テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
聖体の制定された理由
聖体は霊的生活の糧である
礼拝 秘蹟の外観のもとに隠れながら、まことに生きたもう天主にして人なるイエズス礼拝しよう。主はかつて次のようにおっしゃった。『われは生命のパンなり。われに来る者は飢えず。われは天よりくだりたる生けるパンなり。人もし、このわがパンを食せば、とこしえに生くべし。しかしてわが与えんとするパンは、この世を生かさんためのわが肉なり。わが肉を食しわが血を飲む人はわれにとどまり、われもまたこれにとどまる。われを食する人はわれによりて生きん』と。主はいとも尊い望ましい霊的生命そのものを、このように固くあなたに約束なさった。
あらゆる生命の唯一の源は天主である。人間の自然の生命、すなわち感覚的並びに理性的生命もこの源から流れ出る。しかし天主のみもとには、より高い、より尊い超自然の生命が存在する。それは天主ご自身の生命であって、聖徳の生命、光の生命、愛の生命、無限の幸福の生命とも呼ばれるものである。天主は人に自然的生命を与え、なおそのうえ、超自然的生命を与えられたが、このよりよい生命の賜物は決して創造主の義務ではなかった。しかし私たちの霊魂は、これをお受けすることのできるものであったから、創造主の無限の御慈悲によって、人祖の霊魂にこれが与えられたのである。ところが人間は罪を犯してこれを失ってしまった。だから私たちの霊魂は、もともと霊的生命に適したように造られ、かつては実際にこれを受けながら、不幸にして失ってしまったその生命の消えない記憶と、それを取り戻したい限りない望みと、その喪失から生ずる癒されない落胆とから出る深い悲しみを抱いているのである。しかしなんぴとがよくこれを私たちに取り戻してくれることができたであろうか。それは最初にこの霊的生命を私たちに与えてくださった天主でなければ不可能であった。実際最初の賜物をくださったのは父なる天主、これを取り戻してくださったのは子なる天主であったのである。このようにして私たちが洗礼の秘蹟によって主の御血で清められた瞬間に、私たちの霊魂の中に新しい生命の芽が萌え出て、これが私たちの霊的生命のはじまりとなったのであるが、この生命を保ち、育み、この生命をしてそのすべての歓喜を味わわせ、聖なるわざを豊かにするためには、それを規則的に成長させる食物が必要であった。この食物こそ生命のパン、聖体のパンなのである。ああ、だから礼拝しよう。あなたにおいでになる永遠の生命、幸いな生命、聖なる生命、天主の生命を。あなたに約束され、聖体のパンによって強められ、確かめられた生命を。私たちの霊魂の中に霊的生命の生きた養いとなったイエズス・キリストを。
感謝 もし私たちが、霊魂の滅びの恐ろしさと、永遠の生命の尊さをまことに知るならば、私たちのために聖体を工夫し、これを私たちに与えたもうた主の聖心の愛を、どうして絶えず祝福し、感謝しないでいられよう。
霊魂が肉体の生命の根源であるように、天主は霊魂の生命の源である。天主が永遠の生命を与えようと定められたにもかかわらず、私たちが現世の自然的生命だけで満足し、超自然的生命に達しようとしないのは、ちょうど茎だけで満足し、花を咲かせようとせず、あるいは、花を咲かせても実を結ばせようとしないのと同様である。このたとえはまだ足りない。私たちは原罪をもっているほかに、数々の罪を犯して霊魂の生命を失い、天主から遠ざかり、天主の御怒りと罰とに価した。これこそまことの死、永遠の死、恐れなければならない死ではなかろうか。
だから私たちはここに安堵(あんど)し希望をもって喜ぶことができる。それは失ったところを補い、道をたやすくし、修業を助け、霊魂の生命を育み、これを支える糧があるからである。これこそ聖体のパン、生命のパンである。忠実にこれを食べる者は決して死ぬことがない。たとえ罪を犯して倒れることがあっても、このパンの力によってまたよみがえることができるのである。ああ生命のパン、私たちの弱さに力を添え、天主ご自身の生命の功力を私たちにお伝えになる者よ、ああ誉れと栄えとのパンよ、御身は卑しい罪の底、虚無の淵から私を天に導き、王子らとともに王の御食卓に列席させてくださるのである。ああ平和と慰めと愛と光明とのパンよ、もし私が忠実に御身の御力によりすがり、御身に導かれていくならば、必ず到達することのできる永遠の幸福のいくぶんかを御身はすでにこの世でも私に味わわせたもうのである。あらゆる人々の感謝を受け、永遠に愛され、祝され、賛えられますように。
