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【参考資料】カルロ・マリア・ヴィガノ大司教の現代のカトリック教会における混乱と逸脱の原因に関する考察(2020年6月8日付)

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)は、2020年6月9日付けで、第二バチカン公会議を冷静に見直す文章を発表しました。原文はイタリア語で、英語にも翻訳されています。ここでは、英語から日本語に訳しましたので、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。


ヴィガノ大司教の訴えの要点は、次の通りです。

*シュナイダー司教は、今日まで急進的に進んできた教理的、道徳的、典礼的、規律的逸脱の原因は、第二バチカン公会議によって宣言されあるいは暗示された諸原理にあり、第二バチカン公会議の論理的結果として起こっている、と因果関係を正しく指摘している。

*"継続の解釈学"の名の下に公会議の様々な行き過ぎを正そうとすることはむなしい努力だ。第二バチカン公会議は、カトリック教会の教えと断絶していることがますます明らかになってきている。

*カトリック教会とは別の、平行の教会ができつつある。人々は奈落の底へとまっしぐらに突き進んでいるが、それに気づいている人はほとんどいない。

*ほとんどの人々が、現在の危機の根本的原因を知ろうとせず、あたかもこの危機が第二バチカン公会議で組織的に準備された計画の論理的で不可避の結果ではないかのように、現在の行き過ぎを嘆くことしかしていない。

*しかし、第二バチカン公会議は、教義からの最も常軌を逸した逸脱や、最も大胆な典礼の革新や、最も無節操な濫用を正当化するために使われてきたが、その間も最高権威は沈黙を守ったままだった。

*第二バチカン公会議は、それだけが唯一正当な基準として提示され、教会が常に権威をもって教えてきた聖伝の教理を軽侮したり、千年以上にわたって信者、殉教者、聖人たちを生み出してきた聖伝の典礼を禁止した。第二バチカン公会議は過去と断絶している。

*第二バチカン公会議は、それ以前の教導権に関する非常に多くの解釈上の問題と多くの矛盾を引き起こした唯一の公会議となった。第二バチカン公会議は過去と矛盾している。

*教会の民主主義化。職位的司祭職の廃止。汎エキュメニズムへの静かな移行。宗教的相対主義を前提とし、宣教を排除する宗教間対話。教皇職の非神話化。政治的に正しい様々な流行のイデオロギーの急進的な正当化。これらの混乱の根源は、第二バチカン公会議による原理にある。

*私たちは、善意のうちに、誤りに導かれてきた、と認めなければならない。

*離教を引き起こすことを恐れるがゆえの沈黙、意図的な曖昧さを直すために教皇文書をカトリック的意味に修復する努力、フランシスコ教皇に提出された後明らかに返答されない訴えやドゥビア、これらすべてが、教会位階の最上位である教皇さえもが今晒されている最も深刻な背教の状況にあることを再確認している。キリストの民と聖職者たちは絶望的に見捨てられ、自分たちが司教たちによってほとんど頭痛の種とみなされていると感じている。

では、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前・駐アメリカ合衆国教皇大使)の文章を、参考資料として、以下に掲載します。


2020年6月9日 シリアの聖エフレムの祝日に

「宗教の多様性には天主の肯定的意志も自然の権利もない」とのタイトルで、6月1日に米ニュースサイトの「LifeSiteNews」に掲載され、続いてイタリアのブログ「Chiesa e post concilio」【教会と公会議後】によってイタリア語に翻訳されたアタナシウス・シュナイダー司教の論説を、私は大きな関心をもって読みました。シュナイダー司教の研究は、キリストに従って話す人々の言葉の特徴である明確さをもってまとめているのは、聖書の証言と聖伝の声、それとこの両者の忠実なる守護者であるカトリック教導権に矛盾して、第二バチカン公会議が理論化した宗教的自由の執行に正当性があるとする主張に対する反論です。

