アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちは第二バチカン公会議で、カトリック聖伝と比べてどのような点が新しくなったか、どのような点で見方と変わってしまったかを考察してきました。
既に、
(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったかのか?
また、
(2)第二バチカン公会議は、天主と人間との関係についてどのように新しく考えるようになったかのか?
について考察しました。
それでは、第二バチカン公会議により生まれた新しい人間から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を進めていきましょう。
現代の人類は、自分が発見した事がらと自分の力に感動し自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信します。そこで第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げています。
『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
したがって公会議は、・・・聖霊に導かれる教会が、その創立者から授けられた救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになると考える。実際、人間のペルソナをこそ救うべきであり(Hominis enim persona salvanda est)・・・人間こそ、われわれの全叙述の中心点である。
それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、・・・人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。
『現代世界憲章』26(共通善の促進)
これと同時に、人間のすぐれた尊厳についての自覚も増している。人間はあらゆる物にまさるものであり、その権利と義務は普遍的で、侵すことのできないものだからである。
『現代世界憲章』55(文化を作り出す人間)
世界の統一と、真理および正義の中によりよき世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、・・・
『現代世界憲章』78(平和の本質)
したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら(エフェソ4:15)、平和を求め、また打ちたてるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。
『現代世界憲章』92(すべての人との対話)
教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。・・・
このような話し合いの望みは、・・・われわれの側からは何びとをも除外しない。
父なる神はすべての人の起源であり目的であり、われわれはすべて兄弟となるよう召されている。したがって、またこの同一の人間的・神的召命によって召されているわれわれは、暴力と欺瞞なしに、真の世界平和建設のために協力できるし、また協力しなければならない。
『教会憲章』 1(序文)
教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である。
『教会憲章』 9
神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を一つの集団に招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである。
そこで、
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、この世に対して、他の宗教に対して、教会内部構造についてどのように変わったのか?
という点を考察してみます。
【教会とこの世との関係】
聖伝によれば、天主であり、王の王であるキリストは、二つの職務を制定した。一つは使徒の司祭的な職務であり、民と人々とを天主へと直接に結びつける。もう一つは政治的職務であり人民を善徳へと秩序付ける。
教会統治権も、政治的統治権も、全ての権能はキリストからくる。キリストはそれを教皇、あるいは君主にそれぞれの権能を委ねる。この二つの構造と統治権とは互いに独立している。
しかし、この二つの裁治権あるいは職務の目的・究極目的は、相互に関係を持つ。政治の目的である市民の徳のある生活は、彼らの永遠の救霊のためにのみある。後者は教会の目的である。従って、目的に関しては、政治は、教会に直接的に本質的に(たんに偶然的だけではなく)従属する。
使徒達は、来世の救霊とこの地上での平和の達成のために、この世界の政治的諸国が必要としていたことを説教した。古代プラトンは、統治するにふさわしい徳を持った聖人君主たる哲人をどこに見つけることができるか悲しく疑問に思った。私たちの主イエズス・キリストは、教会の権力と政治の権力とを区別し、「聖人君主たる哲人」たる教会の司教たちが、政治的には自由でありながら、政治に携わる人々を正しく導くことを委ねた。
ボニファチオ八世は、1302年大勅書「ウナム・サンクタム(Unam Sanctam)」で、カトリック教会の聖伝の教えを述べた。
「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・
従って、地上の権力が道を外れるとすると、霊的権力によって裁かれるであろう。しかし、霊的小人が道を外れるとその長上によって裁かれる、もしも霊的最高の権力については天主によってのみ裁かれ、人間によっては裁かれることができないだろう。・・・