償い しかし世間はこの生命の賜物をまことに心から歓迎しているであろうか。私たち自身はどうであろうか。私たちは、はたして聖体による霊的生命の効果をあげているであろうか。ある人々は、救い主の慈愛にあふれるこの賜物を知ろうとも信じようとも欲しない。悲しいことに、このような人々は決して少なくないのである。彼らは主の御食卓から遠ざかり、あわただしい動物的生涯を送り、あるいは悲哀と過失との入りまじった理知一方の生活に満足する。彼らは自分の霊魂の滅びを知らない。傲慢によって心の耳をふさぎ、邪悪な心をもって尊いパンを拒み、頑固にも主が御からだをお与えになるこの最上の賜物を追い退けるのである。
また、これよりも卑劣な悪人がある。かの偽善者らは、罪悪の生活を送りながら聖体を受け、天主の御食卓に連らなりながら同時に悪魔の招宴にも応ずるのである。すなわち心を照らす信仰もなく、罪を清める愛徳ももっていないし、罪の為に腐敗した自分の霊魂の中に、この生けるパンを受けるのである。しかしそれは、もっと大きな天主の怒りを招くばかりで、さらに惨めな死の墓に葬られることになるのである。
さて私はどうであろうか。私は果たして天主の生命を霊魂の中にもっているだろうか。私の思念は天主の思念に導かれているだろうか。主の愛が他の被造物の望みを規定しているであろうか。もし私が霊的に生きていないなら、それに私がこの天来のパンから十分養いを取らないためであろうか。あるいは必要な準備もせず、ふさわしくないのにこれを迎えるためではなかろうか。聖体によって生きるか、生命のパンを食べないで死んでしまうかの生死の問題であるにもかかわらず、人々はこれに頓着しない。たびたび聖体に近づくよう熱心に勧める教会の教えも聞かず、ただ年に一度の復活祭の務めをやっと守るという者があるのは実になさけないことである。
祈願 不思議な生命のパンの御約束を聞いて『主よ、常にこのパンを与えたまえ』と叫んだ人々にならうがよい。主はこの言葉を主禱文中に取り入れて『われらの日用の糧を今日われらに与えたまえ』と祈ることをお命じになった。あなたは、あなたの周囲にある悩める人、飢える人、病む人、死んだ人の大群をながめ、彼らが自分の過失あるいは無知から、この生命のパンから遠ざかっていることを嘆き、かつて使徒らが主のあとに従った群衆の飢餓をあわれんだときのように彼らのために主に願おう。『主よこの砂漠のただ中にあって、彼らはまことの糧となるべき食物をもたざるにより、願わくは彼らをあわれみたまえ』と。
実行 忠実に主の御招きに応じ、よい準備をもって生命のパンを受けるよう努めよう。
聖体の制定された理由
聖体は霊的生活の糧である
礼拝 秘蹟の外観のもとに隠れながら、まことに生きたもう天主にして人なるイエズス礼拝しよう。主はかつて次のようにおっしゃった。『われは生命のパンなり。われに来る者は飢えず。われは天よりくだりたる生けるパンなり。人もし、このわがパンを食せば、とこしえに生くべし。しかしてわが与えんとするパンは、この世を生かさんためのわが肉なり。わが肉を食しわが血を飲む人はわれにとどまり、われもまたこれにとどまる。われを食する人はわれによりて生きん』と。主はいとも尊い望ましい霊的生命そのものを、このように固くあなたに約束なさった。
あらゆる生命の唯一の源は天主である。人間の自然の生命、すなわち感覚的並びに理性的生命もこの源から流れ出る。しかし天主のみもとには、より高い、より尊い超自然の生命が存在する。それは天主ご自身の生命であって、聖徳の生命、光の生命、愛の生命、無限の幸福の生命とも呼ばれるものである。天主は人に自然的生命を与え、なおそのうえ、超自然的生命を与えられたが、このよりよい生命の賜物は決して創造主の義務ではなかった。しかし私たちの霊魂は、これをお受けすることのできるものであったから、創造主の無限の御慈悲によって、人祖の霊魂にこれが与えられたのである。ところが人間は罪を犯してこれを失ってしまった。だから私たちの霊魂は、もともと霊的生命に適したように造られ、かつては実際にこれを受けながら、不幸にして失ってしまったその生命の消えない記憶と、それを取り戻したい限りない望みと、その喪失から生ずる癒されない落胆とから出る深い悲しみを抱いているのである。しかしなんぴとがよくこれを私たちに取り戻してくれることができたであろうか。それは最初にこの霊的生命を私たちに与えてくださった天主でなければ不可能であった。実際最初の賜物をくださったのは父なる天主、これを取り戻してくださったのは子なる天主であったのである。このようにして私たちが洗礼の秘蹟によって主の御血で清められた瞬間に、私たちの霊魂の中に新しい生命の芽が萌え出て、これが私たちの霊的生命のはじまりとなったのであるが、この生命を保ち、育み、この生命をしてそのすべての歓喜を味わわせ、聖なるわざを豊かにするためには、それを規則的に成長させる食物が必要であった。この食物こそ生命のパン、聖体のパンなのである。ああ、だから礼拝しよう。あなたにおいでになる永遠の生命、幸いな生命、聖なる生命、天主の生命を。あなたに約束され、聖体のパンによって強められ、確かめられた生命を。私たちの霊魂の中に霊的生命の生きた養いとなったイエズス・キリストを。
