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マルセル・ルフェーブル大司教の8人の枢機卿様たちへの手紙 1986年8月27日

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マルセル・ルフェーブル大司教の8人の枢機卿様たちへの手紙 1986年8月27日
エコンにて、1986年8月27日
枢機卿様
 教会において起こっているさまざまなできごとを前にして、そしてヨハネ・パウロ2世教皇様をその張本人とするこれらのできごとを前にして、テゼーで、また10月にはアシジですることが計画されていることを前にして、私は枢機卿様に筆を執らずに入られませんでした。それは歴史上かつてなかったほど屈辱を受けている教会の名誉を守ってくださるようにと、多くの司祭と信徒たちの名前で枢機卿様にお願いするためです。
 トーゴ、モロッコ、インド、ローマのユダヤ会堂でのヨハネ・パウロ2世の訓話と行動は私たちの心に聖なる憤りを呼び起こします。旧約と新約の諸聖人たちはこれについてどう思うことでしょうか!もし今でも存在していたとしたら、異端審問所は何をしたでしょうか?
 ペトロの座にすわるものによって公に足蹴にされているのは、使徒信経の第1条であり、天主の十戒の第一戒なのです。カトリック信者の霊魂において躓きは計り知れません。教会はその根底から揺るがされています。
 もしも、カトリック教会が救いの唯一の方舟であるという信仰が消えてしまったら、その時には教会自体が消えてしまいます。教会の全ての力、その全ての超自然的な活動は、私たちのこの信仰箇条を基としているのです。
 ヨハネ・パウロ2世は、公に、特にアシジで計画されているように、聖フランシスコの町のあらゆる道で多くの宗教代表者の取りまきと共に、いろいろな小聖堂や大聖堂をいろいろな宗教団体に振り分けて、そこで国連の考えているような平和のために彼らが独自の礼拝を捧げるよう招いて、カトリック信仰を破壊しようとするのでしょうか? これが諸宗教の集いという忌まわしい集会の責任者となっているエッチャガライ枢機卿様が発表したことです。
 教会においてこのような公の罪を排斥する公式の声が一つも挙がらないと言うのは考えられることでしょうか?マカベオたちは一体今どこにいるのでしょうか?
 枢機卿様、唯一の真の天主の名誉のため、私たちの主イエズス・キリストの名誉のため、公に抗議の声を挙げて下さい。カトリックとして留まっている司教たち、司祭たち、信徒たちを助けて下さい。
 枢機卿様、私が枢機卿様のもとにこのようなお手紙を書いたのは、私がこのことに関する枢機卿様のお考えを疑うことができないからです。
 この呼びかけは、以下に明記してある枢機卿様たちにもしてあります。それは枢機卿様がこれらの枢機卿様方と共に行動されることを考えてのことです。
 願わくは聖霊が枢機卿様の助けに来ますように。
 私たちの主キリストとマリアとにおいて。敬具
マルセル・ルフェーブル
チュールの引退大司教司教
 
+ + +
1986年、Si si no no 紙に掲載された記事

アシジの平和祈祷集会についてどう考えればよいのでしょうか?
