2019年9月12日(主)聖霊降臨後第十二主日の説教
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様
典礼年全体にわたって、福音には兄弟愛に関して述べられている箇所がたくさんありますが、本日の福音は、私たちの主のこの非常に重要な掟を扱うのに良い機会となっています。
この主日の福音は、良きサマリア人という美しいたとえを採り上げ、兄弟愛という聖徳を、キリスト教の独特のしるしとして提示しています。これから、このたとえをその文字どおりの意味で見て、あわれみと愛についての非常に深い教えを学んでいきましょう。良き母としての教会は、その子どもたちに、最も重要であることをいつも思い起こさせます。年間を通じて、兄弟愛は何度も出てきます。ある霊的な書き手によれば、兄弟愛こそが、キリストの愛する弟子である使徒聖ヨハネがその使徒職においていつも信者たちに思い起こさせていたことであった、ということを、教会が常に私たちに思い起こさせているのです。聖伝によれば、聖ヨハネはいつも聴衆に対して「小さな子どもたちよ、互いに愛し合いなさい」と言って、互いに愛し合うように勧めていました。その後、彼は信者たちに対して、「これは主の掟である。これが成就されるならば、それで十分である」ということを思い起こさせていました。教会は年間を通じて同じことを行い、飽くことなく信者に兄弟愛を思い起こさせています。私たちは、これら思い起こさせてくれるものを不必要で、当たり前のことだとは思うことはできません。その反対に、教会が特定の点を強調すればするほど、私たちはそれをもっと重要視しなければならないのです。
私たちの主は、私たちがこの兄弟愛という掟の重大さを理解することができるように、美しく力強い方法で兄弟愛について黙想させてくださいます。第一に、天主の国についての基本的教えを含んでいる山上の垂訓があります。真福八端には、特別に兄弟愛を扱った二つの幸いがあります。それは、「あわれみのある人は幸いである、彼らもあわれみを受けるであろう」(マテオ5章7節)と「平和のために励む人は幸いである、彼らは天主の子らと呼ばれるであろう」(マテオ5章9節)です。私たちの主が天主の律法の成就あるいは完成についてお話しになるときはいつでも、それは兄弟愛、隣人愛に関係しています。聖パウロは、これについて、「愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)と書いています。
山上の垂訓で、私たちの主は、旧約の掟は新約においてさらに完全で、さらに大きな義務となることをお教えになっています。私たちの主は、旧約においては、第五戒が「汝、殺すなかれ」とされているのに対して、新約においては、この掟は「兄弟に怒(いか)る人はみな裁きを受ける」(マテオ5章22節)であることさえ指摘なさいます。この掟は、殺すことについてさえ言及してないばかりか、人は兄弟を憎んだり、軽蔑したり不作法な扱いをすることも許されていないということです。聖ヨハネの書簡には、「兄弟を憎む者は人殺しである」(ヨハネ第一3章15節)と書かれており、人殺しは天国にあずかることはできません。山上の垂訓において、イエズスは次のようにまで言われるのです。「知ってのとおり、『目には目を、歯には歯を』と教えられた。だが私は言う、悪人に逆らってはならぬ。人があなたの右の頬を打てばほかの頬も向けよ」(マテオ5章38-39節)。私たちの主によるこの垂訓は、兄弟愛が私たちの主の教えの中で非常に特別な位置を占めているということを証明しています。
聖ヨハネの福音では、私たちの主は私たちに対して、「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい。あなたたちが互いに愛し合うならば、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるであろう」(ヨハネ13章34-35節)とお教えになっています。ファリザイ人たちは、私たちの主がラザロをよみがえらせられる前に、墓の前でラザロに対して示された愛に注目しました。「本当に、どんなに彼を愛しておられたことだろう」(ヨハネ11章36節)。
私たちの主が、深い印象を私たちの霊魂に与えることを望まれるもう一つのものは最後の審判の場面で、私たちは自分がどのように裁かれることになるかについて教えられます。主は、さまざまな悪徳、うそ、盗み、殺人、姦淫などを挙げることをされず、むしろ人がどれほど兄弟愛を実践するのかを重視されます。主は、私たちが隣人の中にキリストを見ることができたかどうか、私たちがキリストへの愛のゆえに隣人を愛し、隣人に対してあわれみのわざを行うことができたかどうかで、私たちを裁かれるのです。私たちの主は、「あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな者の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)ということを、私たちに思い起こさせてくださいます。
私たちは、主が罪びとたちに、また貧しく苦しんでいる人たちに対してどれほど大きな愛を持っておられたかという、私たちの主の完全な模範を見ます。それは、「私は良い牧者で、私は羊のために自分のいのちを捨てる」(ヨハネ10章11節)とか、「友人のためにいのちを与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)というものです。そのあと、十字架上で私たちの主は、処刑人たちのためにこう祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。自分の処刑の瞬間に、まさにその処刑人たちのために赦しを願うとは、信じられないことです。最後の晩餐において、主は奴隷の仕事をされ、弟子たちの足をお洗いになります。私たちの主が死の前に弟子たちにお与えになる最後の遺言は、「私があなたたちにしたことをあなたたちがするようにと、私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)というものです。兄弟愛に関するこれらの美しい言葉を聞き、そのあと、隣人を自分のように愛せよという天主のこの掟に従うカトリック信者にとってのまことの理想を実際に見ることは、胸を打たれることです。
【英語原文】
12th Pent 2019 Korea Osaka
Fr Peter Fortin, SSPX
There are many mentions throughout the liturgical year concerning fraternal charity, but today’s gospel allows an opportunity to treat of this very important commandment of Our Lord.
