テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
天主である聖体
聖体は至高の審判者である
礼拝 あなたの眼前にある聖体が、生きる者と死せる者との恐ろしい審判者であることを知り、幸福なおそれに満たされて、これを礼拝しよう。
たしかに、主の沈黙、主の外見のやさしさにもかかわらず、この柔和で忍耐深いホスチアは、正義の天主であり、ふくしゅうの天主である。ホスチアは、すべてのものを創造された天主であるから、万物に命令する権をもっておいでになり、そして主はこの権をもって、不従順なものを罰されるのである。
また主は万物の根源であるから、すべての被造物の終局目的であり、したがって、私たちが望んでも望まなくても、ついには主のみ手の中に落ちなければならないのである。
最後に、主は、そのお考えと、みわざとに関して、なんぴとにも負うところのない最高の主宰者であられるから、すべての人を裁かれるにあたって、他の抗議を許されない。『なぜなんじは、われらをかくのごとく裁きたもうのか』と主に逆らいうる者はひとりもないのである。
だから、あたかも裁判官の前に出た罪人のように、目を伏せて恥じおののきながら、あらゆる事がらを見通しになる全知の審判者なる聖体を礼拝しよう。この審判者は何者によってもあざむかれず、人によってかたよることなく、また、そのご宣告は永遠に効力をもつ恐るべき正義の天主であられるからである。
そればかりではない。ホスチアの中のイエズスは、単に天主として被造物を裁かれるだけでなく、復活された天主の人として、すなわちそのご死去とご勝利とによって、生者と死者とを裁く二重の権利をもった御方である。
キリストはすでに天主のみ言葉と一致されたときから、天主の審判権をおわかちになったのであるが、さらにご自分で人々から不正の裁判と不義の刑罰とを受けられたことによって、これを償うために、あらゆる人類を裁く新しい光栄と権力とを得られたのである。
だから世界の最後の日に、光栄の座にすわって、そこにおののきながら集まる全人類の眼前におあらわれになるとき、主は生者と死者とを裁く最高の権利を十分に使役されることを私たちは覚悟しなければならない。その時、いかなる権威、いかなる力、いかなる御稜威、いかなる光栄を主は示されるであろうか。この時語られるのは主おひとりである。そしてその宣告のいちいちは、たちどころに行われ、永遠にわたって効力をもつであろう。
だからあなたたちは、今、聖体の秘跡の中に、慈愛に満ちて隠れたもう恐るべき審判者を礼拝しよう。ホスチアのむさぐるしい隠れ家から、主があなたのあらゆる行いと、望みと、思いとを見、また裁かれることを忘れてはならない。
主が見、また裁かれるときには、主は、あらゆる事情を考慮して、真理に基づいてこれをなさるのである。あなたに与えられたあらゆる恩恵と、助力とを、また、あなたが主のみ旨に従って生活し、あなたの境遇の義務を尽くし、召命に従っていくために、与えられたあらゆる方法と便宜とを、主はすべて勘定に入れて裁かれる。何ものも主の御目から隠されない。私たちが自分の良心をくらますために用いるにせの理由、私たちが私たちまたは他人をあざむくために用いる口実など、ひとつも主をあざむくことができないのである。主は誤ることができない真理の光を用いて、私たちを裁かれるのである。
だから第一に自分を顧み、自分の罪を痛悔し、謙そんに正直にこれを償ってのち主に近づくようにしよう。
感謝 主は終わりの日の恐るべき審判者でありながら、今日尊いホスチアの中では、慈悲と忍耐とにあふれる、やさしい審判者であることを感謝しよう。
主は私たちの過失を見、私たちの罪の醜さを知っておいでになる。私たちの罪は、至聖なる主を傷つけ、侮辱し、主の愛をないがしろにする。しかし主は私たちの罪をいたく憎まれるにもかかわらず、今はあたかも何ごとも知らず、何ものも見ぬふりをして、おいでになるのである。
そればかりではない。主は私たちの罪を滅ぼし、これを赦し、私たちが真心から改心するために必要な恩恵を与えようとして、祭壇上に御身をいけにえとしてくださるのである。
聖体の中においでになる正義の天主がお与えになる他の祝福は、私たちをして私たち自身を十分に裁かせてくださるということである。もし私たちが毎晩、その日の行為、言葉について、聖体のみ前で私たち自身を裁くなら、翌朝、その真実と謙そんとの報いとして私たちは安心して聖体を拝領することができるであろう。
