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聖ピオ十世の最初の回勅『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』

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聖ピオ十世の最初の回勅『エ・スプレーミ・アポストラートゥス』
エ・スプレーミ・アポストラートゥスマニラのeそよ風1903年10月4日
全てのキリストの下に集めるという教皇職についての聖ピオ十世の回勅日本語訳:聖ピオ十世会
聖ピオ十世
 尊敬する兄弟たちである、聖座と平和と交わりを保つ全ての総大司教、首座大司教、大司教、司教、および、その他の教区長たちに、教皇ピオ十世は、教皇のあいさつと祝福をおくる。
1. 使徒座の最高の高みから(E supremi apostolatus cathedra)、私が天主の計り知れない配慮によって上げられたこの職座から初めてあなたたちに発言するとき、私が教皇職の重い責任をどれほどの涙と篤い祈りをもって避けようと努力したかと言うことを思い出させることは無駄なことではない。功徳は全く対応してはいないけれども、聖アンセルモが、自分はそれに反対で嫌であったにもかかわらず司教職の誉れを受け入れるように強いられた時の嘆きを私のものとすることが出来るようである。
 彼がその時あかしした悲しみの証言を私も今回再現する番であった。それは私がイエズス・キリストの群れの牧者という恐るべき使命をどのような霊魂の状態と意志とを持って受け入れたかを示すためである。彼はこう書いていた。
 「私の目の涙も叫びもその証人である。深い苦悩の内にある私の心からでる嘆きもそうである。それらは、私の上にカンタベリーの大司教職という天災が降り落ちてくる以前には、似たような悲しみが私に襲ってきたことが無かったと思われるほどであった。この日、私の顔をそばで見た人々はそれを無視することが出来なかった。生ける人と言うよりもむしろ死体にずっと近かった。私は驚きと苦しみとで蒼白だった。この選挙、いやむしろこの暴力に私はここまで抵抗した。私は真実を言う。私にできるかぎり抵抗した。しかし、望もうと望むまいと、今では私はますますはっきりと天主の計画が私の努力とは反対であると言うことを認めざるを得ない。私にとってどんな方法によってもこれを避けることが出来ないほどである。人々からの暴力と言うよりも、いかなる知恵もそれに打ち勝つことの出来ない天主からの暴力に負け、このカリスを私が飲まないで済むようにこれが私から遠ざかるようにと私にできるかぎりのすべての努力をした後に、私はついに自分自身の意見、自分の意志を捨てると言う決意以外のいかなる決意もないこと、そして天主の裁きと御旨とに完全に任せきるしかないと分かった。」
2. 確かに、私にとってこの重荷を避ける多くの真剣の動機が不足していたわけではない。私が小さいものであるという理由により、私が教皇職の名誉にふさわしいなどと決して考えることが出来ないということを考えなくとも、レオ十三世という、ほとんど26年の間教会を完全な知恵を持って統治し、その業績の輝きによって、敵どもの感嘆さえも勝ち得るほどであった、精神の崇高さと気高い徳を現し、その記憶を不死のものとした教皇の後継者に、私が選ばれるのを見て、どうして深く感動しないでいられようか?
