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2015年秋田巡礼 SSPX Akita Pilgrimage 霊的講話5 「ファチマでの最後のヴィジョン」

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アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2015年5月4日、秋田巡礼でのシュテーリン神父様霊的講話その5をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2015年5月4日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5

同時通訳:小野田圭志神父

 今、皆さんの手元にお配りしたのは、ファチマでの最後のヴィジョンの有名な絵です。





 今から皆さんにご説明しようと思っている事は、とても重要なことです。この絵を見ると、マリア様の果たす役割、私たちの救霊における役割というのが、どのように重要な事であるかが分かるからです。この絵をよくご覧になって下さい。


 1917年、マリア様はファチマで、3人の子供たちにお現われになりました。そして7月13日にはマリア様は、「この地上に、私の【汚れ無き御心に対する信心】を確立させる為にもう一度やって来る。そして、ロシアを私の汚れ無き御心に奉献する事を頼みに、もう一度やって来る。」と、言われました。1925年、そして1926年に、お言葉の通りマリア様は、もう一度シスタールチアに、その時シスタールチアは修練女でしたが、やって来ました。そしてその時に、【聖母の汚れ無き御心に対する信心】とは何か、そして、初土の信心について説明されました。

 そして1929年6月13日、夜の11時から12時の間に、トゥイという所で、マリア様はお現われになります。ここでマリア様は、ロシアを聖母の汚れ無き御心に奉献する事をお願いします。ところで、このトゥイでの御出現で最もビックリする事は、ロシアの奉献についてとは関係ないように見える、三位一体のヴィジョンを見たからです。

 シスタールチアはこのように語っています。シスターは一人で、お御堂で夜中にお祈りしていましたが、突然、教会は明るくなりました。そしてこれは、超自然の光によって明るくなり、祭壇の上には光輝く十字架が、天井にまで届くような十字架が現れました。これが、このような感じで十字架が現れました。そして、その十字架の上には、更に光輝く人間が現れました。そしてこの人の胸のあたりには、光に輝くハトが見えました。そして十字架には、また別の人が、十字架に釘付けさせられていました。そして腰のあたりにはカリスが現れ、そしてカリスの上にはホスチアが宙に浮かび、そして胸からは御血が、そのカリスに流れ出ていました。そして、この胸からの御血はまずホスチアに流れ、そのホスチアからカリスに流れていました。そして、右側の手の下には、マリア様が、ご自分の手に汚れ無き御心をお持ちになりながら立っていました。

 シスタールチアが正確に言うには、「これはファチマのマリア様であって、手には汚れ無き御心を持っていた。その左の手で、御心を持っておられた。その御心には、剣もバラの花も無く、その代わりに茨の冠によって冠せられている御心が見えます。そしてこの御心には、愛の炎が燃えていたのですけれども、その左側には大きな文字で、クリスタルのようにきれいにハッキリと、水のような文字で、このような言葉が書かれていました。“恩寵、聖寵と憐れみ。お恵みと憐れみ”私はすぐに、至聖三位一体の玄義が、私に示されたのだと理解しました。」そしてその後に、マリア様が、ロシアを奉献する、という事をシスターは思い出します。

 天主様は、このファチマの秘密の最終の事を、このヴィジョンによって私たちに示そうとしている、という事を理解する事はとても大切です。ここに描かれている事は、このヴィジョンは、この巡礼の最初から私が説明しようとした事を、的確に表現しています。この絵について、何度も何度も頻繁に黙想して下さい。もしも黙想できない、という時には、ただ眺めているだけで結構です。

 上からまず御父を見て下さい。私は今から絵を説明します。全ては御父から来ます。ですから天主様御父は、始めであり、一番上にいます。手は両手を大きく広げています。父は、御父は手を広げて全てのものを与え、そして全てのものは父から来ます。父は、御父は御子をこの世に送ります。父はこの世をそれほども愛したので、御子を最後容赦せず、そして御子をこの世に送ったほど、この世を愛された。御父は私たちの命と、超自然の命の起源です。

 天主御父が御子をこの世に送りますが、その目的は贖いの業の達成です。これを見るとよく分かるように、十字架は全ての場所を占めています。この祭壇の所から天井まで、全て十字架です。何故かというと、十字架こそが、天主が私たちをどれほど愛しているか、という事を教える啓示であるからです。十字架のイエズス・キリストを通して、私たちに聖寵と、そして憐れみが与えられています。そして聖心から流れる全ての御血と全ての聖寵は、全て御聖体とカリスに収め、集められています。これが、御聖体の神秘です。

