テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
天主である聖体
聖体は慈悲深い天主である
礼拝 聖体のいともやさしく、いとも近づきやすい被(おお)いの下に在す恐るべき天主を礼拝しよう。特に、天主の神聖なご性質の中で私たちだけをその目的、その理由とするようにみえる天主の御慈悲を礼拝しよう。天主の御慈悲は、御自らの正義に打ち勝たれた天主の愛であり、あらゆる徳において無限に完全な天主のすべての完徳のかしらであり、冠である。聖書には『主のあらゆるみわざの上に主の慈悲あり』とある。天主の御慈悲は、天主が罪人を見逃しになる忍耐であり、確かに行なおうとされる天主の正義のご命令を妨げる力であり、あるいは万物を見通しになる天主が、見えぬようにと罪の上に投げかけられる被いであるといえるであろう。またそれは、ほとんど浪費であるかのように人々に賜物と恩恵とをお分かちになる愛のみわざ、最も巧みに、最も気長に罪人の改心の機会と手段とをおつくりになる天主の摂理である。そしてまたそれは、罪をその根本から滅ぼし、その汚れを洗い清めて雪のようにし、罪人が失った天国の宝を彼に取り戻し、永福の権利を再び彼に与え、最後の審判の日においても彼の罪悪が思い出されないようにしてくださる御恵みである。負債を赦し、汚れを清め、罪をお忘れになる天主の御慈悲は、ただ天主にだけ属する大いなる権能である。それは、天主が他の何ものにも依存せず、他の何ものよりも束縛されず、また欲したもうままに万事を処理なさることがおできになるからである。ああ拝すべき完徳よ、天主の御慈悲はなんと尊く好ましく頼もしいものであろうか。この完徳こそ私たちにとって唯一の救かりの希望であり、唯一の宝である。もし私たちが永遠に生きることができるとするなら、全く天主のこの御徳によると言わなければならない。それは私たちが仰いでいる天主のみ姿である。天使の天主がいとも聖なる天主でおいでになるなら、私たちの天主はいとも慈悲深い天主にて在すのである。天主の御慈悲を、恩恵を与え罪の赦しをお分かちになる玉座の上において礼拝しよう。聖体とは何か。聖体とは、地上に続けられる贖罪であって、罪人の改心をいつまでもお待ちになる忍耐であり、和睦の接吻であり、罪の赦しの証印であり、子たる喜びと平和と名誉とが、放蕩息子に回復される祝宴ではなかろうか。聖体の被いは忍耐、柔和、同情、憐れみの被いではなかろうか。天主の御慈悲を、そのいとも慈悲深い表現のもとに礼拝しよう。
感謝 感謝はここでは礼拝とほとんどひとつになってしまう。なぜなら私たちは、天主の御慈悲を眺め、研究し、礼拝するとき、心の底から幸福と喜びと感謝との念があふれ出るのを抑えることができないからである。注意して聖体の中にあらわれる天主の御慈悲を研究しよう。救い主はかつて自分に従ってくる群衆を見て、荒野の中で彼らのためにパンを増やし『われ、もし彼らを空腹にて帰さば、おそらくは道にて死なん』と仰せになった。主はこれと同じように、まず第一に憐れみ深い心づかいをもって私たちのために聖体をお定めになった。次に聖体は十字架上の贖罪の実を確実に私たちに与えるものである。そのためにだけ主は聖体の秘蹟を十字架上の犠牲の絶え間ない繰り返しとされて、私たちが必要に応じていつでもこれを利用できるものとされたのである。さらに聖体は告解の秘蹟に始まる罪の赦しを私たちのために完成する。すなわち、聖体は罪によって生じた霊魂の傷を癒し、その名残りを滅ぼすだけでなく、腐敗した天性の源泉を乾かし、罪の最も隠れた種子をも根絶するのである。それだけではない。聖体は罪人の立ち帰りをたやすくし、罪の赦しを飾るものである。それで罪人は告解の秘蹟の法廷から出てくるや、義人とともに天使のパンを食し、救い主の御血で洗い清められた霊魂の中にお臨みになる天主を礼拝することができるのである。彼は痛悔の苦しいわざを終えて、今もまだ自分の赦しの真偽を疑いためらいながらいるのに、さきの恐ろしい審判者はおいでになって平和の接吻を彼に与え、『わが子は失われたるに、また、見出だされたり。われなるぞ、恐るるなかれ、われは世の罪を除く天主の小羊なり』とささやかれるのである。あなたは、かつて祭壇の前で、天主の御慈悲を感じて流した涙を忘れてはならない。たとえば、あなたの初聖体の前にした総告解の日、あるいは天主を離れて過ごした幾年かのあとに天主があなたをその御もとに導いて戻されるその日、または少しずつの不熱心や怠惰、恩恵に対する不忠実などによってだんだん大罪の谷底に陥ったあとに天主があなたをもう一度その谷間から逃れさせてくださったその日、すべてこれらの時に、あなたがした聖体拝領を思い出そう。そうすればたやすく聖体の無限の御慈悲に対して感謝の賛美を捧げることができるであろう。