 アシジの「祈祷集会」は、ヨハネ・パウロ2世の「個人的な発案」であるとのことです。「個人的な」発案として、このような催しは「全てのキリスト者の牧者及び教師」(第1バチカン公会議)の使命にかかわることでは全くなく、また国連によって今年1986年が「国際平和の年」として提案されている政治的なテーマに従っていることですから、教義にかかわることでもありません。
 来る10月27日にはアシジにカトリック信者のみならず「世界中の他の諸宗教の代表者たちが平和のために集うために」(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月26/27日号)会合する予定です。
 ヨハネ・パウロ2世が「世界中の他の諸宗教の代表者たち」と呼んだ人々のことを、カトリック教会は常に「未信者infideles」とふさわしく呼び慣わしてきました。「未信者とは、広い意味において真の信仰を持っていない全ての人々のことを言い、固有的な意味においては洗礼を受けていない人々のことを言います。そしてこの意味においては未信者は一神教信者(ユダヤ人やイスラム教徒)、多神教信者(ヒンズー教など)そして無神論者に分けられます」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)。
 またヨハネ・パウロ2世が「他の諸宗教」と呼んだことを、カトリック教会が常に「邪教」と呼んできたものです。キリスト教以外の全ての宗教は「天主が啓示しそれを実践することをお望みになる宗教ではないという意味で」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)邪教なのです。
 以上のことを述べた後に、この種の「祈祷集会」はカトリック信仰の光に当てたとき、次のようなものとしてしか考えられないと言えます。
天主に対する侮辱贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如カトリック信者たちにとっての危険と躓き教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り天主に対する侮辱
 全ての祈りは、願い事をする祈りであっても、礼拝行為(actus cultus)です(聖トマス・アクイナスの神学大全II-II q. 83)。祈りは礼拝行為として、礼拝を受けるべき方に、なされるべきやり方で、礼拝が捧げられなければなりません。
 「礼拝を受けるべき方」とは、唯一の真の天主であり、創造主、すべての人の主です。私たちの主イエズス・キリストがその真実のお方を知るための智慧を私たちに授けられた(1ヨハネ5:20)のです。私たちの主イエズス・キリストはまた「私はおまえの天主、主である。… 私以外のいかなる神々をも持ってはならない。… これらを拝んではならず、これらに礼拝を捧げてはならない。」(脱出20:2, 5. マテオ4:-10、ヨハネ17:3、ティモテオ2:5)律法の第1戒を確認されました。
 「なされるべきやり方で」とは、啓示の充満に対応するように、いかなる誤りもなく、と言うことです。「まことの礼拝者が、霊と真理とを持って御父を拝むときが来る、いやもう来ている。御父はそう言う礼拝者を望んでおられる。」(ヨハネ4:23)
 偽りの神々に捧げられた祈り、或いは、天主の啓示とその全て或いは一部が対立するような宗教の憶測に基づいてなされた祈りは、礼拝行為ではなく迷信と呼ばれるべきであり、迷信は天主を敬わないばかりでなく、天主を、少なくとも客観的に、犯すものです。迷信は天主の十戒の第1戒に背く罪です。(神学大全II-II qq. 92-96)
 アシジに集う人たちは、一体誰にどのように祈るのでしょうか?招かれた「他の諸宗教の代表者たち」はそれぞれの宗教行事の服を着て「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈るだろう」とのことです。これが非キリスト者のための事務局長であるウィルブランド枢機卿(Cardinal Willebrands)が説明したことです。(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月27/28日号)このことは1986年6月27日にエッチェガライ枢機卿が記者会見で確認したことであり、これは1986年9月7/21日号のDocumentation Catholiqueに「聖座発表」の見出しのもとで「それぞれの祈りを尊重し、それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」と発表されました。
 ですから10月27日にアシジでは迷信がその最も忌々しい形で大きく実践され、聖寵の時代にありながら天主のキリストを否定しつつ天主を敬っているとうそぶいているユダヤ人の偽りの礼拝(神学大全II-II qq. 92 a. 2 ad 3 et I-II q. 10 a.11)に始まって、創造主に捧げるべき礼拝をヒンズー教徒や仏教徒が被造物に礼拝を捧げるという偶像崇拝(使徒17 :16)に至るまで許されることになるでしょう。