従って、誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。さもなければマニ教徒らのように、善と悪との二つの原理(原初)があるとでっち上げるものであるが、これは私たちは偽りであり異端であると判断する。何故なら、モーゼの証言に拠れば、原初(複数)ではなく、原初(単数)において、天主は天と地とを造り給うた(創世1:1)からである。
更に、私たちは、全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要であると宣言し、断言し、定義し、発表する。」
ピオ十一世は、1926年、回勅「クワス・プリマス」で、キリストの王としての権利を再確認した。
「贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。
この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。
従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。
キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。
従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。
教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。
「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。・・・
キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。・・・
毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。・・・
その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。私達の主キリストには、(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。」
聖伝によれば、平和の君であり王の王であるキリストの代理者、すなわち教皇だけが諸国の平和のための仲立人たり得る。教会あるいは教皇は、平和のために聖なる権力をつかって諸国の君主に介入することができる。
【新しい「福音」の理解】
1963年5月23日、ヨハネ二十三世は死の直前に自分の考えをこう語った。
「今日、かつて無かったほどに、そして過去数世紀にもなかったほどに、私たちは人間としての人間に、たんにカトリックとしての人間ではなく人間としての人間に奉仕するように呼ばれている。カトリック教会の権利だけではなく特に人間のペルソナの権利をどこででも擁護するように召されている。・・・変わるのは福音ではなく、私たちこそが福音をよりよく理解し始めたのだ。」(quoted by Msgr Capovilla, Giovanni XXIII, Quindici letture, Roma, 1970.)
ヨハネ二十三世が1962年10月11日に開催した第二バチカン公会議は、社会秩序の基礎として天主の似姿としての人間のペルソナの超越性を置いた。
あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間のペルソナであり、また人間のペルソナでなければならない(principium, subiectum et finis omnium institutorum socialium est et esse debet humana persona)【『現代世界憲章』25】、また、イデオロギー、道徳、宗教の選択にかかわらず【『現代世界憲章』29,73】、人間としての人間のペルソナの権利は神聖にして犯すべからず侵すことができない【『現代世界憲章』26】。
政治的社会の共通善は本質的にこのペルソナの不可侵の権利、特に信教の自由を保障することにある。これは、ラッツィンガー枢機卿【現ベネディクト十六世教皇】によれば、二世紀の間のリベラルな文化が、教会の外に生まれたにもかかわらず福音と結合されて作り出された、宗教的・経済的・政治的理論である。
第二バチカン公会議は、この人間のペルソナを全ての土台とする個人主義の上に、全人類の一致を追求しようとした。しかし、その土台があまりにも壊れやすいので、教会はこの人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に手を貸そうとした。少なくとも、教会は、全人類の一致のしるしとしてまたモデルとしてこの世により明らかに示そうとした。
『教会憲章』 1(序文) キリストは諸民族の光であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げることによって(マルコ 16·15参照)、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照すことを切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。現代の状況は教会のこの義務をいっそう緊急なものにしている。それは社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである。
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちは第二バチカン公会議で、カトリック聖伝と比べてどのような点が新しくなったか、どのような点で見方と変わってしまったかを考察してきました。
既に、
(1)第二バチカン公会議は、人間についてどのように新しく考えるようになったかのか?
また、
(2)第二バチカン公会議は、天主と人間との関係についてどのように新しく考えるようになったかのか?