 さらに、その他多くの理由には沈黙するとして、私は現代の人類の不吉な条件を考えて一種の恐怖に囚われていた。かつて無かったほど、今この時代に、人類社会が苦しんでいる深く深刻な病を誰が無視することが出来るだろうか。この病気は日に日に深刻に重大になっており、神髄まで犯しつつ、人類の廃墟へと引きずっている。この病とは、尊敬する兄弟たちよ、あなたたちがよく知っているとおり、これこそ天主を打ち捨てることであり、背教である。預言者のこの言葉に従って、この背教以外のいかなるものも、いささかの疑いもの無く、人類を確実にその崩壊まで導くものである。「見よ、あなたを離れるものは滅びる。」(詩篇73:27)かくも大いなる悪に対して私は、自分に委ねられた教皇職の力によって、解決策をもたらす義務をもっていると理解していた。私は天主のこの命令が私に与えられていることを理解していた。「今日、私は諸々の民の上に、国々の上に、おまえを立てた。根こそぎするために、倒すために、壊すために、打ちひしぐために、立てるために、植えるために。」(エレミア1:10)しかし、私は自分の弱さを良く自覚しており、かくも多くの困難を伴い、しかしいささかの遅れも許さないこの職務を担うのを恐れていた。
3. しかしながら、天主は、私の低さを権能のこの充満まで高めてくださることを良しとされたのであるから、私を強めてくださる方において勇気づけられる。天主の力に強められてこの仕事に着手する際、私は、教皇職の行使における私の唯一の目的がすべてをキリストの下に集める(エフェゾ1:10)ことであること、それはキリストが全てであり、全てのうちにまします(コロサイ3:11)ためであることを宣言する。
 おそらく、天主のことを人間的な短い測りで計ろうとして私の内密な考えを探り出そうとしそれを彼らの地上的な見方と彼らの派の利益に向けさせようとする者がいることだろう。これらの虚しい試みの出鼻をくじくために私は、まったき真実において、こう断言する。私は天主の御助けを持って、人類社会のまっただ中において、私にその権威を着せてくださった天主の役務者以外の何ものであることも望まず、それ以外の何ものでもないであろう。
 天主の利益こそが私の利益であり、その利益のために私の力と命を捧げ尽くす、これが私の確固不動の決意である。だから、もし私が霊魂の奥深くにある私のモットーを尋ねられるなら、私はこれ以外のものを与えることが出来ない。すなわち「キリストの下に全てを集める」である。
4. この大いなる業に着手し遂行することを望み、尊敬する兄弟たちよ、私の熱意を駆り立てることがある、それはあなたたちが私にとってこの事業における勇敢な援助者であるのが確実なことである。もし私がそれを疑っていたなら、天主に反乱してほとんどどこででも起こされた、そして今でもなされている不敬な戦争に直面しているにもかかわらず、私は不正にも、あなたたちがその戦いを知らない、あるいは無関心であると思っていたことになっただろう。現代についてこそ、天主に反乱して「異邦の民は乱れて騒ぎ、国々の民は虚しく吠え猛る」(詩篇2:1)ということがこれ以上真実ではありえない。そして天主の敵どものこの叫びはほとんどどこでも聞かれるものとなった。「われらから去り給え。」(ヨブ21:14)そこから、ほとんどの人々は、天主に対する敬意を全く捨て去ってしまった。そこからプライベートな生活においても公的生活においても天主の御稜威に対していかなる敬意も払われないのが生活習慣となってしまった。更には天主についての記憶と概念さえも完全に廃止してしまおうとあらゆる努力と作業を続けている。
5. 慎重に物事を考える人は、かのような精神の廃退は時の終わりについて告げられた諸悪の始まりではないかと恐れることが出来る。そしてこの地上との接触として聖パウロが語る滅びの子(2テサロニケ2:3)が本当に私たちの間に到来したのではないかと。かくも大きな大胆さと怒りを持って人はどこででも宗教を迫害し、信仰の教義に戦いを挑み、天主と人との全ての関係を無に帰そうと頑固な努力を続けている! 他方では、聖パウロの言うには、人としての反キリストの固有の性格は、それに相応しい単語がないほどの厚かましさで、天主の聖名を持つ全ての上に自らを挙げて創造主の地位を横領した、ということにある。それは天主の概念を完全に消し去ってしまうことは不可能ではあるが、反キリストは天主の御稜威を軽蔑し、目に見える世界を自分のために神殿のようなものとさせ、そこで同類のものたちから礼拝を受けると主張するのである。彼は天主の神殿に座し、そこであたかも自分自身が天主であるかのように示してしている。(2テサロニケ2:4)