 少なくとも見かけ上、カトリックの権威が彼らを承認することは、天主が迷信でさえも、真の礼拝行為と同じく嘉し給い、真の信仰の表明と同様に不信仰の表明でさえも同じく嘉し給うということ、つまり真の宗教も邪教も嘉し給い、真理も偽りも嘉し給うということを前提とする、或いは暗黙の了解と考えさせるのであり、これは天主に対して非常に大きな冒辱となります。(神学大全II-II q. 94 a. 1)
贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定
 天主と人々をつなぐ仲介者はだだ一人しかいません。すなわちまことの天主かつまことの人である私たちの主イエズス・キリスト(1ティモテオ2:5)です。本来なら人は「怒りの子」(エフェゾ2:3)でありましたが私たちの主イエズス・キリストによって御父と和解しました(コロ1:20)そして私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によってのみ人は信頼して天主に近づくことができる(エフェゾ3:12)のです。
 天と地の全ての権能が私たちの主イエズス・キリストに与えられました(マテオ28:18)そして天と地と地の下にあるものは全て私たちの主イエズス・キリストの聖名に膝をかがめなければなりません(フィリッピ2:10-11)。
 私たちの主イエズス・キリストを通らずに誰一人として御父の元に行くことができません(ヨハネ14:6)。私たちの主イエズス・キリストの名前以外に人が救われることのできる聖名は天下にありません(使徒4:12)。私たちの主イエズス・キリストはこの世に来るすべての人を照らす光であり(ヨハネ1:9)、私たちの主イエズス・キリストに従わないものは誰であれ暗闇を歩く(ヨハネ8:12)のです。私たちの主イエズス・キリストの味方をしないものは主に逆らうものであり(マテオ13:30)、私たちの主イエズス・キリストを敬わないものは、私たちの主イエズス・キリストをお遣わしになった御父を冒辱するのです --- そしてまさしくこのことをユダヤ教徒たちがしているのです(ヨハネ5:23)。天主御父がすべての人を裁く権能をお委ねになったのは私たちの主イエズス・キリストにであり、私たちの主イエズス・キリストを信じないものは、天主の唯一の御子の聖名を信じなかったがために、すなわち御子を遣わした御父(ヨハネ17:3)を私たちの主イエズス・キリストにおいて信じなかったために既に裁かれたのです(ヨハネ3:18)。
 更には、私たちの主イエズス・キリストこそ平和の君主です(イザヤ9:6、エフェゾ2:14、ミケア5:5)。何故なら、全ての分裂、対立、戦争などは、人が贖い主の御血の力によるのではなければ自分の力ではそこから解放されることのできない罪の苦い果実であるからです。
 私たちの主イエズス・キリストは、アシジにおいて、非キリスト者たちの「他の諸宗教の代表者たち」の祈りとどのような関係があるのでしょうか?全くありません。
 何故なら私たちの主イエズス・キリストは彼らにとって、或いは知られざる人であり、或いは躓きの石であり、或いは逆らいのしるしだからです。世界平和のために祈るようにと言う彼らに対してなされた招待は、次の誤りを前提とし、それを避けることなく暗黙の了解としていることを認めてしまっています。
 つまりその誤りとは、一方では私たちの主イエズス・キリストの仲介によってイエズス・キリストの聖名によって天主に近づくことのできる人たち(つまりキリスト信者たち)があり、他方で私たちの主イエズス・キリストという仲介者の介入なく自分自身の名前によって天主に直接行くことのできる人々(つまりその他の全人類)がいる、ということです。別の言い方をすると、私たちの主イエズス・キリストの前に膝をかがめなければならない人々とそれを免れている別の人々がいると言うこと、私たちの主イエズス・キリストの御国において平和を求めなければならない人々と私たちの主イエズス・キリストの御国の外に平和を見出し、しかも主の御国に対立してさえも平和を得ることができる人々がいると言うことです。このことはウィルブランド枢機卿とエッチェガライ枢機卿との宣言から結論づけられることです。「もし私たちキリスト者にとってキリストが私たちの平和であるなら、信じるすべての人にとって平和は天主の恵みである」(ウィルブランド枢機卿オッセルバトーレ・ロマーノより)。「キリスト者たちにとっては祈りはキリストを通る」(エッチェガライ枢機卿Documentation Catholiqueより)。
 アシジの「祈祷集会」は、ですから、贖いが誰に対しても必要であると言うことを公に否定することです。
未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如
