「助産婦の手記」
28章
ある午後のこと 子供たちは、ちょうど学校から帰る最中であった。私は彼らがガヤガヤと騒々しく通りすぎるのを聞いた――そのとき、十三になるエマ・シュルツが、全く息も絶えだえに走って来て、ノックもせずに、いきなり戸を押し開けて叫んだ。『リスベートさん、どうか早く来て下さい、お母さんが死ぬんです!』
眼の中に、まざまざと硬わばった心配をたたえて、その娘はそこに立っていた。殆んど声も立てられないほどだった。私も同様に驚いた。シュルツ奥さんは、二年前から後家【夫に死別し、再婚しないで暮らしている女性、寡婦、未亡人、やもめ】さんになっていて、家に十人の元気な子供がいる……そしてパン屋と、植民地物産の営業をしている。昨年、彼女は店を改築した。生命保険金をもって、すべてを清潔に、綺麗に作らせた。もし彼女がいま死んだら、どうなることだろうか――その子供たちのうち、一番上のが、いま私の前に立っている――彼女は、殆んど每年一人ずつ子供を生んだのであった。……『でも、あんた、一体お母さんはどうしたの?』と私は尋ねた。その間にも、いろいろのことが、私の頭の中を電光のように速く通りすぎた。『あんたは、お医者さんを呼びに行かねばいけませんよ。』『お母さんは、きっと死にますよ、リスベートさん、死ぬほど出血しているんです……私が学校から帰ったら、 家中が血だらけで、お母さんはベッドにはいっていて、私にはもう返事をしないんです……』『そう、私はすぐ行きます。でも、あんたは、もう一度、大急ぎでウイレ先生のところへ走って行って、先生を連れていらっしゃい。先生は私よりも、もっとよく助けて下さるでしょう。』その娘は、走って行った。私は何をせねばならぬのか、本当は判らなかった。シュルツ奥さんは、二年前から後家さんだ――それゆえ、私のする仕事は、もう何もないわけだ。彼女は、死ぬほど出血しているという。恐らく腫物か、癌の病気か? しかし、そういうものだと、そんなに突然には来ないものだ……さては、いま来たあの子は、多分恐怖のあまり、誇張して言ったのだろう。しかし、それは、とにかくとして、私は合財袋を携帯し――その袋の中には、私たちの必要とする品物が全部用意されている――そして出かけた。村を斜めに横切り、一番近路をとった。
そのとき、一つの考えが、一匹の蜘蛛のように、私の頭を這い回った。世間では、昨年の冬、色んなことを噂(うわさ)していた。至るところで、私はこう言う話を聞かねばならなかった。シュルツさんのところでは、もう一度子供の洗礼があると! 左官の職人が、昼も夜も、あの家にいる。新しい果物酒が搾り出されると、彼は、彼女と一緒に食卓に坐り、そして二人は一つコップで飲んだ……そこで、人々は、事務的に計算しはじめた、九ヶ月と。これは話がぴったり合いそうである……しかし、待てよ! 誰がまた直ぐに最悪のことを考えるのであるか。左官職人が、あの家に住んでいた、それは事実である。当時、私はシュルツ奧さんに、そんなことは、しない方がよいと言った。世間の評判になるべきではない、と。しかし、彼女は答えた。『あの人は、よそでは部屋が得られないんです。そして旅館では、長い間には、高くつき過ぎるでしょう。それに私は、独りではない――そう、子供が十人も家にいるんですよ。』と……こんなことを考えながら、私はパン屋に着いた。家の前には、すでに近所の女が二三人立っていて、耳うちをし、ささやいていた。十人の子供たちの殆んど全部が学校から帰っていたが、彼らは、追っ払われた小さな鶏のように、あちこちに、うろうろして、途方に暮れていた。多分、心配なので近所の女の人を呼んだのであろう。住居の内部は、恐ろしい光景を呈していた。大きな血の水溜りが台所にあり、血の痕跡が店の方へ、居間を通して、ついていた。そして寝室では、どうだ! あたかも殺人があったかのようだ。いくつかのベッドは、突き乱されていた……手洗鉢や床板——すべては、血で汚されていた。シュルツ奥さんは、ベッドに伏していた。