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離教にあらず、破門にあらず 1988年6月30日の司教聖別の考察:時間と空間を超えた教会の伝えられた真の一致を守るために (その3)

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離教にあらず、破門にあらず 1988年6月30日の司教聖別の考察:時間と空間を超えた教会の伝えられた真の一致を守るために (その3)

 教皇“その人”(ペルソナ)と教皇の“役職”の違い
 しかしながら、キリストご自身が教会の頭として、厳として、密接につながっているそのペトロたる教皇が、教会においてキリストの望まれたことと別の指針を、あるいはそれと反対の指針を許し、励まし、望むことが一体できるのだろうか。そういうことが有り得るのだろうか。
 聖書とカトリック神学は我々にはっきりとこう言う。教皇権威が不可謬性によって覆われているときを除けば、それは有り得る、と。
 ペトロはキリストの神性を告白し、イエズスはペトロにこう告げられた。シモン・バルヨナ、あなたは幸いな人だ。その啓示は血肉からのものではなくて、天にまします父から出たものである。わたしは言う。あなたわたしが、キリスト、生ける神の子であると宣言したあなたはペトロである。わたしはこの岩のうえにわたしの教会を立てよう。地獄の門もこれに勝てぬ。」
 ところが、その同じペトロがキリストをそのご受難から遠ざけようとしたとき、イエズスは振り向いてこう言われた。「サタン、引き退れ。わたしの邪魔をするな。[すなわち、あなたはわたしにとって障害物である。]あなたが思っているのは神の考えではなく人間の考えだ。」
 そして、我々はこの「障害」が生じたのは、「ペトロの首位権がこの時点では約束されていただけであって、まだ与えられていたのではない、」と考えるべきではないだろう。なぜなら、有名なアンティオキアでのエピソードがあるからである。
 つまり説明すると、ご復活後のイエズスは使徒の首位権をペトロに与えられた。そしてペトロはこれを行使し、初代キリスト教信者はこれにいつも崇敬を払ってきた。ところで、アンティオキアでパウロはペトロに「非難するところがある」ことに気づいた。なぜなら、ペトロと、ペトロの模範に導かれたほかの人々が、「福音の真理に従って、正しく歩んでいな」かったからである。
 ペトロの目下でありかつ従属していた立場ではあったが、パウロは「皆の前で」「面と向かって」彼に反対した。聖トマスはこれをこう注解している。「この非難の機会はささいなことではなく、適宜であり有用であった。福音の真理からそれる危険があったからである。やり方もふさわしかった。なぜなら、この過失がすべての人々の信仰を惑わす危険があった限りにおいて、公であり、明白であったからである。」
 そこで、聖書は不可謬権の行使の場合を除いて、ペトロは誤り得ること、また非難するところが有り得ることを教えている。
 カトリック教会の最高の神学も、教皇の“その人”(ペルソナ)と、教皇の“職務”とを区別して同じことを教えている。 “Persona papae potest renuere subesse officio papae”:(教皇のペルソナは、教皇としての自分の職務に従うことを拒否することができる。)とカエタヌスは書いている。さらに彼はこういう。「このような行為を固持し続けることによって、per separationem sui ab unitate Capitis(教会の頭であるキリストとの一致から離れることによって)教皇は離教者となりうる」と。カエタヌスは,「“教皇のあるところ、教会あり”という格言は、教皇が教皇として、また教会の頭としてふるまう限りにおいて、有効だ」と言う。さもなければ、「教会は彼においてもなければ、彼は教会の中にもいない」と言う。
 ジュルネ(Journet)枢機卿も「信仰はまだあるが悪い教皇」について、「大半の神学者ら」に受け入れられている「離教的な教皇」及び「異端的教皇」についての可能性を取り上げている。彼はこのことについてこう書いている。
 教皇は「教会の交わりに反する2つのやり方で罪を犯しうる。」第二のやり方は、カエタヌスによれば、「もし彼が個人的私的に自分の責務に反して逆らい、(教会をすべて破門しようと試みることによって、あるいはただ単に、世俗の君主として一人きりで生きようとすることによって、)教会に対して霊的指針を拒否するとき、教会が彼よりも偉大な方の名前において、キリストご自身の御名によって、天主の御名によって、彼から当然のこととして期待している霊的指針を拒否するとき、指導の一致を破壊することになり、」教皇は罪を犯すことになる。さらに続けて、「もし離教的な教皇という可能性を考えると、この悲劇的な日には、教会にとってとても大切な指針の一致、ということの聖性の神秘が我々によく分かってくる。このことは教会史の専門家や、(むしろ、天主の御国の歴史を研究する神学者)に、教皇制度上で生じたいろいろなことの暗い部分に天主の光を照らしてくれることだろう。そして、教皇制度がそれを委任されたものの幾人かによって、裏切られたということを示してくれるだろう。」
 もしもカトリック神学が、ある一人の悪い離教的な、さらには異端の教皇によって引き起こされる問題を取り扱うとしたら、その理由は、まさにカエタヌスの言うとおり、“Persona papae potest renuere subesse officio papae”:教皇のペルソナは、その不可謬権を行使する場合を除いて、教皇としての彼の職務を受け入れることを拒否できるからである。
 最後に一つだけ言い加えると、「教皇制度」とその「担い手」、「ペルソナ」と「職務」との区別を付けることによって、多くの神学者たちは教皇制度の暗い部分にまで個人的に足を忍ばせていたのである。
 わたしたちにとっては、これらの暗い期間の問題は、決定的に解決できており、この区別を付ける習慣を失っている。特に第一バチカン公会義以来、教皇の不可謬権を不可謬一本槍に、誤解しがちになっている。あたかも教皇は、いつも何においてであれ、非常に明確な条件のもとでなくても、不可謬だと思い込むに至っているようである。