 皆さんが与る聖伝のミサでは、この玄義が、これが全て、本当に目の前に実現します。イエズス様の受けた御傷を、十字架に付けられたイエズス様を、黙想して黙想して、し尽くす事ができません。イエズス様の開かれた聖心。イエズス様は今どこをご覧になっているのでしょうか?イエズス様は、マリア様の方をご覧になっています。またカリスもご覧になっています。

 聖グリニョン・ド・モンフォールによれば、「イエズス様の救霊の、贖いの業の継続と言うのは、一つは十字架の像、十字架像、もう一つはロザリオ、この二つにある。」と、言います。




 聖ヨハネ・ボスコのビジョンによれば、「教会は将来、大きな困難を二つの柱によって救われるだろう。一つは大きな柱であって、その上には御聖体が、もう一つは小さな柱で、その上にはマリア様が。」




 御父と御子の間には、ハトの姿が見えますが、これは光のハトで、これは聖霊を表しています。これが聖霊の第二のミッション、第二の派遣の事です。そしてこの聖霊、この絵では上手く描かれてませんけれども、聖霊は光をこう照らして、この御子の十字架の贖いの業を照らし出しています。聖霊の働き、ミッションというのは、この御子の贖いの業を照らし出して、そして全ての人がそれを見る事ができ、理解する事ができ、受け入れる事ができるように助ける事です。そしてこれが、この聖霊のミッションによって、天主が光であり、恵みであり、力である、という事をこのように照らし出します。ここに天主様の事業、大事業“gesta Dei”が表われています。

 「天主よ、御身は私の為に、何を、どのような、どれほどの事をされたのでしょうか。」「私は、お前に全て、私の持てるものを全て与えた。私はお前に、我が御子を上げた。そして聖霊も与えた。」そして、イエズス様は言葉を続けます、「私は、私自身、私がそれである全てを与え、私の持てるもの全て与えた。私の全生涯と、私の全ての血を、お前に与えた。血をほんの少しではなく、私の体を流れる全血潮を、お前の救いの為に捧げ尽くした。そして私はお前の為に、お前と世の終わりまで留まる事ができるように、一緒に居る事ができるような、聖体の秘跡、という秘跡をも作り出した。そしてそれによって私はお前と共に、直接に、本当に、現実に、肉体的に、お前と共にいる。」

 では、この贖いの業の全ては、私たちの所にどのように到達するのでしょうか?私たちの代表はシスタールチアで、このちょっと真っ黒で見えないのですが、下の、台の下の方に跪いているのが、私たちです。私たちと三位一体との間には何があるのでしょうか?マリア様です。ルチアとそして三位一体の間には、マリア様がいます。つまり天主の大事業“gesta Dei”は、マリア様を通して“per Immaculatam”、という事です。

 天主様の御自分を与えるこの大事業は、全て一つの所に集められています。それが『マリア様の汚れ無き御心』です。ですから、今からこの汚れ無き御心について見てみましょう。

 このマリア様の御心の光を見ると、それは聖霊の光と全く同じであります。聖霊はマリア様の汚れ無き御心を染み透り、そしてそのマリア様の汚れ無き御心を照らし出しています。マリア様の汚れ無き御心には、天主様の愛が全体が、私たちに対する天主様の愛の全体が、留まっています、充満しています。この御心、心臓というのは何でしょうか?御心とか心臓というのは、目に見えるマリア様の内的な全存在の象徴です。このマリア様の御心は、聖霊に満たされたマリア様の霊魂の表現です。このマリア様の御心は、天主の知恵に満たされた、マリア様の知性の表現です。また第三にマリア様の御心は、愛に満たされた、マリア様の意志の、目に見える表現です。ちょうど第二のエヴァとして、第二のアダムの足下に、一人で立っておられた、その事がこの絵には非常に上手く表れています。新しいアダムと新しいエヴァは、本当に近く親しく、近しく二人隣り合っています。そしてこの二人は、二人で、新しい贖われた人類を産み出すのです。

 伝統的によれば、マリア様の御心は、バラの花とか、或いは剣で貫かれていて、というような形で描かれるのですけれども、このファチマのマリア様では、別の描かれ方をしています。伝統的にはマリア様の御心は、その祭服にあるように、バラの花とか剣が描かれています。でもここでは、イエズス様と同じ様な、茨の冠を冠せられています。このような御心は、普通はイエズス様の御心を表す為に使われています。

 では、これは一体何を意味しているのでしょうか?これは何を意味するかというと、イエズス様の受けた全ての苦しみ、受難、ご苦難、そのイエズス様の御心の受けた全て、その御苦しみは、全くマリア様の受けた苦しみと同じである、という事です。これは、マリア様が『共贖者』である、という事を表しています。イエズス様は、物理的に目に見える、肉体的な茨の冠を冠せられましたが、マリア様は心に於いて、その冠を冠せられました。イエズス様が御身体によって受けた全ての苦しみと全く同じものを、マリア様は御心で感じ取っていました。

