「助産婦の手記」
52章
あすは、待降節の最初の日曜日である。待降節。黙想と反省の時期、痛悔と生活の更新の時期。もしヨハネが今日、再びやって来て、彼の『悔い改めよ。』という言葉を、人々の心に呼びかけるならば! 一つの新しい精神が、はいりこむであろうか? 一つの新しい星が、救世主の秣槽(まぐさおけ)の方へ、ベトレヘムへの道をさし示すであろう。
待降節。新しい時代が、わが国民のために来るであろうか、黙想と反省の時期が? 人々は、自然法に関する忠実さ、子供に対する忠実さ、純潔の忠実さを再び信奉するであろうか? そうなるならば、外面的な生活改善という話においてもまた、待降節となるであろう。
あす、私たちは、待降節を私たちの新しい借家人のところで、一緒に祝うことになっている。それは、よい人たちである、ラウエルさん一家。父親は、職工長だ。母親は、裁縫婦として少し働いている。しかし裁縫をする時間は、あまりなかった。彼女は、いま四番目の子供を宿している。一番上の子は七つ、二番目のは五つ、三番目のは三つだ。その全家族のために洗濯し、繕(つくろ)いものをし、アイロンをかけ、縫物をして、万事がととのえられるまでには、一日が殆んど一ぱいになる。そして子供たちも、少しは母親に相手をしてもらいたがる。晴れた日には、彼女は大抵、一時間ほど子供たちと一緒に野や森を散歩し、自然の素晴らしい事物に注意し、そしてそれを楽しむように彼らを指導する。それから、野外にまだ何か花が見いだされる限りは、彼らは、私への土産に、花束をもって帰って来る。そしてそのお礼に、彼らは、私が林檎を樹から採ってやるのを手伝うことができるのである。
私たちは、互いに仲がよかった。ちょうど私たちは、美しい大きな待降節の花輪(アドベントリース)を一つ束ねようとしていた。このことは、ラウエルさんのところでは、新しいことであった。両親が悦ばしくも、この考えに思いついたのであった。この花輪は、来たるべきクリスマスの前夜の象徴として、待降節中の時日を特別に聖なるものとするであろう。それは、声高らかに叫ばれた「主の道を備えよ!」という言葉を表わすであろう。まだ本を読むことのできぬ子供たちのためにも。
間もなく、その花輪は、居間の天井にかけられた。紫のリボンで荘厳に吊るされ、かつ巻きつけられて。そして大きな黄色な蝋燭が、その上に立っている。四本だが、それは待降節中にある四回の日曜日に想応するものである。一個の空(から)の秣槽が、箪笥の上に置いてある。それは、幼いキリストのために中味を整えられねばならぬものである。
『お母さん、あれ何とキレイなんでしょう! なぜあの花輪は、きょう、あすこにかかっているの?』『それは、最初の待降節だから。みんな今、幼いキリスト様をお迎えする準備をせねばなりません。晩に私たちは、一番目の蝋燭に火をつけ、そして待降節の歌をうたうのです。そして幼いキリスト様に、何を私たちはすることができるか、みんなで相談しましょう……』『今晚、お母さん?』『そう、今晚―――暗くなってから……』子供たちは、それが殆んど待ちきれなかった。『お母さん、まだなかなか暗くならないの?』と、小さい娘のロッテが、もう昼飯のときに尋ねた。とうとうその時が来た。私たちは、みんなその部屋に集まっていた。そこで父親が最初の蝋燭に火をともした。そして私たちは、あの好きな古い歌をうたう、天よ、義(ただ)しき人に露をしたたらせよ……子供たちは、とても、お祭のような気分になった。
『きょうは、私たちは、ただ一つ燈火をつけるだけです。なぜなら、まだやっと待降節中の最初の日曜日だから。日曜ごとに、もう一つずつ蝋燭がともされるでしょう。そこで、あんたたちは、みんなクリスマス前夜祭が、だんだん近づいて来るのがわかるんです。私たちが、ますます急いで秣槽を作り上げねばならないことが。