感謝 もし私たちが、霊魂の滅びの恐ろしさと、永遠の生命の尊さをまことに知るならば、私たちのために聖体を工夫し、これを私たちに与えたもうた主の聖心の愛を、どうして絶えず祝福し、感謝しないでいられよう。
霊魂が肉体の生命の根源であるように、天主は霊魂の生命の源である。天主が永遠の生命を与えようと定められたにもかかわらず、私たちが現世の自然的生命だけで満足し、超自然的生命に達しようとしないのは、ちょうど茎だけで満足し、花を咲かせようとせず、あるいは、花を咲かせても実を結ばせようとしないのと同様である。このたとえはまだ足りない。私たちは原罪をもっているほかに、数々の罪を犯して霊魂の生命を失い、天主から遠ざかり、天主の御怒りと罰とに価した。これこそまことの死、永遠の死、恐れなければならない死ではなかろうか。
だから私たちはここに安堵(あんど)し希望をもって喜ぶことができる。それは失ったところを補い、道をたやすくし、修業を助け、霊魂の生命を育み、これを支える糧があるからである。これこそ聖体のパン、生命のパンである。忠実にこれを食べる者は決して死ぬことがない。たとえ罪を犯して倒れることがあっても、このパンの力によってまたよみがえることができるのである。ああ生命のパン、私たちの弱さに力を添え、天主ご自身の生命の功力を私たちにお伝えになる者よ、ああ誉れと栄えとのパンよ、御身は卑しい罪の底、虚無の淵から私を天に導き、王子らとともに王の御食卓に列席させてくださるのである。ああ平和と慰めと愛と光明とのパンよ、もし私が忠実に御身の御力によりすがり、御身に導かれていくならば、必ず到達することのできる永遠の幸福のいくぶんかを御身はすでにこの世でも私に味わわせたもうのである。あらゆる人々の感謝を受け、永遠に愛され、祝され、賛えられますように。
償い しかし世間はこの生命の賜物をまことに心から歓迎しているであろうか。私たち自身はどうであろうか。私たちは、はたして聖体による霊的生命の効果をあげているであろうか。ある人々は、救い主の慈愛にあふれるこの賜物を知ろうとも信じようとも欲しない。悲しいことに、このような人々は決して少なくないのである。彼らは主の御食卓から遠ざかり、あわただしい動物的生涯を送り、あるいは悲哀と過失との入りまじった理知一方の生活に満足する。彼らは自分の霊魂の滅びを知らない。傲慢によって心の耳をふさぎ、邪悪な心をもって尊いパンを拒み、頑固にも主が御からだをお与えになるこの最上の賜物を追い退けるのである。
また、これよりも卑劣な悪人がある。かの偽善者らは、罪悪の生活を送りながら聖体を受け、天主の御食卓に連らなりながら同時に悪魔の招宴にも応ずるのである。すなわち心を照らす信仰もなく、罪を清める愛徳ももっていないし、罪の為に腐敗した自分の霊魂の中に、この生けるパンを受けるのである。しかしそれは、もっと大きな天主の怒りを招くばかりで、さらに惨めな死の墓に葬られることになるのである。
さて私はどうであろうか。私は果たして天主の生命を霊魂の中にもっているだろうか。私の思念は天主の思念に導かれているだろうか。主の愛が他の被造物の望みを規定しているであろうか。もし私が霊的に生きていないなら、それに私がこの天来のパンから十分養いを取らないためであろうか。あるいは必要な準備もせず、ふさわしくないのにこれを迎えるためではなかろうか。聖体によって生きるか、生命のパンを食べないで死んでしまうかの生死の問題であるにもかかわらず、人々はこれに頓着しない。たびたび聖体に近づくよう熱心に勧める教会の教えも聞かず、ただ年に一度の復活祭の務めをやっと守るという者があるのは実になさけないことである。
祈願 不思議な生命のパンの御約束を聞いて『主よ、常にこのパンを与えたまえ』と叫んだ人々にならうがよい。主はこの言葉を主禱文中に取り入れて『われらの日用の糧を今日われらに与えたまえ』と祈ることをお命じになった。あなたは、あなたの周囲にある悩める人、飢える人、病む人、死んだ人の大群をながめ、彼らが自分の過失あるいは無知から、この生命のパンから遠ざかっていることを嘆き、かつて使徒らが主のあとに従った群衆の飢餓をあわれんだときのように彼らのために主に願おう。『主よこの砂漠のただ中にあって、彼らはまことの糧となるべき食物をもたざるにより、願わくは彼らをあわれみたまえ』と。
実行 忠実に主の御招きに応じ、よい準備をもって生命のパンを受けるよう努めよう。