について考察しました。
それでは、第二バチカン公会議により生まれた新しい人間から生まれ出た教会について、つまり、新しい人間と天主との関係を取りなす第二バチカン公会議の教会について、考察を進めていきましょう。
現代の人類は、自分が発見した事がらと自分の力に感動し自己陶酔しており、崇高な人間こそが全ての中心であると確信します。そこで第二バチカン公会議は自己の使命として、人間の崇高な召命にふさわしい兄弟的一致と博愛と世界統一と、よりよい世界の建設を挙げています。
『現代世界憲章』3(人間に対する奉仕)
したがって公会議は、・・・聖霊に導かれる教会が、その創立者から授けられた救いの力を人類のために提供することは、神の民が属している人類全家族に対する連帯感と尊敬と愛とを最も雄弁に証明することになると考える。実際、人間のペルソナをこそ救うべきであり(Hominis enim persona salvanda est)・・・人間こそ、われわれの全叙述の中心点である。
それゆえ、この公会議は人間の崇高な召命を宣言し、・・・人間のこの召命に相応するすべての人の兄弟的一致を確立するために、教会の誠意に満ちた協力を人類にささげる。
『現代世界憲章』26(共通善の促進)
これと同時に、人間のすぐれた尊厳についての自覚も増している。人間はあらゆる物にまさるものであり、その権利と義務は普遍的で、侵すことのできないものだからである。
『現代世界憲章』55(文化を作り出す人間)
世界の統一と、真理および正義の中によりよき世界を建設すべきわれわれの使命とを考えるならば、それはいっそう明きらかである。こうして、われわれは新しいヒューマニズムの証人であり、・・・
『現代世界憲章』78(平和の本質)
したがって、すべてのキリスト者は愛の中に真理を実行しながら(エフェソ4:15)、平和を求め、また打ちたてるために、平和を心から愛する人々と協力するよう強く求められている。
『現代世界憲章』92(すべての人との対話)
教会は福音の知らせによって全世界を照らし、またあらゆる国、民族、文化に属するすべての人を一つの霊の中へ集めるという使命の力によって、誠実な対話を可能にし、強化する兄弟愛のしるしとなる。・・・
このような話し合いの望みは、・・・われわれの側からは何びとをも除外しない。
父なる神はすべての人の起源であり目的であり、われわれはすべて兄弟となるよう召されている。したがって、またこの同一の人間的・神的召命によって召されているわれわれは、暴力と欺瞞なしに、真の世界平和建設のために協力できるし、また協力しなければならない。
『教会憲章』 1(序文)
教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である。
『教会憲章』 9
神は、救いの作者であり、一致と平和の源であるイエズスを信じ仰ぐ人々を一つの集団に招き集めて、教会を設立した。それは、教会が、すべての人と個々の人にとって、救いをもたらす一致の見える秘跡となるためである。
そこで、
(3)第二バチカン公会議は、教会についてどのように新しく考えて自己定義したのか? どのように新しいヒューマニズムを促進するために教会は自分をどのように変えたのか? 第二バチカン公会議の教会は、この世に対して、他の宗教に対して、教会内部構造についてどのように変わったのか?
という点を考察してみます。
【教会とこの世との関係】
聖伝によれば、天主であり、王の王であるキリストは、二つの職務を制定した。一つは使徒の司祭的な職務であり、民と人々とを天主へと直接に結びつける。もう一つは政治的職務であり人民を善徳へと秩序付ける。
教会統治権も、政治的統治権も、全ての権能はキリストからくる。キリストはそれを教皇、あるいは君主にそれぞれの権能を委ねる。この二つの構造と統治権とは互いに独立している。
しかし、この二つの裁治権あるいは職務の目的・究極目的は、相互に関係を持つ。政治の目的である市民の徳のある生活は、彼らの永遠の救霊のためにのみある。後者は教会の目的である。従って、目的に関しては、政治は、教会に直接的に本質的に(たんに偶然的だけではなく)従属する。
使徒達は、来世の救霊とこの地上での平和の達成のために、この世界の政治的諸国が必要としていたことを説教した。古代プラトンは、統治するにふさわしい徳を持った聖人君主たる哲人をどこに見つけることができるか悲しく疑問に思った。私たちの主イエズス・キリストは、教会の権力と政治の権力とを区別し、「聖人君主たる哲人」たる教会の司教たちが、政治的には自由でありながら、政治に携わる人々を正しく導くことを委ねた。
ボニファチオ八世は、1302年大勅書「ウナム・サンクタム(Unam Sanctam)」で、カトリック教会の聖伝の教えを述べた。
「世俗の権威は霊的権威の下に置かれるべきである。何故なら、使徒聖パウロ曰く「天主に拠らない権能はない、あるものは全て天主によって秩序付けられたものである(ローマ13:1)。・・・
従って、地上の権力が道を外れるとすると、霊的権力によって裁かれるであろう。しかし、霊的小人が道を外れるとその長上によって裁かれる、もしも霊的最高の権力については天主によってのみ裁かれ、人間によっては裁かれることができないだろう。・・・