6. 弱き死すべき人間たちが天主に対して挑む戦いの結果がどうなるかは、健全な精神の持ち主であれば、全く疑うことが出来ない。確かに自分の自由を乱用することを望む人間が、創造主の最高の権利と権威を犯すことができるかもしれない。しかし勝利は常に創造主のものである。それではまだ言い足りない。人間が勝利の希望を持って全く大胆にも天主に戦いを挑むとき人間にはほとんど完全な廃墟しかない。天主ご自身がそれについて聖書の中で私たちに教えている。聖書は、天主があたかもご自身の力と偉大さを忘れて、「あなたは、人間の罪に目を閉じてくださる」(知恵の書11:23)が、しかし後退したかのように見えた後には、「主は眠っていたもののように、ぶどう酒に倒された勇士のように目覚め」(詩篇77:65)、「天主は敵の頭を打ち砕かれた」(詩篇67:22)、それは全てのものが「地の果てまで全て天主が王である」(詩篇66:8)ことを知るためであり、「彼らが人間に過ぎぬことを思い知らせる」(詩篇9:21)ためである。
7. 尊敬する兄弟たちよ、私はこれら全てを揺るがない信仰をもって信じ期待している。しかしだからといって、各自に与えられた能力に従って天主の仕事を早めるために努力しないで良いというわけではない。うまずたゆまずする「主よ立ち給え。人間に勝たせ給うな」(詩篇9:20)という祈りのみならず、更には、これはもっと重要なことであるが、言葉と行いとによって皆の前で、天主が人間と全ての被造物について持つその主権の充満を、天主のために肯定し要求することである。それは天主の権利と命ずる権能が全ての人々によって崇敬を込めて認められ、実際に遵守されるためである。
 この義務を達成することは、自然法に従うばかりではなく、人類の利益のために働くことに繋がる。尊敬する兄弟たちよ、人類の大部分が、一方では文明の進歩を相応しく高揚するのだが、他方ではあたかも全てが全てに対立する戦いであるかのように互いに熱烈に相争っているのを見て、おそれと悲しみとに霊魂がつままされるのを誰が感じないでいられようか? おそらく、平和の望みは全ての心に宿され、平和を願ってそれを口にしないものは誰もいない。しかしこの平和を天主の外に探すものは正気を失ったものである。何故なら天主を追放したところには、正義も追放される。正義がないところには平和のためのいかなる希望も幻想になってしまう。平和は正義の業である(イザヤ22:7)。平和、つまり秩序の平穏を愛するが故に、「秩序の党」と呼ぶところのものを作るためにグループを作っている人々が存在し、しかもそのような者たちが多くあると言うことを私は知らないわけではない。しかし、何と言うことか! 彼らの期待は全く虚しく、全くの骨折り損だ! この世の物事の大混乱のまっただ中で平穏を再確立することが出来る秩序の党はただ一つしかない。それは天主の党である。天主の党こそを私たちは促進しなければならない。そしてこれにこそ私たちのできるかぎりの支持を与えなければならない。もしも私たちが公の安全保障を少しでも願っているのなら。
8. しかしながら、尊敬する兄弟たちよ、天主の御稜威と主権に関して諸国が戻ってくるために私たちがいろいろな努力を払ってきたが、イエズス・キリストによる以外には達成しえないだろう。使徒聖パウロは私たちに「既におかれているイエズス・キリスト以外のほかの土台を誰も置くことが出来ない」と言っている(1コリント3:11)。キリストだけが「聖父が聖別して世に送られた」(ヨハネ10:36)者であり、「聖父の栄光の輝き、天主の本性の型」(ヘブレオ1:3)、真の天主かつ真の人であり、彼無くしては誰も、正しく天主を知ることが出来ない方である。何故なら、「聖父が何ものかを知っているのは、聖子と聖子が示しを与えた人のほかにはない」(マテオ11:27)からである。
 ここから、全てをキリストの下に集めることと、全ての人を天主への従順へと導くことは唯一の同じ事であることが分かる。従って、私たちの全ての努力が向かわなければならない目的とは、人類をキリストの支配下におくことである。こうすることによって、人は天主へと導かれるのである。
 それは、唯物論者が狂った夢物語の中で考え出した人間のことに無関心で死んだ神ではなく、生ける真の天主、本性の一性において三のペルソナの天主、この世の創造主、その無限の摂理によって全てのことに関わる天主、悪人を罰し善徳に報いを与える極めて正義な立法者である天主のことを語っているのである。
9. さて、キリストにまで辿り着く道はどこにあるのだろうか? それは私たちの目の前にある。それは教会である。聖ヨハネ・クリゾストモは私たちに正しくもこう言っている。「教会はおまえの希望である。教会はおまえの救いである。教会はおまえの避難所である。」(Hom. de capto Euthropio, n. 6.)
