アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
参考資料として、カトリック教会の高位聖職者であるカルロ・マリア・ヴィガノ大司教(元在米バチカン教皇大使)の発言をご紹介いたします。
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教から、バチカンの担当省による奉献生活に向けられた最新文書についての痛みを感じさせる考察を受け取ったマルコ・トサッティ氏は、「Stilum Curiae」(教皇庁のペン)の愛する友人の皆さん、そして敵の皆さんに向けて、 的を射たこの考察をお読みください、と紹介しています。
この考察を読むのは、悲しみです。つらい現実に向き合って直視するのは心が引き裂かれる思いがします。ヴィガノ大司教が今のバチカンの動きをどのように見ておられるのかは日本語ではあまり紹介されていないので、今のバチカンと世界の動きの理解を深めるために、参考情報として掲載いたします。
この記事で、ヴィガノ大司教の訴えたいことの核心は次です。
「そのために私たちは祈り、断食し、償いをし、天主と至聖なる童貞聖母マリアのご介入をこいねがわなければなりません。…奉献された霊魂たちが自らの召命の犠牲的な次元を再発見し、燔祭のいけにえとして自らを捧げることが、これまで以上に必要なのです。結局のところ、これこそが修道者としての召命の核心であり、キリスト者であることそのものなのです。…完徳の状態を選んだという特権を持つ人々が・・・新たな熱意をもって祈り、熱心に断食し、償いをするように、と勧めます。最後に、聖霊が、迷いに導かれた聖職者と修道者に触れてくださり、彼らに悔い改めの賜物と赦しの恩寵が与えられるよう、お願いしましょう。」
2021年2月2日
PARS HEREDITATIS MEÆ(主こそ私の遺産の分け前)
Dominus pars hereditatis meæ et calicis mei:
tu es qui restitues hereditatem meam mihi.
Ps 16: 5
主は、私の遺産と、私の杯との分け前
御身こそが、私の遺産を私に回復させてくださる方なり。
詩篇16章5節
第25回、世界奉献生活の日の機会に
2月2日、教会は至聖なるマリアの御潔めと私たちの主イエズス・キリストの神殿での奉献を祝います。この祝日は、この日の典礼中にローソクが祝別されることから「ローソク祭」(Candlemas)とも呼ばれていますが、これは悔い改めの性質を持ったマリア様の祝祭として始まりました。古代のローマにおいて、フォロ・ロマーノの【クリア・ユリアにあった】聖アドリアノ教会から聖マリア大聖堂までの行列では、ローマ教皇は黒い祭服を着て裸足で歩かなければなりませんでした。1962年のヨハネ二十三世の改革によってようやく「キリスト論の次元」が重視されるようになりました。堅固な教理と健全な霊性に根ざした霊魂は、教会が御母に捧げる讃美によって御子の栄光がぼかされるとは考えません。なぜなら、御子だけが、私たちが御母において祝う偉大さすべての源泉であるからです。
旧約の戒律によると、イスラエルの女性は40日間、幕屋に近づくことを禁じられ、その期間の終わりに、燔祭で焼き尽くされる小羊に、罪のために捧げられるキジバトやハトを加えた潔めのいけにえを捧げなければなりませんでした。天主の掟は、出産したばかりの女性の潔めと同時に、律法によれば主の所有物であると宣言されていた長子たちは、一人につき20オボロス【重さの単位】の5シェケルという代価で贖われなければならない、と定めていました。
このような女性の潔めの儀式と長子の贖いの儀式は、罪の汚れなく御孕りになり、出産前も出産中も出産後も永遠の童貞として保たれていた至聖なるマリアにも、アダムにおいて堕落した人性の贖いの作者ご自身である天主の御子にも、必要でなかったのは明らかです。しかし,いと高き御者の助言により、律法への従順と自発的な服従というこれらの厳粛な行いは,天主の御母とその天主なる御子の謙遜を示しているのです。この日、エルザレムの第二神殿は、ハガイの預言によれば、「すべての国の望むもの」(ハガイ2章7節)【であるキリスト】が臨在されたことによって聖別されました。幼児イエズスは、シメオンの舌を解き放って「今こそ去らせ給わん」(Nunc dimittis)の賛歌を歌わせました。