あたかも人間の姿をした死神のように、蝋色で、肉は落ちくぼんでいた。殆んど呼吸をしていなかった。そこで、私は子供たちを全部家から追い出し、近所の女たちも出てもらった。医者が来るまでは、何の助けることもできなかった。しかしペーテルを主任司祭のもとに走って行かせて、一時間以內に、病人に最後の準備をさせるために、来ていただくように、お願いせねばならなかった。私は、シュルツ奥さんとただ二人でいるうちに、一体どこが具合が悪いのか見きわめようと、早速取りかかった。しかし、彼女はできる限り、自分の身を護った。ベッドの掛蒲団を両手で、しっかりとつかんだ。いな、歯をもってさえも……『シュルツ奥さん、お放しなさいよ。あんたが子供を生んだってことは、私知っていますよ。なぜあなたは、早く私を呼びに寄こさなかったのですか?』
どうして私が、このことを言ってしまったのかは、私自身知らない。私は、私自身のいった言葉を聞いたとき、愕然とした。天主は、私がいま言った言葉を口の中に引きとめて置いて下さらねばならなかった。その言葉は、効を奏した。彼女の抵抗を打ち破った。今や彼女は、私に職務を行うことを得させた。最悪の予期が、事実として確認されたわけである。彼女は、子供を生んだのであった。察するに、この事件を独りで、他人の助けを借りないで処理しようと思い、そのために出血したのだった。もし彼女の命が助かるなら、それは奇蹟にちがいなかった。『赤ちゃんは、どこへ置いてあるんですか?』彼女は、意識がないわけではなかったが、私に答えを与えなかった。彼女は、答えることを欲しなかった――それとも、弱りすぎているのだろうか? 私は、彼女をそれ以上看護することはできなかったので、あらゆる隅々まで、赤ちゃんを探しはじめた。医者が見えて、早速、私のと同じ診断を下した。『赤ちゃんは、どこにいるんですか?』 その間に、一人の親切な隣りの奥さんが、主任司祭のお出でになるとき、そんなに見っともなくないように、台所、廊下、居間を拭き上げておいて下さった。しかし、赤児の形跡を示すものは、何一つ発見されなかった。そのとき、どこからともなく、低いすすり泣きのようなものが聞えて来た。私たちは、顔を見合わせた。どこからそれが聞えて来るのか、誰にも判らなかった。医者は、母親の今にも消えそうな命を、もう一度取りとめようと非常な骨折りをした――たとえ、ほんのわずかの間でも。それは、彼女が 永遠の裁き主の御前に立つ以前に、事情を説明するに必要な言葉を語ることができ、そして自分の良心を整頓することのできるように、もう一度彼女に力を与えるためであった。
それから再びその低い訴えるようなすすり泣きが、部屋を通してひびいた。そのとき、誰かが私の手をつかんで、それを導いてくれるような気がした。私が、ほかのベッドの中に手を突っこんで、布団の下から、新しく生れた、血の流れている赤児を明るみに取り出したのは、どうしてだったか、私は知らない。それは、女の子で、十分に成長し、丈夫であったが、母親と同様に出血のため、まさに死に瀕していた。なぜなら、その子に対しても、ほんのわずかな手当てさえも施されていなかったから。『つまり、計画的な嬰児殺しですね。』と、医者が言った。今や人々は、もはや疑うことはできなかった。十人も子供のある婦人が、正しい時期に――いな、丸っきり――助産婦を呼びにやらなかったこと自体が、すでに、奇妙以上に思われるのであるから、赤児をかように布団の下に隠していたということは、この憐れな女が、この事件を人知れず、ひそかに闇の中に葬ることができるだろうと信じたことを示す、全く紛れもない証拠であった。『どうか子供たちには、何も言わないで下さい。』 とシュルツ奥さんがささやいた。二三本の強い注射が、生命の最後の残り火を、もう一度燃え立たせた。『恥です……恥です……でも、私はそれ以外に方法がなかったんです……赤児を処分せねばならなかったのです……子供たちは、どう言うでしょうか?』