 かつてピー枢機卿(Cardinal Pie)は、「イエズス・キリストはオプションではない」と言っていました。私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によって義とされる人が一部で存在し、私たちの主イエズス・キリストと関係なく義とされる人が他方で存在するのではないのです。すべての人はキリストにおいて救われ、すべての人はキリスト無くしては滅びてしまうのです。天国という唯一の超自然の究極の目的とは別の「自然の最終目的」という選択肢が人間にあるわけでもありません。罪を犯すことによって人は道を外れてしまうのですが、もしキリストにおいて唯一の道(ヨハネ4:6)を見出すことができなければ、人間が創造されたその最終目的に到達するための道を見出すことが出来なかったと言うことですから、人には永遠の滅びしか残っていないのです。
 ですから、異教徒たちをも含めて全ての人々にとって救いの主観的な条件は真の信仰なのであって、たんなる「善意」ではないのです。何故なら真の信仰こそが手段として必ず必要なものであり、「もし(たとえ故意にではなかったとしても)真の信仰がない場合には、永遠の救いを期待することが絶対的に不可能(ヘブレオ11:6)」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 66)だからです。
 聖トマスは次のように説明しています。故意の不信仰は過失であり、不本意の不信仰は罰である、と。実際に未信者は不信仰の罪によって永遠に滅びるのではありません。つまり彼らが全く知りもしなかったキリストを信じなかったという罪によって滅びるのではなく、真の信仰無くしては誰も赦しを得ることができないその他の罪によって滅びるのです(マルコ16:15-16、ヨハネ20:31、ヘブレオ11:6、トリエント公会議Dz 799, 801、第1バチカン公会議 Dz 1793、神学大全II-II q. 11, a. 1)。
 人間にとって贖い主を受け入れ、仲介者と一致することよりも重要なことはありません。これこそが永遠の生死にかかわる問題です。天主の命に従って(マルコ6:16、マテオ28:19-20)未信者はカトリック教会によってこれが告げ知らされるのを聞く権利があります。これこそが、カトリック教会が常に未信者たちに、彼らのために祈りつつ(彼らと共に祈るのではなく)、告げ知らせてきたことです。
 アシジでは何が起こるのでしょうか?アシジでは彼ら未信者のためには祈りません。それは暗黙のうちにそして公に、彼らにはもはや真の信仰が必要ではない、と言うことを前提としているからです。彼らのために祈る代わりに、彼らと交わって祈る、ラジオ・バチカンのユダヤ教師のような言い方によると、彼らのそばに祈るためにいる、ことになっています。こうすることによって暗黙のうちにそして公然と、“誤りの教える祈りも、「霊と真理とにおける」祈りと同じように天主に嘉されるものである” と言うことを前提としてしまっているのです。
 「それぞれの祈りを尊重する」とエッチェガライ枢機卿はその短い宣言の中で説明しています。つまりアシジに集う未信者は「信仰について何も知らないジャングルの中で育った未開人」(神学者たちは未信者の救いの問題を論じるときに彼らの仮説のもとになっている前提がこれです。例えば聖トマスDe veritate XIV 11)ではないのですから、彼らは「尊重されて」「闇と死の陰に」(ルカ1:79)取り残されることになるのです。
 「他の諸宗教の代表者たち」は、自分の宗教色豊かな服装で、宗教に関して誤って信じていることに合うように祈ることを許され、彼らは更に、少なくとも形のうえでは (materialiter) 信仰に対する罪、不信仰、異端、などに踏みとどまるようにと奨励されているのです。
 世界平和が「基本的な」そして「最高の」善であると定義され(ヨハネ・パウロ2世 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年4月7/8日号 とウィルブランド枢機卿 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年1月27/28日 の発言)、その世界平和のために祈るように招待を受けた彼らは、永遠の善からこの世の善へと、すなわち自然的な副次的な善へと道をそらされてしまっています。あたかも彼らには超自然の究極の目的を得る必要がないかのようです。しかし、この超自然の究極目的こそ真に基本的で最高のものなのです。
 「天主の御国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのこと(地上のこと)も加えておまえたちに与えて下さる」(マテオ6:33)。
 以上の理由によって、アシジでの「祈祷集会」は、少なくともその見かけだけでも、未信者に対して当然なすべき義務と愛徳とを欠く行為であると言えます。
カトリック信者たちにとっての危険と躓き
