離教にあらず、破門にあらず 1988年6月30日の司教聖別の考察:時間と空間を超えた教会の伝えられた真の一致を守るために (その4)
宗教統一:教会の一致に対する攻撃
信仰の一致は「意志の調和」と「行動の合致」との「必要不可避の基礎」であるから、すなわち、教会におけるすべての一致の基礎であるから、教会当局が、「信仰の一致」に多かれ少なかれ深刻に反する「交わりの一致」又は「統治の一致」を要求するとき、その要求は教会の一致に対する攻撃となる。
教皇レオ十三世は、既に1899年に、Testem benevolentiaeのなかでこう書いている。
「彼ら[活動主義のアメリカニストの司教たちのこと]は、実に、『道を離れたものたちの心を得るために、教義のある部分に関してあたかも重要ではないかのように口を閉ざし、あるいは、教会がいつもそのように信じていた意味を彼らにもはや悟らせないようにある点に関して意味を弱める、お茶を濁すことがふさわしい』と考えている。この考え方がどれほど排斥するに値するかは、わざわざ長い演説をする必要もない。…カトリック教義のある原理を忘却の闇の中に包み込むためにそれを覆い隠そうとする沈黙に、咎めるべき誤りが全くないなどと信じてはならない。なぜなら、キリストの教えのすべてを形成するこれらすべての真理の作り主にして教師はただお一人しかおられないからである。…したがって天主から受けた御教えのいかなる部分も、それがたとえいかなる理由であろうとも、取り除いたり省略することがないように誰しも気をつけなければならない。なぜなら、もしそうするものがいるとすれば、彼は教会から離れてしまったものたちを教会に呼び戻すよりもむしろ、カトリック信者を教会から離れさせることになるであろうからである。願わくは離れたものたちが帰ってくるように! 全くわたしの心にとって、それより願わしいことはない。 彼らが帰ってくるように!キリストの本当の家から遠くさまようものたちがすべて帰ってくるように!しかし、キリストご自身がお示しになったまさにその同じ道以外のいかなるほかの道によらずに! である。」
これについて、いかなる解説も不要である。レオ十三世はここで、平和だけを叫ぶ宗教統一運動は信仰の純粋さと完全さを損なわせるものであること、そして、そのこと自体が教会内の交わりの一致を損なわせるものであることを明らかに示されたのである。
そして、第二バチカン公会議以来長々と説かれ続けているのはまさにこの平和一本槍の宗教統一運動なのであり、この宗教統一運動の「もはや後戻りできない」道を歩み続けることは、信仰と完全性と純粋さを損ない続けようとすることに等しいことはわざわざ証明するに及ばない。そしてそのことは完全にアシジでの宗教統一祈祷会が示しているように、教会内の一致を引き裂いているのである。
レオ十三世が「カトリック信者を、教会から離れさせることになるであろう」と言っていることに戻れば、実に、もし信者が自分自身により、自分から、非難されるに値するやり方で離れない限り、誰ひとりとしてカトリック信者を教会から離れさせることはできないからである。教会当局の指針の為に一時の間これから距離を置いたとしてもそれは教会から離れたことを意味しているのではない。むしろその反対である。『カトリック神学大辞典』はこう書いている。
「少なくとも十四、十五、十六世紀の中世の神学者たちは、離教(schismus)とは教会の一致からの非合法的な分離を意味するのだということを記そうと大変注意を払っている。なぜなら、彼らによれば、教皇が誰かに悪いことをあるいはふさわしくないことを命じた場合、彼が教皇に従順たることを拒んだときのように、至って合法的な分離がありうるからである(Terrecremata著: Summa de Ecclesia)。このことを考察するのは当然で全く余計なことかのように思われる。[しかし今日ではそうではない!]そして、不正当な破門のような場合など、一致からの、単なる外的で表面的にしかすぎない分離のケースがありえる。」(comme dans le cas de l'excommunication injuste, il y aurait là une séparation de l'unité purement extérieure et putative. )
Dictionnaire de Théologie catholique, sous schisme, t. XXVII, col. 1302.