『カトリンさん、あなたは、ただ恥を避けるだけのために、殺人をしようと思ったのです! もしも、もしも、あなたが、このようにして死に、そして赤ちゃんも死んだとしたなら……どういうようにして、あなたは、永遠に天主の御前に立つことになるだろうか、ということを、ただよくよくお考えなさい。』『子供たち……でも私は、赤児を処分せねばなりませんでした。』『しかし、カトリンさん、では、あなたのお子さんたちが、なぜあなたが死んだのか知らないでいると思いますか? それが評判にならないだろうとでも信じていますか? 嬰児殺しで捕えられた人が、毎年二十人も裁判されているじゃありませんか? いいですか、あなたの頭は、もう全く、はっきりしていなかったのです。さもなければ、あなたは、なんじ、殺すなかれ、と自分自身に言いきかせたに違いなかったでしょう! いかなる事情の下でも、殺してはならない、そしてたとえ、恥がさらにもっと大きくても――そして、もしも、なんじの命にかかわるようなときでも……』
主任司祭は、部屋の外で、医者から報告を受けた後、はいって来られた。そこで私は、彼女の憐れな霊魂をして、遅すぎないうちに、己れの不正を悟らせることを、司祭にお任せすることができた。台所で、隣家の奥さんは、風呂水を沸かす手伝いをしてくれた。そして私は、可哀想な女の子を洗って、きちんと整えるために、それを抱いて部屋の外へ出ていった。隣りの奥さんは、できるだけ私を助けて下さった。私たち二人の頬には、涙が止めどもなく流れた。一人の母親が、そのような過ちを犯すことがあり得るということは、私にとっては、実に一つの新しい、理解できぬように思われる経験であった。彼女が堕落したということではない――人間というものは、堕落への機会を避けないなら、いかに弱いものであるかということを、私たち助産婦は実に繰り返し新たに経験する! ――そうではなくて、十人も子供のある彼女が、十一人目の子供を、一旦生きたまま自分の掌中に握りながら、そんな冷酷な考えの下に、その生命を奪おうとしたこと――このことを、私は理解できないのである。医者は、今後の手当てに必要な指図をした。私たちは、村の警察にこの事件を知らせねばならなかった。その母親の二人の姉妹には電報を打った。私はちょうど、ほかに面倒を見ねばならぬ妊婦もいなかったので、その夜はその家に泊ろうと申し出た。当時は、看護婦が妊産婦の世話をすることは、まだ禁ぜられていたし、また私たちとしても、この事件には、看護婦を触れさせたくはなかった。『とても真夜中までは、もたないでしよう。』と医者が言った。『我々は、病人を静かに平和のうちに死なせてやりましょう。どんなことをしても、これを変更することは、もうできないのです。』医者は、大きな紙片に『面会謝絕』と書いて、その居間の戸に貼りつけた。私たちが、可哀想な赤ちゃんのために、小さなベッドを整えてやり、そして十人の子供たちのために、燕麦のお粥を作ってやっている間にも、あの憐れな過ちを犯した霊魂のためにお祈りをした。暫らくして、司祭が私を内に呼び入れた。赤ちゃんを連れて来るようにということであった。私が赤ちゃんを抱いて、ベッドのそばに行くと、シュルツ奧さんの落ちくぼんだ蝋色の頬に涙が流れた。最後の力をふるい起して、彼女は赤ちゃんの額に、ふるえる十字を切った。『洗礼。』と彼女は言った。『マリア――と、名づけて下さい――正しい母を――天上に持たねばなりません――なぜなら、この子は――そんなに――悪い母を――この世で持ったのですから……』『我々は、すべて憐れな罪人です。』と司祭は慰めた。『あなたは自分の過失を悔い改めました。そしてそれによって、あなたは、もう悪い母ではないのです。あなたは、自分で、天上からお子さん方を全部、保護なさるでしょう。』やや長い間、この瀕死の母親は、黙っていた。それから、彼女は私の方に向いた。『リスベートさん。あなたは――もう一度――こんなことで―――私のところへ来ようなんて、よもや考えてはいらっしゃらなかったでしょう。』『あなたは、この道で過(あやま)ったのです――ほかの人たちは、ほかの道で過まるのです。