あすこに、秣槽は、もう置いてある。でも、まだ全く堅くて空(から)です。そこで、あんたたちは、藁(わら)の茎だの、羽根だのを集めて来なければなりません。いま幼いキリスト様のために、小さな犠牲を一つ捧げる人は、藁の茎を一本取って来ることになるんです。それを、あんたたちは秣槽の中に入れるんですよ……』『お母さん、もしお母さんが燕麦の餅をつくり、そして僕がそれを食べ、そしてちっとも泣かなければ……それは二本の藁の茎だ、そうでしょう?』と、五つのフランツが、その間に叫んだ。『そして、もし私がコーヒーに砂糖を入れなければ、その砂糖を、クリスマスに貧民院のカトリンお婆さんのところへまた持って行っていいの?』と、七つのマリアが尋ねた。この娘は、四旬節中に、そうすることが出来たのであつた。『そうですとも、そうしていいわ。そしてロッテは、もうきかん坊であってはいけませんよ。そして、そのことを待降節の天使たちが見ると、とても悲しまねばならないのです。だからロッテちゃんは、すぐこう言うでしょう、幼いキリスト様のために、わたしは、おとなしくするって。そうすると、ロッテちゃんも、藁の茎を一本、もらえるんですよ。』『お父さん、なぜ蝋燭は、ちょうど四本あるの?』『なぜなら、嬉しいクリスマスの日まで、日曜日が四つあるから。』そこで、一番小さい子でも、その日がだんだん近づくのを知るのである。『そして、もし四本の蝋燭がみな燃えてしまうと、すぐクリスマスの樅の木が来るの? そして……そして……お母ちゃん、話してちょうだい、それからどうなるの?』『それは、お母さんには判りませんよ。それもやはり、待降節の天使たちが飛んで行くとき、日曜ごとに、あんたたちのことを幼いキリスト様にお知らせすることに全くよるのです……』『天使たちも、秣槽の中に沢山藁の茎があるかどうか、のぞき込むの?』『確かに天使たちも見ますよ。でも何よりもまず、天使たちは、人間の心のうちを見ます。愛と親切心が、その中に沢山はいっているかどうかを……しかし、お母さんは、幼いキリスト様が、ことし、持って来て下さる或るものを知っているんです。』『お母さん……何?……何?……教えてちょうだい……どうぞ、どうぞ!』『全く可愛らしい或るもの、小っちゃいきょうだい……』『あっ、小っちゃい弟?……そうでしょう、小っちゃい弟……』 フランツは全く嵐のように熱望した。『女の子は、もう二人いるのに、僕はいつまでも、ひとりぼっちなんだもの……』『それは、弟になるか妹になるか、幼いキリスト様は、まだ打ち明けて下さいません。そこで私たちは、それが生れてくるまで、待たねばなりません。』『お母さん、どうしてお母さんは、そのことを知ったの。』と七つのマリアが考え深そうに尋ねた。その間に、小さいロッテは、待降節の花輪の燈火を吹き消そうとして興(きょう)がって【おもしろがって】いた。『なぜなら、一人の天使が、その小さな霊魂を持って私のところへ来たからです。この霊魂は、天主様が私に贈って下さったのです。天主様は、それを搖籃(ゆりかご)の小さなベッドの中に置かせなさったのですが、そのベッドは、天主様が御自身で、一人々々のお母さんの心臓の下に、赤ちゃんのために支度をなさったのです。そのベッドの中に、赤ちゃんが、いま眠っていて、そして幼いキリスト様とその聖天使たちの夢を見るのです。それから赤ちゃんが十分に大きくなると、私たちは、それを普通の小さなベッドの中に置くことができるのです。』『では、私たちの赤ちゃんは、もうお母さんのところにいるのね。』とマリアが言った。そしてこの愛らしい秘密について、何ものかをうかがい知ることができるかのように、母親に非常にぴったりと寄りそうた。『そうです。