 そのためにこそキリストは、その御血の代価を持って勝ち取った後に、教会を創立したのである。そのためにこそキリストは教会にご自分の教えと掟を委ね、同時に、人々の聖化と救いのために、教会に天主の聖寵の宝を惜しみなく注いたのである。
 尊敬する兄弟たちよ、私とあなたたちとにどれほどの業が委ねられているかを見てほしい。それは、キリストの知恵から遠く離れて道に迷っている人類社会を、教会への従順へと導くことである。教会は彼らを今度はキリストに服従させるだろう。そしてキリストは天主へと服従させるだろう。もしも天主の聖寵によってこの事業が私たちに与えられているとするなら、願わくは不正が正義に場所を譲るのを見る喜びを私たちが持つだろう。そして私たちは天のいと高きところでこのとどろく声を聞き幸せであろう。「天主の救いと力と国とそのキリストの権威は既に来た。」(黙示録12:10)
 しかし結果が私たちの望みに対応するためには、全ての手段を使ってどのような犠牲を払っても、現代私たちが生きる時代に固有の、この怪物のような厭うべき不敬を全く根こそぎにしなければならない。この不敬によって人は天主の代わりに立っている。聖なる福音のいとも聖なる法律と勧告を、かつての尊厳まで高め直さなければならない。婚姻が聖なるものであることについて、青少年の教育について、この世の物の所有と使用について、国家の行政を司る者の義務について、教会によって教えられてきた真理を高く宣言しなければならない。最後に、法とキリスト教的制度に従って社会の諸階級の間にある正義に適ったバランスを再確立させなければならない。
 これこそが、天主の明らかな御旨に私を従わうために、私の教皇職の間、私の霊魂の全ての力を使って達成しようとする原理である。
 尊敬する兄弟たちよ、あなたたちの役割は、全てにおいてイエズス・キリストを形作る(ガラチア4:19)以外の何ものをも求めずに、あなたたちの聖性とあなたたちの知識、経験、徳に天主の栄光を求める熱心とによって私を助けてくれることである。
10. かくも高い目的に達成するために相応しい手段は何であろうか。それらは自明と心に浮かぶものであるから、それらを指摘するのはよけいなことであると思われる。願わくはあなたたちの第1の心遣いが、彼らの召命による義務により他の人々においてキリストを形作るように召されている人々においてキリストが形作られるようにとすることであるように。尊敬する兄弟たちよ、私はここで司祭たちについて語っている。何故なら、司祭職の名誉を持つ者たちは、彼らが共に生きる人々の中において、聖パウロが受けたと証言しているのと同じ使命を持っていると言うことを知らなければならない。聖パウロはこの優しい言葉を語っていた。「小さな子らよ、あなたたちのうちにキリストが形作られるまで、私はまた産みの苦しみを受ける。」(ガラチア4:19)ところで、もし彼らがまずキリストを着ていなかったら、聖パウロと共に「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の内に生き給うのである」(ガラチア2:20)「私にとって生きるのはキリストである」(フィリッピ1:21)と言うことが出来るまでキリストを着ていなかったら、彼らは一体どのようにしてこの義務を果たすことが出来るだろうか。また、全ての信者たちは、キリストの充満の年齢の測りに従って、完全な人間の状態へと向かわなければならないが、この義務は主要には、司祭の役務を行使する者たちに属するものである。それはただ単に彼らがイエズス・キリストの権能に参与するからだけではなく、イエズス・キリストの御業を真似て、それによって自分の内にキリストの御姿を再生しなければならないからである。