 また、特別的な例外的なポイントは、マリア様はご自分の御心を自分の手で持っております。何故かというと、マリア様はこの心を、私たちに与えようと思っているからです。何故かというとマリア様は、私たちに子供として、ご自分は母として、私たちに持てる全てを与えよう、と手に持っているからです。

 よく見て下さい。この御心は子供に対する愛に燃え盛っています。そしてこのカルワリオに於いては、マリア様はその何千何万という陣痛の苦しみを通して、私たちを超自然の命に産み出したからです。そしてマリア様は、今までなかったほど、更に私たちにご自分の御心を与えよう、と思っています。この御心には、マリア様の汚れ無き御心には、天主様がマリア様に与えた全てが詰まっています。例え皆さんが何も持てるものがなかったとしても、この御心があれば全てがあります。例え、この世の事業で全てを持っていたとしても、このマリア様の汚れ無き御心を持ってなければ、何も持ってません。そしてこのマリア様は、この汚れ無き御心を持ちつつ、私たちに与えようとして、この私たちの世界に触れています。

 マリア様を通して、天主様がマリア様に与えた全てのものを、私たちは得る事ができます。マリア様を通して、天主の巨大な愛を受ける事ができます。マリア様を通して、道、真理、命、すなわちイエズス・キリストを受ける事ができます。マリア様を通して、回心と聖化のお恵みを受ける事ができます。マリア様の御心こそが、全ての、全く全てのお恵みの中継者であり仲介者である、という事のシンボルです。このやり方によってマリア様は完璧に、私たちの母であり、元后であり、女王である、という事が分かります。そしてマリア様は更に、全てのあまねく聖寵の仲介者であります。これをよく見ると、方向性があって、三位一体からマリア様を通してルチアに、そしてルチアつまり私たちにへと、伝えられています。

 ではルチアから、三位一体への方向性はどうでしょうか?最初は天主様が行為します。そうしなければ誰も救われる事はできません。もしも、天主様からの働きかけがこうあるならば、私たちからの応えがなければなりません。コルベ神父様によれば、「天主様からの何か働きがあれば、それに対する反応がなければなりません。」天主は与え、私たちはそれにお礼をします、与え、そのお返しがあります。天主は、天からこの地に、私に御恵みを下さったので、そのお恵みと共に、私はそれを天にまた返します。天主様が私たちに与えたその手段を通して、私たちも天主へと返して行かなければなりません。マリア様を通して私たちの方にやって来ました。贖いの大事業は、マリア様を通して与えられました。聖霊が私たちの心に導かれたのは、マリア様を通してです。ですから、天主の元に行くのは、マリア様を通してです。“Per Mariam ad Deum.”マリア様を通して、イエズスに行かなければなりません。

 6月13日マリア様は何と仰ったでしょうか?マリア様はこう仰いました、「私の汚れ無き御心は、あなたの避難所となるでしょう。そして、天にあなたを導く道となるでしょう。」

 このような天主の巨大な愛の表われを、私たちが目前とした時に、何をするべきでしょうか?マリア様は、この世を私たちの方を見ています。一つの左の手では、私たちにご自分の御心を与えようと持っていますが、右の手では、私たちにロザリオを与えようと持っています。そして手を、私たちの方に右手を差し伸べています。ですからこれは、私たちがそのマリア様の手を、差し伸べられた手を掴んで、そしてマリア様に自分を与えるしかありません。私たちは、ですから応えなければなりません。この応えとは、つまり一つです、「はい、マリア様。私は、あなたの子供でありたい。私は、あなたの奴隷でありたい。」と、応える事です。

 これは、「マリア様に対する奉献」と、名前が付けられています。奉献というのは実は、その一番大切な要素というのは、この皆さんの本に書かれて印刷されているお祈りの、その文字の羅列ではありません。この奉献の祈りは、奉献とは何か、奉献の心構えはどういう事か、という事を上手く表現されていて、この上手い言い方で私たちの心を確かに表しています。しかし、奉献の最も大切な要素としてその中核をなすものは、私たちの意志です、意志の行為です。言ってみるならそれは、私が結ぶ契約の、私がサインに印鑑を押したその契約の行為です。ちょうど、マキシミリアノ・コルベによれば、「小切手を切った時に、この金額を書かずにサインをして、さあ、あなたが金額を書いて下さい。」