今、あなたは、再び正しい道を見いだしたのです。そのことが一番大事なことなんです。』『リスベートさん、お会いになるすべてのお方に言って下さい。人は独りでいることを、時期おくれにならないうちに学ばねばならないということを……もし、あのことに慣れていると、 生活上、それをやらねばならぬと思うのです……私の主人が災難にあったとき――あなたは御存知でしょう、死んだ主人が家に運びこまれたのを……天主樣、あの人をお憐み下さい……十五年も習慣となっていたのに、急に変化が起ったのです……そこで私は、もう昼も夜も、心の休まることがなく、いつもそのことを考えていました……そのとき、あの職人が家にいて……そして、ある晩、私のところへやって来たのでした――大した口説きは、必要ありませんでした……』
それは、あたかも彼女が最後の力をかき集めようとしているかのようであった。『リスベートさん、どうかこのことを皆さんにおっしゃって下さい……もし皆さんが、私のことを悪く言うなら……皆さんは、間に合うように早く、禁欲生活をなさるべきです……皆さんは、そうできるのです……もし、そうせねばならないのなら……そうすれば、皆さんは、こういうことになることはないでしょう……』『承知しました、カトリンさん、皆さんにそう申しましょう。』力つきて、彼女はがっくり褥に伏した。司祭が臨終の聖体を取りに行った間に、私は時々短い祈りを彼女の前で唱えた。私たちは、もはや何も話さなかった。また、この場合、何を話す必要があろうか? 司祭が、救世主をもたらし、そして臨終の聖体を彼女に授けたとき、その憐れな母親の眼が、もう一度、輝いた。それから、彼女の眼は、永久に閉じられたのであった。年上の子供たちは、ベッドの足もとにひざまずいた。深い悲しみの一瞥(いちべつ)が、彼等の上を走った。『お母さま――天上の――われらを祝福したまえ……』子供たちは、こわばって行く口唇をもつて、次第に声低く祈った。そして、その過った霊魂は、御父のみもとに帰って行ったのであった。
28章
ある午後のこと 子供たちは、ちょうど学校から帰る最中であった。私は彼らがガヤガヤと騒々しく通りすぎるのを聞いた――そのとき、十三になるエマ・シュルツが、全く息も絶えだえに走って来て、ノックもせずに、いきなり戸を押し開けて叫んだ。『リスベートさん、どうか早く来て下さい、お母さんが死ぬんです!』
眼の中に、まざまざと硬わばった心配をたたえて、その娘はそこに立っていた。殆んど声も立てられないほどだった。私も同様に驚いた。シュルツ奥さんは、二年前から後家【夫に死別し、再婚しないで暮らしている女性、寡婦、未亡人、やもめ】さんになっていて、家に十人の元気な子供がいる……そしてパン屋と、植民地物産の営業をしている。昨年、彼女は店を改築した。生命保険金をもって、すべてを清潔に、綺麗に作らせた。もし彼女がいま死んだら、どうなることだろうか――その子供たちのうち、一番上のが、いま私の前に立っている――彼女は、殆んど每年一人ずつ子供を生んだのであった。……『でも、あんた、一体お母さんはどうしたの?』と私は尋ねた。その間にも、いろいろのことが、私の頭の中を電光のように速く通りすぎた。『あんたは、お医者さんを呼びに行かねばいけませんよ。』『お母さんは、きっと死にますよ、リスベートさん、死ぬほど出血しているんです……私が学校から帰ったら、 家中が血だらけで、お母さんはベッドにはいっていて、私にはもう返事をしないんです……』『そう、私はすぐ行きます。でも、あんたは、もう一度、大急ぎでウイレ先生のところへ走って行って、先生を連れていらっしゃい。先生は私よりも、もっとよく助けて下さるでしょう。』その娘は、走って行った。私は何をせねばならぬのか、本当は判らなかった。シュルツ奥さんは、二年前から後家さんだ――それゆえ、私のする仕事は、もう何もないわけだ。彼女は、死ぬほど出血しているという。恐らく腫物か、癌の病気か? しかし、そういうものだと、そんなに突然には来ないものだ……さては、いま来たあの子は、多分恐怖のあまり、誇張して言ったのだろう。しかし、それは、とにかくとして、私は合財袋を携帯し――その袋の中には、私たちの必要とする品物が全部用意されている――そして出かけた。村を斜めに横切り、一番近路をとった。