11. もしそうであるなら、尊敬する兄弟たちよ、聖職者たちを聖性へと養成するためにあなたたちがどれほど大きな心遣いをしなければならないだろうか! これを犠牲にするために譲歩することの出来るものは一つもない。従って、あなたたちの熱心の最善のかつ主要な部分はあなたたちの神学校へと向かわなければならない。それは神学校において教えの内容の完璧さと同時に道徳上の聖性が花咲くのを見るほど、神学校には秩序が導入され、学校運営が確保されるためである。神学校をあなたたちの心の最も甘美なところとせよ。この制度の繁栄を保証するためにトリエント公会議がそのいとも高い知恵において規定した全てのことを少しも蔑ろにすることがないようにせよ。青少年の候補者たちを聖なる叙階の秘跡に挙げるときには、聖パウロがティモテオへ書いていたことを忘れることがないように。「軽率に人に按手するな」(1ティモテオ5:22)。非常にしばしば、あなたたちが司祭職に上がるのを認めた者たちがそうあるように、彼らに委ねられた信者たちものちに同じようなものであるだろう(「この父にして、この子あり」と言うように、司祭と信者との間にも頻繁に言える)ということを確信してほしい。それがどのような性格ものであれ、いかなる個人的な利益も顧みてはならない。ただ天主の観点、教会と霊魂の永遠の幸せの観点から考えよ。それは聖パウロが私たちに警告したように「他人の罪に与らない」(1ティモテオ5:22)ためである。
 他方で、神学校を卒業したばかりの新司祭たちについてあなたたちの熱心が行き届かないことがないようにせよ。私はあなたたちに心の底から勧めるが、天の火に燃えているはずのあなたたちの心で、彼らを頻繁に抱きかかえるように。彼らをもう一度暖め、燃え立たせよ。それは彼らが天主と霊魂を勝ち得ることしか願わないようになるためである。尊敬する兄弟たちよ、私は真理の仮面を付けているがイエズス・キリストの香りが全くない或る新しい学問の邪悪な動きに、聖職者たちがつかまされないようにいとも大きな注意を払っている。これは偽りで邪険な議論を帯びて理性一本主義(=合理主義)や、半合理主義の誤謬の道を歩ませようとしている偽りの学問であり、これに対して既に聖パウロはティモテオにこう書いて警戒するように促していた。「あなたに委ねられたものを守れ、虚しい世間話と、偽学問の論争を避けよ。ある人々はそれに執心して信仰の道から迷ったのである。」(1ティモテオ6:20-21)これを言ったのは、学問の全ての分野において有益な学業に身を捧げ、より良く真理を弁護し、信仰の敵のする讒言を論破して勝利を収める準備をしている、称賛に値するこれらの若き司祭たちを裁くためではない。しかしながら、私はこのことを隠すことが出来ない。いや、私はそれをはっきりと公言しよう。私は、教会の聖なる諸学問と世俗の学問を蔑ろにすることなく、天主の名誉を求める熱心に駆られた司祭に固有の諸般の役務を執行しながら、霊魂の利益のために特に身を捧げる者たちを常に優先するし、将来にわたって優先するだろう。
 「子供たちがパンを求めても、さいてやるものはない。」(哀歌4:4)預言者エレミアがかつてしたこの嘆きを現代私たちに当てはめることが出来るのを見て、「私は心に大きな悲しみと絶えまない苦しみを感じている」(ローマ9:2)。実に、聖職者の中には個人的な好みを優先させて、現実に有益であると言うよりも見せかけだけの利益のことに勢力を使って活動しているものは不足していない。他方で、彼らよりも数は少ないかもしれないが、キリストの模範に倣って預言者の言葉を自分のものとしている司祭たちもいる。「主の例は私の上にある。私に油を注いで聖別されたからである。霊は貧しい人々に良い便りをもたらし、捕らわれ人に解放を、盲人に見えることを告げる」(ルカ4:18-19)。
12. しかし、人の道案内は理性と自由であるから、天主に霊魂に対する支配権を復権させる主要な手段は宗教教育であるということが分からない人がどこにいるだろうか。
 イエズス・キリストに敵対し、教会と福音を恐れる人々は、そのどれほど多くが悪意と言うよりもむしろ無知のためにそうしているであろうか! 彼らについてこう言うことが出来るだろう。「かの人々は自分たちの知らぬことを冒とくする」(ユダ10)これは一般大衆や、その社会条件が誤謬に最も近づきやすくしている最も卑しい社会階級の人々のみならず、極めて特別な高等教育を受け上の社会階級にいるような人々にさえもそのことが言えるのである。そこから多くの人々において信仰が喪失している。何故なら「科学の進歩が信仰を窒息させた」のではなく、むしろ無知がそうしたのであると認めなければならない。無知が大きければ大きいほど不信仰というより大きな害を引き起こしている。そのためにこそキリストは使徒たちにこの掟を与えた。「行け、諸国の民に教えよ」(マテオ28:19)。