Oecuménisme : une atteinte à l'unité de l'Église - District de Suisse
宗教統一:教会の一致に対する攻撃
信仰の一致は「意志の調和」と「行動の合致」との「必要不可避の基礎」であるから、すなわち、教会におけるすべての一致の基礎であるから、教会当局が、「信仰の一致」に多かれ少なかれ深刻に反する「交わりの一致」又は「統治の一致」を要求するとき、その要求は教会の一致に対する攻撃となる。
教皇レオ十三世は、既に1899年に、Testem benevolentiaeのなかでこう書いている。
「彼ら[活動主義のアメリカニストの司教たちのこと]は、実に、『道を離れたものたちの心を得るために、教義のある部分に関してあたかも重要ではないかのように口を閉ざし、あるいは、教会がいつもそのように信じていた意味を彼らにもはや悟らせないようにある点に関して意味を弱める、お茶を濁すことがふさわしい』と考えている。この考え方がどれほど排斥するに値するかは、わざわざ長い演説をする必要もない。…カトリック教義のある原理を忘却の闇の中に包み込むためにそれを覆い隠そうとする沈黙に、咎めるべき誤りが全くないなどと信じてはならない。なぜなら、キリストの教えのすべてを形成するこれらすべての真理の作り主にして教師はただお一人しかおられないからである。…したがって天主から受けた御教えのいかなる部分も、それがたとえいかなる理由であろうとも、取り除いたり省略することがないように誰しも気をつけなければならない。なぜなら、もしそうするものがいるとすれば、彼は教会から離れてしまったものたちを教会に呼び戻すよりもむしろ、カトリック信者を教会から離れさせることになるであろうからである。願わくは離れたものたちが帰ってくるように! 全くわたしの心にとって、それより願わしいことはない。 彼らが帰ってくるように!キリストの本当の家から遠くさまようものたちがすべて帰ってくるように!しかし、キリストご自身がお示しになったまさにその同じ道以外のいかなるほかの道によらずに! である。」
これについて、いかなる解説も不要である。レオ十三世はここで、平和だけを叫ぶ宗教統一運動は信仰の純粋さと完全さを損なわせるものであること、そして、そのこと自体が教会内の交わりの一致を損なわせるものであることを明らかに示されたのである。
そして、第二バチカン公会議以来長々と説かれ続けているのはまさにこの平和一本槍の宗教統一運動なのであり、この宗教統一運動の「もはや後戻りできない」道を歩み続けることは、信仰と完全性と純粋さを損ない続けようとすることに等しいことはわざわざ証明するに及ばない。そしてそのことは完全にアシジでの宗教統一祈祷会が示しているように、教会内の一致を引き裂いているのである。
レオ十三世が「カトリック信者を、教会から離れさせることになるであろう」と言っていることに戻れば、実に、もし信者が自分自身により、自分から、非難されるに値するやり方で離れない限り、誰ひとりとしてカトリック信者を教会から離れさせることはできないからである。教会当局の指針の為に一時の間これから距離を置いたとしてもそれは教会から離れたことを意味しているのではない。むしろその反対である。『カトリック神学大辞典』はこう書いている。
「少なくとも十四、十五、十六世紀の中世の神学者たちは、離教(schismus)とは教会の一致からの非合法的な分離を意味するのだということを記そうと大変注意を払っている。なぜなら、彼らによれば、教皇が誰かに悪いことをあるいはふさわしくないことを命じた場合、彼が教皇に従順たることを拒んだときのように、至って合法的な分離がありうるからである(Terrecremata著: Summa de Ecclesia)。このことを考察するのは当然で全く余計なことかのように思われる。[しかし今日ではそうではない!]そして、不正当な破門のような場合など、一致からの、単なる外的で表面的にしかすぎない分離のケースがありえる。」(comme dans le cas de l'excommunication injuste, il y aurait là une séparation de l'unité purement extérieure et putative. )
Dictionnaire de Théologie catholique, sous schisme, t. XXVII, col. 1302.
Oecuménisme : une atteinte à l'unité de l'Église - District de Suisse