そのとき、一つの考えが、一匹の蜘蛛のように、私の頭を這い回った。世間では、昨年の冬、色んなことを噂(うわさ)していた。至るところで、私はこう言う話を聞かねばならなかった。シュルツさんのところでは、もう一度子供の洗礼があると! 左官の職人が、昼も夜も、あの家にいる。新しい果物酒が搾り出されると、彼は、彼女と一緒に食卓に坐り、そして二人は一つコップで飲んだ……そこで、人々は、事務的に計算しはじめた、九ヶ月と。これは話がぴったり合いそうである……しかし、待てよ! 誰がまた直ぐに最悪のことを考えるのであるか。左官職人が、あの家に住んでいた、それは事実である。当時、私はシュルツ奧さんに、そんなことは、しない方がよいと言った。世間の評判になるべきではない、と。しかし、彼女は答えた。『あの人は、よそでは部屋が得られないんです。そして旅館では、長い間には、高くつき過ぎるでしょう。それに私は、独りではない――そう、子供が十人も家にいるんですよ。』と……こんなことを考えながら、私はパン屋に着いた。家の前には、すでに近所の女が二三人立っていて、耳うちをし、ささやいていた。十人の子供たちの殆んど全部が学校から帰っていたが、彼らは、追っ払われた小さな鶏のように、あちこちに、うろうろして、途方に暮れていた。多分、心配なので近所の女の人を呼んだのであろう。住居の内部は、恐ろしい光景を呈していた。大きな血の水溜りが台所にあり、血の痕跡が店の方へ、居間を通して、ついていた。そして寝室では、どうだ! あたかも殺人があったかのようだ。いくつかのベッドは、突き乱されていた……手洗鉢や床板——すべては、血で汚されていた。シュルツ奥さんは、ベッドに伏していた。あたかも人間の姿をした死神のように、蝋色で、肉は落ちくぼんでいた。殆んど呼吸をしていなかった。そこで、私は子供たちを全部家から追い出し、近所の女たちも出てもらった。医者が来るまでは、何の助けることもできなかった。しかしペーテルを主任司祭のもとに走って行かせて、一時間以內に、病人に最後の準備をさせるために、来ていただくように、お願いせねばならなかった。私は、シュルツ奥さんとただ二人でいるうちに、一体どこが具合が悪いのか見きわめようと、早速取りかかった。しかし、彼女はできる限り、自分の身を護った。ベッドの掛蒲団を両手で、しっかりとつかんだ。いな、歯をもってさえも……『シュルツ奥さん、お放しなさいよ。あんたが子供を生んだってことは、私知っていますよ。なぜあなたは、早く私を呼びに寄こさなかったのですか?』
どうして私が、このことを言ってしまったのかは、私自身知らない。私は、私自身のいった言葉を聞いたとき、愕然とした。天主は、私がいま言った言葉を口の中に引きとめて置いて下さらねばならなかった。その言葉は、効を奏した。彼女の抵抗を打ち破った。今や彼女は、私に職務を行うことを得させた。最悪の予期が、事実として確認されたわけである。彼女は、子供を生んだのであった。察するに、この事件を独りで、他人の助けを借りないで処理しようと思い、そのために出血したのだった。もし彼女の命が助かるなら、それは奇蹟にちがいなかった。『赤ちゃんは、どこへ置いてあるんですか?』彼女は、意識がないわけではなかったが、私に答えを与えなかった。彼女は、答えることを欲しなかった――それとも、弱りすぎているのだろうか? 私は、彼女をそれ以上看護することはできなかったので、あらゆる隅々まで、赤ちゃんを探しはじめた。医者が見えて、早速、私のと同じ診断を下した。『赤ちゃんは、どこにいるんですか?』 その間に、一人の親切な隣りの奥さんが、主任司祭のお出でになるとき、そんなに見っともなくないように、台所、廊下、居間を拭き上げておいて下さった。しかし、赤児の形跡を示すものは、何一つ発見されなかった。そのとき、どこからともなく、低いすすり泣きのようなものが聞えて来た。私たちは、顔を見合わせた。どこからそれが聞えて来るのか、誰にも判らなかった。医者は、母親の今にも消えそうな命を、もう一度取りとめようと非常な骨折りをした――たとえ、ほんのわずかの間でも。それは、彼女が 永遠の裁き主の御前に立つ以前に、事情を説明するに必要な言葉を語ることができ、そして自分の良心を整頓することのできるように、もう一度彼女に力を与えるためであった。
