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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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トリエント公会議の公教要理 主祷文 「願わくは御名の尊まれんことを」の意味

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 3月19日の聖ヨゼフの大祝日、そして3月25日の聖母マリアのお告げの祝日、いかがお過ごしでしょうか?

 大阪では、明日の午後5時半からミサがあります。明後日は、午前11時です。

 聖週間に向かう聖なる時期をよく過ごすことが出来るように聖母の汚れなき御心に取り次ぎを願います。

 今回は、天にましますの祈りの第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」についてトリエント公会議の公教要理からご紹介いたします。天主様の御名が、天において受ける賛美と誉れ、栄光にならって、賛美と誉れ、栄光をこの地上で受けますように! 全ての人々が天主を知り、崇め、かつ天主に仕えることを理解しますように! 一人残らずキリスト教を奉じ、皆が己が身をことごとく天主に捧げ、天主こそが一切の聖性の源であり、その御名の聖性によらずには、何一つ清く聖なるものたり得ないことを了解しますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第1の願い「願わくは御名の尊まれんことを」

§1 この願いが第1の願いである理由
38.天主に何を、またどのような順序で願うべきかを、万人の師かつ主であるキリストご自身がお教えかつお定めになりました。何となれば、祈りは私たちの欲求と願望とを反映かつ代弁するものであるため、理に適ったふさわしい仕方で祈るためには、私たちの祈求、すなわち私たちの願いと望みとを、祈りの対象となる諸々の事物が望ましいものである程度の順序に従って言い表すことが必要となります。

39.しかるに、真の愛徳は、自らの心と愛情とをあますところなく主に向けるべきであることを、私たちの精神に悟らせます。実に天主は、ご自身の本性上、唯一・至高の善です。それゆえ、天主を何にもました特別な愛でお愛しすることが適当ではないでしょうか。

40.他方、もし私たちがその誉れと御栄えとを一切のものに優先しない限り、天主を心を尽くし、何ものにもまして愛することは不可能です。なぜなら、すべての善きものは、たとえそれが何であれ、それが私たち自身に属するのであれ、あるいは隣人に属するものであれ、ことごとく天主に由来するのであり、同時に、至高の善である天主に無限に劣るからです。

41.したがって、私たちが秩序立った仕方で祈りを為すために、救い主は、至高の善を求める当の祈願を、他の祈願に先んじて、第一に願うべきものとしてお定めになりました。主は私たちに必要なもの―すなわち私たち自身、あるいは私たちの隣人に必要なもの―を願い求める前に、まず天主の御栄えにつながることを願い、かつ天主に、御栄えを熱く望む私たちの心情をお示しするべきことを、私たちにお教えになりました。このようにして私たちは、天主を私たち自身よりもお愛し、また天主のためにお望み申し上げることを、自らのために願うことに先立って求めることを命じる愛徳の則のりにしたがうこととなります。

§ II. 天主の御栄えという言葉が意味するもの
42.人が望み、あるいは求めるのは、自分が持っていないものに他なりません。しかるに、天主には何も欠けるものがありません。天主は無限、かつ全てにおいて完全であるため、成長することも増大することもあり得ません。

 したがって、私たちが天主ご自身のためにお願い申し上げることは、天主の諸々の完全性ないしはそのご本性に関してではなく、あくまでもその外的な御栄えだけに限られます。すなわち、私たちは天主の御名が世においてよりよく知られ、その御国が広がり、日々新たな僕がその聖き御旨に従うことを望み、願うのです。

 さて、御名、御国、従属というこの3つのことは、天主に内在する内的な善の中に数えられるものではなく、天主にとって全く外的な事柄です。しかるに、この願いの力と価値とをよりよく了解させるために、司牧者は信徒に、「天における如く、地に(おいて)も」という言葉は、主祷文の第1部における3つの願いすべてに適用かつ当てはめることができ、したがって、「御名の天における如く地にも尊まれんことを」、「御国の天における如く地にも来たらんことを」、「御旨の天における如く地にも行われんことを」ということを意味し得るものである旨、示すべきです。

