復活祭の説教2021年(これは大阪の聖堂でドモルネ神父様がなさった御説教をそのまま手を加えずについて掲載しております。御了承ください。)
ドモルネ神父
はじめに
私たちの主イエズス・キリストのご復活の祝日である復活祭(復活の主日)は、一年の中で最も重要な祝日です。なぜそうなのでしょうか。私たちは十字架の犠牲によって贖われたのですから、主のご受難と十字架上の死の方がもっと重要であるように思えます。ですから、私たちは復活祭(復活の主日)よりも、むしろ聖金曜日を一年で最も大いなる日として祝うべきであるように思えます。
しかし、聖パウロはこう言いました。「キリストが復活しなかったなら、あなたたちの信仰もむなしく、…あなたたちはまだ罪の中にいる」(コリント前書15章14-17節)。では、なぜ教会は、復活祭(復活の主日)を一年で最も大いなる日として祝うのでしょうか。
私たちのキリスト教の信仰
私たちはキリスト教徒です。私たちは、私たちを創造され、ご自分の天主のいのちを分かち合うように私たちを呼ばれている天主を信じています。私たちは、イエズス・キリストが、私たちを天主のいのちに到達させるために、天主によって任命されたことを信じています。私たちは、イエズス・キリストが私たちの救い主であり、世の罪を除くお方であることを信じています。イエズスはこう言われました。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11章28節)。この意味は、「私は、あなたたちの霊魂を罪から解放し、霊魂に恩寵のいのちを与えることで、あなたたちの霊魂を元気づけよう」ということです。
イエズス・キリストが世の罪を除き、私たちの霊魂を元気づけてくださったのはいつでしょうか。何千人もの人々に宣教すると、彼らがイエズスを王にしようとした時でしょうか。主が奇跡を起こされた時でしょうか。そうではありません。イエズス・キリストは、ゲッセマネの園での苦悶に始まって十字架上の死に至るまでのご受難によって私たちを救われました。世の偉大なる救い主は、ゲッセマネで世のすべての罪を御自ら背負われたイエズス、十字架にかけられたイエズス、最もみじめな人のように亡くなられたイエズスです。イエズス・キリストは、罪に対する完全な償いを捧げられ、悪魔の帝国を滅ぼし、天主に最大の栄光を与え、私たちにとってのいのちと霊的な力の源となられました。私たちは、この陰鬱で恥辱に満ちたご受難の時間が、贖いとなる栄光の時間であったと信じています。これが私たちのカトリックの信仰ですが、この信仰は「ユダヤ人にとってつまずきであり、異邦人にとって愚か(なもの)」(コリント前書1章23節)です。
聖金曜日には、童貞聖マリアだけがそのような信仰を持っておられました。ご自分のあらゆる苦しみにもかかわらず、偉大で揺るぎない聖母だけが、十字架にかけられた御子の死において救いのみわざが実現したと信じておられたのです。
救われるためには、私たちも、十字架につけられたイエズスが私たちのすべての罪を償ってくださったと信じなければなりません。私たちは、十字架につけられたイエズスが、悪魔とその罪の上に築かれた帝国に打ち勝たれたことを信じなければなりません。ですから天主は、イエズスの勝利を示す強力なしるしを私たちに与えてくださいました。そのしるしとは、私たちの主イエズス・キリストの死後3日目の肉体の復活です。
肉体の死は罪による結果であり罰である
自問してみましょう。なぜ天主は、キリストの罪に対する勝利のしるしとして、復活を選ばれたのでしょうか。それは、罪と死の間につながりがあるからです。聖パウロは「罪を死の刺(とげ)」(コリント前書15章54節)と呼んでいます。説明しましょう。
聖パウロはローマ人にこう言いました。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入っ[た]…罪の払う報酬は死である」(ローマ5章12節、6章23節)。肉体の死は罪の結果であり罰です。天主はアダムとエバを創造されたとき、彼らとその子らに不死の賜物を与えられました。しかし、アダムは、天主に頼らずに自分のことは自分で決めたいという望みを持っていました。彼は天主の掟を破りました。禁断の果実を食べたのです。すぐに彼は霊的な死、すなわち犯した悪による苦さを経験しました。彼は天主の友情を失いました。いのちの源である天主から離れてしまったのです。アダムは地獄行きを宣告され、その子らもすべて彼と一緒でした。この霊的な死に続くものが、アダムの肉体の死の宣告だったのです。「おまえは額に汗を流して、糧を得るだろう。土から出たおまえなのだから、その土にかえるまで、ちりであって、ちりにかえるべき者よ」(創世記3章19節)。肉体の死は、罪による霊的な死のしるしとなりました。肉体の死は、罪による結果であり罰でした。
肉体の復活は罪の赦しのしるしである