 そしてこの契約というのは、金輪際、全ての瞬間、全くあなたのものであって、あなたに依存して、あなたの所有物としてであり、そしてもうあなたの子供ではないような瞬間、奴隷ではないような瞬間はない、という事を宣言するのです。ですからファチマでは、マリア様の汚れ無き御心に対する奉献がどれほど重要であるか、という事を仰るのです。ロシアの奉献、或いは世界の奉献、或いは私たち個人個人がマリア様に対してする奉献についてです。

 第一の応えは、私たちがマリア様に手を挙げて奉献する事ですが、第二の応えとしては、回心です。子供を見て下さい、お母さんは手を持って、もう迷子にならないように、ずっと持っています。そしてその所では、子供はお母さんの手を持ったまま、こうキョロキョロしていると、お友達が周りにいるじゃないですか。友達が、「おい、何とかちゃん!遊ぼ遊ぼ!あっちに行こ!おもしろいゲームがあるよ!行こ行こ!」

 マリア様の手を持っていない、お母さんの手を持っていない時にはそのまま、「おお!行こう!」と言って、行っちゃったんですけれども、そしてそのお友達と遊んでいる間に、転んで傷を付けて、倒れて、怪我だらけになりました。しかし今では、お母さんの手を持っていますから、奉献されていますから、ですからマリア様は私の手を持っています。友達がいます。「お母さん、友達、お母さん」(子供は友達の方に行こうとするけれども、お母さんが手を持っているので動けない)ですから、ここで回心があります。この回心というのは、ちょうどベルトコンベアのように、このコンベルテというのがあって、日本語でもこの回は回転の回を使いますけれども、この被造物から天主様へと、変化が、向きの変化があります。子供は、「お~い、こっちで遊ぼうぜ~!おもしろいよ~おかしいよ~!お~い!来~い!」と、言いますけれども、マリア様はこの子供の手をグッと持って、回心があります。これをマリア様が私たちにしてくれます。

 マリア様は、こっちを見てなさい、という時には、子供をこっちこっちこっちと向けるので、子供は「(泣きながら)うぅ~、お母さんお母さんお母さん。」と、正しい方向に向けて下さいます。聖母は最高のお母さんですので、私たちがやるような方法ではなく、優しく、優しく、私たちの向きを変えて下さいます。

 私は、実はアフリカで宣教師として長年働いていました。そして、復活祭の時にはたくさんの洗礼式があって、私はその時の復活祭の時には56名洗礼を授けました。56名の成人の大人の洗礼式です。長い長いセレモニーがあります。1時間30分1人につきかかります。それについてのおもしろい話が実はあるのですけれども、あまりにも長いので言う事ができないのです。そしてアフリカでは、「ちゃんと行儀正しくしなければならない。」と、教えられなければなりません。もう56名洗礼式をしなければならないので、25名くらい洗礼式をすると、もう疲れてきてしまって、「ちゃんとやって下さい。」と、言うのもめんどくさくなります。その時に来たのが、30歳くらいになる非常にこの繊細な女性の方が、洗礼式にやって来ました。そしてその洗礼式、洗礼を受ける、という事に非常に感動してその彼女は、洗礼の洗礼台がこうやってやって来ました。こうやって感動してやって来ました。

 彼女はオロオロして、どうやっていいか分かりませんでした。私はもう何十名も洗礼式をしてとても疲れていました。だから「ちょっとこうやって下さい。ちょっと倒して下さい。」と、それで、私は何も考えずに、「こうやって下さい。」と言って、こう女性の頭をグイッと掴んで、その顔をグッと向けて、「聖父と聖子と聖霊との御名によりて…」と、水を注ぎました。すると、ちょうど私の修道院長がやって来て、私がやっている事を見ました、「お前、戦争でもやってるのか。司祭として、司祭のように行動して下さい。ドイツ兵のようにやってはいけません。」

 洗礼が終わって、この受洗者を見ると、涙を流して泣いていました。マリア様が私たちの顔を掴んで、回心させる時には、もっと優しくして下さいますので、心配しないで下さい。

 この「回心」というのは、ファチマのメッセージで非常に大切な言葉のキーワードです。

 第三の役割は、私たちをして償いを果たさせる事です。私たちがマリア様の手を持って、そして回心すればするほど、私たちはますますマリア様の中に入っていきます。そして、マリア様の中に入れば入るほど、天主様の愛に満たされます。そして、その愛に満たされた私たちは、「あぁ、このイエズス様をお慰めしたい。」と、いう愛の行為に促されます。そして、「私たちの為に、それほどの涙を流されたマリア様を慰めたい。」と、思います。ここで、私たちは秋田に居ます。

 時間が来ましたので、また10分休憩を取ります。また戻って来て下さい、戻らない人もいます。笑


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