赤ちゃんは、もうここにいますよ。そして私たちは、赤ちゃんがいい子で、正直で、そして丈夫でいるように、これから毎日赤ちゃんのためにお祈りしましょう……』『お母さん、なぜ天主様は、赤ちゃんを直ぐに贈って下さらないの? 天使は、赤ちゃんを直ぐお母さんのベッドか、お父さんのベッドかへ置くことができるんでしょうに……』『あんたは、もう覚えていないの、美しい花が庭で咲いて出るが、その元の種子は、どんなに小さいものだったかということを? 赤ちゃんも、そんなに小さいんです。そして、そのお母さんは、天主様がその種子を植えつけなさる土地なのです…』『私も、いつか、そのようにお母さんのところにいたの?』『そうですよ。この子供たちは、みんな、一度は自分のお母さんのとこにいたものです。だから母と子たちは、またそんなに親密なのです。』『そしてお父さんもね…』とその娘の子は言って、そして腕を両親に捲(ま)きつけた……
待降節。蝋燭は、つぎつぎと燃えて行った。どの土曜日の晚にも、その家族は、ほんとに嬉しい思いをいだいて、暫らくの間、一緒に坐っていたし、そしてどの日曜日にも、自己教育と自制への熱意が新たに燃え立たされた。子供たちは、クリスマスの日がますます近づいて来るのを知った。そしていつでも実際的な性質のフランツは、もっと多くの藁の茎を秣槽の中に入れるために、父親から数本のシガレットを、うまくだまして取り上げたのである。
『お父さん、もしあんたが、いまシガレットを吸わなければ、藁の茎を一本お供えすることになるのでしょう……そして僕は、それをクリスマスに貧民院のミヘル爺さんのところへ持って行ってやるんです。』『子供たちが、我々を教育しはじめましたよ。』と父親が私に言った。そして息子の気に入るようにしてやった。
最後の待降節の日曜日の翌日の夜、男の子が生れた。それは、どんな喜びであったことか! 実に黄金色をした元気な子供! そのため、玩具のことなんか、すべて忘れられていた。私たちは、この小さな地上の市民を、お祭りのように迎えるために、四本の待降節の蝋燭をともして置いた。そしてその大きな赤い蝋燭の間に、小さな白い蝋燭を立て、そして銀色の小さな鈴を幾つか花輪にかけておいた。それが鳴って、クリスマスの祭日の開始を告げるのである。今夜、幼いキリスト様がお出でになる……!『小っちゃい弟がもうここにいる。そして幼いキリスト様がお出でになる!』と子供たちは競って歓呼した。夕方、私たちは、クリスマス・ツリーをお母さんの部屋に置いた。小さな秣槽をその下に。絵本を一冊、玩具箱を一つ、人形を一つ、それから饅頭と林檎と胡桃を盛った皿、それになお、冬季用の暖かい小さなジャケツと、色とりどりの毛糸で刺繍した子供帽。それらは、今日の観念からすれば、わずかなものだった。しかし、正しく教育された子供たちにあっては、それは、大きな喜びを与えるにあまりあるほどであった。全く非常に多くの品物をもって、子供に不必要な願望と熱望とを目覚ますこと、および生活への要求を不適当な方面に導くことは、意味がない。心からの愛をもって与えられたわずかなものが、その目的を達するのである。
しかし、最も美しいキリスト様の贈物は、小っちゃい弟であった。それは興味の中心だった。『いつ、それはスープを作ってもらうの?』とマリアが尋ねたが、この娘は、すでに小さな主婦であった。『それは、まだスープは飲みませんよ。お母さんのお乳をのむんです。まあ御覧なさい。何という可愛らしいんでしょう……』と、私は赤ちゃんを寝かせながら、それに答えて言った。『お母さん、私もそうしたの……?』そして母親にぴったり寄りそった。『赤ちゃんは、みんなそうするんですよ。』もちろん子供たちは、何事でも、なされ且つ言われたそのままに受け入れた。子供たちは、真に無邪気な心で、そのような事物に出くわすならば、決してそれにつまずくことはない。