最後に、聖体の中においでになる正義の天主がお与えになるもうひとつの祝福は、これをふさわしく受ける者が感じる正義に対する飢えと渇きである。彼らの心は、善を愛し、激しく悪を憎むようになる。彼らは血肉の望みを顧みないで、熱心に完徳を追うようになる。彼らは自分の罪を償ったあと、他人の罪のために彼ら自身の肉体を罰するようになる。すなわち彼らは、教会のために、イエズス・キリストのご受難の欠けたところを補い、聖体の御ぎせいに自分を合わせて、天主の正義のむちを受け、罪人を滅びから救うようになるのである。
だからこの秘跡、すなわち、万事が愛と変わったこの秘跡によって、最も恐れなければならない正義においてさえ、仰ぐにこころよく祝福に満ちたものとされた最高の審判者に感謝しよう。
償い だからこの最高の審判者が、聖体の秘跡の中でおおっておられる慈悲、柔和、忍耐のおおいをあなどる者の罪はいかに大きく、その罰はいかに恐ろしいものだろう。彼らは自分の欲と利益とに迷って主をはずかしめ、けいべつし、主の無力をあなどり、主の全知を信じない。そのある者は心の中で主をサタンに渡して冒瀆し、また、ある者は主に最も不正な待遇を与える。
彼らがあなどる天主の忍耐が、彼らの頭上に、主の御怒りと刑罰とを積み上げているのを彼らは知らないのである。どんな恐ろしい未来が彼らを待っていることだろう。ふくしゅうの天主は万事を沈黙のうちに忍んでおられ、これによって悪人が勝利を得たかのようにみえた。人とおなりになった天主、正しい罪のないイエズスは、人々に対しての過度の愛からホスチアの中に隠れて、ご受難の時に受けられたのと同じ不正な裁判を、幾世紀も幾世紀もお忍びになるのである。
しかし、イエズス・キリストは最後の日に、あらゆる不正と不義とに対してふくしゅうされるであろう。聖体がこのようにけいべつされ、捨てられ、不正の裁判を受けられたために、私たちを裁かれる主の御怒りは、いかに恐ろしいものとなるであろうか。一般に罰は、ないがしろにされた愛の大きさに比例する。聖体の秘跡の愛は無限であるから、この愛をないがしろにした者に対しての刑罰は天主の御怒りを傾けつくした恐るべきものとなるのである。
祈願 私たちは毎日、聖体の秘跡における最高の審判者の慈悲と功徳(くどく)と犠牲によりすがり、最後の審判の日の御あわれみを願わねばならない。このために私たちは平素から主を敬い、主と親しみ、主と交わって、主のように考え判断し、希望することを学び、また特に聖体拝領に際して天主の聖徳とイエズス・キリストのご模範を考え、また主のご受難とご死去とをしのんで、今から十分に私たち自身を裁いておく必要がある。
私たちが自分自身を裁くのは、自分を清めてふさわしく聖体を受けることができるためである。私たちはこのようにして過失をただし、罪を繰り返すことを防ぐだけでなく、天主の正義が求められる償いを果たすために、自分で自分を罰さなければならない。
だから、聖体の慈悲の玉座の上に坐したもう審判者に対して、聖会とともに次の祈りを唱えよう。
『ふくしゅうの正しき審判者清算のかの日の前にわが罪の赦しを与え給え
罪人なるわれ、嘆き叫び恥にわがおもては赤し天主よ、願う者を赦したまえ
なれはマリア(マダレナ)の罪を清め盗人の祈りを聞きまたわれに希望をたまいぬ
わが祈りは、げにふさわざれどもいつくしみの、よきみあるじよわれを永遠の火より救いたまえ
羊の群れにわれを数えヤギの群れより引きだしたまえ右手のかたへわれを並ばしめたまえ』
Juste Judex ultionis,Donum fac remissionis,Ante diem rationis.
Ingemisco, tamquam reus:Culpa rubet vultus meus:Supplicanti parce, Deus
Qui Mariam absolvisti,Et latronem exaudisti,Mihi quoque spem dedisti.
Preces meæ non sunt dignæ;Sed tu bonus fac benigne,Ne perenni cremer igne.
Inter oves locum præsta.Et ab hædis me sequestra,Statuens in parte dextra.