シュナイダー司教の論説の功績は、何よりも、第二バチカン公会議によって宣言されあるいは暗示された諸原則と、それらの諸原則の論理的結果として起こり、そして今日まで急進的に進んできた教理的、道徳的、典礼的、規律的逸脱との間に因果関係を認めるところにあります。近代主義者のサークル内で生まれたこの怪物(monstrum)は、当初は人を惑わせかねないようなものにすぎませんでしたが、しかしその後それは成長して強くなり、今日ではその破壊活動的で反抗的な性質という本性を現すようになりました。その時代に生み出された生物は常に同じものなのですから、その倒錯した本性が変わるかもしれないと考えるのは甘すぎるでしょう。"継続の解釈学"の名の下に公会議の様々な行き過ぎを正そうとする試みは、不成功に終わりました。Naturam expellas furca, tamen usque recurret[熊手で自然を追い払っても、自然はすぐに戻ってくる](ホラティウス、書簡詩第1巻、10、24)。アブダビ宣言と、シュナイダー司教が正しく観察するように、アッシジのパンテオン【諸宗教の集まり】におけるその最初の兆候とは、ベルゴリオ【フランシスコ教皇】が誇らしげに認めるように、「第二バチカン公会議の精神によって生まれた」ものです。

この「公会議の精神」こそが、自分たちを批判する者たちに対抗する際に革新主義者たちが使う自らの正当性の許可証のようなものなのですが、この精神そのものが、今日の諸宣言が誤っていることを確認するばかりか、それらの諸宣言を正当化するものとされている基盤が異端的なものであることをも証明する、まさにこの系譜を自認していることに彼らは気付いていません。さらに詳しく見れば、教会の歴史において、一つの公会議が他のどの公会議とも異なるような歴史的出来事であると自称したことは決してありませんでした。「ニケーア公会議の精神」や「フェラーラ・フィレンツェ公会議の精神」についての話というものがあったことはありませんし、「トリエント公会議の精神」の話などというものはいささかもありませんでした。第四ラテラノ公会議や第一バチカン公会議の後に「公会議後の」時代というものが決してなかったのも同じことです。

その理由は明白です。それらの公会議はすべて、例外なく、聖にして母なる教会の声との一致を、そしてまさにこの理由から、私たちの主イエズス・キリストの声との一致を、表現したものだったからです。重要なことは、第二バチカン公会議の新奇性を支持する人々が、あたかも聖三位一体の天主の位格の間に矛盾があり得るかのように、旧約の天主を新約の天主と対立させる異端的な教理を信奉しているということです。明らかに、ほとんどグノーシス的またはカバラ的なこの対立が、カトリック教会とは自発的に異なり、そしてそれに対立する新しい主題の正当化につながっています。教理上の様々な誤謬は、ほとんどいつも聖三位一体に関する異端を含んでいるものですから、聖三位一体の教義に反する誤った教理を打ち負かすためには、聖三位一体の教義の宣言に立ち戻ることが必要です。ut in confessione veræ sempiternæque deitatis, et in Personis proprietas, et in essentia unitas, et majestate adoretur æqualitas. こうして、われらは、まことの永遠の天主をたたえ、その神性において、位格の区別と、本性の唯一性と、天主の御稜威の平等性を讃美し奉る【聖三位一体の序誦】。

