであろうか。深い感謝の心を抱かない者があるであろうか。
償い あなたの霊魂が過去においてわずらったことのある種々の病、また、現在および将来においてかかるかもしれない多くの病について、まじめに、また真剣に、その数、その重さ、その恐ろしさなどを考えてみよう。
心の中に絶えず燃えている邪欲のほのおは、すべての悪の根源である。あなたはその中に生きている。世間、あなたの呼吸する空気、その他すべての感覚的被造物は、内部の邪欲に呼応して、その忌まわしい火をそそりたてる。だから、もしもほんとうに、あなた自身の腐敗と弱さとをあなたが知ったなら、あなたはどれほど自分を怖れ、同時にどんなに全幅の信頼をもって、慈悲深い医師に信頼することであろうか。
ところが実際はこれに反して、私たちは彼を無視し、彼から遠ざかろうと努めている。私たちは真の医師よりも、にせの医師を好んで、創造主に求めなければならないものを被造物に求めている。ちょうど福音書の中に描かれている血漏の婦人のように、全信頼をむなしいものに傾けつくして、しかも病はだんだんと重なってゆくのである。
慈悲深いまことの医師は、私たちのこの狂態を見て、み心を痛められるのである。ああ、いつ私たちは愚かな抵抗をやめ、信頼して彼を迎え、主よりも被造物を愛好するような無礼と侮辱とを改めるのであろうか。
あなたはまた、自分だけでなく、他の愚かな人々のためにも償いをささげなければならない。彼らは自分の病のために、天主である医師をあなどるだけでなく、彼を憎み嫌い、彼の治療の効果を否定し、単に言葉だけでなく、時には暴力をふるってさえ、彼を他の霊的の病人のかたわらから追い払うのである。聖アウグスチヌノは、これらの人々を、天主である医師を十字架にかけた刑吏と同じように憎まねばならないものであるといったが、まさにそのとおりである。
しかしながら主は常に慈悲深く、常に親切で、名誉が傷つけられることも、また生命が危害に会うこともすべてこれを意とせず、愛と忍耐とをもって人々の憎悪に打ち勝とうとして、自分を避ける人々のために祈り、彼らによって尊い御血が流されることがあっても、その御血を彼らの救霊のために天父にささげ、彼らのごうまんがくじけ、かたくなな心が和らげられることを願われるのである。主は縛られ、むちうたれ、ののしられ、あざけられ、十字架につけられ、冒瀆されても、ご自身が彼らをいやすためにあまくだった医師であるというひとことしか考えておられない。
ああいかに不思議な忍耐、献身、けんそん、並びに愛の模範であろうか。私たちはこれをまことにさとってはじめて、愛のいけにえなるいとも愛すべき医師に尊敬と柔順とを誓い、その傷つけられた御稜威にふさわしい償いをなし、み心のお望みになる御慰めをささげることができるのである。
祈願 福音書中で、あわれな病人、盲、つんぼ、不具者などが、その病をいやされるために主に叫んだ熱烈な祈りを、あなた自身のために繰り返すがよい。彼らの祈りは必ず聞き入れられた。あるいはすぐその場で、あるいはもっと不思議な方法で少しのちに。……このことはあなたの信頼を深めるはずである。
生まれつきの盲は『主よ、われをして見えしめたまえ』といった。エリコの盲は『われをあわれれみ給え、ダヴィドの子イエズスよ』と叫んだ。カナアンの女は『わが娘は悪魔に苦しめらる』『子犬もその主の食卓より落つるパンくずを食するにあらずや』と祈った。悪魔につかれた子どもの父は主のみ前にひざまずいて、『主よ、わが子をあわれみたまえ、彼は悪魔につかれて激しく苦しめらる』と嘆いた。十人のらい病人は主の御姿を見かけるとすぐに、遠方から手をあげて、『イエズスよ、よき師よ、われらをあわれみたまえ』と願った。これらの祈りをみな、あなた自身の祈りとするがよい。
もし不信の友だちが、ごうまんと性急との心から、あなたの祈りを妨げるようなことがあるなら、エリコの盲のように、もっと声高く、もっと熱心に叫ばなければならない。だがあなたの祈りは同時に、『主よ、わがしもべ病めり、されどわれは主のわが家の下に入りたもうにたえず、ただひとことをのたまわば彼はいえん』といった百夫長の祈りのようにけんそんでなければならない。
最後に、ミサ聖祭中、司祭が聖体を拝領するときに『主イエズス・キリスト、われは主の御肉と御血とを受くるにたえざれども、願わくはこの聖体拝領が、わが審判と宣告とにならずして、主の御あわれみにより、かえってわが霊魂と肉身との守護といやしとにならんことを』との祈りの言葉を教会といっしょに唱えるがよい。 実行 私たちの苦痛と傷と病とを、聖櫃中においでになる医師に語り、またその薬である聖体を拝領しよう。
人である聖体
聖体は霊魂の医師である
