テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
聖体礼拝の理由
聖体はすべての祝福の源である
礼拝 賢王サロモンは『すべてよきものは知恵とともにわれに来たれり』といったが、聖体についてもそれと同じことがいえる。聖体と知恵とは別ではない。すべての祝福、すなわち天主の慈悲深い存在、ご託身、救世のみわざ、教会、諸秘蹟、あらゆる賜物、あらゆる恩恵、この一切が聖体によって、聖体のおかげで、また聖体を通じてこの世に与えられる。
天主が地上にとどまってこれを祝福され、私たちの仲間として歩み、私たちを最愛の子として保護してくださるのは、聖体の中においてではないだろうか。人とおなりになった御言葉、救い主イエズス・キリストが、世々に聖徳の模範を示し、優しい聖心をあらわして、その御生涯を地上に続けられるのは、聖体によってではないだろうか。カルワリオの贖罪が全世界のために継続され、尊い生贄(いけにえ)の御血が毎日新たに注がれるのは、聖体の祭りによってではないだろうか。だから、もし聖体がないなら、地上に天主がおいでにならず、私たちと一緒に救い主、贖い主がいらっしゃらないことになるのである。
また聖体は、あらゆる秘蹟の源泉である。各秘蹟が伝えるところの恩恵の生きた水は、その源を全部キリストの犠牲に発するからである。教会が常に保たれるのも、また聖体による。聖体は教会の子らをイエズスにおいて一体として、 教会に『一』なる特性を与え、 使徒伝来の熱烈な救霊心を聖職者にわかち、 教会を『公』すなわち世界的にさせる。また、私たちを天国における諸聖人と一致させ、したがって彼らの取り次ぎによって利益を得させてくださるのも聖体である。実に聖母に対しての私たちの理解を深め愛を増すのも聖体によることが多い。なぜなら、このおおいの下に隠れていらっしゃるのは聖母の最愛の御子であられるからである。そして秘蹟の中での主の沈黙、主の御祈り、主のご謙遜、これらはみな、聖母が私たちのために利用なさることができる貴重な宝であって、聖母はどんな恵みでもすべて聖体を通じて私たちのために得させてくださる。ああ、いとも礼拝すべき至聖なる秘蹟よ、御身において私たちが万事をもっていること、すべてのものがみな御身を通じて与えられることを、私たちは信じ、また、告白する。
感謝 聖体に対する感謝の義務を十分に悟るために、私たちは自分の毎日の生活をよく省み、聖体が私たち各自にとって、どんなに多くの祝福の源であるかを調べる必要がある。実際、個人的に私たちに与えられる祝福は、全教会がこれによって立っている大きな祝福と同様に、すべて聖体から出ているのである。洗礼を受けたのも、天父の食卓に連らなって不朽のパンを食するため、すなわち聖体を拝領するためではなかったか。
両親や先生がたが深い愛と熱心とをもって私たちを教育してくださったのも、私たちを初聖体の日にふさわしく準備させるためではなかったか。人目を恥じず、また多くの困難をおかして罪を告白し、その御赦しを受けたのも、生命の秘蹟に与るためではなかったか。私たちをして信者らしく生活させ、悪に逆らい、試練に堪えさせ、霊魂に平和と、良心の喜びをもたらし、最後まで忍耐し、善き終わりを迎え、天国への凱旋に対する希望を持たせてくださるのも、聖体の秘蹟のおかげである。このようにして、私たちの全生涯は聖体によって養われ、支えられ、霊化される。もし私たちが聖体拝領を中止するなら、これらの大きな御恵みはすぐに失われてしまうだろう。ああ、慈悲深く、恵み豊かな聖体よ、私たちはどうすれば御身にふさわしく感謝することができようか。私たちにできることは、ますます熱心に御身に依頼することだけである。