シュナイダー司教は、たとえばユダヤ教徒を衣服で区別する義務や、キリスト教徒がイスラム教徒やユダヤ教徒の主人に仕えることの禁止など、彼の見解では今日受け入れるのが難しいような諸公会議によるいくつかの宣言を引用します。これらの例の中には、フィレンツェ公会議によって宣言された「traditio instrumentorum(トラディチオ・インストゥルメントールム)」【訳注1】という【司祭叙階のための】必要条件もありますが、これは後にピオ十二世の使徒的憲章「Sacramentum Ordinis(サクラメントゥム・オルディニス))【訳注2】によって修正されたものです。シュナイダー司教は、第二バチカン公会議によって「なされた誤謬のある声明を、将来の教皇または公会議が訂正することを正しく希望し、信じてよいだろう」と述べています。これは最善の意図をもって作られた理論でしょうが、カトリックという大建築物をその土台から倒してしまうものであるように、私には思われます。もし実際、感性の変化により、時間の経過に伴って廃止、変更、または異なる解釈が可能であるような教導権による行為があるかもしれないことを私たちが認めるならば、私たちは必然的に教令「Lamentabili(ラメンタビリ)」【訳注3】による排斥の対象になってしまい、最近、まさにその同じ誤った仮定に基づいて、死刑は「福音に従っていない」と宣言し、そのため『カトリック教会のカテキズム』を修正した人々への正当化理由を提供することになってしまうことでしょう。また、その同じ原理に基づけば、ちょうどシュナイダー司教が「Dignitatis Humanae(ディニターティス・フマネ)」【訳注4】が将来何らかの形で修正されることを希望しているように、回勅「Quanta Cura(クアンタ・クーラ)」【訳注5】における福者ピオ九世の言葉が第二バチカン公会議によって何らかの形で修正されたという説を、ある意味では主張できることになってしまいます。シュナイダー司教が提示する例の中には、それ自体が重大な誤謬や異端であるものはありません。フィレンツェ公会議が「トラディチオ・インストゥルメントールム」が叙階の有効性に必要であると宣言したという事実が、教会における司祭の役務を妨げたことはいささかもありませんでしたし、その結果として教会が無効な品級を与えたようなこともありませんでした。私が思うには、この側面がいかに重要であったとしても、それによって、直近の公会議でおいてのみ起こったように、信者の側の教義上の誤謬につながったと主張することはできません。また歴史の過程でさまざまな異端説が広まったとき、たとえば1786年のピストイアの司教会議(シノドス)【訳注6】の時に起こったように、教会はいつもすぐ介入して、それらの異端説を排斥しました。特にこのピストイアの司教会議が、ミサ以外での聖体拝領を廃止し、俗語を導入し、典文の祈りをsubmissa voce[低い声]で唱えることを廃止するばかりか、さらには司教団体主義の原則を理論化し、教皇の首位権を単なる役務的機能に格下げしたことを見れば、この司教会議は第二バチカン公会議をある意味で予期していたものだったのです。この司教会議の教令を読み返すと、ヨハネ二十三世とパウロ六世が主宰する公会議において、その[ピストイアと]同じ誤謬が、さらに膨れ上がった形で、文字通り定式化されたことに驚かされます。一方、まさに真理が天主から来るように、誤謬は敵【悪魔】によって養われ、また敵を養うものです。この敵は、キリストの教会とその心、すなわち聖なるミサといとも聖なるご聖体を憎んでいるのです。

【訳注1】「トラディチオ・インストゥルメントールム」(traditio instrumentorum=聖具の伝達):1439年、フィレンツェ公会議が司祭叙階の秘蹟の必要条件の一つ(質量)と教えたカリスとパテナの授与のこと。ただしフィレンツェ公会議は、この教えを不可謬権を行使して宣言したのではなかった。実際のところ、叙階の質量は聖具の伝達であるとするこの教義は、普遍教会の常なる典礼の教義と実践とに対応していなかった。
【訳注2】「サクラメントゥム・オルディニス」(Sacramentum Ordinis=叙階の秘蹟):教皇ピオ十二世の使徒憲章(1947年)。ピオ十二世は、不可謬権を行使して、司祭叙階など聖職者の品級の秘蹟を有効に授与するのに必要な形相と質料とを明らかにし、司祭叙階のために必要な質量は司教の按手であると宣言した。
【訳注3】「ラメンタビリ」(Lamentabili=嘆かわしい):聖ピオ十世時代の検邪聖省教令(1907年)。近代主義者の命題を排斥。
【訳注4】「ディニターティス・フマネ」(Dignitatis Humanae=人間の尊厳):第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」(1965年)。
【訳注5】「クアンタ・クーラ」(Quanta Cura=注意深く):教皇ピオ九世の回勅(1864年)。近代主義に関する誤謬表(シラブス)つき。
【訳注6】「ピストイアの司教会議」:イタリアのピストイアで開かれた司教会議(シノドス)。トリエント公会議が信仰箇条として決定した聖体の「全実体変化」という言葉を使用しないなど、あいまいな表現で異端をほのめかした。


私たちの人生の中で、御摂理の思し召しによって、私たちが教会の将来と私たち自身の永遠の救いのための決定的な選択に直面するときがやって来ます。私がいま話しているのは、大抵悪意のないまま私たちのほとんど全てが陥っている誤謬を理解することか、あるいはそこから顔をそむけたり自分自身を正当化したりし続けることを望むのか、ということです。