 救いのために真の信仰がどうしても必要となります。カトリック信者は自分の信仰を危うくするような全ての危険な機会を避けなければなりません。そのような外的な危険のうちの一つが、どうしても避けられない必要もないにもかかわらず未信者と接触することです。このような接触は教会法を待つまでもなく、そして教会法がたとえば社交上のこととして禁止していない場合でも、自然法と神法によって許されないことなのです。聖パウロは言います。Haereticm hominem divita. 異端者を避けよ、と(ティト3:10)。
 教会は母の心を持ってカトリック信者にとって信仰に対する危険になりうることのみならず躓きの動機になりうることさえも常に禁止してきました。(1917年の教会法は数世紀に亘る教会の掟を採用しています。1258条、2316条を参照して下さい。神学大全II-II q. 10 aa. 9-10)
 教会はまた常に邪教に対して公の宗教儀式の権利を拒否してきました。もし必要なときには教会はそれを黙認しました。しかし、この「黙認」は常に「その悪を許すそれ相当の理由がある」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 1702)ためでした。それがいかなる場合であれ、非カトリックの宗教儀式を見かけ上であっても承認するようなことを教会は常に避けてきましたし、禁止してきました。
 アシジでは何が行われるのでしょうか?確かに、言葉の綾によって「一緒に祈るため」ではないかも知れませんが、カトリック信者と未信者とが「祈るために一緒になる」でしょう。このことはとどのつまりアシジで共に祈ると言うことなのです。まずそれそれが同時に自分たちのいるところで祈り、次に閉会式では聖フランシスコのバジリカの前に集まって順番に祈るのです。
 ところで、このようなことはカトリック信者の信仰を守るためにすることではなく、カトリック信者を少なくとも躓かせないためにすることではありません。
 これはそれぞれが「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈る」のを許すために、「それぞれの祈りを尊重」するために、そして「それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」ためになされるのです。ですから少なくとも見かけ上、次のことを承認しているのです。
教会が常に権利を否定してきた偽りの宗教儀式の承認教会が常に「宗教無差別主義」或いは「宗教拡大主義」の名の下に排斥してきた「宗教主観主義」の承認です。
「宗教主観主義」とは「人間の理性或いは啓示の光によって明らかにされる客観的な真理だけが権利を持つことを理解せずに、いわゆる “自由の要求” によって自己を正当化しようとする態度です(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)。」
「宗教無差別主義」とは「最も恐るべき異端の一つであり」「全ての宗教を同じレベルに置き」規則正しい生活と永遠の救いとの存在理由を宗教的に信じることが真理であることを認めないものです。「『宗教無差別主義』のためについに人は宗教を全く個人的なものと看倣してしまい、個人の好みの違いによって好きなものを選び、「私にとっての」宗教を形成することを許し、たとえ宗教が互いに矛盾しあっているにもかかわらず、全ての宗教はみなどれもこれも良いものであると結論させるのです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)これはカトリック信仰と言う行為の外でのことです。
 天主の啓示は現実の事実であり、確かな徴という手段を持って信じるに値する真理と天主によって確立されたのですから、この領域に関する誤りは人にとって最も重大な結果をもたらします(レオ13世 1888年回勅『リベルタス』)。
 「全く明らかな真理という現実の事実を前に、それらがあたかも存在していないか或いは誤りであるかのような態度を承認するほどの黙認はいかなる人にもできません。そのようなことは私たちが全く信じていないか、或いは私たちの立場の真理に完全に納得していないか、或いは私たちが全く無関心でいることができる些細な事柄であると考えているか、或いはまた私たちが真理も誤謬も全く相対的な立場にすぎないと考えているかのいずれかを前提とするからです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 1703)
 まさに「祈祷集会」これら全てを含んでいるので、これはカトリック信者にとって躓きの機会であり、彼らの信仰を大きな危険にさらすものとなるのです。エキュメニズムの事実からついにはカトリック信者は未信者と合流するかも知れませんが、それは彼らの「共通の破滅 」(ピオ12世 1950年『フマニ・ジェネリス』)においての合流になることでしょう。
教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り
 教会は全ての国々に次のことを告げ知らせる任務があります。
