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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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「助産婦の手記」22章 『今日では、結婚した人たちは――殊に上流社会では――別の課題を持っているのです。』

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「助産婦の手記」
22章
別荘「こうの鳥の巣」は、教会の傍らに立っている。それは、緑色の鎧戸(よろいど)と、赤い瓦の屋根を持った質素な白い別荘であるが、それはちょうど、窓の飾り縁の上や、その家の周囲に咲いている色とりどりの花と同じように、さも喜ばしげに、世間を眺めている。樅(もみ)と樺(かば)は、今は丈高く成長し、そして外界と区切る白い格子囲いの後ろにある水松(いちい)の生垣は、その家の周囲に広がっている大きな庭の中を、好奇的な人々がのぞき込むのを防いでいる。しかし、その生垣の後ろは、どんな様子であるかということは、村の者はみんな知っている。それは、医者の家である。ウイレ先生、すなわちその地方全体で一番よくはやるお医者さんが、そこに住んでいる。家の後ろには、多くの果樹と、一軒の東屋(あずまや)のある大きな草っ原がある。そこでは、お医者の子供たちが、山羊と駈けっくらべをしている。
ウイレ先生は、殆んど二十五年も、この村に住んでいる。先生のお父さんも、以前からここの医者であった。そのお方が、年をとって隠居しようと思ったので、御子息のウイレ先生が患者を引き継いだのである。戦争の二三年前に、先生は結婚した。二人の快活な上品な人間が、ここに邂逅したわけで、こんなことは珍しいことである。私たち助産婦は、どんな家へでも訪ねていく――しかも、日曜日に、わざわざとりつくろったよい部屋へだけ通されるのではない! それゆえ、人間について何ものかを理解し、人間を見分けることを学んだのであった。
結婚式から二三ヶ月後に、ウイレ先生は、往診の途中で、私と出会い、そして言われた。『リスベートさん、一度、家内を訪問して下さらねばいけませんよ。』『承知しました。で私も、誠にお目出とうと申上げます!』私は、喜ばしげに叫んだ。しかし先生は少し狼狽して笑った。『いや、リスベートさん、それはまだ早すぎますよ。御存知ですかね。家内のマリーレは、ヨゼフ樣のような結婚生活が、我々二人にとっては、一番美しく、一番上品なものだと信じているのですよ。しかし、僕は――僕としては、十人も男の子があれば、もっと美しいものだと思うし、その上、さらに半ダースも女の子があれば……』『ほんとですよ、先生。さもなければ、独身でいるべきですわ。先生は、そのことをまだ奥さんにおっしゃらないのですか?』『いや、まだです。あなたがまあ言って見て下さい。偶然のような具合にね、すると耳ざわりが遙かによいと思います。あなたは、御自身、オールド・ミスですから、この問題を両面から明らかにすることができるわけですね。』
まあ、助産婦を何の用に使おうとするのであろう! そこで私は、ある暇な午後、黒い前掛をかけ編物を籠に入れ、そして医者の奥さんのところへ出かけた。奥さんは、私を古い知り合いのように迎えた。『主人は、あなたがお出でになるってことを、私に言っていました。でも、よくいらっしゃいました。』 間もなく、私たちは、庭の中で、湯気の立っているコーヒーの皿の傍らに坐った。婦人というものは、実によくおしゃべりするものである。私たちも、そのように、あらゆることについて話し合った。私はちょうど(故意に)、子供のズボンを編んでいたので話の糸口は、間もなく、思う壺の題材に結びついた。『もし困ったお母さんを御存知でしたら、早速私のところへ来て下さい。私は喜んで、おむつや、その他いろいろのものを差上げて、助けてあげたいと思いますわ……』『誠に有難う存じます。私たちは、とても色々な境遇に出くわすのです。赤ちゃんが六十人ほどいますが、いつも何事かが起ります。』『このような村に、わずか六十人だけですか?』と、医者の奥さんは、驚いて言った。『そうです。もし以前のようでしたら、大体八十人か九十人かでしよう。しかし、每年二、三人ずつ少くなります。』『それは、どういうわけですの? 以前より結婚する人が少なくなったのですか?』『いえいえ、結婚する人は多いんです。しかし、若い奥さんたちは、今日では、もう赤ちゃんをほしがりません。上流の方々は、子供を儲けないことをフランスから学んだのです。そして細民たちは今では、そういう人たちの真似をするんです。まあちょっと、私たちの周囲を御覧下さい。子供を持っているのは、薬剤師は一人、も一人の医者はなし、支配人もなし、森林参事官は一人、酒類問屋は半分、監督は一人……』