また私たちが犯してきた間違いのひとつは、私たちの対話の相手を、 考えや信仰の違いがあるにせよ、やはり善意の動機を持ち、私たちの信仰に対して心を開くことができるならば、彼らは自分たちの誤謬を進んで正す人々だと見なしてきたことです。数多くの公会議の教父たちとともに、私たちは、エキュメニズムが、反対派たちをキリストの唯一の教会に、偶像崇拝者や異教徒たちを唯一のまことの天主に、そしてユダヤ教徒たちを約束のメシアに呼び寄せる過程、招きだと考えました。しかし、それが公会議の委員会で理論化された瞬間から、エキュメニズムはそれまで教導権によって示された教理に直接反するような形に設定されてしまったのです。

私たちは、一定の行き過ぎは、新奇性への熱狂に駆り立てられてしまった人々の誇張にすぎないと考えてきました。ヨハネ・パウロ二世が、魔術師・信仰治療師、仏教の僧侶、イマーム【イスラム教の指導者】、ラビ【ユダヤ教の指導者】、プロテスタントの牧師、その他の異端者たちに囲まれているのを見たとき、天主に平和を求めるために人々を一箇所に招集する教会の能力が証明されたと、私たちは純粋に信じました。しかし一方で、この行為が権威ある模範となり、それを端緒に多かれ少なかれ公式なものとしてパンテオン【諸宗教の集まり】が、常軌を逸したように継続して行われるようになってしまいました。ついには、聖なる母性の代表であるという口実の下に、冒涜的に隠されたパチャママ【南米アンデス地域の地母神の像。2019年のアマゾン・シノドス期間中にバチカンの庭でこれを礼拝する儀式が行われた】の不浄な偶像を司教達が背負うのが見られる段階にまで至ったのです。

しかし、この地獄の神の像が聖ペトロ大聖堂に入ることができたのは、反対勢力が最初から予見していたクレッシェンド【次第に強くなること】の一部です。今日、教会に通うカトリック教徒の多数、そしておそらくカトリック聖職者の過半数も、永遠の救いにカトリック信仰はもはや必要ではないと確信しています。彼らは、私たちの先祖に啓示された三位一体の天主はモハメッドの神と同じであると信じているのです【ここここ】。すでに20年前、いくつもの説教壇や司教座からこのようなことが繰り返し述べられていると私たちは聞いていましたが、最近では、最高の教導の座からも、これが強調され、確認されていると聞きます。

進歩主義者たちや近代主義者たちは、聖書の言葉 Littera enim occidit, spiritus autem vivificat[文字は殺し、霊は生かす(コリント後書3章6節)]を口実に、公会議の本文中に曖昧な表現を隠しておく方法を抜け目なく知っていたということを、私たちはよく分かっています。このような曖昧な表現は、当時ほとんどの人には無害に見えたのですが、今日ではその破壊活動的な価値が明らかになっています。それは、subsistit in【~に存する】という語句の使用において用いられた方法です。対話の相手方を怒らせないため(天主の被造物である人間を敬うために天主の真理について沈黙するのが正当であると仮定して)半分の真理を表明するというよりも、むしろ、もしも真理の全体が宣言されたならば即座に一掃されるであろう半分の誤謬を使うことができるようにするという意図を持って行われたのです。従って、「Ecclesia Christi subsistit in Ecclesia Catholica【キリストの教会はカトリック教会に存する】」という表現は、この二者のアイデンティティー【同一性】を特定せず、かわりに一方の本質が他方に存すること、そしてまた意味の一貫性を保つために、その他の諸教会にも存するということを示しているのです。【訳注】これが、諸教会合同の儀式やエキュメニカルな祈りへの道を開き、そしてその帰結として、救いの経綸、教会の唯一性、教会の宣教的本質におけるカトリック教会の必要性に終わりが告げられることになるのです。

【訳注】カトリック教会は、常に「キリストの建てた教会とはカトリック教会のことである」、つまり、キリストの教会=カトリック教会である、とイコールの関係であることを教えてきた。Ecclesia Christi est Ecclesia Catholica である。しかし第二バチカン公会議は、この両者が同じであるとはいわずに、Ecclesia Christi subsistit in Ecclesia Catholica つまり「キリストの教会はカトリック教会に存する」という表現を使った。