This Sunday marks the beautiful parable of the Good Samaritan and presents the virtue of fraternal charity as a distinctive sign of the Christian religion. We will look the parable in its literal meaning and learn from the very deep lesson of mercy and love. The Church as a good mother always reminds her children of those things that are of most importance. During the year, fraternal charity comes up many times. One spiritual writer remarks that the Church is constantly reminding us that fraternal charity is what St. John the Apostle, the beloved disciple of Christ, would always remind during his Apostolate. By tradition, he would always exhort his hearers to love one another by saying often “Little children, love one another”. And then he would remind the faithful that “It is the command of the Lord, if it is fulfilled, it is enough”. The Church does the same throughout the year, never tiring to remind the faithful about fraternal charity. We can not take these reminders for granted thinking that it is not necessary. On the contrary the more that the Church stresses a particular point then the more importance must be given.
Our Lord makes us reflect on fraternal charity in a beautiful and forceful manner so that we can grasp the seriousness of the commandment. First, there is the Sermon on the Mount which contains the basic precepts for the Kingdom of God. In the Eight Beatitudes there are two beatitudes treating specifically of fraternal charity. “Blessed are the merciful for they shall obtain mercy,” and “Blessed are the peacemakers, for they shall be called the children of God.” Whenever Our Lord speaks about the fulfillment or perfection of the God’s law, it is concerned with fraternal charity, love of neighbor. St. Paul writes concerning this: “Love is the fulfillment of the law”.
In the Sermon on the Mount, Our Lord shows that the commandments of the Old Law are more perfect and binding in the New Law. Our Lord even points out that in the Old Covenant, the fifth commandment reads: Thou shalt not kill.” In the new covenant this commandment says; “Whosoever is angry with his brother shall be in danger of the judgement”. It does not even mention killing, one cannot hate his brother, nor despise nor to treat in ill manner. In St. John’s Epistle, is written “Whoever hates his brother is a murderer” and no murderer can have part in Heaven. In the Sermon on the Mount, Jesus goes on to say: “You have heard it said ‘An eye for an eye and a tooth for a tooth.’ But I say to you to resist evil; but if one strike on thy right cheek, turn to him also the other.” This sermon by Our Lord proves that fraternal charity has a very special place in the teachings of Our Lord.
In the Gospel of St. John Our Lord instructs us “A new commandment I give unto you, that you love one another, as I have loved you, that you also love one another. By this shall all men know that you are my disciples, if you have love for another.” (John 13:34) The Pharisees had marked the love that Our Lord had for Lazarus outside the tomb before He raised him “See how He love him.”
Another deep impression that Our Lord wishes to leave on our souls is the scene of the Last Judgement, by being instructed on how we will be judged. He does not enumerate the different vices, lying, theft murder or adultery but on how one practices fraternal charity. He will judge us on whether we were able to see Christ in our neighbor, whether we were able to love our neighbor and to perform acts of mercy for our neighbor but out of love for Christ. Our Lord reminds us “Whatsoever you have done to the least of my brethren, you have done to me.”
We see the perfect example of Our Lord, How He had a great love for sinners for those who are poor and afflicted. “I am the Good Shepherd and I lay my life down for my sheep” and “Greater love than this no man has than to lay down his life for His friends.” Then on the cross, Our Lord prays for executioners: “Father, forgive them for they know not what they do.” Incredible, asking pardon for the very executioners at the moment of execution. At the Last Supper, He performs the work of a slave and washes the feet of the disciples. The last testament that Our Lord gives to His disciples before His death, “I have given an example that you may do what I have done to you.” It is striking to hear these beautiful statements on fraternal charity and then to really see the true ideal of a Catholic to follow this commandment of God to love our neighbor as ourselves.
