アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
タルチシオ菊地大司教様には、感謝の気持ちを込めて2020年10月7日付のお手紙を送付いたしました。
感謝と言いますのは、大司教様が、聖ピオ十世会に関する公示を発表されて、その解説の中で、今回の事態を機会に教会共同体の意味を再考することを私たちに促してくださったからです。
この黙想のための大切な機会を与えられ、大司教様のお言葉にまねかれて、教会共同体の意味を再考してみました。
大司教様は、東京大司教区のすべての方々に対してこの再考を招いておられますので、私たちも、兄弟姉妹の皆様の黙想の一端になればと願い、皆様とここで分かち合いたいと思います。
私のお手紙は、三つの部分からなっております。それは二つの考察と、最後の考察です。
そこで、今日から三回に分けて愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介したいと思います。
二つの考察は、大司教様が提示してくださったように、
(1)「すべてのいのちを守る」ということの意味、
つぎに
(2)「教会の共同体としての一致」の意味
についてです。
まず、最初の「すべてのいのちを守る」については、二つの観点から黙想してみました。
ひとつは、「永遠の命」という観点です。
もう一つは、「自然のいのち」という観点です。
特に、このブログ用に原稿を準備しているときに「9月の自殺、昨年比8%増…女性は28%増」という悲しいニュースが飛び込んできました。
8月をみると、20歳未満の女性(40人)が前年同月(11人)と比べて4倍近くに増えていることも判明したとのことです。
9月の自殺、昨年比8%増…女性は28%増 : 社会 : ニュース
9月の全国の自殺者は速報値で1805人に上り、昨年の同じ月と比べて8・6%(143人)増えたことが、12日、厚生労働省と警察庁の集計で分かっ...
読売新聞オンライン
いのちを守るためにも、私たちは「超自然の命」を守るために今生きているということを私たちが知らなければなりません。
何故なら「御身は私たちを御身(天主)に向けて創り給い、私たちの心は御身のうちに憩うまで不安であるから」quia fecisti nos ad te et inquietum est cor nostrum donec requiescat in te.(聖アウグスティヌス)です。
「万軍の天主よ、我らを御身に向け給え、御顔を示し給え、されば我らは救われん。実に、人間の霊魂は、あなたに向かわない限り、どちらに向いても、他のどこにおいても、悲しみに釘付けされるだけです。例え美しいものにおいてにせよ、それがあなたの外のもの、自分の外のものである限りは。しかも、それらの美しいものも、あなたから出るのでないならば、無でありましょう。・・・必ずしもすべてのものが老いるわけではないけれど、すべてのものは滅びます。」(聖アウグスティヌス)
今日は、最初の考察を分かち合いたいと思います。
大司教様宛には、挿入しなかった挿絵も、このブログではいくつか挿入しました。
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アヴェ・マリア・インマクラータ!
謹啓
カトリック東京大司教区タルチシオ菊地功大司教様
聖なるロザリオの聖月となりました。タルチシオ菊地功大司教様におかれましては、ご健勝のことと嬉しく存じます。
さて、先日、『2020年10月1日付東京大司教区のSSPXに関する公示』と『「聖ピオ十世会」に関する公示について(解説)』による公示の背景のご説明を拝見させていただきました。
大司教様は、この解説の中で、カトリック東京大司教区では新型コロナウイルス感染症対策としてすべてのいのちを守るために、大司教区内においてミサを非公開とする措置をとり、教会施設における集会を停止されてきたこと、また、教会が共同体としての一致を基礎として成り立っていることに言及されて、今回の事態を機会に教会共同体の意味を再考することを私たちに促しておられます。
大司教様のお言葉にまねかれて、私たちも教会共同体の意味を再考してみたいと存じます。
そこで、大司教様が提示してくださったように、
(1)「すべてのいのちを守る」ということの意味、つぎに
(2)「教会の共同体としての一致」の意味について、再考してみました。
また、『2020年10月1日付東京大司教区のSSPXに関する公示』に対して、私どもは2020年10月3日付で「回答」を発表いたしました。添付いたします。目をお通し頂ければさいわいです。
同時に、私どもは、「返答する権利」right to replyを行使したいと存じます。
そこで、別途メールにてお送りするものを、東京大司教区のウェブサイトの公示のところに掲示するスペースをいただければ幸いに思います。
以下に、私の考察を大司教様と分かち合うことをお許しください。
(1)「すべてのいのちを守る」
私たちキリスト信者は、教会において洗礼の秘蹟を受けるときに、教会に何を求めるのかと尋ねられて、信仰を求める、と答えました。
すると教会は「信仰はあなたに何を与えますか?」と尋ねました。私たちは「永遠の命を」と答えました。
永遠の命のための信仰、ここに私たちの宗教の原点があります。
私たちが教会に求めているのは、永遠の命を私たちに与えるための信仰です。
私たちの信仰、宗教、教会のもともとの目的は、永遠の命そのものです。