最初のエキュメニカルな集会が東方の離教者たちと、また非常に慎重に、他のプロテスタント各派と開かれたことを覚えている方々もおられるでしょう。ドイツ、オランダ、スイスは別として、当初、カトリックの伝統のある諸国は、プロテスタントの牧師とカトリックの司祭が共に行う混宗儀式を歓迎しませんでした。私が思い出すのは、当時、フィリオクエ(Filioque)を受け入れない正教会の気分を害さないように、ヴェニ・クレアトール(Veni Creator)の最後から2番目の栄唱を削除する話があったことです。今日、私たちは私たちの教会の説教台からコーランのスーラ【章】が唱えられるのを聞き、木の偶像が修道士や修道女によって崇拝されるのを見て【訳注:2019年10月にローマで行われたパチャママの偶像崇拝を暗示】、ほんの昨日まで非常に多くの過激主義の一番もっともらしい言い訳であるように思われたものさえ、司教たちが否定するのを聞きます。【訳注:教会に氾濫している過激な行動を今までは「乱用」「誤解」であると言い訳していたが、もはや司教たちは言い訳ではない、第二バチカン公会議の正しい解釈であると説明していること。】フリーメーソンとその地獄的な触手による扇動により、この世が望んでいるのは、人道的でエキュメニカルで、私たちが礼拝する妬みの天主が追放された、一つの普遍的宗教をつくり出すことです。

そして、もしこれがこの世の望んでいることであるならば、教会による同じ方向へのいかなる一歩も不幸な選択となりますが、やがて、自分たちは天主を嘲ることができると信じている人々へのしっぺ返しとなることでしょう。カトリック教会を廃止して、環境主義と普遍的な友愛関係によって結ばれた偶像崇拝者たちや異端者たちの連合をもって置き換えることを目標とした世界主義的計画によって、バベルの塔の希望をよみがえらせることはできません。キリストにおける以外の友愛関係は存在し得ず、友愛関係はキリストにおいてのみ存在し得るのです。qui non est mecum, contra me est.【私の味方でない人は、私に背く(マテオ12章30節)】

当惑させられるのは、奈落の底へと向かうこのレースに気づいている人がほとんどいないということ、そしてまた、あたかも教会の指導者たちが、提携する思想の流行の中に自分たちの居場所や役割を確保したがっているかのように、これらの反キリスト教イデオロギーを支持していることについて、教会の最高位の者たちにその責任があることに気づいている人がほとんどいないということです。また、驚かされるのは、人々が現在の危機の根本的原因を調査したがらず、あたかもこの危機が数十年前に組織的に準備された計画の論理的で不可避の結果ではないかのように、現在の行き過ぎを嘆くことしかしないことです。

パチャママが教会で礼拝され得るのは、第二バチカン公会議の「信教の自由に関する宣言」が原因です。私たちが、プロテスタント化され、時には異教化さえされた典礼を持っているのは、モンシニョール・アンニバレ・ブニーニの革命的な行為と公会議後の改革が原因です。アブダビ宣言が署名されたのは、「Nostra Aetate(ノストラ・エターテ)」【訳注7】が原因です。司教協議会に決定を委任するまでに至ったのは、———イタリアでそれが起こったのはコンコルダート【政協条約】の重大な違反でさえありましたが、————それは司教団体主義【ここ】とその最新版であるシノドス主義【司教会議主義 ここ】が原因です。司教会議主義のおかげで、「Amoris Laetitia(アモーリス・レティチア)」【訳注8】の登場とともに 、私たちはそのうち起こるのが誰の目にも明らかなことが起こるのを防ぐ方法を探さなければならないことになりました。それはつまり、驚くべき幹部組織によって準備され、離婚して【新しい相手と】同居している人々への聖体拝領を正当化することを意図していたのです。【ここここ】それはまた、ちょうど「Querida Amazonia(ケリーダ・アマゾニア)」【訳注9】が、(フライブルクの「女性司教代理」という最近の事例のように)女性司祭を合法化し、聖なる独身性の廃止を合法化するために使われようとしているのと全く同じです。フランシスコ教皇にDubia(ドゥビア)【訳注10】を送った高位聖職者たちは、この同じ敬虔な純真さを示していた、と私は思います。つまり、フランシスコ教皇が、その誤謬について合理的に議論された反論に直面すれば、異端であるポイントを理解して訂正し、赦しを求めるだろうと考えたのです。