実行 毎晩の糾明に際し、特に聖体に対して犯した罪を注意してよく糾明しよう。
天主である聖体
聖体は至高の審判者である
礼拝 あなたの眼前にある聖体が、生きる者と死せる者との恐ろしい審判者であることを知り、幸福なおそれに満たされて、これを礼拝しよう。
たしかに、主の沈黙、主の外見のやさしさにもかかわらず、この柔和で忍耐深いホスチアは、正義の天主であり、ふくしゅうの天主である。ホスチアは、すべてのものを創造された天主であるから、万物に命令する権をもっておいでになり、そして主はこの権をもって、不従順なものを罰されるのである。
また主は万物の根源であるから、すべての被造物の終局目的であり、したがって、私たちが望んでも望まなくても、ついには主のみ手の中に落ちなければならないのである。
最後に、主は、そのお考えと、みわざとに関して、なんぴとにも負うところのない最高の主宰者であられるから、すべての人を裁かれるにあたって、他の抗議を許されない。『なぜなんじは、われらをかくのごとく裁きたもうのか』と主に逆らいうる者はひとりもないのである。
だから、あたかも裁判官の前に出た罪人のように、目を伏せて恥じおののきながら、あらゆる事がらを見通しになる全知の審判者なる聖体を礼拝しよう。この審判者は何者によってもあざむかれず、人によってかたよることなく、また、そのご宣告は永遠に効力をもつ恐るべき正義の天主であられるからである。
そればかりではない。ホスチアの中のイエズスは、単に天主として被造物を裁かれるだけでなく、復活された天主の人として、すなわちそのご死去とご勝利とによって、生者と死者とを裁く二重の権利をもった御方である。
キリストはすでに天主のみ言葉と一致されたときから、天主の審判権をおわかちになったのであるが、さらにご自分で人々から不正の裁判と不義の刑罰とを受けられたことによって、これを償うために、あらゆる人類を裁く新しい光栄と権力とを得られたのである。
だから世界の最後の日に、光栄の座にすわって、そこにおののきながら集まる全人類の眼前におあらわれになるとき、主は生者と死者とを裁く最高の権利を十分に使役されることを私たちは覚悟しなければならない。その時、いかなる権威、いかなる力、いかなる御稜威、いかなる光栄を主は示されるであろうか。この時語られるのは主おひとりである。そしてその宣告のいちいちは、たちどころに行われ、永遠にわたって効力をもつであろう。
だからあなたたちは、今、聖体の秘跡の中に、慈愛に満ちて隠れたもう恐るべき審判者を礼拝しよう。ホスチアのむさぐるしい隠れ家から、主があなたのあらゆる行いと、望みと、思いとを見、また裁かれることを忘れてはならない。
主が見、また裁かれるときには、主は、あらゆる事情を考慮して、真理に基づいてこれをなさるのである。あなたに与えられたあらゆる恩恵と、助力とを、また、あなたが主のみ旨に従って生活し、あなたの境遇の義務を尽くし、召命に従っていくために、与えられたあらゆる方法と便宜とを、主はすべて勘定に入れて裁かれる。何ものも主の御目から隠されない。私たちが自分の良心をくらますために用いるにせの理由、私たちが私たちまたは他人をあざむくために用いる口実など、ひとつも主をあざむくことができないのである。主は誤ることができない真理の光を用いて、私たちを裁かれるのである。
だから第一に自分を顧み、自分の罪を痛悔し、謙そんに正直にこれを償ってのち主に近づくようにしよう。
感謝 主は終わりの日の恐るべき審判者でありながら、今日尊いホスチアの中では、慈悲と忍耐とにあふれる、やさしい審判者であることを感謝しよう。
主は私たちの過失を見、私たちの罪の醜さを知っておいでになる。私たちの罪は、至聖なる主を傷つけ、侮辱し、主の愛をないがしろにする。しかし主は私たちの罪をいたく憎まれるにもかかわらず、今はあたかも何ごとも知らず、何ものも見ぬふりをして、おいでになるのである。
そればかりではない。主は私たちの罪を滅ぼし、これを赦し、私たちが真心から改心するために必要な恩恵を与えようとして、祭壇上に御身をいけにえとしてくださるのである。
聖体の中においでになる正義の天主がお与えになる他の祝福は、私たちをして私たち自身を十分に裁かせてくださるということである。もし私たちが毎晩、その日の行為、言葉について、聖体のみ前で私たち自身を裁くなら、翌朝、その真実と謙そんとの報いとして私たちは安心して聖体を拝領することができるであろう。