【永遠の命】
私がどうしても避けることのできない、しかも、私にとってたった一回だけで繰り返すことのできない死、それがいつなのか、どこでなのか、どのようになのか、私は知らないが、必ず一度死ぬということだけは、誰にも変えられない荘厳な現実です。この死は、この儚い世の本当の価値と意味について教えてくれます。
人間は、死によって、この世界から永遠の世界に入ります。死の瞬間、私は裁き主イエズス・キリストによって、私の一生涯について裁かれます。私たちが生きる目的は、この世で永遠に生きることではなくて、天国に行くことです。永遠の命をいただくことです。救霊です。
ミサの使徒信経の中で、"et expecto resurrectionem mortuorum, et vitam venturi saeculi"(死者の復活と来世のいのちを待ち望みます)と唱えます。これは私たちカトリック教徒が主日ごとに確認する信仰です。
カトリック教徒が亡くなった時、司祭は死者のためのミサを捧げ、そこで"dona eis requiem"(彼らに永遠の安息を与えたまえ)と祈ります。これは死者がこの世を去り、自然の命が尽きた時、その人の全てが失われるのではなく、その人の霊魂が永遠の命に入ることを祈っています。
私たちの主もこう言われます。「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それをうけるのである。よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう。」(マテオ16:25)
大司教様も御存じの通り、キリシタン時代、マカオのイエズス会修道院の庭には、会員が日本で殉教する度にそこに一本の木を植える場所がありました。殉教者が出ると、聖堂に行って皆でテ・デウム(天主に対する感謝)を歌いました。殉教しなかった背教者フェレイラ神父のために木を植える場所が最後まで取ってあり、皆で彼が殉教の恵みを得るために祈っていたそうです。
信仰を守って殉教するお恵みを、いのちを守ることよりも価値がある、と考えた私たちの先祖は、例えイエズス会の管区長(フェレイラ神父)が背教して迫害する側に回ったとしても、彼の範には従いませんでした。
或いは、例えば京都の元和(げんな)キリシタン殉教者であるテクラ橋本は、3人の子供と一緒に縛られて、最期までわが子らを堅く抱き締めて、「この子供たちの霊魂を受けてください」と言って殉教しました。
日本だけではありません。ローマのイギリス神学校(English College in Rome)は、多くの卒業生らがイギリスで宣教中に殉教しました。神学生たちは、先輩が殉教したというニュースを聞くと、皆で聖堂に言ってやはりテ・デウムを歌って天主に感謝しました。
二千年間のカトリック教会の歴史の中には、恐ろしい疫病で苦しんだ経験が多くあります。そのような時でも、自分の命の危険を犠牲にして患者を診る医者のように、司祭たちは最前線に立って、英雄的な犠牲と奉仕の心で、超自然の命を守るために献身してきました。有名な例はミラノの司教聖カルロ・ボロメオです。この聖人は疫病がはやった時、自ら病者を見舞って看病しただけではなく、罪の罰として起こった疫病が終息するように、償いのために行列を組織しました。
以上のような例は無数にありますが、それらはカトリック教会がなによりもまず超自然の命に生きる神秘体であることを示しています。私たちの主もこう言われました。
「体を殺しても、そののちそれ以上なにもできない人々をおそれるな。あなたたちがおそれねばならないのは、だれかを教えよう。殺したのち、ゲヘンナに投げいれる権力あるお方をおそれよ。」(ルカ12:4-5)
私ども聖ピオ十世会は、天主のお恵みと聖母の御取次によって、超自然の命を第一に優先することができる恵みをいつも祈っております。
【自然のいのちを守る】
人間のいのち、特に罪のない人々の命を守ることは大切なことです。
念のために申し上げれば、今流行している新型コロナから人々の命を守ることはもちろん重要です。私たち聖ピオ十世会も、感染対策には最大の注意を払って公開的にミサを捧げております。
大司教様もご存じの杉原千畝(すぎはらちうね)という外交官のことにも思いが行きます。彼は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理としてリトアニアで働き、規則に従えばビザの発給が認められないユダヤ人へのビザ発給をした人です。日本本国からの許可なしに、独自の判断で発給を続けました。命の危険が迫るヨーロッパから脱出させて、彼らの命を救ったのでした。杉原千畝の発給した「命のビザ」によって少なくとも6,000人以上のユダヤ人を救ったそうです。
人間のいのちを守ることはとても大切です。カトリック教会は特に罪のない赤ちゃんたちの命を守るために立ち上がってきました。教会法は、堕胎をした人・堕胎に協力した人に対して破門の罰で特別の制裁を加えています。
日本だけでも、統計によると1949年堕胎が合法化されてから、すでに総計38,954,583人の赤ちゃんたちが犠牲になっています。
2013年から2018年は、毎年生まれてくるべき約7名のうち1人の赤ちゃんが、2008年から2012年には約6名に1人の赤ちゃんが、2002年から2007年では約5名に1人の赤ちゃんが堕胎で亡くなっています。
カトリック信徒として、このいのちを守るための祈りや行動がどれほど必要とされていることでしょうか!