【訳注7】「ノストラ・エターテ」(Nostra Aetate=我らの時代に):第二バチカン公会議の「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」(1965年)。他の宗教に対して開かれた態度を推奨した。
【訳注8】「アモーリス・レティチア」(Amoris Laetitia=愛のよろこび):2014年から2015年にかけて開かれた家庭に関するシノドスを受けて発表された教皇フランシスコの使徒的勧告(2016年)。離婚して民法上の再婚をした男女でも聖体拝領にあずかる可能性について述べている。
【訳注9】「ケリーダ・アマゾニア」(Querida Amazonia=愛するアマゾン):2019年に開かれたアマゾン周辺地域のための特別シノドスを受けて発表された教皇フランシスコの使徒的勧告(2019年)。シノドスで提言された既婚男性の司祭職や、同じく検討を求められた女性の終身助祭の可能性に直接は触れていないものの、含みを残した。
【訳注10】「ドゥビア」(Dubia=疑問):アモーリス・レティチアに対する抗議として4人の枢機卿が連名で教皇フランシスコに提出し(2016年)、返事がないため公開した書簡。


公会議は、教義からの最も常軌を逸した逸脱や、最も大胆な典礼の革新や、最も無節操な濫用を正当化するために使われていましたが、その間も最高権威は沈黙を守ったままでした。この公会議は余りにも褒めそやされていたため、カトリック教徒、聖職者、司教たちにとっての唯一正当な基準として提示され、教会が常に権威をもって教えてきた教理を軽侮して隠したり、別の意味にしたりしたほか、また千年以上にわたって信者、殉教者、聖人たちの途切れることのない信仰を育ててきた長年の典礼を禁止したのでした。とりわけこの公会議は、それ以前の教導権に関する非常に多くの解釈上の問題と多くの矛盾を引き起こした唯一の公会議となりました。一方、エルザレム公会議から第一バチカン公会議に至るまで、全教導権と完全に調和しなかったり、あるいはこれほど多くの解釈を必要としたりする公会議は他には一つも存在しないのです。

私は、冷静に、かつ論議を求めることなく、ここに告白します。私は、多くの困惑と恐れにもかかわらず --- この困惑と恐れにちては、今では完全に正当だったことが明らかですが ---、無条件の従順をもって教会の位階の権威を信頼した多くの人々の一人でした。事実、私を含む多くの人々は、「位階の命令への従順」と「教会自身への忠実」との間に矛盾が起こり得るなどという可能性を、当初は考えていなかったと思います。実際に、位階と教会との間の、従順と忠実と間の、この不自然な、あえて言うならば邪悪な分離をより明白にしたのが、間違いなくこの最近の教皇職のもとでした。

システィーナ礼拝堂に隣接する「涙の部屋」で、モンシニョール・グイド・マリーニは「新しく選出された」教皇【フランシスコ】の初登場のために白いロシェトゥム、モゼッタ、およびストラを準備していましたが、ベルゴリオは、「Sono finite le carnevalate! [カーニバルは終わった!]」と宣言して、それまですべての教皇がキリストの代理者であることを示す衣装として謙虚に受け入れていたしるしを軽蔑して拒否しました。しかしその言葉は、たとえそれが無意識に発せられたものだとしても、真実を含んでいました。2013年3月13日、共謀者たちから覆面が落ちました。彼らはベネディクト十六世という不都合な存在からついに自由になり、自分たちの理想、すなわち教会に革命を起こし、教理をしなやかなものとし、道徳を融通のきくものとし、典礼を粗悪なものとし、規律を任意のものとするという自分たちのやり方を具現化した一人の枢機卿を昇進させることについに成功したことを、臆面もなく誇ったのです。そして、このすべてのことを、陰謀の首謀者たち自身は、それまでベネディクト十六世によって示された批判によって弱体化されてきたと彼らが思っていた、第二バチカン公会議の論理的帰結かつ明白な適用だと考えました。彼らにとって、そのベネディクト十六世教皇のなした最大の侮辱は、敬われるべきトリエント典礼の挙行を寛大に許可し、ついにその正当性を認め、50年に及ぶ排斥が非合法であったことを明確にしたことでした。ベルゴリオの支持者たちは、公会議を新しい教会の最初の出来事と見なし、その前には古い典礼を持つ古い宗教があったと考える人々と同じ人々なのです。