私がその翌日、赤ちゃんにお湯を使わせたとき、家族のものはみんな、風呂桶のまわりに集まった。そんな小っちゃいのが、水をパチャパチャするのを見るのは、とても面白いものだ。マリアは突然質問した。『おばさん、それじゃ、なぜ男の赤ちゃんは、そのように少しちがうの?…』『赤ちゃんが生れて来ると、お母さんは、それが男の子か女の子かを見なければなりません。 だから、それは少し、ちがわねばならないのです。もし、そうでなければ、私たちは、女の子にハンス名づけたり、男の子にグレートヘンと名づけたりするようなことになるでしょう……』二三人の兄弟姉妹が育ってゆくところでは、もし真実の親の愛が、小さな巣を支度し、そして、それを保ちつづけて行くなら、その家庭は遙かに温かい。そこでは、すべての祝日は、全く独特な光輝をもつのである。
待降節……全くひそやかに、たとえば初めての春の予感のように、新しい理解が世界を貫いてゆく。世間には、今日まだ美しい真の夫婦がある。その数は少ない。しかし実際に存在する。そしてそれは、酵母のような作用をするであろう。もしそれが純粋に、かつ忠実に保存されるなら。そうすると、そのような夫婦生活からして、より高い価値に対する理解と、新しい理想への努力が、再び国民大衆の中に、しみとおるであろう。そのような夫婦の数は、増して行くであろう、もしそれが持ち続けられるなら。その人たちの上に、その少数の忠実な人々の上に、わが国民の将来と運命とが、かかっている。――それゆえ、それらの夫婦たちは、その生命力が窒息しないうちに、何よりもまず支持し保護されねばならない。そのような家庭で育った子供たちは、愛の真の精神をつかみ、そしてそれを次代へ伝えるであろう。かようにして彼らは、わが国民の大きな待降節を招き寄せることであろう。
52章
あすは、待降節の最初の日曜日である。待降節。黙想と反省の時期、痛悔と生活の更新の時期。もしヨハネが今日、再びやって来て、彼の『悔い改めよ。』という言葉を、人々の心に呼びかけるならば! 一つの新しい精神が、はいりこむであろうか? 一つの新しい星が、救世主の秣槽(まぐさおけ)の方へ、ベトレヘムへの道をさし示すであろう。
待降節。新しい時代が、わが国民のために来るであろうか、黙想と反省の時期が? 人々は、自然法に関する忠実さ、子供に対する忠実さ、純潔の忠実さを再び信奉するであろうか? そうなるならば、外面的な生活改善という話においてもまた、待降節となるであろう。
あす、私たちは、待降節を私たちの新しい借家人のところで、一緒に祝うことになっている。それは、よい人たちである、ラウエルさん一家。父親は、職工長だ。母親は、裁縫婦として少し働いている。しかし裁縫をする時間は、あまりなかった。彼女は、いま四番目の子供を宿している。一番上の子は七つ、二番目のは五つ、三番目のは三つだ。その全家族のために洗濯し、繕(つくろ)いものをし、アイロンをかけ、縫物をして、万事がととのえられるまでには、一日が殆んど一ぱいになる。そして子供たちも、少しは母親に相手をしてもらいたがる。晴れた日には、彼女は大抵、一時間ほど子供たちと一緒に野や森を散歩し、自然の素晴らしい事物に注意し、そしてそれを楽しむように彼らを指導する。それから、野外にまだ何か花が見いだされる限りは、彼らは、私への土産に、花束をもって帰って来る。そしてそのお礼に、彼らは、私が林檎を樹から採ってやるのを手伝うことができるのである。