43.したがって、私たちが「御名の尊まれんことを」と祈るとき、私たちは天主の御名の聖性と栄光とが、いや増すのを願うわけです。ここで司牧者は、敬虔な聴衆に、私たちの主イエズス・キリストは、当の表現を用いられた際、この御名が地上において、天におけるのと等しく聖とされることを意味されたのではない旨、すなわち地上での聖化が天上での聖化と同じ程度で成されることを意味されたのではなく、ただ地上での御名の聖化が、愛徳および心からの心情にその源を発するべきものであることを意味されたに過ぎない旨、諭さねばなりません。

44.無論、天主の御名は、この上なく聖きよく畏るべきものであり、それ自体において聖化される必要がないということは全く真実で、事実に基づいたことですが、―なぜなら、天主ご自身は,その本性によって聖であり、永劫から帯びておられる聖性以外に、いかなる他の聖性も付け足し得ないことは明らかですから― しかるに、地上においてこの御名は、ふさわしく崇敬されるどころか、往々にして侮辱、冒瀆の言葉でいわば汚されるものなので、そのため、私たちは当の御名が、天において受ける賛美と誉れ、栄光にならって賛美と誉れ、栄光をこの地上で受けることを望み、かつ求めるのです。すなわち、私たちが天主を口、精神、心をもって内的および外的に讃え尊び、天の住人の為す如く、天主の御名の偉大さ、聖性、ならびに栄光を能う限り称揚する恵みを願うのです。

§ III. ― 第一の願いの対象

したがって私たちは、天の諸天使、諸聖人がこぞって天主の御栄えを讃えて歌う如く、地上でもこれと同様であるよう祈ります。

すなわち、全ての民が天主を知り、崇め、かつこれに仕えること、一人残らずキリスト教を奉じ、皆が己が身をことごとく天主に捧げ、天主こそが一切の聖性の源であり、その御名の聖性によらずには、何一つ清く聖なるものたり得ないことを了解するよう祈らねばなりません。

使徒パウロは、「教会が水の洗礼において、命の言葉によって清められた39」ことを著していますが、ここで言う「命の言葉」は、聖父と聖子と聖霊の御名を指すものであり、この御名において私たちは洗礼を受け、聖なる者とされるのです。

45.したがって、天主の御名がそのために呼び求められないものにおいては、いかなる(罪の)償い、(霊魂の)清さ、聖性もあり得ないため、人類全体が不信仰の汚れた暗冥を打ち捨て、天主の光の光明に照らされてこの御名の力を認め、当の御名の中に真の聖性を探し求めること、又、聖にして分かちがたい三位一体の御名において洗礼を受けた後、他ならぬ天主の御手から、聖性の充満を授かるよう望み、かつ天主に祈り求めねばなりません。

46.しかるに私たちの願望および祈願は、罪の汚れに染まって、洗礼のもたらした清さと徳性、ならびに潔白の衣とを失い、不浄な霊が再びその霊魂の中に住まいを設けるにいたった者たちにも及びます。私たちは、彼らの中においても天主の御名が聖とされ、また彼らが我に返って健全な精神を取り戻し、痛悔の秘蹟によって初めの聖性へと立ち帰り、己が身を清く、聖なる神殿ないしは住居として天主に捧げるよう望み、祈るのです。

47.さらに私たちは、天主が全ての者の心に御光を照らして、あらゆる善き恵みと全ての完全な賜とは光の父から降り40、天主の仁慈によって与えられるものであることを悟るよう、また、節制、正義、生命、健康41ならびに身体の生命を支える外的善、ならびに霊魂の救いに関する諸々の善を教会が教えるように一切の善がそこから生じ出るところの天主から受けたものとして、これに帰するよう祈ります。事実、太陽の光およびその他の星々の運動と回転とが人類に益し、また私たちを取りかこむ空気が私たちの生存の基盤となり、地が種々の穀物と果実の豊かな実りによって御名の生命を支え、さらには行政に携わる者のはたらきによって平和で安寧な生活を送ることができるならば、これら全ての善およびこれに類した一切の利善は天主のはかり知れぬ仁慈によるものに他なりません。さらには、哲学者が2次的原因と呼ぶところの諸々の事象42は、驚嘆すべき仕方で配置され、かつ私たちの益となるよう整えられた、天主の御手、と見なさねばなりません。これらをとおして天主は、数多の利善を配分し、いたる所にお注ぎになるからです。