 信仰の一致と交わりの一致
 それでは、教会における教皇の職務とは一体何であるのだろうか。第一バチカン公会義はこう教えている。「キリストは、…全部の信徒が信仰と交わりの一致(in fidei et communionis unitate)を保つように、聖ペトロを他の使徒たちの上に立て」られた。教皇レオ十三世は教会の一致について特別に(ex professo)語り、こう書いている。「教会の創立者である天主はそれに、信仰・統治・交わりの一致を与えると宣言した後、ペトロとその後継者を選び、彼らにおいて一致の原理と中心とを確立した。」
 従って、ペトロの職務とは、多くの信者たちのうちに「信仰と交わりの一致」を保証し、多くの牧者たちのうちに統治の一致を保証することである。
 ところで、教会内において、信仰の一致と交わりの一致との関係は、また、信仰の一致と統治の一致との関係は何であるのだろうか。「唯一の教会を確立されたお方はそれを一つのものとして創立された。… であるから、人々のあいだに、必須の条件として、同意と知性の一致が、どれほど偉大でどれほど絶対的な調和を保たねばならないことだろうか。そのためにこそ、天主の定めたご計画に従って、イエズスはご自分の教会において信仰の一致が存在することを望まれた。なぜなら信仰こそが人々を天主に結び付ける全き最初のものであるからである。そして「信者」と言う名を我々がもつことができるとすれば,まさにこの信仰のお陰によるのである。」
 教皇ピオ十一世は、これを受けて次のように言う。「このためにこそ、愛徳の真っすぐなそして真摯な信仰が基礎であるように、キリストの弟子たちを結合させる最も主要な絆は信仰の一致でなければならない。」
 したがって、信仰の一致と交わりの一致、信仰の一致と統治の一致は教会において分けることができない。信仰の一致は、交わりの一致のためにとっても、統治の一致のためにとっても、全き必要な土台であるからである。これより、教会内のいかなる者といえど、信仰の一致を全く無視する、信仰の一致を取り去った交わりの一致を、あるいは/かつ、統治の一致を要求することはできない。
 そしてもし、今日、十分に信仰に関する知識を得たカトリック信者たちが、教会との信仰の一致と、現行の教会の長上たちとのいわゆる「交わりの一致」とがどんどん乖離していると感じているとしたら、もし司教たちが、そう言うと言わずと、多かれ少なかれ妥協しているとしていまいと、事実上、彼らも教会との信仰の一致と自分の目上との統治の一致とがますます離れているとしたら、それは、教会当局がそれぞれに信仰の一致に基づいていない、しかし多かれ少なかれ誤った「個人的な」見解を指示することに基づく交わりの一致を、そして統治の一致を要求しているからである。
 そこで、信仰の一致と交わりの一致の間に横たわる必ずなければならない関係から、次のことが必然的に要求される。現行の教会当局との交わりを保つために、過去の教会当局との交わりを断つことはできず、断ってはならない、ということである。なぜなら、今日の教会当局は、過去の教会当局と同じく、同じ信仰の遺産を守り、変えずに後世に伝え、忠実に解釈することにあるからである。
 モンティーニ(パウロ六世)のもとで、聖伝支持者を、「過去の教皇たち」に従順であるためという名において「今の教皇に」不従順であると告訴していた現代主義者がいた。彼は自分の発言がどれほど信仰から離れているかを知っていなかった。
 教皇との交わりは、かならず真理においての交わりでなければならない。そして、真理においての交わりとは、つまり過去現在のすべての教皇たちとの交わりを意味している。もちろん教義がより詳しい説明によって発展することはあれ、過去の教義と矛盾する説明によって進化するのではない。過去の教皇たちとの交わりと「今日の教皇」との交わりとどちらかを選ぶ必要に迫られているとき、それは教会の中で何かがうまく行っていないという印である。それが誰であれ、教皇“その人”(ペルソナ)が、教皇職にあるべきではない干渉をしているという印である。カトリック信者が単一意志説の異端を助長した限りにおいて教皇ホノリウス一世と交わりをもってはならず、もつことができないように、自分の前任の教皇によって排斥され続けてきた現代主義、自由放埒主義(liberalism)、宗教統一を助長した限りにおいて、また“extra Ecclesiam nulla salus”「教会の外に救いなし」という教義の否定である「諸宗教間の対話」を思いつき、全教会を自分の個人的な歪んだ見解に従って、全教会を指導しようとした限りにおいて、カトリック信者はこのような限りにおける教皇パウロ六世と交わりをもつことができない。
 選択の基準
 以上述べて来たことから、次のことが明らかになってくる。権威の正当な行使とこの権威を委託された人の個人的なやり方との区別するのに要求される基準は、主観的ではなく客観的であるということ、また「信仰の保護者」である教会の聖伝によって、すべてのカトリック信者に与えられていることである。
 ──「我々は教会の初期の聖伝から離れるべきでなく、教会の常変わらぬ聖伝を通して我々に伝えられた、天主の教会が我々に教えること以外の何物をも信じるべきではない。」
 ──「本当の知恵は、司教の後継によって我々にまで伝えられた…使徒たちの教えである。」
 ──「使徒たちの教会、すなわち、信仰の母にして源である使徒たちの教会の教えにかなうすべての教えは真なる教えだと宣言されなければならない。
 なぜなら、この教えこそ教会が使徒たちから受けたものであり、使徒たちがキリストから受けたものであり、キリストが天主御父から受けたものであることに、疑いの余地がないからである。」
La « personne » et la « fonction » du Pape - District de Suisse




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