最後に、聖体の中においでになる正義の天主がお与えになるもうひとつの祝福は、これをふさわしく受ける者が感じる正義に対する飢えと渇きである。彼らの心は、善を愛し、激しく悪を憎むようになる。彼らは血肉の望みを顧みないで、熱心に完徳を追うようになる。彼らは自分の罪を償ったあと、他人の罪のために彼ら自身の肉体を罰するようになる。すなわち彼らは、教会のために、イエズス・キリストのご受難の欠けたところを補い、聖体の御ぎせいに自分を合わせて、天主の正義のむちを受け、罪人を滅びから救うようになるのである。
だからこの秘跡、すなわち、万事が愛と変わったこの秘跡によって、最も恐れなければならない正義においてさえ、仰ぐにこころよく祝福に満ちたものとされた最高の審判者に感謝しよう。
償い だからこの最高の審判者が、聖体の秘跡の中でおおっておられる慈悲、柔和、忍耐のおおいをあなどる者の罪はいかに大きく、その罰はいかに恐ろしいものだろう。彼らは自分の欲と利益とに迷って主をはずかしめ、けいべつし、主の無力をあなどり、主の全知を信じない。そのある者は心の中で主をサタンに渡して冒瀆し、また、ある者は主に最も不正な待遇を与える。
彼らがあなどる天主の忍耐が、彼らの頭上に、主の御怒りと刑罰とを積み上げているのを彼らは知らないのである。どんな恐ろしい未来が彼らを待っていることだろう。ふくしゅうの天主は万事を沈黙のうちに忍んでおられ、これによって悪人が勝利を得たかのようにみえた。人とおなりになった天主、正しい罪のないイエズスは、人々に対しての過度の愛からホスチアの中に隠れて、ご受難の時に受けられたのと同じ不正な裁判を、幾世紀も幾世紀もお忍びになるのである。
しかし、イエズス・キリストは最後の日に、あらゆる不正と不義とに対してふくしゅうされるであろう。聖体がこのようにけいべつされ、捨てられ、不正の裁判を受けられたために、私たちを裁かれる主の御怒りは、いかに恐ろしいものとなるであろうか。一般に罰は、ないがしろにされた愛の大きさに比例する。聖体の秘跡の愛は無限であるから、この愛をないがしろにした者に対しての刑罰は天主の御怒りを傾けつくした恐るべきものとなるのである。
祈願 私たちは毎日、聖体の秘跡における最高の審判者の慈悲と功徳(くどく)と犠牲によりすがり、最後の審判の日の御あわれみを願わねばならない。このために私たちは平素から主を敬い、主と親しみ、主と交わって、主のように考え判断し、希望することを学び、また特に聖体拝領に際して天主の聖徳とイエズス・キリストのご模範を考え、また主のご受難とご死去とをしのんで、今から十分に私たち自身を裁いておく必要がある。
私たちが自分自身を裁くのは、自分を清めてふさわしく聖体を受けることができるためである。私たちはこのようにして過失をただし、罪を繰り返すことを防ぐだけでなく、天主の正義が求められる償いを果たすために、自分で自分を罰さなければならない。
だから、聖体の慈悲の玉座の上に坐したもう審判者に対して、聖会とともに次の祈りを唱えよう。
『ふくしゅうの正しき審判者清算のかの日の前にわが罪の赦しを与え給え
罪人なるわれ、嘆き叫び恥にわがおもては赤し天主よ、願う者を赦したまえ
なれはマリア(マダレナ)の罪を清め盗人の祈りを聞きまたわれに希望をたまいぬ
わが祈りは、げにふさわざれどもいつくしみの、よきみあるじよわれを永遠の火より救いたまえ
羊の群れにわれを数えヤギの群れより引きだしたまえ右手のかたへわれを並ばしめたまえ』
Juste Judex ultionis,Donum fac remissionis,Ante diem rationis.
Ingemisco, tamquam reus:Culpa rubet vultus meus:Supplicanti parce, Deus
Qui Mariam absolvisti,Et latronem exaudisti,Mihi quoque spem dedisti.
Preces meæ non sunt dignæ;Sed tu bonus fac benigne,Ne perenni cremer igne.
Inter oves locum præsta.Et ab hædis me sequestra,Statuens in parte dextra.
実行 毎晩の糾明に際し、特に聖体に対して犯した罪を注意してよく糾明しよう。