48.しかるにこの祈願をとおして殊更願うのは、主イエズス・キリストの浄配かつ私たちの母である教会を皆が認め、敬うことです。ただ教会のみが全ての罪の汚れを洗い清め、償うことのできるこの上なく豊かな、尽きることのない泉を有しているからです。実に聖化と救いをもたらす秘蹟の一切は、この泉に源を発し、あたかも聖なる運河のごとく天から聖性の雨露を私たちの上に注ぎます。実際ただ教会のみが、その懐ないしは腕に抱かれた者たちと共に、天主の御名、この他に、それによって私たちが救われることのできる名は、世に与えられなかったこの御名43を呼び求める権利を有するのです。

§ IV. ― 真のキリスト者は自分の行動によってこの聖名を尊敬しなければならないこと

しかるに司牧者は、善き子らは、父なる天主に口で祈るだけでなく、行いと生きざまををとおして、天主の御名が自らの中に聖とされ、輝き出るよう務めるべきである旨、ことさら強調して教え諭さねばなりません。

49.願わくは天主の御名が聖とされることをたゆまず祈り求めながら、行いによって自らの中にこれを卑しめかつ汚し、挙げ句の果ては天主ご自身が冒瀆を浴びる原因となるようなものが一人としていないように。このような者について使徒パウロは「あなたたちのために天主の御名が諸国の民の間で冒瀆されている44」と述べ、また預言者エゼキエルも「あなたたちは行った国々で、人々に『これは主の民だ。[悪い行いのために]自分の国を出なければならなくなった者たちだ。』と言わせて、私の聖なる名を汚した。45」と著しています。事実、細緻な分別に欠く大衆は、特定の宗教を奉じる者の生きざまと所業とを見て、当の宗教とその創始者とについて判断することが世のならいです。

42 各被造物は、その諸々のはたらきによって他の被造物の生成ならびに変化の原因たり得るが、これはあくまで万象の存在および活動の究極かつ第一の原因および可能根拠たる天主に依存してのことであり、その意味で「第2次的原因」と呼ばれる。すなわち、天主はおん自ら直接被造物に働きかけることがおできになるとはいえ、(例えば各人の霊魂の創造において)ふつう被造物のはたらき(たとえば両親による子供の出生ならびに養育)をとおして万象を律されるのが常である。

50.それゆえ、自らのものとして受け入れたキリスト教にしたがって生き、かつ自らの祈りと行いとを当の教えに合わせる善き信徒は、他の人々に天の父の御名を敬い、誉め讃えるよう強く促すこととなります。主ご自身、これを義務として私たちに課されたのであり、したがって、私たちは善徳の目ざましい行いによって、人々が天主の御名を讃え、これに誉れを帰するよう務めねばなりません。このためにこそ、主は福音書において、「あなたたちは人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちの善い行いを見て、天においでになる御父を崇めるであろう46」と仰せられたのです。同様に使徒ペトロも、「異邦人の中にあって、優れた行いをせよ。それは、人々があなたたちの為す善業に即してあなたたちを評価し、またこれがために天主に誉れを帰するためである47」と述べています。

39 エフェゾ 5章26節
40 ヤコボ 1章17節
41 ラテン語原文で用いられている言葉<Salus>は、健康のみならず救いないしは救霊をも意味する語である。
43 使徒行録 4章12節
44 ローマ2章24節
45 エゼキエル36章20節
46 マタイ 5章16節
47 ペトロ前 2章12節

「わが天主よ、私は御身を信じ、礼拝し、御身に希望し、御身を愛します!御身を信じない人々、礼拝しない人々、御身に希望しない人々、御身を愛さない人々全てのために、赦しを乞い求めます。」

「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、私は御身を深く礼拝いたします。私は、世界中のすべての御聖櫃の中にましまし給うイエズス・キリストのいとも尊き御体、御血、御霊魂、神性を、天主御自身が犯されている侮辱、冒涜、無関心を償うために、御身にお捧げいたします。イエズスの至聖なる聖心とマリアの汚れなき御心の無限の功徳により、私はあわれな罪人の回心を御身に願います。」

ああ、イエズスよ、われらの罪を赦し給え。われらを地獄の火より守り給え。また、すべての霊魂、殊に最も必要としている霊魂を、天国に導き給え。

「聖マリアの甘美なる御心よ、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の救いとなり給え。」

「ああ聖マリアよ、御身の清き汚れなき御宿りによりて、ロシア、ヨーロッパ、中国、韓国、日本、そして全世界の回心を得させ給え。」


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