若い奥さんは、半分の子供というのに少し笑ったが、それから狼狽して臆病げに言った、『ブルゲルさん、それとは違ったゆき方もあり得るわけじゃないでしようか? 理想的な理由から、子供を持たないこともできるものですね。』今や私たちは、私が行きたいと思っていた所に辿りついた。『確かに、奥さん、それはできます。しかし、大抵はそうではありません。今日では、大抵違ったことをやっています。そして御覧のように、それは害悪を与えます。細民たちは、富んでいる人々を見て言います、もしあの方たちが子供を育てる力があるのに、そうしないのなら、どうして我々は、育児で苦しむ必要があろうか、と。』『でも、私にとっては、夫婦が兄妹のように生活することは、 とても美しいもののように思われるのです。一体、どうして人間は、そうしては、いけないのでしようか?』『それは人々に、あなたのお考えのような理想主義と、そのことに対する理解とが欠けているからです。そしてそれは、全く一般の人間の性質に反しているからです。私たちの救世主は、御自分でおっしゃいました。「すべての者がこの言葉を理解するのでなく、むしろこの言葉を与えられた人々のみが、そうするのである。こういう事は、人間が自分自身で解決するものではなく、天主が定め給うのである。」 と。天主は、大抵の人を結婚するようにお定めになりました。それは、人類が生きつづけ、そして天国の人口を増やすためです。そしてそれゆえ、人間はまた、正しい夫婦として、一緒に生活すべきです。もし、そうでなければ、そこには祝福はないわけですね。』『でも、私たちは、とても幸福に一緒に暮しているんですが……』『奥さん、何かお尋ねしても宜しいですか? あなたは、結婚式の前に、御主人とそのようなお約束をなさったのですか?』『いえいえ。その時には、私はそんなことは考えていませんでした。私たちがあの晚、ここにこうして一緒に座ったとき、はじめて私は、このことを思いついたのです。そして私がこのことを言いますと、主人は反対をせずに、まあ試しにやって見てもよかろうと言ったのでした。』『御主人は、あなたを大変愛していらっしゃるから、あなたのために犠牲を捧げ、そしてあなたが正しい道を見いだすまで、待っていらっしゃるのです。悪いことではありませんよ、奥さん。しかし、御主人が確かに夫婦愛を熱望していらっしゃるのに、あなたがそれを、おあずけにしていらっしゃるということは、御主人に対して一つの不正なことではないかどうかということを、一度お考え下さい。御主人は、子供ができることを、いつも望んでいらっしゃるのですよ……』『でも私たちは、一緒に天国への道を歩んで行こうとお互いに約束したのです。お互いに聖(きよ)くなるよう助け合おうということを。』『そのことは、もちろんあなたも、なさるべきです。しかし奥さん、あなたが一たび婚姻の秘蹟をお受けになった以上は、たとえあなたが、その秘蹟を実行し、そして妻としてのあなたの権利を行使されても、それには、あなたと御主人とが、天国への道を辿られるのに何の妨げともならないのです。善良な正しい夫婦も、私たち独身者と同様に、聖くされることができるのです。恐らく、もっとよく。そして、いいですか! もちろん私は主任司祭ではありませんから、このことをそのように言うことはできないのですが――しかし結婚しても処女でいる人は、半端な物に過ぎないのです。処女は、主のものならんことを求むるなりと、使徒聖パウロは書いています。しかし、あなたは、なおもっと御主人のことを思い、御主人と仲良くしようとつとめ、御主人の気に入り、愛せられようと望んでいらっしゃるのです。御主人を慕い、そして、お互いに信頼し合って同棲することと、深い愛情とを望んでいらっしゃるのです。そして、あなたの御主人も確かに、それとは違ったお気持ちではないと思います。御主人は、每日犠牲を捧げ、そして、こう自分で言っておられるのです。私は、いわゆる「妻」を持つことをあきらめ、そして待っているのです、と。