これは偶然ではありません。これらの男たちが臆面もなく断言し、穏健派をつまずかせていることは、カトリック教徒自身も信じていることです。それは、継続の解釈学のあらゆる努力が現代の危機の現実に一度遭遇しただけで惨めにも沈没してしまった一方、第二バチカン公会議以降、キリストのまことの教会の上に、それに真っ向から反対する並行の教会が建てられたことは否定できない、ということです。この並行の教会は、私たちの主によって創立された天主の制度を徐々に覆い隠しましたが、その目的は、フリーメーソンによって最初に理論化された、望ましい普遍的宗教に対応する、偽造の存在に置き換えることでした。

新しいヒューマニズム、普遍的友愛、人間の尊厳などの表現は、まことの天主を否定する慈善的な博愛主義、あやしげな心霊主義的霊感による水平主義的連帯、教会が明白に排斥するエキュメニカルな平和主義などの合言葉なのです。「Nam et loquela tua manifestum te facit[なぜなら、あなたの話しぶりがあなたを明らかにする=あなたの方言で分かる]」(マテオ26章73節)。敵の同じ語彙を、これほど非常に頻繁に、更には執拗なほど頼りにするのは、敵が霊感を与えているイデオロギーへの忠誠を表すものです。一方、教会の使う明確で、疑いの余地のない、クリアな言語を体系的に放棄するということは、カトリックの形からだけでなく、カトリックの実体からも離れる望みであることを証明しているのです。

何年にもわたって最高の教導の座から、漠然と、明確な含意なしに発せられていたことを、現在の教皇の支持者による本当の、正確なマニフェスト【宣言】において詳しく説明されていることに私たちは気付きます。それらは次のようなものです。もはや第二バチカン公会議によって発明された司教団体主義によるのではなく、家庭に関する司教会議【シノドス】によって始められたシノドスの道による教会の民主主義化。教会の聖職者の独身制に例外を設けて弱体化し、また司祭に類似した義務を持つ女性の役職を導入することによる職位的司祭職の廃止。離れた兄弟たちに向けられたエキュメニズムから、三位一体の天主の真理を偶像や最も地獄的な迷信のレベルにまで貶める一種の汎エキュメニズムへの静かな移行。宗教的相対主義を前提とし、宣教的な信仰宣言を排除する宗教間対話の承認。ベルゴリオが自身の教皇職のテーマのひとつとして追求する教皇職の非神話化。政治的に正しい[politically correct]ものすべて、すなわちジェンダー理論、同性愛、同性婚、マルサス主義の学説【人口抑制策を説く】、ecologism【エコロジズム=生物と環境の相互作用を扱う学問の生態学をイデオロギー化したもの】、immigrationism【イミグレーショニズム=移民に好意的なイデオロギー】などの急進的な正当化。これらの逸脱の根源が、公会議によって定められた原則にあることを認識しなければ、治療法を見つけることは不可能です。もし私たちの診断が、あらゆる証拠があるにもかかわらず最初の病理を除外するものであれば、適切な治療法を作成することはできません。

知的に正直であるというこの作業のためには、大いなる謙虚さが欠かせません。何十年もの間、権威の地位にいながらもどうやってキリストの群れを見守り保護するかを知らなかった人々によって、私たちは善意のうちに誤りに導かれてきた、ということをまず認めることです。そのような権威者たちのうち、ある人は静かに暮らすため、ある者はしなければならない義務が多すぎるため、あるいは自分の都合のため、そして最後に、ある人は不誠実や更には悪意によって、そのようにしてきたのです。この最後に挙げた教会を裏切ってきた者たちについては、彼らが誰であるかを明らかにして、職務から外し、行いを改めるよう求め、もし悔い改めないならば、聖なる囲い【カトリック教会】の外に追放しなければなりません。これが、羊の幸せを心に留め、羊に自分の命を与えるまことの牧者が行動すべきことです。過去には、そして今もまだ、キリストの浄配【カトリック教会】への忠実よりもキリストの敵どもの同意を重要だとするあまりに多くの雇い人の牧者らがいるのです。

