霊魂の生命なるキリスト
第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画
四 天主の御計画は聖寵によって我等を養嗣子(ようしし)とならしむるにあること――霊的生命の超自然的特質
天主はどのようにして人に御自身の生命を与え給うたのだろうか。天主は被造物である人の本性、能力とは無限の距離を隔てた御自分の生命を我等に与え、しかも人間の自然性を変化することも破壊することもなく、我等を永遠の至福、歓喜に浸らせようと思召し給うのである。しかしどうやってこれを実現させ給うであろうか? それは、無限の愛の御意より「思召のままに」(エフェゾ1:5) 御自分の生命を我等に通じ、我等を御自分の養子としてくださることによって実現し給う。「天主の本性に与る者たらしめ給えり」(ペトロ後1:4)
天主が我等を御自分の養子としてくださり給うとは、天の御家督を相続させ給うに他ならない。人においてはすべて養子も養父も同じ人間であるが人は天主とは全く異なり、比較しようもない憐れな被造物であり、造り主であられる天主との間は無限の距離で隔っているのだ。それなのに人は何故またどのようにして天主の養子となることが出来るのであろうか? もとより人の力ではできるはずはない。ところが天主は自らその方法を講じ給うた。すなわち神秘的分与の恩恵すなわち聖寵を我等にくださり、それにより我等を養子とさせ給うのである。「汝等をして天主の本性に与る者たらしめ給わんためなり」(ペトロ後1:4) 我等はここに天主の量り知れぬ叡智、全能、愛を識り、これに深く思いを寄せて感謝しなければならない。
聖寵について。聖寵とは天主が人の霊魂の中に生じさせ給う内的特質で、人の霊魂を天主に似ているものヘと変化させて天主の本性に与からせるものである。聖トマは聖寵とは「天主の本性への分与的似姿」と言い、神学においては人間の天主化、天主への相似と教えている。イエズス・キリストがユデアの民に「汝等律法に録して、我言えらく、汝等は天主なりとあるに非ずや」とおっしゃられたのはまさに我等が天主の本性に与かるのは聖寵によるということを教え給うたものである。
人の世においては養子縁組や戸籍の出入は、外部的な書式や法律上の手続によって成立し効力を生ずる。しかしその効力というものは、養子の人間性や霊魂には何の影響も変化も与えない。これとは違って天主と人との間にあっては養子縁組が成立すると同時に、聖霊すなわち天主の生命は養子の霊魂にまで通じられるのだ。もとより聖寵にしても、人間の本性そのものを変化させるものではないが、これによって唯一の真の生命、万物の創造主なる天主,その主の生命が被造物の人間に通じ、人間はわが創造主、天主の生命に分与し、これを己の生命とするに至るのである。(人が天主の生命に与かることが成聖となることの所以であり、この恩寵は成聖の聖寵と言われる。) 何と不思議なことであろう! この不思議をなし給う天主の御慈愛はまた何と大なるものであろう!