礼拝 あなたの肉体と霊魂とは無数の病を蔵している。この事実を深く自覚し、あつい望み、けんそんな信頼をもって、いとも親切で力のある医師イエズスを礼拝しよう。
主は医師と呼ばれることを望んでおられ、地上でのかつてのご生涯におけるように、今日聖体のうちにおいても、医師の務めを果たされるのである。『医師を要するは壮健なる人にあらずして病める人なり』とおおせになった主は、いつもどこででも人間の霊魂と肉身との医師でおいでになる。
今日世間は重病に伏し、まことに力のある医師を要している。だから、天来の医師がみ手を休められることなく、ししとしてお励みくださるのは、まことにありがたいかぎりである。
人祖が禁断の木の実を食べてから、病毒は人類の血液中にはいりこみ、諸器官を侵し、血液を腐敗させた。これによって人類は虚弱となり、害毒を受けやすく、その恐ろしい結果として手のくだしようがない難治の病をもつようになった。霊魂の病の本態は、肉身の病よりもいっそうわかりにくい。聖アウグスチノは、『全世界の上に横たわるこの大病人には偉大なる医師が必要である』といった。
主はこの病をいやすために地上においでになった。実に主のご托身それ自身が、すでに根本的に全人類をいやしてくださるものだったのである。主が天主性を、人性すなわち人間の霊魂と肉身とに一致させてくださったことは、そのまま人類を健全な生きた体となされたことである。
天主性に一致されたキリストの人性は、すべての病に対する力のある解毒剤となった。イザヤが『われらは主の御傷によりていやされたり』といったのは、その意味にほかならない。主はそのご教訓をもって私たちの病んだ知能をいやし、愛をもって私たちの死んだ心をよみがえらせ、秘跡をもって主のすべての御徳とご生命とを私たちの霊魂のうちに循環させてくださる。また医師であるキリストは私たちの肉身をも顧みてくださり、あるいは奇跡によって病をいやしてこれを健康体にし、あるいは聖体拝領によって心の苦しみを和らげて光栄ある復活の御約束の保証を与えてくださるのである。
『医師を尊め。そは全能の主われらをあわれみ、病をいやさんとて彼らを送りたまいたればなり』と聖霊もおおせになった。医師としての完全な知識と経験とをもって、私たちのすべての病をいやす方法を知っていらっしゃるイエズスをあがめ、そして礼拝しよう。どんな傷にも献身的な愛を示し、またどんなにわがままで恩知らずの病人であっても忍耐を失われない主をあがめ、そして礼拝しよう。私たちは主の治療に信頼し、その処方を忠実に守って、その全知、全能、全善に依頼して少しも疑ってはならない。
感謝 主が地上のご生涯の間、霊魂または肉体的な病人に、いかなる慈愛と忍耐と熱心とをもって近づかれたかを思うとき、私たちは感謝の心を抱かないではいられない。
主は、彼らを訪問し、また彼らが群れ集まることを許された。『病をいやされんとて群集おびただしく集まり来たり』『彼はそのすべてをいやしたまえり』とは聖書のところどころに見られる言葉である。ある時は、ただ一言をもって、または手を触れただけで病をいやされた。またある時は病人に近づいて御身をかがめ、肉体の健康とともに、慰藉と信仰、改心と心の平和とを与えてくださった。
肉体的な病人よりももっと苦しんでいる精神的な病人、すなわち悲しむ者、泣く者たちに対しても、主は彼らをいやそうと約束なさった。その際、主がお求めになったのは、主の御もとに来てその心に信頼し、いっさいの重荷をおまかせすることだけであった。『われに来たれ、すべて労苦して重荷を負える者よ、われ汝らを回復せしめん』と。
もしあなたが求めるなら、主は今日、より以上のことをしていっそうの愛を示し、私たちのためにその御力を用いて、各人の霊魂のすべての不安、すべての病をいやしてくださるのである。この際のあらゆる薬剤が、たったひとつの偉大な薬のうちに含まれている。それは主ご自身である。主は天主性と人性、ご霊魂とご肉身、御血と御肉、御徳とその御功力とのすべてをもって、ひとつの霊薬をつくり、日々これを私たちに施してくださるのである。アンチオキアの聖イグナチオは『聖体は不死の薬、死の解毒剤、罪を清め悪を追う霊薬である』といった。 主の薬は非常に飲みやすい。『天よりの医師は甘味に満てるよき香油もて薬をつくり、われらを見守りたもうに倦(う)みたもうことなし』とあるとおりである。たびたび全快はおそく、不明瞭であり、また病人の不注意と不従順とによって妨げられる。しかし主は、少しもこれを意にかけられず、いつも同じ慈愛と深い心づかいとをもっておいでになり、病人の最後の日までこれを繰り返されるのである。