そして天なる天主は、こう考えていらっしゃいます。あすこで、またしても二人のものが、私のために一緒に苦しんでいる。あの人たちは、結婚についての私の意向を実行して、一緒に全く幸福になろうとせずに、自分たちの誤った理想主義をもつて、私の計画を妨げている、と。』『ブルゲルさん、いいですか、私はこう考えたのです。人々が現在ではもう、禁欲というものはできるものではないと考えているものですから、その人たちに向って、これを実際やって見せねばならない、と。』『純粋な処女生活をして世間の人に見せることは、私たち独身者に任せて置いて下さい。みんなが、まだ子供を持つ喜びをもっと感じており、そして家庭一般に子沢山であった時代ですと、そのような全く禁欲的な夫婦生活は、一つの使命を持つことができたでしょう。しかし、今日では、結婚した人たちは――殊に上流社会では――別の課題を持っているのです。この村では、人々はこうは言わないでしよう。お医者さん御夫婦は、純潔な禁欲生活をしていらっしゃる、我々は御夫婦に倣おうではないかと。そうではなく、人々はこう言うでしよう。あれ御覧、どうすれば子供が出来ないかということを、お医者さん御夫婦も御存知だ。それなのに、私たちは子供を持ち、そしてそのために苦しまねばならないんだと。このことは、医者への信頼を破壊します。あなた方のなさるそれ以外の善いことを、ぶっこわしてしまいます。しかし、私がこんなにお説教したことを、どうかお許し下さい。私は思ったままを言ったばかりです。さて、これから私は、妊婦たちを見に行かねばなりません。』『あなたは、今、いくたりお世話をしていらっしゃるのですか?』『二人です――はじめてのお方と、十一人目のお子さんの方とです。このことについては、またこの次ぎにお話しましよう。人は誰でも、それぞれ一篇の小説を持っているものです。』
私たちは、それからなお三十分も一緒に歩きながら、母の悩みと母の喜びとについていろいろ話し合った。 いかにして人生が、それらのものをもたらして見せるかということを。 それから医者の奥さんは、心を改めた。奥さんは、帰宅の途中、教会に行って、長い間、静かに、かつ瞑想に耽りながら、天主の御母の祭壇の前にひざまずいた。 (このことは、奥さんが、後で私に話して下さった)
この晩、アンゼラスの鐘が鳴りわたった時、一つの大きな純粋な光が、この静かに祈っている処女の喜びに満ちた心の中にさし込んだ。『マリア様は言われました、われは主の婢(つかいめ) なり――仰せの如くわれになれかしと。私もまた、天主様の全く忠実な婢となって、私の婚姻上の義務を果すこととします。私が結婚式のとき、祭壇の前でそのことを身に引き受け、そして天主の御前で誓った通りに。もうこれからは、私の意志ではなくて、主よ、御身の御旨です――その御旨は、いま私のために、およそ正しく善い一切の事柄について、私の夫の意志の中に現われるべきなのです。』 子供を得たいという意志が、彼女の心の中に、全く甘美に、かつ大きく目覚めた――子供への熱望が……あくる年の夏、ちょうどヨハネの祝日に、小さなハンスがこの医者の家で生れた。『リスベートさん、うんと高い勘定書を差し出しなさいよ。』と当時、多くの人たちが私に言った。『でも、あんたがそこへ行くのも、これが同時に最後だということは確かですよ。』
しかし、彼らは、大間違いだった。ハンスにつづいて、グレーテルとパウロとペーテルレとメヒトヒルドとフランツェル……へえ、とばかりに、村の人々は驚いた! 彼らは、この「こうの鳥の巣」は、教会堂から落っこちて、今そのそばに立っているんだ(だからあんなに、子供が多いんだな)と、低い声で、あざけりはじめた。その後さらに、ゲルトルードが生れたときには、お医者さんにとっては、その家は小さ過ぎるようになった。そこで彼は、屋根裏を改造して、子供たちのために美しい寝室を作り、そして原っぱにある園亭を遊戯室に改造した。同時に、彼は自宅の門の上に、大きな字で、かつ、ざっくばらんに、次のように書かせて、嘲笑の鋒先きを巧みにくじいた。別荘 こうの鳥の巣
十羽の幼いこうの鳥が、今日までこの巣の中にいる。そして我々の村は、まだまだ、多くの他所のように、そんなに全く不道徳な、みじめなものではないということは、まず第一に、我々の医者の実例で証明できる。



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