聖ピオ十世会司祭 ピーター・フォルティン神父様
典礼年全体にわたって、福音には兄弟愛に関して述べられている箇所がたくさんありますが、本日の福音は、私たちの主のこの非常に重要な掟を扱うのに良い機会となっています。
この主日の福音は、良きサマリア人という美しいたとえを採り上げ、兄弟愛という聖徳を、キリスト教の独特のしるしとして提示しています。これから、このたとえをその文字どおりの意味で見て、あわれみと愛についての非常に深い教えを学んでいきましょう。良き母としての教会は、その子どもたちに、最も重要であることをいつも思い起こさせます。年間を通じて、兄弟愛は何度も出てきます。ある霊的な書き手によれば、兄弟愛こそが、キリストの愛する弟子である使徒聖ヨハネがその使徒職においていつも信者たちに思い起こさせていたことであった、ということを、教会が常に私たちに思い起こさせているのです。聖伝によれば、聖ヨハネはいつも聴衆に対して「小さな子どもたちよ、互いに愛し合いなさい」と言って、互いに愛し合うように勧めていました。その後、彼は信者たちに対して、「これは主の掟である。これが成就されるならば、それで十分である」ということを思い起こさせていました。教会は年間を通じて同じことを行い、飽くことなく信者に兄弟愛を思い起こさせています。私たちは、これら思い起こさせてくれるものを不必要で、当たり前のことだとは思うことはできません。その反対に、教会が特定の点を強調すればするほど、私たちはそれをもっと重要視しなければならないのです。
私たちの主は、私たちがこの兄弟愛という掟の重大さを理解することができるように、美しく力強い方法で兄弟愛について黙想させてくださいます。第一に、天主の国についての基本的教えを含んでいる山上の垂訓があります。真福八端には、特別に兄弟愛を扱った二つの幸いがあります。それは、「あわれみのある人は幸いである、彼らもあわれみを受けるであろう」(マテオ5章7節)と「平和のために励む人は幸いである、彼らは天主の子らと呼ばれるであろう」(マテオ5章9節)です。私たちの主が天主の律法の成就あるいは完成についてお話しになるときはいつでも、それは兄弟愛、隣人愛に関係しています。聖パウロは、これについて、「愛は律法の完成である」(ローマ13章10節)と書いています。
山上の垂訓で、私たちの主は、旧約の掟は新約においてさらに完全で、さらに大きな義務となることをお教えになっています。私たちの主は、旧約においては、第五戒が「汝、殺すなかれ」とされているのに対して、新約においては、この掟は「兄弟に怒(いか)る人はみな裁きを受ける」(マテオ5章22節)であることさえ指摘なさいます。この掟は、殺すことについてさえ言及してないばかりか、人は兄弟を憎んだり、軽蔑したり不作法な扱いをすることも許されていないということです。聖ヨハネの書簡には、「兄弟を憎む者は人殺しである」(ヨハネ第一3章15節)と書かれており、人殺しは天国にあずかることはできません。山上の垂訓において、イエズスは次のようにまで言われるのです。「知ってのとおり、『目には目を、歯には歯を』と教えられた。だが私は言う、悪人に逆らってはならぬ。人があなたの右の頬を打てばほかの頬も向けよ」(マテオ5章38-39節)。私たちの主によるこの垂訓は、兄弟愛が私たちの主の教えの中で非常に特別な位置を占めているということを証明しています。
聖ヨハネの福音では、私たちの主は私たちに対して、「私はあなたたちに新しい掟を与える。あなたたちは互いに愛し合いなさい。私があなたたちを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい。あなたたちが互いに愛し合うならば、それによって人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるであろう」(ヨハネ13章34-35節)とお教えになっています。ファリザイ人たちは、私たちの主がラザロをよみがえらせられる前に、墓の前でラザロに対して示された愛に注目しました。「本当に、どんなに彼を愛しておられたことだろう」(ヨハネ11章36節)。
私たちの主が、深い印象を私たちの霊魂に与えることを望まれるもう一つのものは最後の審判の場面で、私たちは自分がどのように裁かれることになるかについて教えられます。主は、さまざまな悪徳、うそ、盗み、殺人、姦淫などを挙げることをされず、むしろ人がどれほど兄弟愛を実践するのかを重視されます。主は、私たちが隣人の中にキリストを見ることができたかどうか、私たちがキリストへの愛のゆえに隣人を愛し、隣人に対してあわれみのわざを行うことができたかどうかで、私たちを裁かれるのです。私たちの主は、「あなたたちが私の兄弟であるこれらのもっとも小さな者の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)ということを、私たちに思い起こさせてくださいます。
私たちは、主が罪びとたちに、また貧しく苦しんでいる人たちに対してどれほど大きな愛を持っておられたかという、私たちの主の完全な模範を見ます。それは、「私は良い牧者で、私は羊のために自分のいのちを捨てる」(ヨハネ10章11節)とか、「友人のためにいのちを与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15章13節)というものです。そのあと、十字架上で私たちの主は、処刑人たちのためにこう祈られます。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか知らないからです」(ルカ23章34節)。自分の処刑の瞬間に、まさにその処刑人たちのために赦しを願うとは、信じられないことです。最後の晩餐において、主は奴隷の仕事をされ、弟子たちの足をお洗いになります。私たちの主が死の前に弟子たちにお与えになる最後の遺言は、「私があなたたちにしたことをあなたたちがするようにと、私は模範を示した」(ヨハネ13章15節)というものです。兄弟愛に関するこれらの美しい言葉を聞き、そのあと、隣人を自分のように愛せよという天主のこの掟に従うカトリック信者にとってのまことの理想を実際に見ることは、胸を打たれることです。
【英語原文】
12th Pent 2019 Korea Osaka
Fr Peter Fortin, SSPX
There are many mentions throughout the liturgical year concerning fraternal charity, but today’s gospel allows an opportunity to treat of this very important commandment of Our Lord.