ああ慈悲深いよき医師よ、倦むことなく私たちをいやそうと努めてくださる御身に、すべてをおまかせしない者があるであろうか。深い感謝の心を抱かない者があるであろうか。
償い あなたの霊魂が過去においてわずらったことのある種々の病、また、現在および将来においてかかるかもしれない多くの病について、まじめに、また真剣に、その数、その重さ、その恐ろしさなどを考えてみよう。
心の中に絶えず燃えている邪欲のほのおは、すべての悪の根源である。あなたはその中に生きている。世間、あなたの呼吸する空気、その他すべての感覚的被造物は、内部の邪欲に呼応して、その忌まわしい火をそそりたてる。だから、もしもほんとうに、あなた自身の腐敗と弱さとをあなたが知ったなら、あなたはどれほど自分を怖れ、同時にどんなに全幅の信頼をもって、慈悲深い医師に信頼することであろうか。
ところが実際はこれに反して、私たちは彼を無視し、彼から遠ざかろうと努めている。私たちは真の医師よりも、にせの医師を好んで、創造主に求めなければならないものを被造物に求めている。ちょうど福音書の中に描かれている血漏の婦人のように、全信頼をむなしいものに傾けつくして、しかも病はだんだんと重なってゆくのである。
慈悲深いまことの医師は、私たちのこの狂態を見て、み心を痛められるのである。ああ、いつ私たちは愚かな抵抗をやめ、信頼して彼を迎え、主よりも被造物を愛好するような無礼と侮辱とを改めるのであろうか。
あなたはまた、自分だけでなく、他の愚かな人々のためにも償いをささげなければならない。彼らは自分の病のために、天主である医師をあなどるだけでなく、彼を憎み嫌い、彼の治療の効果を否定し、単に言葉だけでなく、時には暴力をふるってさえ、彼を他の霊的の病人のかたわらから追い払うのである。聖アウグスチヌノは、これらの人々を、天主である医師を十字架にかけた刑吏と同じように憎まねばならないものであるといったが、まさにそのとおりである。
しかしながら主は常に慈悲深く、常に親切で、名誉が傷つけられることも、また生命が危害に会うこともすべてこれを意とせず、愛と忍耐とをもって人々の憎悪に打ち勝とうとして、自分を避ける人々のために祈り、彼らによって尊い御血が流されることがあっても、その御血を彼らの救霊のために天父にささげ、彼らのごうまんがくじけ、かたくなな心が和らげられることを願われるのである。主は縛られ、むちうたれ、ののしられ、あざけられ、十字架につけられ、冒瀆されても、ご自身が彼らをいやすためにあまくだった医師であるというひとことしか考えておられない。
ああいかに不思議な忍耐、献身、けんそん、並びに愛の模範であろうか。私たちはこれをまことにさとってはじめて、愛のいけにえなるいとも愛すべき医師に尊敬と柔順とを誓い、その傷つけられた御稜威にふさわしい償いをなし、み心のお望みになる御慰めをささげることができるのである。
祈願 福音書中で、あわれな病人、盲、つんぼ、不具者などが、その病をいやされるために主に叫んだ熱烈な祈りを、あなた自身のために繰り返すがよい。彼らの祈りは必ず聞き入れられた。あるいはすぐその場で、あるいはもっと不思議な方法で少しのちに。……このことはあなたの信頼を深めるはずである。
生まれつきの盲は『主よ、われをして見えしめたまえ』といった。エリコの盲は『われをあわれれみ給え、ダヴィドの子イエズスよ』と叫んだ。カナアンの女は『わが娘は悪魔に苦しめらる』『子犬もその主の食卓より落つるパンくずを食するにあらずや』と祈った。悪魔につかれた子どもの父は主のみ前にひざまずいて、『主よ、わが子をあわれみたまえ、彼は悪魔につかれて激しく苦しめらる』と嘆いた。十人のらい病人は主の御姿を見かけるとすぐに、遠方から手をあげて、『イエズスよ、よき師よ、われらをあわれみたまえ』と願った。これらの祈りをみな、あなた自身の祈りとするがよい。
もし不信の友だちが、ごうまんと性急との心から、あなたの祈りを妨げるようなことがあるなら、エリコの盲のように、もっと声高く、もっと熱心に叫ばなければならない。だがあなたの祈りは同時に、『主よ、わがしもべ病めり、されどわれは主のわが家の下に入りたもうにたえず、ただひとことをのたまわば彼はいえん』といった百夫長の祈りのようにけんそんでなければならない。
最後に、ミサ聖祭中、司祭が聖体を拝領するときに『主イエズス・キリスト、われは主の御肉と御血とを受くるにたえざれども、願わくはこの聖体拝領が、わが審判と宣告とにならずして、主の御あわれみにより、かえってわが霊魂と肉身との守護といやしとにならんことを』との祈りの言葉を教会といっしょに唱えるがよい。 実行 私たちの苦痛と傷と病とを、聖櫃中においでになる医師に語り、またその薬である聖体を拝領しよう。