13. 教える熱心が、それによって全てにおいてキリストを形作ることを期待し役立つような実りをもたらすために、愛徳以外に効果的なものは何もない。おお、尊敬する兄弟たちよ、このころを私たちの記憶の中にしっかりと刻みつけよう。何故なら「主は地震中にはおわさない」(列王上19:11)からである。苦々しい熱心によって霊魂を天主に引き寄せることが出来るなどと期待するのは虚しいことである。誤謬を厳しくしかり、悪徳を荒々しく辛辣に矯正することは非常にしばしば利益よりも大きな損害をもたらすだけである。聖パウロはティモテオに勧告して正しくこう言っている。「繰り返し論じ、反駁し、とがめよ」そして聖パウロは直ぐに言葉を加えて「全ての寛容を持って」(2ティモテオ4:2)と言っている。これ以上にイエズス・キリストが私たちに残された模範に適うものはない。
 イエズス・キリストこそ私たちにこう招いて下さった。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るが良い。私はあなたたちをやすませよう」(マテオ11:28)。私たちの主のお考えでは、この労苦する人、重荷を負う人とは誤謬と罪との奴隷状態にある人々に他ならなかった。この天主なる師には、何と大きな柔和があったことであるか! 不幸な全ての人々に対して何という優しさと、何という同情心をお持ちだったか! 天主の聖心は素晴らしくもイザヤによって私たちにこう描かれている。「私は彼のうちに霊をおく。彼は叫ばず、声を立てず、彼は折れかけたあしを折らず、弱い炎の灯心を消さない」(イザヤ42:1-3)。
 この「寛容で、慈悲に富む」(1コリント13:4)愛徳こそが、私たちに敵意を抱く人々、私たちを迫害する人々までも行き渡らなければならない。聖パウロが高らかに言うように、「侮辱されては祝福し、迫害されては堪え忍び、そしられては慰める」(1コリント4:12-13)のである。もしかしたら、彼らは実際そうあるよりももっと悪いように見えるだけなのかもしれない。彼らが他の人々とつき合っていること、彼らが持つ偏見、彼らが受けた教えや悪い模範、世間体、彼らの受けた愚かな忠告などのために、彼らが不敬の派に与するようになってしまった。しかし、彼らがそう思わせようとしているほどは実際、その心の底では彼らは悪たれてはいない。愛徳の炎がついには彼らの霊魂にある暗闇を追い払い、そこに光と共に天主の平和が支配するようになると期待できないなどと誰が言うことが出来るだろうか? しかし天主はその結果ではなく善意に報いを与えると確信し、うまずたゆまず愛徳を続けなければならない。
14. 尊敬する兄弟たちよ、しかしながら、キリストによる諸国の刷新というこの極めて困難な事業において、あなたたちとあなたたちの聖職者たちが助けもなくそのままであるということは、決して私の考えではない。天主がそれぞれ各自に自分の隣人の世話をするように命じたことを私たちは知っている。(シラの書17:14)司祭職をまとったものだけではなく全ての信者は例外なく天主と霊魂の利益のために働かなければならない。確かにそれは、各々の見解と傾きに従ってであるが、しかしそれは常に司教たちの方針と意志に従ってである。何故なら教会において、命じ、教え、指導する権利は「天主の教会を牧するために、聖霊によって教会の監督と定められたあなたたち」(使徒20:28)司教、以外の誰にも属していないからである。
 常に宗教の善のためという、さまざまな目的のためにカトリック信者たちがグループを作ることは、長い間、私の先任者の教皇たちによって承認され祝福されてきたことである。私も、喜んでこのように美しい事業を褒め、これが広がり、都会でも田舎でも、どこででも栄えるようにとの篤く望む。しかし、それと同時にこれらのグループに参加する人々がキリスト教的生活の義務を忠実に果たすことを、このグループの第1のそして主要な目的として持つように私は求める。実際、権利と義務について数多くの議論を手際よく提示し、それらに雄弁を持って回答を与えたとしても、もしもそれら全てが実践に結びつかなかったら、ほとんど意味がないからである。