唯一の真の天主が存在すること、この唯一の天主は全ての人々のために私たちの主イエズス・キリストにおいてご自分を啓示されたこと。真の宗教はただ一つしかないこと、天主がそこであがめられることを望んでおられる宗教はただ一つであること。何故なら天主は真理であり偽りの諸宗教において真理に背くものは、教義上の誤り、掟の不道徳性、宗教儀式の不適合性など、全て天主に背くこと。天主と人との仲介者はただ一人しかおられないこと。人間が彼によって救われることを期待することのできるのはただ私たちの主イエズス・キリストだけであること。なぜならすべての人は罪人であり、キリストの御血によらずしては全ての人は罪のうちに留まるからです。真の教会はただ一つしかないこと。そしてこの教会が永久に私たちの主イエズス・キリストの御血を守っていること、「救いの唯一の方舟である使徒継承のローマ教会の外においては誰も救われることができないこと、このローマ教会に入らないものは大洪水に滅ぼされてしまうことを信じなければならない」(ピオ9世 Dz 1647)こと。もし彼らの無知がどうしてもしかたのないものだったとしても彼らの心の状態が、明らかに或いは暗黙のうちに天主のみ旨を全て成し遂げたいという少なくとも望みによって、教会の中に入っている必要がある(ピオ9世 Dz 1647)ということ。 教会の固有の使命は、これら全てを告げ知らせることです。
「あなたたちは諸国に弟子を作りに行き、聖父と聖子と聖霊との聖名によりて洗礼を授け、私があなたたちに命じたことを全て守るように教えよ。」(マテオ28 :19-20)「あなたたちは全世界に行って全ての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は滅ぼされる。」(マルコ16 :16)
 教会が確かに数世紀にも亘ってこの使命を果たすことができるために私たちの主イエズス・キリストは聖ペトロとその後継者たちに目に見える形で主の代理となる使命を与えました。(マテオ16 :17-19、ヨハネ21 :15-17)
 「イエズス・キリストの代理者は、新しい啓示の力を借りて新しい教義を作る使命もなく、新しい事態を創造する任務もなく、新しい秘蹟を制定するための任務もない。そのようなことは彼の任務ではない。彼はイエズス・キリストの教会の頭としてイエズス・キリストを代表している。イエズス・キリストの教会は既に完成している。教会の本質的な構造、つまり教会を創造することはイエズス・キリストに固有な業であった。イエズス・キリストはご自分でそれを成し遂げそれを聖父に言われた。「私はあなたが行わせようと思し召した業を成し遂げました。」(ヨハネ17 :4)主の業に何も付け加えることはない。この御業をそのまま維持し、教会の業を保持し、その機関がうまく働くようにすることだけである。従って必要なことは2つであり、それは教会を統治し、真理の教えを永久に守ることである。第1バチカン公会議はイエズス・キリストの代理者の最高職務の対象としてこの2つをあげている。ペトロはイエズス・キリストをこの2つの観点の下で代表するのである。」(Don Adrien Grea, De l’Eglise et de sa divine constitution : 第1バチカン公会議の使徒憲章『パストル・エテルヌス』第4章)
 並ぶものもない程のペトロの権能は、代理者としての権能であり、代理者の権能としては絶対のものではなく自分が代表するイエズス・キリストの天主の権によって制限を受けています。
「主はペトロにペトロの羊ではなくご自分の羊を委ねた。それは自分の利益のためにでなく天主の利益のために牧させるためであった。」(聖アウグスチヌス 説教第285の3)
 ですから教会の使命とローマ教皇の使命にそぐわないような「個人的な発案」を(アシジでの「祈祷集会」のような明らかにご自分の使命とはそぐわないようなものを)促進させると言うことはペトロの権能に属するものでは全くありません。
 私たちの主イエズス・キリストはこう言いました。「サタン退け! “あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えなければならない” と書かれてある」(第2法6:13、マテオ4:10)と。
その主イエズス・キリストの代理者たるものが、どうして真の天主への信仰のために聖別された聖なる場所に、邪教の「代表者たち」を招いて彼らの偽りの神々に祈らせることができるでしょうか?
 聖ペトロはこう言って信仰を宣言しました。「御身は、生ける天主の御子、キリストです」(マテオ16:16、ヨハネ6:69-70)と。そしてこの信仰宣言故に首位権を得たのです。その後継者たるものがどうして私たちの主イエズス・キリストがあたかもいないかのように立ち振る舞うことができるのでしょうか。
 聖ペトロは兄弟たちの信仰を固める任務を受けました(ルカ22:32)。その後継者がその兄弟、子供たちの信仰にとって躓きの石となるべきではありません。(了)








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