静思してみれば、人智には量り識ることもできないような天主の神秘深き御摂理、極め難い御慈愛の前に我等はただ沈黙し、このように恵み給う天主を拝礼し奉りつつ「ああ高大なるかな、天主の富と智慧と智識と。その判定の覚り難さよ、その道の極め難さよ。誰か主の御心を知り、誰かこれと共に議(はか)りたるぞ」(ロマ11:33,34)と深く感嘆しないではいられないだろう。このように我等が天主の養子とされ成聖され我等に天主の生命が通じられるのは、ただ天王だけがすべてを成し給う御業で、人間の権利や智識や力などの存在も介入も許されるものではない。だから我等の成聖とは、単なる被造物にすぎない人間が一方的に天主の聖寵をいただき、これに照されこれに力づけられつつ天主の生命を活くることになる。活くるとは、人間が自己を完全にさせようとして自らの内的活力によって働くことである。聖霊によって天主の生命を活くるとは、天主の生命が我等の生命の中に流入し、我等が天主の創造の目的にかなう行をなす力となり、遂に天主が御自身を識り、御自身を愛し、御自身を楽しみ給う通りに、我等も地上にあって天主を識り、愛し、楽しみつつ活くる事に他ならない。故に聖寵とは簡単に言えば、人に天主の生命に活きるようにしむけ、御旨を行わせようとする力と言うことになる。
天主は何のために人を成聖し給うのであろうか。ここにおいて我等は人の成聖の中に天主が秘め給う深遠なる御意図を知らなければならない。もともと天主は我等人間の創造主として、人間の自然道徳と我等被造物と創造主および人間同志の関係を土台として、理性的な人間に相応しい天主との一致の原理を教示する自然宗教によって、人間からの自然の拝礼を受けるだけにすることもでき給うたに違いない。それなのに天主は人間に超自然の力を恵み、これによって御自分を拝礼させて、聖旨を行わせようと、愛させようと望まれ、我等がその力をいただく具体的な方法までも教えかつ備え給うた。この事業は、地上において天主の聖旨を識ってこのことを己が身に行い、これに活きようと望む者、即ち霊生と成聖の道に志し、天主の御国を地上に来たらせようと望む者の、見逃してはならない成聖の根本義であり、重要なる鍵である。世には自然のままで正直、誠実、清廉、潔白、公卒、正義、親切な人も少なくない。天主はこれを退け給うのではないけれども、我等のために超自然的な道を備え、この道を歩む力となる聖寵を与え給うところから考えれば、天主は我等の自然的な徳のみだけでは満足し給わないで、超自然の徳をも望み給うことが明らかである。すなわち聖寵の主にて在す天主は、聖寵によって我等を聖とし、御自分の子とすることを望まれ、その方法まで定め給うたのだ。そうであるならこの道以外には我等の成聖、救霊も、永遠の生命もないわけである。
天の聖父よ!御身の子であるに相応しき聖寵を我に恵み、御身から遠ざかってしまうようなすべての悪から我等を護り給え。
第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画
四 天主の御計画は聖寵によって我等を養嗣子(ようしし)とならしむるにあること――霊的生命の超自然的特質
天主はどのようにして人に御自身の生命を与え給うたのだろうか。天主は被造物である人の本性、能力とは無限の距離を隔てた御自分の生命を我等に与え、しかも人間の自然性を変化することも破壊することもなく、我等を永遠の至福、歓喜に浸らせようと思召し給うのである。しかしどうやってこれを実現させ給うであろうか? それは、無限の愛の御意より「思召のままに」(エフェゾ1:5) 御自分の生命を我等に通じ、我等を御自分の養子としてくださることによって実現し給う。「天主の本性に与る者たらしめ給えり」(ペトロ後1:4)
天主が我等を御自分の養子としてくださり給うとは、天の御家督を相続させ給うに他ならない。人においてはすべて養子も養父も同じ人間であるが人は天主とは全く異なり、比較しようもない憐れな被造物であり、造り主であられる天主との間は無限の距離で隔っているのだ。それなのに人は何故またどのようにして天主の養子となることが出来るのであろうか? もとより人の力ではできるはずはない。ところが天主は自らその方法を講じ給うた。すなわち神秘的分与の恩恵すなわち聖寵を我等にくださり、それにより我等を養子とさせ給うのである。「汝等をして天主の本性に与る者たらしめ給わんためなり」(ペトロ後1:4) 我等はここに天主の量り知れぬ叡智、全能、愛を識り、これに深く思いを寄せて感謝しなければならない。
聖寵について。聖寵とは天主が人の霊魂の中に生じさせ給う内的特質で、人の霊魂を天主に似ているものヘと変化させて天主の本性に与からせるものである。聖トマは聖寵とは「天主の本性への分与的似姿」と言い、神学においては人間の天主化、天主への相似と教えている。イエズス・キリストがユデアの民に「汝等律法に録して、我言えらく、汝等は天主なりとあるに非ずや」とおっしゃられたのはまさに我等が天主の本性に与かるのは聖寵によるということを教え給うたものである。
人の世においては養子縁組や戸籍の出入は、外部的な書式や法律上の手続によって成立し効力を生ずる。しかしその効力というものは、養子の人間性や霊魂には何の影響も変化も与えない。これとは違って天主と人との間にあっては養子縁組が成立すると同時に、聖霊すなわち天主の生命は養子の霊魂にまで通じられるのだ。もとより聖寵にしても、人間の本性そのものを変化させるものではないが、これによって唯一の真の生命、万物の創造主なる天主,その主の生命が被造物の人間に通じ、人間はわが創造主、天主の生命に分与し、これを己の生命とするに至るのである。(人が天主の生命に与かることが成聖となることの所以であり、この恩寵は成聖の聖寵と言われる。) 何と不思議なことであろう! この不思議をなし給う天主の御慈愛はまた何と大なるものであろう!