 現代が要求しているもの、それは実践である。そしてそれは、無条件に天主の掟と教会の掟を完全に厳しく守ること、宗教を高らかに率直に表明すること、全ての形の愛徳を、自分のためとかこの地上での利益を求めずに実行すること、そのような実践である。
 多くのキリストの兵士たち(=カトリック信者のこと)が示したこのような種類の輝くばかりの模範は、多くの言葉と崇高な議論よりももっと多くの霊魂たちを揺さぶり導いてくれる。その時、おそらく無数の人間が世間体を踏みにじり、全ての偏見と躊躇を取り除いてキリストに帰依し、今度は彼らが、真の確実な至福の保証であるキリストに関する知識とキリストへの愛を促進するのを見ることになるだろう。
 すべての町と村とにおいて、主の掟が入念に遵守され、聖なるものが尊敬され、頻繁に秘跡を受けるようになると、一言で言うとキリスト教的生活があるべき姿に戻されるその日には、尊敬する兄弟たちよ、私が考えていたキリスト教に下に全てを集めるということが実現するのである。それは永遠の善を勝ち取ることが出来るということだけでなく、非常に幸福にも同時にこの世の福利と公の繁栄とも得られるだろう。
 何故なら、この結果がひとたび得られるなら、貴族も金持ちも小さい人々に対して正義を尽くし、愛徳を尽くすだろうし、この世の小さき者たちも、不幸な生活条件による不足を平和と忍耐を持って堪え忍ぶだろうからである。市民は自分のわがままではなく法律に従うだろうからである。皆が、「天主から出ない権威はない」(ローマ13:1)のであるから統治する人々に対して尊敬を愛を持つことを自分の義務と見なすだろうからである。
 更に、その時、皆の前で、イエズス・キリストによって創立された教会が、まったく完全な自由を享受しなければならず、いかなる人間の支配も受けてはならないことが明らかになるだろう。私はこの教会の自由を主張することによって、宗教の聖なる権利を保全するばかりか諸民族の共通善と安寧を計らうのである。「敬虔は全てに役立つ」(1ティモテオ4:8)のであり、敬虔が支配しているところは「民は平和の家に住む」(イザヤ32:18)からである。
15. 願わくは「慈悲に富む」(エフェゾ2:4)天主が、御憐れみによってイエズス・キリストにおける人類のこの刷新を早め給わんことを。何故なら、これは「望む者や走る者によらず、天主のあわれみによる」(ローマ9:16)からである。尊敬する兄弟たちよ、私たちは皆、「謙遜の霊において」(ダニエル3:39)絶え間ない熱烈な祈りによって、イエズス・キリストの功徳に頼って、天主にこの恵みを求めよう。また天主の御母のいとも力強い取り次ぎに頼ろう。それをもっと豊かに得るために、私があなたたちにこの書簡を与えるこの日は、聖なるロザリオの祈りを荘厳に祝うために定められているが、私は、前任者レオ十三世が十月を天主の御母にして童貞女なる聖母に捧げたその命令を再確認し、全ての教会において公にロザリオの祈りを唱えることを命じる。私はさらにあなたたちに、取りなしてとして、カトリック教会の守護者、聖母のいと浄き浄配である聖ヨゼフ、使徒たちの頭である聖ペトロと聖パウロとにも祈ることを勧告する。
16. これら全てのことが、私の望みに従って実現し、あなたたちの全ての仕事が成功を収めるように、私はあなたたちの上に天主の聖寵のたまものを豊かにあふるるばかり祈り求める。尊敬する兄弟たちよ、私があなたたち、また天主の御摂理によってあなたたちに委ねられた信者たちに対して抱く誠実な愛徳の証拠として、私は寛大な心の天主において、あなたたちとあなたたちの聖職者たちまたあなたたちの信者たちに、教皇祝福を送る。
ローマ、聖ペトロの傍らにて、私の教皇職の第1年、1903年10月4日、ピオ十世、教皇
ラテン語E Supremi (die 4 Octobris anno 1903) | PIUS X













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