アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
イエズスの聖心の神秘を黙想しましょう。
皆様にYouTubeで「イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭の説教」の動画の書き起こしをご紹介いたします。
6月聖心の聖月を良くお過ごしください。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
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「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、
今日は私たちは、イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭を祝っています。ですから一緒に、イエズス様の聖心の神秘を黙想致しましょう。
【聖心の思い:私たちへの愛】
この祝日のミサの入祭唱にはこう歌います。
“Cogitatiónes Cordis eius in generatióne et generatiónem : ut éruat a morte ánimas eórum et alat eos in fame.”
「主の聖心の想いは、代々に:彼らの霊魂らを死から奪い取り、飢えに彼らを養う為に。」
天主は、私たちを救う為に、私たちに天主の命と、喜びと、至福の幸せを与える為に、全てを尽くされました。聖ヨハネはこう言っています、「天主は愛である」と。
天主の愛はとてつもなく大きく、私たちの想像を全く超えるものです。まさかそこまで、と思われるほど、信じられないほどの超絶した愛を、私たちに与えてくれました。私たちはこれを素直に、感嘆しつつ信じます。“Credidimus caritati.”「 私たちは天主の愛を信じた。」
聖パウロはこう言っています。
“scire étiam supereminéntem sciéntiæ caritátem Christi, ut impleámini in omnem plenitúdinem Dei.”
「計りしれないキリストの愛を知りさえする、あなたたちは天主の全き充満によって満たされる為に」と。
イエズス・キリストの聖心は、私たちの代わりに死を受け、御自分の十字架による死で、私たちに命を与えようと欲したのです。
私たちを力づけ、私たちを守り、将来の命の保証を与える為に、御自分の体で私たちを養う事を欲しました。
「キリスト教は、愛の宗教、愛の教えだ」と言われています。何故かというと、「天主が私たちをどれほど愛しておられるか、信じられないほどの巨大な愛の事実を、私たちに教えているから」です。そして天主は、愛によって私たちを、御自分の喜びに引き寄せようと欲しておられます。
私たちはこの真理、天主の愛をどれほどよく知り、認めて、これに御礼し、愛し返さなければならない事でしょうか。
特に、イエズス様が生まれた「馬小屋」、イエズス様が私たちの為に犠牲となった「十字架」、イエズス様がこの世の終わりまで私たちと共にいらっしゃる、真にまします「御聖体・御聖櫃」、この三つが、天主の愛、イエズスの至聖なる聖心の愛を、私たちが深く知るよすがとなる場所です。
私たちはどれほど、私たちに救いの道を教え、そして救いの手段を下さる天主に従わなければならない事でしょうか。そしてその道を歩み、その手段を有効に使わなければなりません。
私たちの主が制定した「七つの秘蹟」、これが私たちの霊魂の救いの為に、天主が私たちに与えて下さった必要な手段です。
残念な事に現代では、この秘蹟がないがしろにされています。秘跡の大切さが信じられていません。顧みられていません。この秘跡が大切にされていない事を御覧になるイエズス様は、どれほど御悲しみになる事でしょうか。
【聖心:最高司祭の心】
第2のポイントとして、私たちに対する聖心の愛の頂点は、「御聖体」と共に、「カトリックの司祭職である」という事を黙想致しましょう。
イエズス様の聖心、それは新約の大司祭の聖心です。何故かというと、イエズス・キリストは新約の大司祭であり、そして同時に天主の子羊、天主に屠られる天主のいけにえであるからです。全ての聖寵、秘蹟の全ての御恵みは、カルワリオの犠牲(いけにえ)、イエズス・キリストの至聖なる愛の聖心に由来しています。
「主の聖心の想いは、代々に:私たちの霊魂を永遠の死から奪い取り天国に導き、霊的な飢えにおいて、私たちを御自分の御体で養う」事を考えておられました。