償い 聖体はこのように天主の恩恵の頂点、その愛の源泉、救霊のために与えられる万善の根本であるにもかかわらず、キリスト信者がこれを無視し、軽蔑して、これを利用することの少ないのは、いかなる理由によるのであろうか。そのうえ聖体が尊重されず、祈願されず礼拝されないのは、なぜだろうか。私たちが天主の広大無辺の御慈悲から受ける一切の御恵みを、心からの感謝をもって聖体に帰しないのは、ほんとうになぜであろうか。豊かに与える者は豊かに感謝されるはずではないか。少しの利己心もなく、ただ他人のために尽くす者は、尊敬と名誉とを受けるはずではないか。では、すべての賜物を含んでいるこの秘蹟が、人々に心から愛されないで、また、ほんとうに尊敬されないのは、いったいなぜであろうか。
聖体における救い主の聖心をいたく傷つける忘恩無礼は、すなわちこれである。これを嘆き、これを悲しもう。今、主のみ前から退くにあたって、聖体に対して負っている信心の義務と、私たちが実行している信心の実際との間にある大きな隔たりについて、正しく知らねばならない。
祈願 私たちや私たちの家族、いな、全世界に与えられている救霊の御恵みが、すべて聖体の中にあって、また、聖体によって分けられることをよく理解できる御恵みを願い求めよう。実に私たちの唯一の希望は、信仰と祈りと礼拝と拝領とによって聖体と一致することでなければならない。聖体がまことにイエズスご自身である以上、どうして他に望みがありえようか。謙遜に聖体に祈り、信心をもって聖体をお受けし、最上の尊敬を聖体に捧げよう。全幅の信頼をもってこれに対し、すべての仕事をこれに捧げ、あらゆる必要に際し、この聖名によって祈ろう。聖体こそ、信頼をもって祈りさえすれば、一切のものが与えられる天主の御約束のしるしである。それゆえ『その御ひとり子を拒みたまわず、かえってわれらのためにこれをわたしたまいたれば、いかんぞ彼とともに万事を与えたまわざらんや』との御言葉は、聖体に関して最も真実であるといわなければならない。
実行 できるだけたびたび聖体のみ前に跪いて、その覆(おお)いの彼方に隠れておいでになる救い主に祈ろう。
聖体礼拝の理由
聖体はすべての祝福の源である
礼拝 賢王サロモンは『すべてよきものは知恵とともにわれに来たれり』といったが、聖体についてもそれと同じことがいえる。聖体と知恵とは別ではない。すべての祝福、すなわち天主の慈悲深い存在、ご託身、救世のみわざ、教会、諸秘蹟、あらゆる賜物、あらゆる恩恵、この一切が聖体によって、聖体のおかげで、また聖体を通じてこの世に与えられる。
天主が地上にとどまってこれを祝福され、私たちの仲間として歩み、私たちを最愛の子として保護してくださるのは、聖体の中においてではないだろうか。人とおなりになった御言葉、救い主イエズス・キリストが、世々に聖徳の模範を示し、優しい聖心をあらわして、その御生涯を地上に続けられるのは、聖体によってではないだろうか。カルワリオの贖罪が全世界のために継続され、尊い生贄(いけにえ)の御血が毎日新たに注がれるのは、聖体の祭りによってではないだろうか。だから、もし聖体がないなら、地上に天主がおいでにならず、私たちと一緒に救い主、贖い主がいらっしゃらないことになるのである。
また聖体は、あらゆる秘蹟の源泉である。各秘蹟が伝えるところの恩恵の生きた水は、その源を全部キリストの犠牲に発するからである。教会が常に保たれるのも、また聖体による。聖体は教会の子らをイエズスにおいて一体として、 教会に『一』なる特性を与え、 使徒伝来の熱烈な救霊心を聖職者にわかち、 教会を『公』すなわち世界的にさせる。また、私たちを天国における諸聖人と一致させ、したがって彼らの取り次ぎによって利益を得させてくださるのも聖体である。実に聖母に対しての私たちの理解を深め愛を増すのも聖体によることが多い。なぜなら、このおおいの下に隠れていらっしゃるのは聖母の最愛の御子であられるからである。そして秘蹟の中での主の沈黙、主の御祈り、主のご謙遜、これらはみな、聖母が私たちのために利用なさることができる貴重な宝であって、聖母はどんな恵みでもすべて聖体を通じて私たちのために得させてくださる。ああ、いとも礼拝すべき至聖なる秘蹟よ、御身において私たちが万事をもっていること、すべてのものがみな御身を通じて与えられることを、私たちは信じ、また、告白する。