この日、聖なる教会は伝統的な典礼でその子らを天主の御稜威(みいつ)に捧げ、聖なる剃髪式と下級聖職によって天主の奉仕のために聖別します。悔い改めのしるしであり、この世の虚栄心の放棄のしるしである髪を切る儀式の間、詩篇から取られた応誦(antiphon)が唱えられます。「Dominus pars hereditatis meæ et calicis mei: tu es qui restitues hereditatem meam mihi [主は、私の資産と、私の杯との分け前、御身こそが、私の遺産を私に回復させてくださる方なり。]」(詩篇16章5節)。これらの素晴らしい言葉は、主が私たちの遺産の保証人であり、アダムの罪によって私たちが失った遺産の完全な所有権へと私たちに取り戻してくださるお方であることを宣言しています。
【訳注:「剃髪式」(トンスラ)というのは、平信徒から聖職者になる時に行った宗教儀式だった。「下級聖職」は、叙階の秘蹟の七つの階級のうちの下級四品級で、西暦252年に教皇コルネリウスがこの四つの品級について言及している手紙を残している。聖伝として伝えられてきた剃髪式と下級聖職、さらに副助祭は、1972年の自発教令によって突然行わなくなった。】
こうして聖職者は、白いスルプリを身に着けながら、次のように唱えます。「Indue me, Domine, novum hominem, qui secundum Deum creatus est in justitia, et sanctitate veritatis[主よ、私に新しい人を着せ給え。正義のうちに、そして真理の聖性のうちに、天主に従って創造された新しい人間を]」。
この祈りで、正義のうちに、真理の聖性のうちに、天主の似姿に創造された新しい人間をキリストにおいて見いだすことを思い起こすのです。なぜなら、まことの愛徳の炎が燃え上がることができるのは、聖三位一体の天主としての属性である真理の光においてだけだからです。私たちを兄弟と相互に結びつける兄弟愛は、実際には天主の父性を前提としているのですが、天主がおられなければ、不毛な博愛主義、人間中心主義的な連帯、そして暗いフリーメーソンの友愛へと堕落してしまいます。
1月18日、奉献・使徒的生活会省(Congregation for Institutes of Consecrated Life and Societies of Apostolic Life)は、すべての奉献された男女に宛てた書簡を発表しました。
第25回世界奉献生活の日のために公布された文書の中に、至聖なる童貞マリアの御潔めの神秘や神殿での主の奉献についてのある種の教理的、道徳的、霊的な言及があるのではないかと想像した人は誰であれ、確実に失望するでしょう。実際、その人はまた、この冷たい官僚的な散文で書かれた書簡が、ローマ教皇の名によってカトリック世界のすべての修道者を主宰するローマ教皇庁の部署から発行されたのではなく、灰色のジョージ・オーウェルの著書「1984年」の役所である真理省から発行されたのだ、と信じてしまうほどです。しかし、本文を最後までスクロールすれば十分です。(ことわざにもあるように、in calce[最下部に・最後に])、ジョアン・ブラス・ジ・アビス長官とホセ・ロドリゲス・カルバーヨ次官(フランシスコ会)の署名を読めば、納得します。ベルゴリオの教皇庁という天空で、追随を許さぬ星のように輝く二人の人物ですから。
したがって、少なくともこの書簡を受けた者は、この書簡には、2018年11月21日にロドリゲス・カルバーヨが修道女たちに語った汚い言葉「皆さんは大人の女性(adult women)です! 大人(adult)として自分の人生に取り組んでください、姦淫の女(「adulteresses)としてではなく」(このサイト参照)がないのを見て、それが最小限の人間的な救いではないとしても、驚くことはまったくありません。
同省の書簡は、「政治的に正しい」(politically correct)ことの一例です。サンタ・マルタ館の位階階級たちは男女平等に無造作に好意を寄せていますが、男女平等は、今日の[政治的に]配列された思想ですし(私たちは、新しい改訂版となった改革典礼の「祈れ、兄弟たち」(Orate fratres)および女性読師と女性侍祭という波に乗っているのです)、新しい言い方に特徴的なすべての表現があります。つまりこの文書には、パンデミックに、「友愛への普遍的な願望」「友愛と社会的友情という新しい夢」に言及し、そして修道者が「普遍的な兄弟愛の建築家、私たちの共通の家の管理者」となり「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹」[同文書から引用]になるように招待することにも力を入れています。最後には「フラテッリ・トゥッティ」(すべての兄弟たち)の世界宗教という不敬虔の叫びで締めくくられています。「では、夢を見ようではありませんか、単一の人間の家族として、同じ肉を共有する仲間の旅人として、私たちの共通の家である同じ地球の子どもとして、私たち一人一人が自分の信念と確信の豊かさをもたらし、私たち一人一人が自分の声をもつすべての兄弟姉妹として!」。