それから再びその低い訴えるようなすすり泣きが、部屋を通してひびいた。そのとき、誰かが私の手をつかんで、それを導いてくれるような気がした。私が、ほかのベッドの中に手を突っこんで、布団の下から、新しく生れた、血の流れている赤児を明るみに取り出したのは、どうしてだったか、私は知らない。それは、女の子で、十分に成長し、丈夫であったが、母親と同様に出血のため、まさに死に瀕していた。なぜなら、その子に対しても、ほんのわずかな手当てさえも施されていなかったから。『つまり、計画的な嬰児殺しですね。』と、医者が言った。今や人々は、もはや疑うことはできなかった。十人も子供のある婦人が、正しい時期に――いな、丸っきり――助産婦を呼びにやらなかったこと自体が、すでに、奇妙以上に思われるのであるから、赤児をかように布団の下に隠していたということは、この憐れな女が、この事件を人知れず、ひそかに闇の中に葬ることができるだろうと信じたことを示す、全く紛れもない証拠であった。『どうか子供たちには、何も言わないで下さい。』 とシュルツ奥さんがささやいた。二三本の強い注射が、生命の最後の残り火を、もう一度燃え立たせた。『恥です……恥です……でも、私はそれ以外に方法がなかったんです……赤児を処分せねばならなかったのです……子供たちは、どう言うでしょうか?』『カトリンさん、あなたは、ただ恥を避けるだけのために、殺人をしようと思ったのです! もしも、もしも、あなたが、このようにして死に、そして赤ちゃんも死んだとしたなら……どういうようにして、あなたは、永遠に天主の御前に立つことになるだろうか、ということを、ただよくよくお考えなさい。』『子供たち……でも私は、赤児を処分せねばなりませんでした。』『しかし、カトリンさん、では、あなたのお子さんたちが、なぜあなたが死んだのか知らないでいると思いますか? それが評判にならないだろうとでも信じていますか? 嬰児殺しで捕えられた人が、毎年二十人も裁判されているじゃありませんか? いいですか、あなたの頭は、もう全く、はっきりしていなかったのです。さもなければ、あなたは、なんじ、殺すなかれ、と自分自身に言いきかせたに違いなかったでしょう! いかなる事情の下でも、殺してはならない、そしてたとえ、恥がさらにもっと大きくても――そして、もしも、なんじの命にかかわるようなときでも……』
主任司祭は、部屋の外で、医者から報告を受けた後、はいって来られた。そこで私は、彼女の憐れな霊魂をして、遅すぎないうちに、己れの不正を悟らせることを、司祭にお任せすることができた。台所で、隣家の奥さんは、風呂水を沸かす手伝いをしてくれた。そして私は、可哀想な女の子を洗って、きちんと整えるために、それを抱いて部屋の外へ出ていった。隣りの奥さんは、できるだけ私を助けて下さった。私たち二人の頬には、涙が止めどもなく流れた。一人の母親が、そのような過ちを犯すことがあり得るということは、私にとっては、実に一つの新しい、理解できぬように思われる経験であった。彼女が堕落したということではない――人間というものは、堕落への機会を避けないなら、いかに弱いものであるかということを、私たち助産婦は実に繰り返し新たに経験する! ――そうではなくて、十人も子供のある彼女が、十一人目の子供を、一旦生きたまま自分の掌中に握りながら、そんな冷酷な考えの下に、その生命を奪おうとしたこと――このことを、私は理解できないのである。