その為に、イエズスの聖心の愛は、ある特別の人間を選び、御自分に似せる事を欲し給うたのです。この彼らに、第二のキリストとなる特別の権能を与える事を望まれました。十字架の上で主と共に自分を屠り、キリストのペルソナにおいて、カルワリオの犠牲を継続させる事を望まれました。そしてイエズスの御自分の御体を、イエズス・キリストに代わって、イエズス・キリストの名前で、信徒たちに糧として与える権能を授与する事を欲しました。
これが、私たちの主イエズス・キリストの愛の神秘です。カトリック司祭職の神秘です。
イエズスの聖心の愛の極みは、人類の聖化の大事業に、「人類の救霊」という永遠の大事業に、貧しい、つまらない被造物を使う事を望まれました。贖われて、そして赦された弱い罪びとに、御自分の司祭職の霊的な刻印を刻み込んで、永遠に刻み込んで、消せる事ができないように刻み込んで、救霊の業に協力させようと意志されました。
この決して消し去る事ができない霊の刻印は、霊魂に刻まれた司祭たちは、カトリック司祭たちは、聖変化の言葉を有効に、実効的に発声する事ができるようになります。天使たちでさえもできない、天使たちでさえも感嘆と讃美とそして感謝の言葉をするだけのとてつもない権能が、ちっぽけな人間である司祭に与えられました。愛の、イエズスの聖心の愛の知恵と、全能の業です。
残念ながら、現代教会では、これに反する事が広まっています。「洗礼を受けた人は、皆司祭だ、キリストの司祭職に参与している。だから私たちはミサで聖体も配れば、色々な事をする」と。
しかし、これは間違っています。平信徒には、キリストの司祭職の霊的な刻印が刻まれていないからです。叙階の秘蹟を受けていないからです。
1)司祭としての霊的な刻印を受ける事によって、叙階の秘蹟を受ける事によって初めて、司祭は人々に教える権能を受けます。天主の十戒を教え、福音を教え、そして道・真理・命であるイエズス・キリストを教え、十字架に付けられたイエズス・キリストを、福音を宣べ伝える、という権能です。
ところで、聖パウロはそれと同時に、こうも警告しています。「よい折があろうとなかろうと、くり返し論じ、反駁し、咎め、すべての知識と寛容とをもってすすめよ。人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快い事を聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」ところで、今、この健全な教えを忍ばない時がやってきたかのようです。
イエズス・キリストの2000年間教えてきた、イエズス・キリストの教えた2000年の聖伝の教えを、もはや忍ばない時がやって来たようです。健全な教えに耳を傾けず、新しい作り話に耳を傾ける時が来てしまったかのようです。
例えば、真理と誤謬を同じレベルに置く、全ての宗教を同じレベルに置くエキュメニズム。キリストを信じなくても人々は救われているという主張。真理や誤謬が区別されないでごちゃごちゃになっている信教の自由、何でも信じる事ができるという自由。天主への義務のない人権。パチャママ、その他偶像を天主の教会内に置こうとする宗教無差別の主義。天主が大地と決定的に一致したと主張するようなエコロジー、などです。
これらの作り話しは、イエズス・キリストの聖心から、イエズス様の制定された秘蹟から、御聖体への愛から、カルワリオへの参与から、イエズス・キリストの十字架から、イエズス・キリストの御母、天主の御母聖母から、人々の心を引き離そうとする作り話です。
2)叙階の秘蹟を受ける事によって司祭は、人々を聖化する権能を受けます。秘蹟を執行する事によって、特にミサ聖祭を捧げて、御聖体を授ける事によって、また同時に、告解の秘蹟を執行する事によって、人々や物を祝別祝福する事によって、人々と家庭と社会を聖化します。
カトリックの司祭という聖別された手には、どれほど偉大な宝が委託されている事でしょうか!どんな素晴らしい名医であっても、お医者様であっても、どれほど力がある金持ちの国の大統領であっても、たとえ天皇陛下であっても、天群の天使たちであってもできない、天主からの罪の赦しを与える、というこの権能を受けているのですから。
しかも、パンをイエズス・キリストの真の御体に聖変化させ、イエズス・キリストの本当の聖なる御体を信徒たちに与える事ができる、というのは、誰にもできない、カトリック司祭だけに与えられた、特別の天主からの特権です、権能です。