償い 聖体の中にかくも明らかに、かくも恵み豊かに、かくも自分を犠牲として存在されている天主の御慈悲を軽蔑する者の罪の重さと、その罰の恐ろしさとは、どれほどであろう。私たちによって無視され、無益になった天主の御慈悲、私たちの恩知らずの心に触れることができなくて、虚しく天に戻られた天主の御慈悲は、ついに、どんな恐ろしい罰と変わるであろうか。天主の正義の御腕を支え留めていた御慈悲が、現世とともに過去のものとなってしまったならば、天主の正義はどれほど激しい御力をおあらわしになるかわからない。天主の御怒りは長い間、御慈悲の下に埋(うず)まっていた。それが突然に爆発する恐ろしさはどうであろうか。天主の御慈悲が忍耐深いだけに、それだけこれをふくしゅうする天主の正義が厳しいということを忘れてはならない。あなたが、のちに天主の正義のふくしゅうの鞭(むち)の下に落ちないように、急いで、憐れみ深い天父の御慈悲のもとに来なければならない。
祈願 不幸にして罪を犯すことがあっても、決して天主の御慈悲に対する信頼を失うまいと決心し、その恩恵を求めよう。どんなにあなたの罪が多く大きく、また繰り返して犯されたとしても、慈悲深い聖体の秘蹟の前に祈ってその赦しを請い、またすぐに告解の秘蹟を受けに行く力を願うようにしよう。絶対的になおすことのできない唯一の罪というのは、天主の御慈悲について失望することだけである。また、天主の御慈悲に対する感謝のために、あなたは兄弟たちに対して、心と言葉と行ないとをもって慈悲深くなければならない。
実行 あなたが聖体の秘蹟の中においでになるイエズスの御慈悲に対して、いつも大いなる信頼をもつことを、人々にも知らせよう。
天主である聖体
聖体は慈悲深い天主である
礼拝 聖体のいともやさしく、いとも近づきやすい被(おお)いの下に在す恐るべき天主を礼拝しよう。特に、天主の神聖なご性質の中で私たちだけをその目的、その理由とするようにみえる天主の御慈悲を礼拝しよう。天主の御慈悲は、御自らの正義に打ち勝たれた天主の愛であり、あらゆる徳において無限に完全な天主のすべての完徳のかしらであり、冠である。聖書には『主のあらゆるみわざの上に主の慈悲あり』とある。天主の御慈悲は、天主が罪人を見逃しになる忍耐であり、確かに行なおうとされる天主の正義のご命令を妨げる力であり、あるいは万物を見通しになる天主が、見えぬようにと罪の上に投げかけられる被いであるといえるであろう。またそれは、ほとんど浪費であるかのように人々に賜物と恩恵とをお分かちになる愛のみわざ、最も巧みに、最も気長に罪人の改心の機会と手段とをおつくりになる天主の摂理である。そしてまたそれは、罪をその根本から滅ぼし、その汚れを洗い清めて雪のようにし、罪人が失った天国の宝を彼に取り戻し、永福の権利を再び彼に与え、最後の審判の日においても彼の罪悪が思い出されないようにしてくださる御恵みである。負債を赦し、汚れを清め、罪をお忘れになる天主の御慈悲は、ただ天主にだけ属する大いなる権能である。それは、天主が他の何ものにも依存せず、他の何ものよりも束縛されず、また欲したもうままに万事を処理なさることがおできになるからである。ああ拝すべき完徳よ、天主の御慈悲はなんと尊く好ましく頼もしいものであろうか。この完徳こそ私たちにとって唯一の救かりの希望であり、唯一の宝である。もし私たちが永遠に生きることができるとするなら、全く天主のこの御徳によると言わなければならない。それは私たちが仰いでいる天主のみ姿である。天使の天主がいとも聖なる天主でおいでになるなら、私たちの天主はいとも慈悲深い天主にて在すのである。天主の御慈悲を、恩恵を与え罪の赦しをお分かちになる玉座の上において礼拝しよう。聖体とは何か。聖体とは、地上に続けられる贖罪であって、罪人の改心をいつまでもお待ちになる忍耐であり、和睦の接吻であり、罪の赦しの証印であり、子たる喜びと平和と名誉とが、放蕩息子に回復される祝宴ではなかろうか。聖体の被いは忍耐、柔和、同情、憐れみの被いではなかろうか。天主の御慈悲を、そのいとも慈悲深い表現のもとに礼拝しよう。