感謝 聖体に対する感謝の義務を十分に悟るために、私たちは自分の毎日の生活をよく省み、聖体が私たち各自にとって、どんなに多くの祝福の源であるかを調べる必要がある。実際、個人的に私たちに与えられる祝福は、全教会がこれによって立っている大きな祝福と同様に、すべて聖体から出ているのである。洗礼を受けたのも、天父の食卓に連らなって不朽のパンを食するため、すなわち聖体を拝領するためではなかったか。
両親や先生がたが深い愛と熱心とをもって私たちを教育してくださったのも、私たちを初聖体の日にふさわしく準備させるためではなかったか。人目を恥じず、また多くの困難をおかして罪を告白し、その御赦しを受けたのも、生命の秘蹟に与るためではなかったか。私たちをして信者らしく生活させ、悪に逆らい、試練に堪えさせ、霊魂に平和と、良心の喜びをもたらし、最後まで忍耐し、善き終わりを迎え、天国への凱旋に対する希望を持たせてくださるのも、聖体の秘蹟のおかげである。このようにして、私たちの全生涯は聖体によって養われ、支えられ、霊化される。もし私たちが聖体拝領を中止するなら、これらの大きな御恵みはすぐに失われてしまうだろう。ああ、慈悲深く、恵み豊かな聖体よ、私たちはどうすれば御身にふさわしく感謝することができようか。私たちにできることは、ますます熱心に御身に依頼することだけである。
償い 聖体はこのように天主の恩恵の頂点、その愛の源泉、救霊のために与えられる万善の根本であるにもかかわらず、キリスト信者がこれを無視し、軽蔑して、これを利用することの少ないのは、いかなる理由によるのであろうか。そのうえ聖体が尊重されず、祈願されず礼拝されないのは、なぜだろうか。私たちが天主の広大無辺の御慈悲から受ける一切の御恵みを、心からの感謝をもって聖体に帰しないのは、ほんとうになぜであろうか。豊かに与える者は豊かに感謝されるはずではないか。少しの利己心もなく、ただ他人のために尽くす者は、尊敬と名誉とを受けるはずではないか。では、すべての賜物を含んでいるこの秘蹟が、人々に心から愛されないで、また、ほんとうに尊敬されないのは、いったいなぜであろうか。
聖体における救い主の聖心をいたく傷つける忘恩無礼は、すなわちこれである。これを嘆き、これを悲しもう。今、主のみ前から退くにあたって、聖体に対して負っている信心の義務と、私たちが実行している信心の実際との間にある大きな隔たりについて、正しく知らねばならない。
祈願 私たちや私たちの家族、いな、全世界に与えられている救霊の御恵みが、すべて聖体の中にあって、また、聖体によって分けられることをよく理解できる御恵みを願い求めよう。実に私たちの唯一の希望は、信仰と祈りと礼拝と拝領とによって聖体と一致することでなければならない。聖体がまことにイエズスご自身である以上、どうして他に望みがありえようか。謙遜に聖体に祈り、信心をもって聖体をお受けし、最上の尊敬を聖体に捧げよう。全幅の信頼をもってこれに対し、すべての仕事をこれに捧げ、あらゆる必要に際し、この聖名によって祈ろう。聖体こそ、信頼をもって祈りさえすれば、一切のものが与えられる天主の御約束のしるしである。それゆえ『その御ひとり子を拒みたまわず、かえってわれらのためにこれをわたしたまいたれば、いかんぞ彼とともに万事を与えたまわざらんや』との御言葉は、聖体に関して最も真実であるといわなければならない。
実行 できるだけたびたび聖体のみ前に跪いて、その覆(おお)いの彼方に隠れておいでになる救い主に祈ろう。