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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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【聖体の黙想】聖体は地上の天国であって終わりない生命の保証である

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テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由
聖体は地上の天国であって終わりない生命の保証である
 礼拝 尊いホスチアは光栄と勝利とに輝く天国の主宰者、天使の王を隠すひとむらの雲である。このように、主が聖体の雲に隠れて地上に近づかれるのは、私たちを主に近づきやすくするためである。しかし、いと高い天の玉座に大いなる御稜威(みいつ)をもって座したもうときでも、また私たちのかよわいのを労わるために聖体の雲に隠れて地上におくだりになるときにも、主はいつも同じ主である。主は私たちが他日天国で光栄のうちに所有する幸福の保証、その先験としてここに来てくださるのである。聖体が天国の保証であるというのは、私たちにこれを与えるとの約束が聖体によって結ばれたからである。だから、『わが肉を食する者は永遠の生命を有す。われは天よりのバンなり。われを信ずる者は死をみることなかるべし』と主はかたく約束されて御身をその保証としてお与えになったのである。だから聖体はこの御約束をどこにあっても繰り返し、それを実行されたもうのである。今日聖体によって御身を私たちに与えてくださる以上、主はあとで天国の幸福を私たちにお与えにならないことができない。いったい、天国とは何か。イエズスを有すること、永遠に、確実に、イエズスを所有すること、神秘的にあますところなく終わることなくイエズスを所有することである。主は完全に私たちのものとなり、私たちは完全に主のものとなる。天国とはこれである。では、聖体とは何であるか。イエズスを有すること、その中に常に永久にイエズスか存在されること、私たちが秘跡的にイエズスをお受けすることではないか。イエズスの存在、並びに私たちがイエズスと一致する方法は、天国と聖体におけるのとでは相違がある。なぜなら地上にあっては、一方にイエズスはその存在をお隠しになり、他方に私たちは主を完全に所有して、いつも主とともにいることができない。ここでは天国のパンを食すときにも、主を認めるのは信仰だけで、感覚は少しも主に触れないばかりか、感覚はたびたび信仰を弱め、その光をくもらせて、霊魂が天高く駆け上ることを妨げさえする。しかしながら同じ実在が天国と聖体とにある。主は天国と同様に、ここ地上においても聖体によってご自身を私たちにほんとうに与えてくださるのである。だから、聖体が天国の保証だといっても、別に、不思議ではないだろう。救い主がすでにこの最初の御恵みを与えてくださる以上、どうして他日天国でご自身を完全に与えることを拒まれるだろうか。 この真理をよく味わい、私たちが主に対して、はなはだ不忠実で変わりやすいのに反し、決して御約束を変えられない主を礼拝しよう。聖体はまたこの世での天国の先験であって、その意味で保証以上のものである。先験とは、のちに与えられる祝福の一部を、あらかじめ前もって味わうことである。すなわちそれは、私たちのために用意された天国の完全な幸福の最初の味わいである。天国とはどんなところであろうか。それはあらゆるよいものを全部完全に自分のものとするところである。だから旧約聖書は『聖体をすべての喜びを含むパン』と名づけ、イエズスもまた聖体を『天よりのパン』とお呼びになった。実際、聖体はその名にそむかず、天主を直観する至福は天主のパンによって味わわれ、天使の歓喜は天使のパンによって測られ、天国の幸福は天からのバンによってはじめて知らされるのである。この涙の谷に、このようなおびただしい禍(わざわい)と、不幸とが絶えないのは、聖体の無力によるのではなくて、責任はみな私たちにあるのである。すなわち私たちの信仰は地上の財宝にまどわされ、私たちの心は物質的欲望によって弱くなっているために、ついに永福の清い喜びを楽しめぬようになったのである。だから礼拝しよう。 この世を楽園の入口にするために、天からおくだりになった生きたパンを。感謝と感嘆の心をもってこれを礼拝しよう。
感謝 主のご慈愛のいかに大いなることよ。主の愛のいかに激しいことよ。私たちの上に施したもう主のあわれみのいかに深いことよ。なぜなら、かりに私たちの労役と戦いとの報いとして天国の御約束があるだけで、これを得るのに必要な功徳は、私たちが独力で積み上げなければならなかったとしても、それで主の愛とご好意とは十分に証明されたわけだからである。ところが主はそれで満足されなかった。私たちのために死んで私たちに天国に入る権を得させたもうた救い主、御血の功徳をもろもろの秘跡を通じてみな私たちにわかちたもうた救い主、尊いみ教えによって完徳の道をお示しになった救い主、まずご自分から天国に昇って私たちのために席を用意したもう救い主は、まだ、これをもって十分とされず、私たちの手をとって天国に導くために、聖体の中に隠れて再び地上に帰り来ることをお望みになった。主は私たちに天国を保証するために、前もってご自身を私たちにお与えになるのである。それは天国の歓喜のいくらかを地上ですでに私たちに味わわせ、これによって私たちを、この世の一時的な財宝の誘惑から退け、天上の永遠の幸福を慕わせようとするためであった。ああ主よ、私たちを天国に導くために、なお主のなさることが残っていたであろうか。御身の愛は実によくゆきとどいている。これほどまでにご配慮されるのに、もし天国に行くことができなければ、私たちが懲罰を受けるのは当然であろう。どんな懲罰も、これを避けさせるために主が私たちに示したもうご慈愛に比べるなら、もののかずではないからである。
償い ああ主よ、汚れない美、限りない善、終わりないいのち、すべての幸福と善そのものなる天主よ、御身がこの天来の秘跡をもってお与えになる御約束と御招き、また天国の保証とその先験とを心に思い浮かべると、私たちは、どのように恥じなければならないであろうか。私たちはこの世の快楽が奪い去られてしまって不幸に陥ったときでなければ、天国のことを考えようとしない。すなわち、地上の不幸をいやすためにはじめて天国を望むのであるから、その反対に少しでも現世的の幸福を得、自分の心、自分の感覚の欲望が満たされると、目を天主の方にあげることをやめてしまう。たまたま天国のことを考えるかと思うと、それは主に向かって『願わくはこの幸福の杯を飲み干すまで、われを天国に呼び寄せたまわざれ』と嘆願するのである。ああ至聖なる聖体よ、御身が親しく来てくださるのは、このような地上の迷いに捕われた汚れた霊魂の中である。そこで御身はわずかしか愛されない。だから御身は私たちの中で無力無為に終始し、熾烈(しれつ)な愛に燃えた聖人らの霊魂の中に生じさせられたような、天主と天国とに対する感激、熱望、歓喜、法悦(ほうえつ)を私たちの心にお起こしにならないのである。
祈願 天来のパンなるいとも尊い聖体のみ前に出るたびごとに、望徳を盛んにする最もまじめな決心をしよう。あなたの日々の祈りと聖体拝領の際に、かたときも望徳を忘れないように。また、あなたの感謝の時にも、この決心に忠実であったかどうかを糾明しよう。これまでの事がらの実行は、必ず肉のきずなから私たちを引き離し、私たちを地上の細事から超越させ、私たちに現世を軽んじさせ永遠を愛させるようにするであろう。
実行 聖体拝領のたびごとに最後まで主に忠実である御恵みと天国を恋い慕う賜物とを願い、また永福を得る妨げとなる一切の事がらを犠牲としてささげることを決心しよう。



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