ミサ聖祭は、単なる共同体の集いではありません。単なるパンを分かち合う会食でもありません。ミサ聖祭とは、カトリックの教えによれば、「パンと葡萄酒の二重の聖変化によって、秘蹟的にキリストの屠りを執行して、カルワリオの十字架の犠牲を今ここで、現実化して、現存させる事」です。ミサ聖祭とはまさに、「カルワリオの犠牲(いけにえ)そのもの」です。同じ司祭、同じいけにえ・犠牲です。
カトリック司祭とは一体何であるか、そのアイデンティティーを、私たちの先祖の神父様方々はよくご存知でした。たくさんの例があります。
例えば、福者ジュリアン中浦神父様。大迫害のさなかに、口之津(くちのつ)を拠点として九州各地の信徒たちに、悔悛の秘蹟、そして御聖体の秘蹟を授ける為、信徒の霊的な世話に奔走しておられました。足が悪かったのですが、毎年4000名以上の信徒の告解を聞いていました。大迫害の真っ只中です。そして最後には、10ヶ月にわたる厳しい取り調べと拷問を受けて、ズタズタになって、最後には穴吊るしを4日間、「この大きな苦しみを、天主への愛の為に」と耐え忍んで、殉教していきました。
他にもあります。例えば、福者ペトロ・カスイ岐部神父です。岐部城主左近大夫(さこんたゆう)の子供で、もちろんお殿様になる事もできました。しかし、「自分は司祭になりたい」と、19歳の時から、司祭になる為の訓練を受けました。そして司祭になる為に、ローマまで歩いて行きました。インドのゴアからローマまで歩いていました。そして1620年、ローマで司祭に叙階されました。叙階の後に、ローマの有名なグレゴリアン大学で神学を学び続け、イエズス会の修練院で修練期を送ります。
もちろんローマは素晴らしい大きな都です。キリスト教の総本山です。美しく、大聖堂が多くあり、人々は優しく親切で、安全で、司祭として祈り、勉強し、そして修道生活をする、信徒たちに囲まれてローマで活躍する事は、全く問題なくできたはずです。楽園のような、天国のようなローマで、そのまま一生を安全に終える事もできたはずです。
しかしこの福者ペトロ岐部神父様は、イエズス会の総長に懇願したのです、「お願いします。日本に行く許可を与えて下さい。」
「お前の命は危ないぞ。ここにいた方がいいんじゃないか。」
しかし、ペトロ岐部神父様の決意は誰にも揺るがす事ができませんでした。なぜかというと、「霊魂の救いの為に、日本にいる霊魂の救いの為に、命をかけて自分は働きたい」と願っていたからです。「霊的に養いたい」と思ったからです。1630年、43歳の時に、総長の許可を得て、16年ぶりに日本に帰国します。
福者ペトロ岐部神父様は、特に仙台領で命がけで信徒たちの世話をし、秘跡を与え、御聖体を与え、告解の秘跡を施し、そして1639年、江戸で穴吊るしにあって、殉教しました。どんなに尋問を受け、どんな拷問を受けても、決して転びはしませんでした。
日本だけではありません。朝鮮でもそうでした。聖金大建アンドレア。中国大陸を横断して、マカオまで移動して、そして勉強し司祭に叙階された後、命の危険を冒して朝鮮に戻ります。その理由はたった一つです。秘蹟を信徒たちに授ける、ミサ聖祭を捧げて御聖体を与える、告解を聞く、その為です。信徒たちの救霊の為に。
司祭の心は、救い主の心。
「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える」という事。
【最後に:イエズスの聖心を愛そう】
では最後に、私たちはこのイエズス様の聖心の熱い想いと、そしてイエズス様の聖心に倣うカトリック司祭の想いを黙想した後に、遷善の決心を立てましょう。
イエズス様の聖心の広さ、その深み、その高さ、これを垣間見て、この愛に愛で答える事ができますように、お祈り致しましょう。また、イエズスの聖心に倣う多くの聖なるカトリック司祭が生まれるますように、召命が生まれますように、お祈り致しましょう。
ファチマのマリア様にお祈り致しましょう。ファチマの聖母は1917年6月13日、人類にご自分の汚れなき御心をお見せになりました。それは、イエズスの聖心と全く同じ御心でした。
汚れなき御心によって、私たちもイエズス様の聖心に倣う事ができますように、そしてイエズス様の聖心に倣う司祭たちが与えられますように、イエズス様の聖心をますますお愛しする事ができますように、お祈り致しましょう。
「主の聖心の想いは、代々に:霊魂の罪を赦し、地獄の死から救い出し、霊魂たちが飢えて死んでしまわないように、御聖体を与える事。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。