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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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【聖体の顕示に関する黙想】 聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である

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聖体の顕示に関する黙想
聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である
礼拝 祭壇上の私たちの大司祭、仲介者、弁護者なるイエズス・キリストを礼拝しよう。聖体降福式は、まことにこれらの重要なご職務を執行される主のみ姿を明らかに私たちに示す聖式である。聖書を黙想しながら、今、天地の間にあげられる聖体が、いかに完全にこのあわれみのご職務を満たしてくださるかを感嘆しよう。聖パウロは、主がメルキセデクのように天父に選ばれて永遠の大司祭となり、天主の幕屋の中に自ら入り、人々の罪のために犠牲と供え物とを捧げて天主の御あわれみと慈しみとを願ってくださること、またこの唯一の仲介者イエズス・キリストのみ、天主と私たちとの間、すなわち審判者と罪人との間の深い淵を渡ることがおできになることを教えている。また、聖ヨハネは、私たちが義者イエズス・キリストを全能の弁護者としてもっているから、たとえ罪を犯す不幸に陥ったとしても決して失望してはならないと教えている。絶え間なく天主と人との間に立って私たちのために祈られる、この拝すべき大司祭の御仲介と御執り成しとの御効力は、まことに無量である。聖体降福式は以上の事実をはっきり示し、キリストは、ここに永遠の大司祭のたえなる御姿をもって、すべての信者の眼前に聖櫃の中からお出ましになるのである。それまでは主の存在は、ほのかなランプの光、ひと張りのカーテンによって示されるだけであった。ところが今、主は無数の光に囲まれ、燦爛(さんらん)たる聖体顕示器の輝きのうちに、いと高き玉座におのぼりになるのである。使徒たちは復活された主のご肉身、御手足、御脇腹の傷をはっきり見た。主は今日もこれらの傷を御父に示されて、その求められるところのものが、すでに御血をもってあがなわれ、その代償をお支払いになったことを力説されるのである。だから、聖体降福式の玉座の上における天主なる仲介者、力強い弁護者を、その御祈りと御執り成しとのみわざのうちに礼拝しよう。
感謝  聖体降福式をこのように理解することは、私たちの信仰をふるい起こし、熱心な礼拝を行なわせ、また、私たちの心を燃やし、感謝の念を盛んにさせるためにも非常に有益である。聖パウロやヘブレオ書の中で、私たちの大司祭がいかにあわれみ深く、いかに私たちに同情されるかを、感謝をもって語っている。私たちもまた大いなる信頼と感謝とをもって主のもとに急がなければならない。『われらが有せる大司祭は、われらの弱点をいたわりえたまわざる者にあらずして、罪を除くほか、万事においてわれらと同じく試みられたまえる者なり。ゆえに、われらは慈悲をこうむらんため、また、適切なる助けとなるべき恩恵を見出ださんために、はばかりなく恩恵の玉座に至りたてまつるべし』と。このように、主は種々の試練に悩み、かずかずの罪に陥る私たちをお助けになるために、ご自分から試みられ、すすんで多くの苦しみを受けられたのである。まことに、主が私たちの弱さに深く同情され、罪人に対するあわれみに富んでおられるのは、主ご自身の御苦しみの経験によるのである。主はご自分の過去を思い起こされるとき、今日、人性の苦悩を忍んでいる私たちのために、同情の念の油然と湧き出るのを制したもうことができない。しかも主が聖体の秘蹟の中にとどまり、私たちと一緒にこの涙の谷をたどられるのは、なおいっそう御身の過去を思い起こし、かつての経験をよみがえらせ、私たちの重荷をおわかちになるためにほかならない。ああイエズスよ、信じられないまでに善良なみあるじよ。
償い 礼拝すべき仲介者のあわれみ深い不断の御執り成しは、最も力強い助けであり、それとともに私たちに極めて重大な祈禱の義務をも課すものである。私たちはすでに被造物として、またさらにキリスト信者として祈禱の義務がある。私たちは自分の貧しさと無力とを告白して、天主の大能と恩恵により頼まなければならない。これは日常の義務、規則正しくなすべき本質的義務で、決して、不幸、艱難(かんなん)の場合だけに限られるものではない。祈りの怠慢は、天主に対する義務の不履行であるばかりでなく、私たち自身の救霊に関する不熱心を示しているのである。そのうえ、この義務は、私たちの大司祭なるイエズスが、聖櫃の中から、または顕示台の上から、絶えず公の祈りを御父に捧げておられる事実によって、なおいっそう重大なものとなる。多くの犠牲を伴っている主の不断の御祈りは、あらゆる意味で、あなたが受けなければならない審判の標準となる。主がこれほどまでにお祈りになるなら、あなたはどれほど熱心に祈らなければならないことであろうか。『われ、ひねもすわが民に腕(かいな)をさし伸べしも、彼らはわれを見ず、われを捨てたり。』これはユデア民族に対しての天主の非痛なお嘆きであり、お叱りである。ホスチアの中においでになる慈愛深い大司祭の御口から、これと同じ寂しいお叫びが漏れている。私たちは主の御言葉に感激して、祈禱の義務を十分に果たすよう心がけなければならない。
祈願 主に祈りの恩恵を願い、主のみ前で必要な決心を作るのに今は最もふさわしい瞬間である。なぜなら、聖体中の大司祭が今、大いなる光栄のうちに公の仲介の任務を尽くされながら、聖会の上に新しい祈りの霊を豊かにくだしておられるからである。この霊を受け、すべての祈りの機会をとらえよう。特に、聖体礼拝の時間を利用して、全能な仲介者のみ前で、主とともに、また主によって、あなたの祈りの義務を遂行しよう。また恩恵の玉座のみ前に出て、許しと助力とを請い求めよう。
実行 聖体降福式に与るため、どんな犠牲も惜しまないようにしよう。主は百倍の報いを与えてくださるだろう。



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