医者は、今後の手当てに必要な指図をした。私たちは、村の警察にこの事件を知らせねばならなかった。その母親の二人の姉妹には電報を打った。私はちょうど、ほかに面倒を見ねばならぬ妊婦もいなかったので、その夜はその家に泊ろうと申し出た。当時は、看護婦が妊産婦の世話をすることは、まだ禁ぜられていたし、また私たちとしても、この事件には、看護婦を触れさせたくはなかった。『とても真夜中までは、もたないでしよう。』と医者が言った。『我々は、病人を静かに平和のうちに死なせてやりましょう。どんなことをしても、これを変更することは、もうできないのです。』医者は、大きな紙片に『面会謝絕』と書いて、その居間の戸に貼りつけた。私たちが、可哀想な赤ちゃんのために、小さなベッドを整えてやり、そして十人の子供たちのために、燕麦のお粥を作ってやっている間にも、あの憐れな過ちを犯した霊魂のためにお祈りをした。暫らくして、司祭が私を内に呼び入れた。赤ちゃんを連れて来るようにということであった。私が赤ちゃんを抱いて、ベッドのそばに行くと、シュルツ奧さんの落ちくぼんだ蝋色の頬に涙が流れた。最後の力をふるい起して、彼女は赤ちゃんの額に、ふるえる十字を切った。『洗礼。』と彼女は言った。『マリア――と、名づけて下さい――正しい母を――天上に持たねばなりません――なぜなら、この子は――そんなに――悪い母を――この世で持ったのですから……』『我々は、すべて憐れな罪人です。』と司祭は慰めた。『あなたは自分の過失を悔い改めました。そしてそれによって、あなたは、もう悪い母ではないのです。あなたは、自分で、天上からお子さん方を全部、保護なさるでしょう。』やや長い間、この瀕死の母親は、黙っていた。それから、彼女は私の方に向いた。『リスベートさん。あなたは――もう一度――こんなことで―――私のところへ来ようなんて、よもや考えてはいらっしゃらなかったでしょう。』『あなたは、この道で過(あやま)ったのです――ほかの人たちは、ほかの道で過まるのです。今、あなたは、再び正しい道を見いだしたのです。そのことが一番大事なことなんです。』『リスベートさん、お会いになるすべてのお方に言って下さい。人は独りでいることを、時期おくれにならないうちに学ばねばならないということを……もし、あのことに慣れていると、 生活上、それをやらねばならぬと思うのです……私の主人が災難にあったとき――あなたは御存知でしょう、死んだ主人が家に運びこまれたのを……天主樣、あの人をお憐み下さい……十五年も習慣となっていたのに、急に変化が起ったのです……そこで私は、もう昼も夜も、心の休まることがなく、いつもそのことを考えていました……そのとき、あの職人が家にいて……そして、ある晩、私のところへやって来たのでした――大した口説きは、必要ありませんでした……』
それは、あたかも彼女が最後の力をかき集めようとしているかのようであった。『リスベートさん、どうかこのことを皆さんにおっしゃって下さい……もし皆さんが、私のことを悪く言うなら……皆さんは、間に合うように早く、禁欲生活をなさるべきです……皆さんは、そうできるのです……もし、そうせねばならないのなら……そうすれば、皆さんは、こういうことになることはないでしょう……』『承知しました、カトリンさん、皆さんにそう申しましょう。』力つきて、彼女はがっくり褥に伏した。司祭が臨終の聖体を取りに行った間に、私は時々短い祈りを彼女の前で唱えた。私たちは、もはや何も話さなかった。また、この場合、何を話す必要があろうか? 司祭が、救世主をもたらし、そして臨終の聖体を彼女に授けたとき、その憐れな母親の眼が、もう一度、輝いた。それから、彼女の眼は、永久に閉じられたのであった。年上の子供たちは、ベッドの足もとにひざまずいた。深い悲しみの一瞥(いちべつ)が、彼等の上を走った。『お母さま――天上の――われらを祝福したまえ……』子供たちは、こわばって行く口唇をもつて、次第に声低く祈った。そして、その過った霊魂は、御父のみもとに帰って行ったのであった。