私たちは、互いに仲がよかった。ちょうど私たちは、美しい大きな待降節の花輪(アドベントリース)を一つ束ねようとしていた。このことは、ラウエルさんのところでは、新しいことであった。両親が悦ばしくも、この考えに思いついたのであった。この花輪は、来たるべきクリスマスの前夜の象徴として、待降節中の時日を特別に聖なるものとするであろう。それは、声高らかに叫ばれた「主の道を備えよ!」という言葉を表わすであろう。まだ本を読むことのできぬ子供たちのためにも。
間もなく、その花輪は、居間の天井にかけられた。紫のリボンで荘厳に吊るされ、かつ巻きつけられて。そして大きな黄色な蝋燭が、その上に立っている。四本だが、それは待降節中にある四回の日曜日に想応するものである。一個の空(から)の秣槽が、箪笥の上に置いてある。それは、幼いキリストのために中味を整えられねばならぬものである。
『お母さん、あれ何とキレイなんでしょう! なぜあの花輪は、きょう、あすこにかかっているの?』『それは、最初の待降節だから。みんな今、幼いキリスト様をお迎えする準備をせねばなりません。晩に私たちは、一番目の蝋燭に火をつけ、そして待降節の歌をうたうのです。そして幼いキリスト様に、何を私たちはすることができるか、みんなで相談しましょう……』『今晚、お母さん?』『そう、今晚―――暗くなってから……』子供たちは、それが殆んど待ちきれなかった。『お母さん、まだなかなか暗くならないの?』と、小さい娘のロッテが、もう昼飯のときに尋ねた。とうとうその時が来た。私たちは、みんなその部屋に集まっていた。そこで父親が最初の蝋燭に火をともした。そして私たちは、あの好きな古い歌をうたう、天よ、義(ただ)しき人に露をしたたらせよ……子供たちは、とても、お祭のような気分になった。
『きょうは、私たちは、ただ一つ燈火をつけるだけです。なぜなら、まだやっと待降節中の最初の日曜日だから。日曜ごとに、もう一つずつ蝋燭がともされるでしょう。そこで、あんたたちは、みんなクリスマス前夜祭が、だんだん近づいて来るのがわかるんです。私たちが、ますます急いで秣槽を作り上げねばならないことが。
あすこに、秣槽は、もう置いてある。でも、まだ全く堅くて空(から)です。そこで、あんたたちは、藁(わら)の茎だの、羽根だのを集めて来なければなりません。いま幼いキリスト様のために、小さな犠牲を一つ捧げる人は、藁の茎を一本取って来ることになるんです。それを、あんたたちは秣槽の中に入れるんですよ……』『お母さん、もしお母さんが燕麦の餅をつくり、そして僕がそれを食べ、そしてちっとも泣かなければ……それは二本の藁の茎だ、そうでしょう?』と、五つのフランツが、その間に叫んだ。『そして、もし私がコーヒーに砂糖を入れなければ、その砂糖を、クリスマスに貧民院のカトリンお婆さんのところへまた持って行っていいの?』と、七つのマリアが尋ねた。この娘は、四旬節中に、そうすることが出来たのであつた。『そうですとも、そうしていいわ。そしてロッテは、もうきかん坊であってはいけませんよ。そして、そのことを待降節の天使たちが見ると、とても悲しまねばならないのです。だからロッテちゃんは、すぐこう言うでしょう、幼いキリスト様のために、わたしは、おとなしくするって。そうすると、ロッテちゃんも、藁の茎を一本、もらえるんですよ。』『お父さん、なぜ蝋燭は、ちょうど四本あるの?』『なぜなら、嬉しいクリスマスの日まで、日曜日が四つあるから。』そこで、一番小さい子でも、その日がだんだん近づくのを知るのである。『そして、もし四本の蝋燭がみな燃えてしまうと、すぐクリスマスの樅の木が来るの? そして……そして……お母ちゃん、話してちょうだい、それからどうなるの?』『それは、お母さんには判りませんよ。それもやはり、待降節の天使たちが飛んで行くとき、日曜ごとに、あんたたちのことを幼いキリスト様にお知らせすることに全くよるのです……』『天使たちも、秣槽の中に沢山藁の茎があるかどうか、のぞき込むの?』