感謝 感謝はここでは礼拝とほとんどひとつになってしまう。なぜなら私たちは、天主の御慈悲を眺め、研究し、礼拝するとき、心の底から幸福と喜びと感謝との念があふれ出るのを抑えることができないからである。注意して聖体の中にあらわれる天主の御慈悲を研究しよう。救い主はかつて自分に従ってくる群衆を見て、荒野の中で彼らのためにパンを増やし『われ、もし彼らを空腹にて帰さば、おそらくは道にて死なん』と仰せになった。主はこれと同じように、まず第一に憐れみ深い心づかいをもって私たちのために聖体をお定めになった。次に聖体は十字架上の贖罪の実を確実に私たちに与えるものである。そのためにだけ主は聖体の秘蹟を十字架上の犠牲の絶え間ない繰り返しとされて、私たちが必要に応じていつでもこれを利用できるものとされたのである。さらに聖体は告解の秘蹟に始まる罪の赦しを私たちのために完成する。すなわち、聖体は罪によって生じた霊魂の傷を癒し、その名残りを滅ぼすだけでなく、腐敗した天性の源泉を乾かし、罪の最も隠れた種子をも根絶するのである。それだけではない。聖体は罪人の立ち帰りをたやすくし、罪の赦しを飾るものである。それで罪人は告解の秘蹟の法廷から出てくるや、義人とともに天使のパンを食し、救い主の御血で洗い清められた霊魂の中にお臨みになる天主を礼拝することができるのである。彼は痛悔の苦しいわざを終えて、今もまだ自分の赦しの真偽を疑いためらいながらいるのに、さきの恐ろしい審判者はおいでになって平和の接吻を彼に与え、『わが子は失われたるに、また、見出だされたり。われなるぞ、恐るるなかれ、われは世の罪を除く天主の小羊なり』とささやかれるのである。あなたは、かつて祭壇の前で、天主の御慈悲を感じて流した涙を忘れてはならない。たとえば、あなたの初聖体の前にした総告解の日、あるいは天主を離れて過ごした幾年かのあとに天主があなたをその御もとに導いて戻されるその日、または少しずつの不熱心や怠惰、恩恵に対する不忠実などによってだんだん大罪の谷底に陥ったあとに天主があなたをもう一度その谷間から逃れさせてくださったその日、すべてこれらの時に、あなたがした聖体拝領を思い出そう。そうすればたやすく聖体の無限の御慈悲に対して感謝の賛美を捧げることができるであろう。
償い 聖体の中にかくも明らかに、かくも恵み豊かに、かくも自分を犠牲として存在されている天主の御慈悲を軽蔑する者の罪の重さと、その罰の恐ろしさとは、どれほどであろう。私たちによって無視され、無益になった天主の御慈悲、私たちの恩知らずの心に触れることができなくて、虚しく天に戻られた天主の御慈悲は、ついに、どんな恐ろしい罰と変わるであろうか。天主の正義の御腕を支え留めていた御慈悲が、現世とともに過去のものとなってしまったならば、天主の正義はどれほど激しい御力をおあらわしになるかわからない。天主の御怒りは長い間、御慈悲の下に埋(うず)まっていた。それが突然に爆発する恐ろしさはどうであろうか。天主の御慈悲が忍耐深いだけに、それだけこれをふくしゅうする天主の正義が厳しいということを忘れてはならない。あなたが、のちに天主の正義のふくしゅうの鞭(むち)の下に落ちないように、急いで、憐れみ深い天父の御慈悲のもとに来なければならない。
祈願 不幸にして罪を犯すことがあっても、決して天主の御慈悲に対する信頼を失うまいと決心し、その恩恵を求めよう。どんなにあなたの罪が多く大きく、また繰り返して犯されたとしても、慈悲深い聖体の秘蹟の前に祈ってその赦しを請い、またすぐに告解の秘蹟を受けに行く力を願うようにしよう。絶対的になおすことのできない唯一の罪というのは、天主の御慈悲について失望することだけである。また、天主の御慈悲に対する感謝のために、あなたは兄弟たちに対して、心と言葉と行ないとをもって慈悲深くなければならない。
実行 あなたが聖体の秘蹟の中においでになるイエズスの御慈悲に対して、いつも大いなる信頼をもつことを、人々にも知らせよう。