私たち聖ピオ十世会も、天主の御恵みによって、堕胎という胎児たちに対する戦争が終わるように祈り、できるだけそのための活動をしようと思っております。
人間の自然のいのちが大切なのは、それが天主の愛によって天主から与えられたものなので、私たちは自然のいのちを超自然の命のために大切に使う義務があるからです。超自然の命こそがもっとも大切な価値ですが、自然のいのちは超自然の命のための手段であるからです。
自殺がいけないことであること、いわゆる安楽死も許されないこと、それらも超自然の命を得ることができなくなってしまう、天主に対する罪だからです。
私たちの主も、もっとも小さなものの一人にしたことは私にしたことだ、とおっしゃって、渇く人を癒すこと、飢える人に食べ物を与えること、裸の人に服を着せること、家のない人に宿を貸すこと、病気の人を訪問することなど、肉体の「あわれみの業」についてお話しになりました。しかし、超自然の命、つまり成聖の恩寵の大切さを忘れてしまっては、私たちの主の教えてくださった教えから離れてしまいます。
しかし、遠藤周作の『沈黙』あるいはスコセッシの映画『沈黙‐サイレンス‐』に出てくる司祭ロドリゴは、拷問を受けて苦しむ信徒たちのいのちを救うために、キリストを踏んで背教することを残念にも善であると考えてしまいました。
それは、この小説と映画の主人公のロドリゴ神父は、目の前で苦しむ人(の自然のいのち)を救うことが最大の善であると考えてしまい、よき牧者として自分やキリシタンたちの永遠のいのちを救うことよりも優先させてしまったからです。
自分と信徒たちの弱さを強めてくださるように天主と聖母に祈り、憐みを乞い、信仰を捨てないで堅忍する恵みをひたすらに乞い求める、それによって主のお恵みで天国の栄光を得ることを希望する、ということを残念ながらしなかったからです。
人間の苦しみは、イエズス・キリストの御受難と合わせて、愛をもって捧げられたとき、贖いの価値を持ち、超自然の恵みを世界にもたらす、ということを残念ながら思い出さなかったからです。
ロドリゴはフェレイラから棄教の理論を教えられます。踏み絵を踏むことを正当化させようとする理論はいろいろあったことでしょう。例えばイエズス・キリストを歴史のキリストと信仰のキリストと二つに分けること(現実には分けることができないのにもかかわらず)。自分が信じているのは信仰のキリストだから、歴史のキリストは踏んでも良い、とする理論もその一つでしょう。
ロドリゴは、足で御影(ごえい)を踏む、あるいは唾をかける、という行為は、私は日本にいるのであり、日本の文化的文脈からその行為は背教ではない、と日本人の奉行たちはそう主張しているし、日本に長く滞在している先輩のフェレイラもそう言うから、と思ったのかもしれません。
自分がキリストの教えを実践するために他の人々が自然のいのちを失っていることを奉行たちが非難するのを聞き、ロドリゴは、彼らの自然のいのちをまもるために、一時的にキリストに対する礼拝を停止したように見せればよいのだろう、そうして信仰のほうは公開せずに心の中だけですればよいだろう、と思ったのかもしれません。奉行たちは(ロドリゴ自身もそうですが)超自然のいのちの観点を持っていないのだから、彼らに良く思われるためには、彼らの言うようにすべきだと思ったのかもしれません。(映画のロドリゴは、死ぬまで信徒からもらった小さなキリスト像をもっていたので、信仰は守ったということになっています。)
しかし、踏み絵は罪です。何故なら、どんな屁理屈をくっつけてもそれは背教・棄教の印だからです。何故なら、キリスト教の信仰には旧約の前兆という印から新約の来世の天国の栄光の印という聖書的な印の体系があるからです。
ロドリゴが超自然の永遠のいのちよりも目の前にある自然のいのちをまもろうとしたとしたら、それはカトリック信仰からすれば明らかに誤っています。
(続く)