『確かに天使たちも見ますよ。でも何よりもまず、天使たちは、人間の心のうちを見ます。愛と親切心が、その中に沢山はいっているかどうかを……しかし、お母さんは、幼いキリスト様が、ことし、持って来て下さる或るものを知っているんです。』『お母さん……何?……何?……教えてちょうだい……どうぞ、どうぞ!』『全く可愛らしい或るもの、小っちゃいきょうだい……』『あっ、小っちゃい弟?……そうでしょう、小っちゃい弟……』 フランツは全く嵐のように熱望した。『女の子は、もう二人いるのに、僕はいつまでも、ひとりぼっちなんだもの……』『それは、弟になるか妹になるか、幼いキリスト様は、まだ打ち明けて下さいません。そこで私たちは、それが生れてくるまで、待たねばなりません。』『お母さん、どうしてお母さんは、そのことを知ったの。』と七つのマリアが考え深そうに尋ねた。その間に、小さいロッテは、待降節の花輪の燈火を吹き消そうとして興(きょう)がって【おもしろがって】いた。『なぜなら、一人の天使が、その小さな霊魂を持って私のところへ来たからです。この霊魂は、天主様が私に贈って下さったのです。天主様は、それを搖籃(ゆりかご)の小さなベッドの中に置かせなさったのですが、そのベッドは、天主様が御自身で、一人々々のお母さんの心臓の下に、赤ちゃんのために支度をなさったのです。そのベッドの中に、赤ちゃんが、いま眠っていて、そして幼いキリスト様とその聖天使たちの夢を見るのです。それから赤ちゃんが十分に大きくなると、私たちは、それを普通の小さなベッドの中に置くことができるのです。』『では、私たちの赤ちゃんは、もうお母さんのところにいるのね。』とマリアが言った。そしてこの愛らしい秘密について、何ものかをうかがい知ることができるかのように、母親に非常にぴったりと寄りそうた。『そうです。赤ちゃんは、もうここにいますよ。そして私たちは、赤ちゃんがいい子で、正直で、そして丈夫でいるように、これから毎日赤ちゃんのためにお祈りしましょう……』『お母さん、なぜ天主様は、赤ちゃんを直ぐに贈って下さらないの? 天使は、赤ちゃんを直ぐお母さんのベッドか、お父さんのベッドかへ置くことができるんでしょうに……』『あんたは、もう覚えていないの、美しい花が庭で咲いて出るが、その元の種子は、どんなに小さいものだったかということを? 赤ちゃんも、そんなに小さいんです。そして、そのお母さんは、天主様がその種子を植えつけなさる土地なのです…』『私も、いつか、そのようにお母さんのところにいたの?』『そうですよ。この子供たちは、みんな、一度は自分のお母さんのとこにいたものです。だから母と子たちは、またそんなに親密なのです。』『そしてお父さんもね…』とその娘の子は言って、そして腕を両親に捲(ま)きつけた……
待降節。蝋燭は、つぎつぎと燃えて行った。どの土曜日の晚にも、その家族は、ほんとに嬉しい思いをいだいて、暫らくの間、一緒に坐っていたし、そしてどの日曜日にも、自己教育と自制への熱意が新たに燃え立たされた。子供たちは、クリスマスの日がますます近づいて来るのを知った。そしていつでも実際的な性質のフランツは、もっと多くの藁の茎を秣槽の中に入れるために、父親から数本のシガレットを、うまくだまして取り上げたのである。
『お父さん、もしあんたが、いまシガレットを吸わなければ、藁の茎を一本お供えすることになるのでしょう……そして僕は、それをクリスマスに貧民院のミヘル爺さんのところへ持って行ってやるんです。』『子供たちが、我々を教育しはじめましたよ。』と父親が私に言った。そして息子の気に入るようにしてやった。
