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「助産婦の手記」32章 英雄の追憶を留めておく記念碑が英雄的な母親の名前を告げるために、永遠に書きしるされている

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「助産婦の手記」
32章
それは、運命的な一九一四年七月三十一日のことであった。百姓たちは、大鎌を研いで、仕事の準備をしておいた。畑には収穫物が、太陽の灼熱の中に、成熟して立っていた。もう二三日すれば、取り入れの仕事がはじまる。すでにあちこちで、裸麦の畑が刈り取られて横たわっていたが、それは穀類を束ねるために、藁(わら)が必要だったからである。
そのとき、ひそひそとささやく声が、村を通して行った。それは、嵐のたける音のように、段々大きくなった。村会の小使が、議事堂から大きな鐘を手に携えて出て来て、村を通って右の方へ走って行った。警察官が火災警報でもするように、ラッパを携えて左の方へ走って行った。工場の汽笛が、うなり出した。工場の門は、開け放たれて、職工の群れが、きょうは多分、たっぷり一時間も早く、夏の夕の中へ吐き出された。到るところで、人々は興奮し、せかせかとしていた。すべての車輪は、急に停まった。教会の鐘すら、けたたましく鳴りはじめた……
『何事が起ったのでしょうか。』 と妊婦が尋ねた。私は、そのベッドのそばで、お昼から心配し興奮しながら、出産を待っていたのであった。『大火事ですか?』そこで、私は開け放たれた窓にかけよった。『戦争! 戦争!』と、それは一千人の心臓から出た一つの叫び声のように、下から響いて来た。『ロシアとの戦争! フランスとの戦争! 総動員! あすは、もう男たちは、入隊せねばならない……』『戦争、』と、母になろうとしているその婦人は言った、『そう、戦争……でも、平和というものは、非常に貴い宝です……家庭の平和……心の平和……それとも、大きな地球の上では、一体、事柄が違うものなのでしょうか?……人々は戦争とは何か、ということを知っているのでしょうか……何ヶ月も、存亡のために戦うということは、どういうことかということを……』
ここに、戦いに疲れた一人の女が陣痛のうちに横たわっている。彼女のように、この戦いに勝ったものは稀れである。彼女の傷ついた心は、いかに安静と平和とを熱望したことであろう。しかも外界では、人々は、戦争と叫んでいるのである……
七ヶ月、それは、彼女の結婚生活と同じ長さであるが、それはまた彼女の悩みでもあり、妊娠した子供のための戦いの期間でもあった。しかしその子は今や生れた。彼女は、もともと、ウイレ先生の奧さんの女中としてその家に住んでいた。そういうわけで、彼女は、この村でオットー・ベルトルーという、非常に熱心で功名心に富んだ工場の専門研究者と知り合いになった。彼は、繊維製品用の染料を作る研究に従事していて、より良いものを得んがため、常に秘密に試験と実験とを行っていた。
そして実際、いままでも時々、染料の合成に成功した。そこで彼は、化学実験所の中に、仮りに小さな住み場所を与えられていた。彼は一晩たりとも、そこにいないということは稀れであった。しかし、恋愛の神は、いたずらものである。その神様は、彼のところへも赴いた。衛生部のある山林祭で、彼はエルゼと出会い、そして火が彼に燃えついた。一体、そのことは、彼にとって都合の悪いことではなかった。なぜなら結婚すると多くの利益が得られたから。すなわち、彼は社宅に対する請求権を獲得した。しかも彼はすでに手廻しよく、秘密のうちに、自分のはいる家を探し出していたのである。それは、村はずれの森の傍らに数軒建てられた新しい二軒長屋の一つである。彼はその家のそばに、小さな試験室を建てて、工場とは無関係に、さらに一層勉強しようと思っていた。なぜなら、彼は自分の才能と、来るべき大きな幸福とを、確信していたから。そこで、彼はエルゼを――彼女はすでに、彼の嵐のような願いを容れて、すべてを彼に与えてしまったのであるから――法律上でも正式に妻にしようと決心するのに、長くはかからなかった。彼はまた、彼女と話し合っているうちに、彼女が小金を貯めているのだと想像した。しかし、それは当たっていなかった。彼女は、自分の貯金は、すでに新世帯のために使ってしまったのであった。
