2020年12月13日(主日)待降節第3主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖パウロは言います、「常に喜んでいなさい。主は近いから。」
洗者聖ヨハネの元に、司祭やレビ人たちが送られました。なぜかというと、「時は既に近くて、救い主が来られる時はもう来ている。もしかしたら有名なあのヨハネが、メシアなのかもしれない」と人々は思っていました。
なぜかというと、お父さんはエルサレムの有名な司祭、聖なる司祭、そしてお母さんは聖エリザベト、立派な婦人で、しかもそのヨハネが生まれた時には、奇跡的な誕生の話が有名だった、啞が話せるようになった、ビジョンを見た、有名な人。
そしてヨハネも、エルサレムで首都で勉強した、聖書を学び、学識があり、そして全てを捨てて、あのアーロンの家系の、大司祭の家系の、有名な名門の家の優等生、その子が、聖人のような神童のヨハネが、今や全てを捨てて、砂漠で祈りと苦行の生活をしている。そして数千人の弟子たちが彼の前に集まっている。
「やはり、これだ。あなたがメシアに違いありません。あなたがそうなら、私たちはあなたの元に付いて行きます。私たちはあなたの弟子になります。あなたは特別な方で、私たちはちょっと遠くにいますけれども、でもそれでもあなたに付いて行きましょう。さぁ教えて下さい。あなたはメシアですか?」
ヨハネは答えます、「違う、そうではない。絶対違う。」
「エリアですか?」「そうでもない。」
「預言者ですか?」「違う。」
「あなたは一体何なのですか?」「ただの声だ。砂漠で叫ぶ、メシアの準備をするただの声だ。私の後に来られる方は、本当の救い主は、私より前におられる方で、私はその前に屈んでその草履を温める為に懐に入れる価値もない。履物の紐を解く、触る価値もない、なんでもない者だ。」
これほどの証言があったにも関わらず、何故ユダヤの知識人たちは、金持ちたちは、上流階層たちは、イエズス様を受け入れる事ができなかったのでしょうか?洗者聖ヨハネの言葉に、証言に従う事ができなかったのでしょうか?
イエズス様がもしかしたらあまりにも御謙遜で、ナザレの田舎の寒村の貧しい生まれで、生まれた場所はベトレヘムかもしれませんが、馬小屋で、お父さんは大工で、お母さんは普通の名も知れない、そして貧しい、学校にも行っていない、天主であるにも関わらず、これほど御謙遜になったその謙遜のその極み、その私たちへの愛の極みを見て、ユダヤ人たちは、その天主のやり方に理解ができなかったのかもしれません。
上層階級はそれを、その主の御謙遜のやり方に、あまりにも御謙遜であるので、それが本当の天主なのだろうか、という事がもしかしたら理解できなかったのかもしれません。
しかし、事実はそうでした。真の天主、真の天主よりの真の天主、真の光よりの真の光、天主聖父のその御一人子は、こうやって私たちのすぐ近くに来て、私たちと同じような生活をされて、私たちのすぐ傍に来られようとします。
この主の御謙遜と愛の中に、深く入る事に致しましょう。いつも喜んでいて下さい。主はこんなに近くにおられます。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖パウロは言います、「常に喜んでいなさい。主は近いから。」
洗者聖ヨハネの元に、司祭やレビ人たちが送られました。なぜかというと、「時は既に近くて、救い主が来られる時はもう来ている。もしかしたら有名なあのヨハネが、メシアなのかもしれない」と人々は思っていました。
なぜかというと、お父さんはエルサレムの有名な司祭、聖なる司祭、そしてお母さんは聖エリザベト、立派な婦人で、しかもそのヨハネが生まれた時には、奇跡的な誕生の話が有名だった、啞が話せるようになった、ビジョンを見た、有名な人。
そしてヨハネも、エルサレムで首都で勉強した、聖書を学び、学識があり、そして全てを捨てて、あのアーロンの家系の、大司祭の家系の、有名な名門の家の優等生、その子が、聖人のような神童のヨハネが、今や全てを捨てて、砂漠で祈りと苦行の生活をしている。そして数千人の弟子たちが彼の前に集まっている。
「やはり、これだ。あなたがメシアに違いありません。あなたがそうなら、私たちはあなたの元に付いて行きます。私たちはあなたの弟子になります。あなたは特別な方で、私たちはちょっと遠くにいますけれども、でもそれでもあなたに付いて行きましょう。さぁ教えて下さい。あなたはメシアですか?」
ヨハネは答えます、「違う、そうではない。絶対違う。」
「エリアですか?」「そうでもない。」
「預言者ですか?」「違う。」
「あなたは一体何なのですか?」「ただの声だ。砂漠で叫ぶ、メシアの準備をするただの声だ。私の後に来られる方は、本当の救い主は、私より前におられる方で、私はその前に屈んでその草履を温める為に懐に入れる価値もない。履物の紐を解く、触る価値もない、なんでもない者だ。」
これほどの証言があったにも関わらず、何故ユダヤの知識人たちは、金持ちたちは、上流階層たちは、イエズス様を受け入れる事ができなかったのでしょうか?洗者聖ヨハネの言葉に、証言に従う事ができなかったのでしょうか?
イエズス様がもしかしたらあまりにも御謙遜で、ナザレの田舎の寒村の貧しい生まれで、生まれた場所はベトレヘムかもしれませんが、馬小屋で、お父さんは大工で、お母さんは普通の名も知れない、そして貧しい、学校にも行っていない、天主であるにも関わらず、これほど御謙遜になったその謙遜のその極み、その私たちへの愛の極みを見て、ユダヤ人たちは、その天主のやり方に理解ができなかったのかもしれません。
上層階級はそれを、その主の御謙遜のやり方に、あまりにも御謙遜であるので、それが本当の天主なのだろうか、という事がもしかしたら理解できなかったのかもしれません。
しかし、事実はそうでした。真の天主、真の天主よりの真の天主、真の光よりの真の光、天主聖父のその御一人子は、こうやって私たちのすぐ近くに来て、私たちと同じような生活をされて、私たちのすぐ傍に来られようとします。
この主の御謙遜と愛の中に、深く入る事に致しましょう。いつも喜んでいて下さい。主はこんなに近くにおられます。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。