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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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霊魂の生命なるキリスト 第1講の三 至聖三位における天主の聖―天主は御自分の充満てる生命に我等を予定し給う

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霊魂の生命なるキリスト

第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画
三 至聖三位における天主の聖―天主は御自分の充満てる生命に我等を予定し給う
三位一体の天主。聖とは最高存在、天主の本性の一つの属性である完全さに他ならない。これが天主の中にあることは人智によっても知りえる所であるが、天主自らの啓示は、イエズス・キリストによってであり人の世に降りてこれを明確にした。このような理由により、我等は天啓に導かれて天主の至聖所に昇り、かしこにてイエズス・キリストが天主の内的生命に我等を入らせようとして、我等に望み給う所を聴き、これを見、これに従い奉らねばならない。
天主は唯一にて在すが、その中には聖父(おんちち)、聖子(おんこ)、聖霊の区別のある三位があり、三位は唯一の天主の性を持ち給うゆえにどのような差別もなく天主にて在す。無限の叡智なる聖父は、自らの完全さを完全に知り給う知識を唯一の御言葉に表わし給うた。これがすなわち「聖父天主の御言葉」(Verbum Dei Patris)、活ける実在の御言葉、聖子天主にて在す。言いかえれば、聖父は聖子を生みこれに御自分の本質、本性、完全さ、生命のすべてを伝え給うた。「父は生命を己のうちに有し給う如く、子にもまた生命を己のうちに有することを得させ給えり」(ヨハネ5:26)。このような理由でイエズスは活ける天主の聖子、聖父の顕現、光輝にて在し、聖父と全く同じ天主にて在し、自ら人性をとって人の世に降り、その人性を通じて、聖父を在すままに我等に見させ給う御方である。聖父はそのすべてを聖子に与え給い、聖子はすべてを聖父より受け給うたので、聖子イエズスが聖父のためにのみ存し、御自分を完全に御父に献げつくし給うのは、その本性がなさせるところのものである。このようにして聖父と聖子との間における相互の間の贈与から一つの愛が、唯一の源からかのように発生する。これが聖霊であり、聖父と聖子との間を結びその一致を固め給う活ける愛にて在す。至聖なる天主の三つの位格のその相互の間における交流と、その間に充満つる無限の愛と不動の愛着が新たに啓示され、天主の聖とは天主が三つの位格と単一なる本性との中において成し遂げ給う御自身への完全なる一致に他ならないことを世に教えた。また人智によっては量り知ることのできない豊かな単一の生命の中に、すべての至福を持ち給う天主は、本性からの完全さと、完全さより放射する至福と光栄とを、至聖なる三位の相互の交流の中に持ち、これを御自分に満たし給うが故に、御自分としては他に何ものをも―被造物のいかなるものをも―必要とし給わないことも明らかである。
人が天主の生命に与かること。天主が人間の上に立て給うた御計画は、自らの生命と至福とを人間に与え給うにあったのだ。聖パウロはこれを明らかにして、天主の御計画は我等を天主の生命に与からせて、我等を成聖するにあるとしている。また成聖とは我等が天主を愛し、いかなる場合にもこれを離れることのないよう、固着し奉り、しかも万物の創造主としてだけでなく、至聖三位の至福の中において相互に交互的に相識り、交互的に相愛し給う天主を愛し、天主の生命に親しく与かり、一致している状態であることを教えた。
次に天主はいかに深遠で巧妙なる方法で御計画を実現し給うかを見よう。天主が人の上に持ち給う御計画並びにこの実現のために人に与え給う賜物の偉大なることについては、すでに観想する処があったが、今少し自然界の中に行われている事象について観察すれば、天主の御計画がさらに深く、またそれがどのように実現されようとしているかがうかがい知られる。
(1)まず鉱物界を見ると、鉱物には生命はない。従って活動する力もなく、ただ存在するにとどまる。しかし存在することによって天主に分与しているのである。もとよりその分与たるや非常に低級、簡単ではあるが、とにかく分与しているのである。(2)植物界を見ると、植物には生命があり、存在目的を完成するためには、定められた法則に従って生きこれに順応して変化して来ている。しかし認識の力を持たないので、生命ある存在界において最下級のものである。(3)次は動物界である。動物は植物に優るが、生活は感覚と本能の衝動に限定される。独り人間は、理性と自由意志をそなえ、これによって行動する点において、他の動植物とは比べることができない。しかしそれでも物質からなる肉身を持っているので、その範囲を完全に脱出するわけには行かない。(4)最高被造物に純霊なる天使がある。
この上に自立自存の、造られず動かされざる生命すなわち天地万物の造主、万物がこれによって成っている天主が在す。これぞ宇宙にただ独り自らの力で存在し、活きている唯一の生命であり、「我はあって存する者なり」万物がそれによりすべての存在と生命とを与えられ、活かされている第一の生命である。言いかえると、万物を創造し、これに自己の生命を分ち与えて活かし、成長させて、これを支配しながら各々を完成に導く生命である。従って天主は万物の存在の原型を御自分の中に持ち、総てを知り給う。総てを知り給えばこそ導き完成させて、その意志、計画には行き違いも欠点もなく御自身である最高善に一致させることができ給うのである。こうして万物、万事は天主の計画の中に入ってそこで完成され、これに一致する時、初めて自己の場所をえて安定と幸福を見るのだ。――生命なき存在物は、存在ということでは天主の存在に与ることで安定し、生命ある物はその源なる天主の生命に、理性ある生命はその源なる天主の理性的生命に入って一致する時、初めて真の平和と歓喜、幸福に満たされる。実に天主の中にこそ万物の完成と幸福はある。
天主が我等人間に与えようと望み給うのは実に御自身の生命であり、我等を完成し、導こうと欲し給うのは実に御自身の完全さそのものである。成聖の行いとは天主のこの生命と完全さに入ろうとして行う業であり、聖徳とはこれに入ることのできる状態を言うに他ならない。もちろん成聖の業と状態には人によって相異があり、聖徳にも高低はある。がそのいずれにしても、天主が御自分の生命を我等に分ち与えたいと欲し給うは必要に迫られてではなく、ひとえに愛によることは明らかである。天主が必然的に生命を通じ給うのは三つの位格の間においてのみであって、これは天主の本性に属する事柄なのである。天主が被造物に何ものかを与え給うはすべて自由の御意志から出ることなので、これはすなわち、愛の御行いである。愛より出る果実、賜物もまた愛であるので、天主が我等に生命を与え給うはこれ、愛の御業であり、これは我等をあまりにも愛し給うので、我等と一つとなることを望み給えばこそなし給うところである。見よ、イエズスは最後の晩餐において、父よ汝と我と一つなる如く、わが弟子等もまた我等において一つとなり、この一致の中に我等の本来の永遠なる至福を彼等に見いださせ給えと祈り給うたではないか。「我が喜びを彼等の身に円満ならしめんがためなり」(ヨハネ17:13)。




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