従って、誰であれ、天主によってこのように秩序付けられたこの権威に逆らうものは、秩序付ける天主に逆らうものである。さもなければマニ教徒らのように、善と悪との二つの原理(原初)があるとでっち上げるものであるが、これは私たちは偽りであり異端であると判断する。何故なら、モーゼの証言に拠れば、原初(複数)ではなく、原初(単数)において、天主は天と地とを造り給うた(創世1:1)からである。
更に、私たちは、全ての人間的被造物がローマ教皇に従うことは、救いのために全く必要であると宣言し、断言し、定義し、発表する。」
ピオ十一世は、1926年、回勅「クワス・プリマス」で、キリストの王としての権利を再確認した。
「贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。
この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。
従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。
キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。
従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。
教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。
「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。・・・
キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。・・・
毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。・・・
その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。私達の主キリストには、(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。」
聖伝によれば、平和の君であり王の王であるキリストの代理者、すなわち教皇だけが諸国の平和のための仲立人たり得る。教会あるいは教皇は、平和のために聖なる権力をつかって諸国の君主に介入することができる。
【新しい「福音」の理解】
1963年5月23日、ヨハネ二十三世は死の直前に自分の考えをこう語った。
「今日、かつて無かったほどに、そして過去数世紀にもなかったほどに、私たちは人間としての人間に、たんにカトリックとしての人間ではなく人間としての人間に奉仕するように呼ばれている。カトリック教会の権利だけではなく特に人間のペルソナの権利をどこででも擁護するように召されている。・・・変わるのは福音ではなく、私たちこそが福音をよりよく理解し始めたのだ。」(quoted by Msgr Capovilla, Giovanni XXIII, Quindici letture, Roma, 1970.)
ヨハネ二十三世が1962年10月11日に開催した第二バチカン公会議は、社会秩序の基礎として天主の似姿としての人間のペルソナの超越性を置いた。
あらゆる社会制度の起源、主体、目的は人間のペルソナであり、また人間のペルソナでなければならない(principium, subiectum et finis omnium institutorum socialium est et esse debet humana persona)【『現代世界憲章』25】、また、イデオロギー、道徳、宗教の選択にかかわらず【『現代世界憲章』29,73】、人間としての人間のペルソナの権利は神聖にして犯すべからず侵すことができない【『現代世界憲章』26】。
政治的社会の共通善は本質的にこのペルソナの不可侵の権利、特に信教の自由を保障することにある。これは、ラッツィンガー枢機卿【現ベネディクト十六世教皇】によれば、二世紀の間のリベラルな文化が、教会の外に生まれたにもかかわらず福音と結合されて作り出された、宗教的・経済的・政治的理論である。
第二バチカン公会議は、この人間のペルソナを全ての土台とする個人主義の上に、全人類の一致を追求しようとした。しかし、その土台があまりにも壊れやすいので、教会はこの人類統一という天主にまで届く高い塔の建設に手を貸そうとした。少なくとも、教会は、全人類の一致のしるしとしてまたモデルとしてこの世により明らかに示そうとした。
『教会憲章』 1(序文) キリストは諸民族の光であるから、聖霊において参集したこの聖なる教会会議は、すべての被造物に福音を告げることによって(マルコ 16·15参照)、教会の面上に輝くキリストの光をもってすべての人を照すことを切に望む。教会はキリストにおけるいわば秘跡、すなわち神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具であるから、これまでの公会議の教えを守りつつ、自分の本性と普遍的使命とを、その信者と全世界とに、より明らかに示そうとする。現代の状況は教会のこの義務をいっそう緊急なものにしている。それは社会・技術・文化の種々のきずなによって今日、より強く結ばれているすべての人々が、キリストにおける完全な一致をも実現すべきだからである。