霊魂の生命なるキリスト
第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画
序説―霊的生活において、天主の計画を識るは非常に重要なること―
一、天主の計画の概念―我等が天主の養子たるがために必要なる成聖―成聖とはキリスト・イエズスによりて天主の生命に与かること。
二、天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与からしめ給う。
三、至聖三位における天主の聖―天主は御自分の充満てる生命に我等を予定し給う。
四、天主の計画は聖寵によって我等を養嗣子とならしむるにあること―霊的生命の超自然的特質。
五、人祖アダムの罪によりて破壊され、イエズスの御托身によりて回復されたる天主の御計画。
六、天主の計画実現のために聖寵を以て我等を養子とならしめ給う―霊的生命の超自然的特質。
七、天主の計画の結果―聖霊において一致し給える聖父と聖子との光栄。
序説
「天主は我等を、御前において聖にして汚れなき者たらしめんとて、寵愛を以て、世界開闢前よりキリストによりて選み給い、思召のままに、イエズス・キリストを以て己が子とならしめんことを予定し給うた。これ最愛なる御子において我等に賜いし栄光ある恩寵の誉の為なり」(エフェゾ1:4-6)。
多くの人の中より天主に選み出され、第三天まで上げられたる大使徒聖パウロは、この言葉を以て、天主が我等人間の上に有し給う御計画を知らせ、世々の昔より天主の裡に隠れたる奥義の度(はかり)のいかなるかを明らかに我等に見せんとするのである。天主が我等の上に有し給う御計画とは、これ我等の霊魂の成聖に外ならぬのであるが、聖パウロはこれを世に知らせんがために、生涯弛みなき活動を続けたのだ。
彼は自ら言っている通り、何のために全生涯、全精神をあげて「天主の御計画の度を明るみにあらわさんがために」努力したのであろうか? それは、我等が天主に至り得んがために何をなすべきか、またこれがために、天主が我等に何をなさしめんと望み給うかを知らせ得るのは、我等の救霊と成聖の源なる天主御一人にて在すからである。
世には天主を探求し天主との一致に至る成聖の道を歩むのに、非常な困難を感じたり、迷ったりする人があるが、これは、天主自ら作り、我等に与え給うた、人の全生涯を規定する原理原則と成聖計画を知らないでか、あるいはこれを無視して、成聖を自分で考案した自己中心の指導原理によって出来るものだと思ったり、あるいは成聖について余りに些細末梢な個々の事物や一時的の感情や気分にのみ囚われて、全体としての綜合的観念を欠く所から起り来るものである。
この点に関して聖パウロは、早くも初代教会の信者に忠告を与えて「わが走るは目的なきが如くには非ず」(コリント前9:26)、目的に達し得べきよう走れ、「汝等賞を受け得べきように走れ」(同9:24)と教えている。我等にしても、天主を探求し自己の成聖を望むならば、まず成聖の目標とこれに至る道を明らかに知り、これに従って生活して行くことが極めて大切である。さもなければ、成聖どころか、救霊までも、取外す恐さえないとは言えない。それに、天主は既に既に誤りなき叡智より出でたるすべての真理の究極の規範、我等の成聖の道を、我等のために備えていられるので、我等においては天主の備え給う道すなわち御計画に自分を適合せしめさえすれば成聖は成就する訳である。我等の成聖には、これ以外に何も必要としない。サレジオの聖フランシスコは「万事は天主の御旨に従って判断せねばならぬ。たとえ自己の考によっては、聖人であろうとも、それは確実ではない。天主の御判定による聖人こそ聖人である」と言っている。実に、人智で量り知るべくもない天主の叡智より出ずることは、何事にせよ、それ自体の中に内的な矛盾、欠陥、齟齬等があって、本来の目的が完成しないようなことはあり得ない。我等の成聖にしても同様、我等が天主の御計画を知り、これに忠実に従い、自己を適合せしめて行きさえすれば、天主の御考は我等の上に活溌に働き、我等は天主の御光に照らされ、天主が我等の上に有し給う御計画を明らかに知らされるであろう!これは我等に取っては光と力と歓喜との源泉となるであろう! それで我等は今、成聖について天主の有し給う御計画の全般的観念と冒頭に引用した聖パウロの言について詳しく見たい。