60年前、教会の愛のある声を代表していると信じて、疑わしい命令に正直に、そして冷静に従ったのとちょうど同じように、今日、同じ冷静さと正直さをもって、私はだまされてきたことを認めます。誤謬のうちに耐え忍ぶことによって今日も首尾一貫しているというのは、惨めな選択であり、そうすれば私はこの詐欺の共犯者ということになるでしょう。最初から判断は明快であったと主張するのは正直ではありません。私たちは皆、公会議が多かれ少なかれ一つの革命であることを知ってはいましたが、公会議が、このようなことを防ぐべきであった人たちの努力にもかかわらず、これほど破壊的なものになってしまうとは想像すらできませんでした。そして、ベネディクト十六世の時までは、第二バチカン公会議というクーデター(これをスーネンス枢機卿は「教会の1789年(フランス革命)」と呼びました)が減速してきたと想像することもできましたが、ここ数年で、私たちの中で最も純朴な人々でさえ理解していることは、離教を引き起こすことを恐れるがゆえの沈黙、意図的な曖昧さを直すために教皇文書をカトリック的意味に修復する努力、フランシスコ教皇に提出された後明らかに返答されない訴えやドゥビア、これらすべてが、教会位階の最上位が今晒されている最も深刻な背教の状況の再確認であるということです。その間も、キリストの民と聖職者たちは絶望的に見捨てられ、自分たちが司教たちによってほとんど頭痛の種とみなされていると感じているのです。

アブダビ宣言は諸宗教間の平和と協力という思想のイデオロギー的宣言であり、それがもし信仰の光と愛徳の火を持たない異教徒たちから来たのであれば、許容される可能性もあるでしょう。しかし、聖なる洗礼のおかげで天主の子という恩寵を持っている人なら誰であれ、選ばれた民になされた約束の世継ぎであるキリストの唯一まことの教会を、メシアを否定し三位一体の天主という考えそれ自体を冒涜的だとみなす人々と一緒に一つにまとめようとするために、冒涜的な現代版のバベルの塔を構築することができるという考えに恐れおののくはずです。

天主の愛は限りなく、妥協を許しません。そうでなければそれは愛徳ではありませんし、この愛徳なしでは天主に留まることはできません。qui manet in caritate, in Deo manet, et Deus in eo[愛をもつ者は天主にとどまり、天主は彼にとどまる](ヨハネ第一4章16節)。それが宣言であろうと教導権文書であろうと、ほとんど問題ではありません。革新主義者たちがその破壊活動的な精神で、誤謬を広めるためにこの種の屁理屈を使うことは私たちがよく知っています。また、これらのエキュメニカルで諸宗教間のイニシアチブの目的が、唯一の教会から遠く離れている人々をキリストに改宗させることではなく、今もカトリック信仰を持っている人々を惑わせて堕落させ、三つの偉大なるアブラハムの宗教を「一つの家に」結集させるという偉大なる普遍的宗教を持つのが望ましいと信じ込ませることだということも、私たちはよく知っています。それは、反キリストの王国の準備をするフリーメーソンの計画の勝利です! これが、ある教義的教令、一つの宣言、あるいはイタリアの日刊紙「ラ・レプブリカ」でのスカルファリ氏【訳注:無神論で有名なジャーナリスト】とのインタビューを通じて具体化するのかは、ほとんど問題ではありません。なぜなら、ベルゴリオの支持者たちは、すでに時間をかけて準備し、組織している一連のイニシアチブをもって自分たちが答えるシグナルとして、彼の言葉を待っているからです。そして受け取った指示にベルゴリオが従わなければ、複数の神学者たちや聖職者たちが、彼の辞任の根拠として、「教皇フランシスコの孤独」を嘆く準備ができています(例えばマッシモ・ファッジョリの最近のエッセイの一つが思い浮かびます)。一方、教皇が彼らの計画に従う限り教皇を使い、教皇がそうしないとすぐに彼を取り除くか攻撃する、というのは初めてではないでしょう。

この前の主日、教会はいとも聖なる三位一体の主日を祝いました。そして聖務日課では、教会はアタナシウス信経の朗読を定めています。この信経は、今や公会議後の典礼によって非合法化されていますが、1962年の典礼改革においても、すでに年に2回のみに減らされていました。この今は姿を消した信経の最初の言葉は、今でも金文字で記されています。「Quicumque vult salvus esse, ante omnia opus est ut teneat Catholicam fidem; quam nisi quisque integram inviolatamque servaverit, absque dubio in aeternum peribit ― 救われんと欲するものは、誰といえども、まづカトリック信仰を擁せねばならぬ。この信仰を完璧に且つ欠くことなく守りし者でなくんば、誰といえど、疑うことなく永遠に滅びるべし」。

+カルロ・マリア・ヴィガノ
ジュゼッペ・ペレグリモ英訳

【参考資料】
ここには別の日本訳もあります。

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