では、同省が奉献された人々に提供する実践的な提案とは何でしょうか? その提案はどのようにして修道会がそれぞれのカリスマ、聖なる会則、創立者聖人の会憲に忠実であるよう助けようとするのでしょうか? ここに長官の高尚な言葉があります。「では、寄り添い、変容し、創造する方法を創り出すことが大切です。異なる民族との世代間の出会いと対話の文化を促進するためのプロジェクトを発展させること、自分自身の召命共同体から始めて、地球の隅々まで、そしてすべての被造物に手を差し伸べることです。なぜなら、このパンデミックの間に、これほどまでにすべてがつながり、すべてが連携し、すべてが関係していることを経験したことはかつてないからです」(こちら)。
グレート・リセットの推進者である世界経済フォーラムでさえ、これ以上良い表現はできませんでした!アビラの聖テレジア、聖ドミニコ、聖クララ、聖フランシスコ・サレジオ、その他すべての修道会の創立者である聖人たちが、自分たちの創立した修道会が組織的に解体されることによって、傷つけられたままになっており、聖座の言葉が世界統一主義者のエリート、悪名高いセクト、キリストの敵たちからの親切な喝采を受けているときに、何が問題なのでしょうか!
「寄り添い、変容し、創造する方法を創り出す」とは、本来のカリスマ【=修道会の特長的な使命】への忠誠心を否定し、抵抗する者を再教育し、反抗する者を力づくで拘束することへの誘いではないとすれば、他に何を意味するのでしょうか? この「出会いと対話の文化を促進するためのプロジェクトを発展させること」とは、宗教的無関心主義や公会議のエキュメニズムの適用ではないとすれば、いったい何なのでしょうか?
ここには、超自然的な衝動を一切排除した、修道生活に関する悲痛な水平方向のビジョンだけしかありません。しかも、教会の貴重な宝として修道生活を守るべき人々が、そのようなビジョンを抱いているのです。
これは「信仰に関係なく、すべての人の兄弟姉妹」になることが可能なビジョンであり、修道者という身分を受け入れることを無意味とし、そればかりか、洗礼そのものも、そして洗礼とともに贖いを、教会を、そして天主さえも必要としないビジョンです。
このような危機の時代には、権力者に選ばれた者が誰であろうと、その権力者が命令する被統治者たちから切り離されていることを、私たちは理解しています。いわゆるパンデミックは、統治する人々が超国家的権力の命令に従順である一方で、最近の適切な事例によれば、市民は自分の権利を奪われ、いかなる形の反対意見も検閲されたり、精神科の治療が必要な扱いをされたりしていることを示しています。
教会でも同じことが起こっています。位階階級の最高レベルの人々はこの同じ権力に服従し、信徒の権利を奪って、信仰を放棄するつもりも、教会がその役務者たちに破壊されるのを見るつもりもない人々を検閲しているのです。ジョアン・ブラス・ジ・アビスはホルヘ・マリオ・ベルゴリオと完全に一致しており、両者とも新世界秩序(New World Order)の確立を熱烈に支持しています。
これは、私たちが日々直面しなければならない、つらい現実であり、そのために私たちは祈り、断食し、償いをし、天主と至聖なる童貞【聖母マリア】のご介入をこいねがわなければなりません。この超自然の戦いにおいて、修道者の男女の貢献が土台となるものです。だからこそ、奉献された霊魂たちが自らの召命の犠牲的な次元を再発見し、燔祭のいけにえとして自らを捧げることが、これまで以上に必要なのです。結局のところ、これこそが修道者としての召命の核心であり、キリスト者であることそのものなのです。祝されし永遠においてキリストの右に座すために、キリストに似た者となって十字架上のキリストに従うのです。
ですから、私は、完徳の状態を選んだという特権を持つ人々を招いて、彼らが新たな熱意をもって祈り、熱心に断食し、償いをするように、と勧めます。最後に、聖霊が、迷いに導かれた聖職者と修道者に触れてくださり、彼らに悔い改めの賜物と赦しの恩寵が与えられるよう、お願いしましょう。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年2月2日
童貞聖マリアの御潔めの祝日に
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Vita Consacrata. La Desolante Visione che Promana dal Vaticano