静思してみれば、人智には量り識ることもできないような天主の神秘深き御摂理、極め難い御慈愛の前に我等はただ沈黙し、このように恵み給う天主を拝礼し奉りつつ「ああ高大なるかな、天主の富と智慧と智識と。その判定の覚り難さよ、その道の極め難さよ。誰か主の御心を知り、誰かこれと共に議(はか)りたるぞ」(ロマ11:33,34)と深く感嘆しないではいられないだろう。このように我等が天主の養子とされ成聖され我等に天主の生命が通じられるのは、ただ天王だけがすべてを成し給う御業で、人間の権利や智識や力などの存在も介入も許されるものではない。だから我等の成聖とは、単なる被造物にすぎない人間が一方的に天主の聖寵をいただき、これに照されこれに力づけられつつ天主の生命を活くることになる。活くるとは、人間が自己を完全にさせようとして自らの内的活力によって働くことである。聖霊によって天主の生命を活くるとは、天主の生命が我等の生命の中に流入し、我等が天主の創造の目的にかなう行をなす力となり、遂に天主が御自身を識り、御自身を愛し、御自身を楽しみ給う通りに、我等も地上にあって天主を識り、愛し、楽しみつつ活くる事に他ならない。故に聖寵とは簡単に言えば、人に天主の生命に活きるようにしむけ、御旨を行わせようとする力と言うことになる。
天主は何のために人を成聖し給うのであろうか。ここにおいて我等は人の成聖の中に天主が秘め給う深遠なる御意図を知らなければならない。もともと天主は我等人間の創造主として、人間の自然道徳と我等被造物と創造主および人間同志の関係を土台として、理性的な人間に相応しい天主との一致の原理を教示する自然宗教によって、人間からの自然の拝礼を受けるだけにすることもでき給うたに違いない。それなのに天主は人間に超自然の力を恵み、これによって御自分を拝礼させて、聖旨を行わせようと、愛させようと望まれ、我等がその力をいただく具体的な方法までも教えかつ備え給うた。この事業は、地上において天主の聖旨を識ってこのことを己が身に行い、これに活きようと望む者、即ち霊生と成聖の道に志し、天主の御国を地上に来たらせようと望む者の、見逃してはならない成聖の根本義であり、重要なる鍵である。世には自然のままで正直、誠実、清廉、潔白、公卒、正義、親切な人も少なくない。天主はこれを退け給うのではないけれども、我等のために超自然的な道を備え、この道を歩む力となる聖寵を与え給うところから考えれば、天主は我等の自然的な徳のみだけでは満足し給わないで、超自然の徳をも望み給うことが明らかである。すなわち聖寵の主にて在す天主は、聖寵によって我等を聖とし、御自分の子とすることを望まれ、その方法まで定め給うたのだ。そうであるならこの道以外には我等の成聖、救霊も、永遠の生命もないわけである。
天の聖父よ!御身の子であるに相応しき聖寵を我に恵み、御身から遠ざかってしまうようなすべての悪から我等を護り給え。