それは、彼らが新家庭を持った最初の晩のことであった。『あなた、私たちは、あまり長くたたないうちに、二人きりではなくなると思うんですよ。』と、エルゼは夫に言った。『私は、ここ数週間というものは、とても具合が悪いんです、いつも吐気を催すんですのよ……』『お前は多分、気でも狂ったんだろう!』と、彼は喧嘩腰で食ってかかった。『そんなことは、まだまだあってはならないんだ。ここ十年間は、子供なんかいらないんだ、解ったかね! それが、お前の結婚持参金の全部なら……すると……』『でも、それはあなたの子ですよ! 私のと同様に、あなたの子ですよ。あなたが、あんなに嵐のようにならずに、欲望を我慢して下さったなら――私たちは、もっと結婚式まで待っていられたでしょうに。』『そんな古くさい修身の格言なんか持ち出さないでくれ。男と女というものは、互いに相手のものとなり合い、互いに身を与え、受け合うために、この世に存在しているんだ。それは、情欲が彼らを動かし、駆り立てるままに、きょう――あす――あさって――というように、自然にそうなっているんだ。なぜ、強いて人為的に待っていさせようとするのかね? 人はおのおの自分自身の体の主人公だ。お前にしても、僕にしても。もし子供がいらない場合には、ほかの女たちは何をするか知っているだろうね。』
その母親は、沈黙した。そんな話になると、彼女の心臓は、胸の中で凍結するかのような気がした。さては、彼女が身を捧げたこの男は、そういう人だったのか! 結婚は、そんな風にして始まるのか? 氷のような戦慄が、彼女にしのび寄った。自分の前に横たわる将来に対する恐怖が。熱で震えているように、彼女は起ち上って、ベッドにはいった。もう一語も話すこともなく。
このように、結婚第一日目に、不和の松明(たいまつ)が、新家庭の中に投げ込まれた。翌る朝、彼は挨拶もせずに、勤めに出かけた。彼は昼食に帰宅しなかったが、晚には、したたか飲み過ぎて、妻を官能的濃情をもって、ゆすぶった。そして彼女は、たとえ、前日以来、いや気がさして来ていたのであるが、子供のためにそれを辛抱した。彼は、そういうことを二週間も続けてやった。なぜなら、彼は腹立ちまぎれに工場内の酒保(しゅほ)【売店】で昼飯の予約をしたのであるが、それを解約するには、彼はあまりにも高慢であり、そうかと言って、それを棄権するにはあまりにも吝嗇(りんしょく)だったからである。每朝、不必要に支出した金銭が彼を悲しませた。そしてお昼ごとに、彼は閉口した。――
『さて様子はどうかね? お前は、必要なものを探して見たかね? 僕にお説教をしようなんてことは思いつかないでくれ!』と、彼は二週間後に、ぶつぶつ言った。彼女は、一言もいわずに、一冊の本を彼の鼻先きに突き出した。『生れざるものの権利』と表紙に書いてあった。『呪われた坊主のたわごとだ! あの人たちは、よくおしゃべりするものだ! なんと、彼らは子供を育てるかね?』 彼は、その本を読もうともしないで、片隅に投げやった。『町の専門医のところへ行って来たまえ。そこへは、ほかの女たちも行くんだ。さもなければ、我々は分れるよ!』『いやです。もし私が想像するように、ほんとに妊娠しているのでしたら、その子は生存権を持っており、私はそれを侵害しようとは思いません。』『そんなことを、よくもお前は僕の面前でつべこべ言えたものだね! それでは、お前は僕の言うことをきかないんだね! 誰が、この家の主(あるじ)なんだ、お前か僕か?』彼は怒りのため、我を忘れて彼女の髪をつかんでいた。足で彼女をけった。『お前が何をしなけりゃならないか、見せてやろう……』
彼女が、急に驚いたため、力を失って崩れ落ちたので、彼はやっと正気に返った。しかし、彼は妻を床に倒れたままにして置いて、あたかも何事も起らなかったかのように、出て行った。同じような場面が、二三日ごとに繰り返された。そしてその暴行のあとには、いつも同様に無意識に荒れ狂う官能的行為が行われた。その際、彼は親切らしい口説きをもって、しかもさらに贈物すらをもって、彼女に、言うことを聞かせようと試みた。一週間また一週間と経過した。しかし、その気丈夫な妻の側からしては、子供を処分する何らの方法もとられなかったので、彼はますます残酷に荒っぽくなった。サタンのような残忍性をもつて、彼はその母親を苦しめることを心得ていた。彼は、彼女に、もはや一文の金も渡さず、そして自分で生活物資を最小限度に買って来たので、彼女は生れて来ようとする子供のために必要な準備をすることは全然できなかった。
ある日、その母親は私のところへ来て、その苦しみを私に訴えた。なぜなら彼女は、もはや二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなった。そんな具合にこれ以上生きてゆく勇気は、もはやなくなったからである。『ブルゲルさん、私はもうこれ以上やって行けません。今やっと五ヶ月目なんです。そして、もし主人がきのう言ったように、あの例の男にこの家へ来てもらうことにすると――そうすると、私はもう何もかも成り行きに任せてしまいます……』胸が張り裂けるように、彼女は泣きはじめた。