最後の待降節の日曜日の翌日の夜、男の子が生れた。それは、どんな喜びであったことか! 実に黄金色をした元気な子供! そのため、玩具のことなんか、すべて忘れられていた。私たちは、この小さな地上の市民を、お祭りのように迎えるために、四本の待降節の蝋燭をともして置いた。そしてその大きな赤い蝋燭の間に、小さな白い蝋燭を立て、そして銀色の小さな鈴を幾つか花輪にかけておいた。それが鳴って、クリスマスの祭日の開始を告げるのである。今夜、幼いキリスト様がお出でになる……!『小っちゃい弟がもうここにいる。そして幼いキリスト様がお出でになる!』と子供たちは競って歓呼した。夕方、私たちは、クリスマス・ツリーをお母さんの部屋に置いた。小さな秣槽をその下に。絵本を一冊、玩具箱を一つ、人形を一つ、それから饅頭と林檎と胡桃を盛った皿、それになお、冬季用の暖かい小さなジャケツと、色とりどりの毛糸で刺繍した子供帽。それらは、今日の観念からすれば、わずかなものだった。しかし、正しく教育された子供たちにあっては、それは、大きな喜びを与えるにあまりあるほどであった。全く非常に多くの品物をもって、子供に不必要な願望と熱望とを目覚ますこと、および生活への要求を不適当な方面に導くことは、意味がない。心からの愛をもって与えられたわずかなものが、その目的を達するのである。
しかし、最も美しいキリスト様の贈物は、小っちゃい弟であった。それは興味の中心だった。『いつ、それはスープを作ってもらうの?』とマリアが尋ねたが、この娘は、すでに小さな主婦であった。『それは、まだスープは飲みませんよ。お母さんのお乳をのむんです。まあ御覧なさい。何という可愛らしいんでしょう……』と、私は赤ちゃんを寝かせながら、それに答えて言った。『お母さん、私もそうしたの……?』そして母親にぴったり寄りそった。『赤ちゃんは、みんなそうするんですよ。』もちろん子供たちは、何事でも、なされ且つ言われたそのままに受け入れた。子供たちは、真に無邪気な心で、そのような事物に出くわすならば、決してそれにつまずくことはない。
私がその翌日、赤ちゃんにお湯を使わせたとき、家族のものはみんな、風呂桶のまわりに集まった。そんな小っちゃいのが、水をパチャパチャするのを見るのは、とても面白いものだ。マリアは突然質問した。『おばさん、それじゃ、なぜ男の赤ちゃんは、そのように少しちがうの?…』『赤ちゃんが生れて来ると、お母さんは、それが男の子か女の子かを見なければなりません。 だから、それは少し、ちがわねばならないのです。もし、そうでなければ、私たちは、女の子にハンス名づけたり、男の子にグレートヘンと名づけたりするようなことになるでしょう……』二三人の兄弟姉妹が育ってゆくところでは、もし真実の親の愛が、小さな巣を支度し、そして、それを保ちつづけて行くなら、その家庭は遙かに温かい。そこでは、すべての祝日は、全く独特な光輝をもつのである。
待降節……全くひそやかに、たとえば初めての春の予感のように、新しい理解が世界を貫いてゆく。世間には、今日まだ美しい真の夫婦がある。その数は少ない。しかし実際に存在する。そしてそれは、酵母のような作用をするであろう。もしそれが純粋に、かつ忠実に保存されるなら。そうすると、そのような夫婦生活からして、より高い価値に対する理解と、新しい理想への努力が、再び国民大衆の中に、しみとおるであろう。そのような夫婦の数は、増して行くであろう、もしそれが持ち続けられるなら。その人たちの上に、その少数の忠実な人々の上に、わが国民の将来と運命とが、かかっている。――それゆえ、それらの夫婦たちは、その生命力が窒息しないうちに、何よりもまず支持し保護されねばならない。そのような家庭で育った子供たちは、愛の真の精神をつかみ、そしてそれを次代へ伝えるであろう。かようにして彼らは、わが国民の大きな待降節を招き寄せることであろう。