This Sunday marks the beautiful parable of the Good Samaritan and presents the virtue of fraternal charity as a distinctive sign of the Christian religion. We will look the parable in its literal meaning and learn from the very deep lesson of mercy and love. The Church as a good mother always reminds her children of those things that are of most importance. During the year, fraternal charity comes up many times. One spiritual writer remarks that the Church is constantly reminding us that fraternal charity is what St. John the Apostle, the beloved disciple of Christ, would always remind during his Apostolate. By tradition, he would always exhort his hearers to love one another by saying often “Little children, love one another”. And then he would remind the faithful that “It is the command of the Lord, if it is fulfilled, it is enough”. The Church does the same throughout the year, never tiring to remind the faithful about fraternal charity. We can not take these reminders for granted thinking that it is not necessary. On the contrary the more that the Church stresses a particular point then the more importance must be given.
Our Lord makes us reflect on fraternal charity in a beautiful and forceful manner so that we can grasp the seriousness of the commandment. First, there is the Sermon on the Mount which contains the basic precepts for the Kingdom of God. In the Eight Beatitudes there are two beatitudes treating specifically of fraternal charity. “Blessed are the merciful for they shall obtain mercy,” and “Blessed are the peacemakers, for they shall be called the children of God.” Whenever Our Lord speaks about the fulfillment or perfection of the God’s law, it is concerned with fraternal charity, love of neighbor. St. Paul writes concerning this: “Love is the fulfillment of the law”.
In the Sermon on the Mount, Our Lord shows that the commandments of the Old Law are more perfect and binding in the New Law. Our Lord even points out that in the Old Covenant, the fifth commandment reads: Thou shalt not kill.” In the new covenant this commandment says; “Whosoever is angry with his brother shall be in danger of the judgement”. It does not even mention killing, one cannot hate his brother, nor despise nor to treat in ill manner. In St. John’s Epistle, is written “Whoever hates his brother is a murderer” and no murderer can have part in Heaven. In the Sermon on the Mount, Jesus goes on to say: “You have heard it said ‘An eye for an eye and a tooth for a tooth.’ But I say to you to resist evil; but if one strike on thy right cheek, turn to him also the other.” This sermon by Our Lord proves that fraternal charity has a very special place in the teachings of Our Lord.
In the Gospel of St. John Our Lord instructs us “A new commandment I give unto you, that you love one another, as I have loved you, that you also love one another. By this shall all men know that you are my disciples, if you have love for another.” (John 13:34) The Pharisees had marked the love that Our Lord had for Lazarus outside the tomb before He raised him “See how He love him.”
Another deep impression that Our Lord wishes to leave on our souls is the scene of the Last Judgement, by being instructed on how we will be judged. He does not enumerate the different vices, lying, theft murder or adultery but on how one practices fraternal charity. He will judge us on whether we were able to see Christ in our neighbor, whether we were able to love our neighbor and to perform acts of mercy for our neighbor but out of love for Christ. Our Lord reminds us “Whatsoever you have done to the least of my brethren, you have done to me.”
We see the perfect example of Our Lord, How He had a great love for sinners for those who are poor and afflicted. “I am the Good Shepherd and I lay my life down for my sheep” and “Greater love than this no man has than to lay down his life for His friends.” Then on the cross, Our Lord prays for executioners: “Father, forgive them for they know not what they do.” Incredible, asking pardon for the very executioners at the moment of execution. At the Last Supper, He performs the work of a slave and washes the feet of the disciples. The last testament that Our Lord gives to His disciples before His death, “I have given an example that you may do what I have done to you.” It is striking to hear these beautiful statements on fraternal charity and then to really see the true ideal of a Catholic to follow this commandment of God to love our neighbor as ourselves.