こうなれば、迅速な処置がぜひ必要であった。私は、ウイレ先生のところへ行った。その同じ晚のうちに、ウイレ先生はベルトルーを訪問し、奥さんを数週間、臨時の手助けのために、自分のところへ、もう一度来させて頂きたいと頼んだ。今までいた乳母が、暇をとろうとしている。その後釜が得られるまで……あなたの奥さんは、私の家の事情をよく御存知です、そして家内が今晚、独りぼっちにならないように、奥さんに直ぐ一緒に来ていただきたい。自分はまた田舎を旅行せねばならない。ベルトルーさんは、私が奥さんをお借りしている間は、昼食を食べにお出で下さって宣しい、と……ベルトルーは、よほどはげしく反対したかった。しかし彼は、良心に疚(やま)しいところがあったので、それをあえてしなかった。もし彼の行状が世間の評判になると、それは面白からぬこととなる恐れがある。そこで彼は、しぶしぶながら、その依賴に応じ、そして親切な夫の役割を演じた。すなわち彼は、自分の妻のために、いくらかの衣類を入れた行李を急いで荷造りして、それを別荘「こうの鳥の巣」へ運んで行ったのであった。
そういうわけで、その憐れな母親は、少なくとも二三週間は、よりよい日を過した。昼食の際、彼女の人前で温雅な夫は、いつも彼女に素早く小言をいおうと試みたが、彼女と二人だけで会うことは、大抵できなかった。 そして、やっと逢うことに成功しても、拒絶された。彼女は、今や再び幾らかの金を手に握った。そして赤ちゃんのために一切のものを整えるため、親切な医者の奥さんと競争して働いたのであった。
数週間後に、ウイン先生は昼食のとき、こうおっしゃった。『ベルトルーさん、お目出とう。私は奥さんが妊娠していらっしゃることを確かめました。そう、大体六ヶ月です。父親になったということを知ることは、いつも本当に喜ばしいことですね。』 そして今度もまた、その夫は、歯ぎしりしながら、怒りを押えつけるよりほか仕方がなかった。彼が、うまく瞞(だま)されていたということは、彼は幸いにも気づかなかった。――
分娩の時の約八週間前に、その母親は自宅へ帰ることにした。夫がそのことを非常に頑張りはじめたからである。彼は、もう今となっては、事実を変更し得ないことを悟ったように思われた。妊娠がとうとう公然と知られ、かつそれがそんなに進んでいっている以上、もはや何事も起るべき筈はなかった。それなのに、私たちすべてのもののお人よしの期待は、裏切られた。なぜなら、今そこで陣痛のうちに横たわっている憐れな母親は、血のにじんだ斑点やみみず腫れやらで一杯だったから。その赤ちゃんは、普通より四週間早く生れる――そして、彼女が何よりも平和を熱望する言葉を語るときに、彼女の頬を流れる涙こそは、その苦悩を声高く、かつ、はっきりと私に物語るのである……そのとき、その夫が駈けこんで来た。『戦争、フランスとの戦争! 僕はフランス人だのに……どうすればいいんだろうか……神様……どうすればいいのですか……帰国するか、射殺されるか? わからない……どこへ行ったらいいのか?』……妻のためには一言も言わない! ただ彼の可愛い「自我」のみが、彼のことを心配するだけである。で、私は我慢ができなかった。『もう暫らく待っていらっしゃい。すると、どうすればいいか、きっと誰かがあなたに言いに来ますよ。だから、今はどうか外に出て行って下さい。私は仕事をしている時には、そんな大騒ぎをする人たちは用がないんです……』そうして、私は彼を押し出した。彼は部屋の外で、行李の荷造りをした――またそれを解いた。街路を走り、そしてまた帰って来た。半狂乱のように、駈けりまわった。このような中に、ペーテルが生れた。その子は、忠実な母親の胸に、よく保護されて抱かれていた。その子のために彼女が、どんな悩みをして来たかは、誰も知らない。それなのに、父親は、子供を見ようとはしない。彼は、憐れな自我をば、目前に迫っている危険から守るために、非常な心配をしているのだ――三日後に、彼が監禁されたことは、仕合わせであった。さもなければ、彼は気が狂ってしまったであろう。
英雄の追憶をしっかり留めておくために、到るところに記念碑が立てられている。英雄的な母親は、あらゆる時代に存在していたし、現在もいる。ところが、記念碑のような死んでいる石が、今日に至るまで、彼女たちの名前を告げるために、特に立てられた例はない。彼女たちは、ただ自分の子供たちの心の中にのみ生きつづける――天主の御心の中に、そして「生命の書物」の中に、永遠に書きしるされているのである。



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