贖いとは、人類の罪の赦しと償いを意味します。肉体の死が霊的な死のしるしであったのなら、霊的な復活を示す最も適切なしるしは何でしょうか。それは肉体の復活です。イエズスの肉体の復活は、イエズスの犠牲が人類のすべての罪を償ったというしるしです。聖パウロは、「キリストが復活しなかったなら、あなたたちの信仰もむなしく…あなたたちはまだ罪の中にいる」と言いました。言い換えれば、キリストの十字架上の死が私たちの罪を償ってくれたことの保証となるものを、私たちは何か持っているのでしょうか。私たちの持っている保証は、キリストのご復活という事実なのです。
肉体の死は、罪に対する罰でした。イエズスのご復活は、この罰が撤回されたことを示しています。私たちはいつか死にますが、その肉体の死は一時的なものです。私たちは世の終わりに肉体的に復活します。聖パウロはコリント人にこう言いました。「一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る」(コリント前書15章21節)。私たちの主イエズスご自身は、「私は復活であり、いのちである。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11章25節)と言われ、別のところでは、「私を遣わされたお方の御旨とは、私に賜ったものを一つも失わず、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6章39節)と言われました。
結論
キリストの十字架上の犠牲による罪に対する勝利は、キリストの復活による肉体の死に対する勝利よりもはるかに偉大なるものでした。
しかし、キリストの罪に対する勝利は、まったく霊的で、目に見えない、神秘的なものでした。それが、イエズスの肉体の復活によって、私たちにも見えるようになったのです。だからこそ、私たちは「イエズスの犠牲」である聖金曜日ではなく、むしろ「イエズスの復活」である復活祭を盛大にお祝いするのです。
さて、復活祭の特別な恩寵とは何でしょうか。天主は、イエズスの復活の功徳によって、特に私たちにどのような恩寵を与えようとなさっているのでしょうか。使徒たちのことを考えてみましょう。ご受難の後からご復活の前まで、彼らがどれほど恐れ、意気消沈していたことでしょうか。
しかし、イエズスが復活された時から、彼らの信仰はもう揺るぎませんでした。彼らは、殉教するまで、世界中で熱心に、たゆまず福音を伝えました。復活の喜び、キリストの勝利の確信があったからこそ、彼らはキリストの愛のためにどんな苦しみにも耐え、どんなわざにも取り組むことができたのです。これが復活祭の恩寵です。キリストの勝利を知ること、イエズスがもう死ぬことはないと知ること、イエズスが敵に負けたように思えるとき敵に打ち勝ったのを知ること、これらの知識は常に私たちを平安と霊的な喜びで満たしてくれるはずです。『キリストがもし私たちの味方なら、誰が私たちに反対できよう』(ローマ8章31節)。
この世での私たちの人生が終わるまで、私たちの祝されし母が私たちの心をこのような平和と喜びで満たしてくださいますように。
ドモルネ神父
はじめに
私たちの主イエズス・キリストのご復活の祝日である復活祭(復活の主日)は、一年の中で最も重要な祝日です。なぜそうなのでしょうか。私たちは十字架の犠牲によって贖われたのですから、主のご受難と十字架上の死の方がもっと重要であるように思えます。ですから、私たちは復活祭(復活の主日)よりも、むしろ聖金曜日を一年で最も大いなる日として祝うべきであるように思えます。
しかし、聖パウロはこう言いました。「キリストが復活しなかったなら、あなたたちの信仰もむなしく、…あなたたちはまだ罪の中にいる」(コリント前書15章14-17節)。では、なぜ教会は、復活祭(復活の主日)を一年で最も大いなる日として祝うのでしょうか。
私たちのキリスト教の信仰
私たちはキリスト教徒です。私たちは、私たちを創造され、ご自分の天主のいのちを分かち合うように私たちを呼ばれている天主を信じています。私たちは、イエズス・キリストが、私たちを天主のいのちに到達させるために、天主によって任命されたことを信じています。私たちは、イエズス・キリストが私たちの救い主であり、世の罪を除くお方であることを信じています。イエズスはこう言われました。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう」(マテオ11章28節)。この意味は、「私は、あなたたちの霊魂を罪から解放し、霊魂に恩寵のいのちを与えることで、あなたたちの霊魂を元気づけよう」ということです。
イエズス・キリストが世の罪を除き、私たちの霊魂を元気づけてくださったのはいつでしょうか。何千人もの人々に宣教すると、彼らがイエズスを王にしようとした時でしょうか。主が奇跡を起こされた時でしょうか。そうではありません。イエズス・キリストは、ゲッセマネの園での苦悶に始まって十字架上の死に至るまでのご受難によって私たちを救われました。世の偉大なる救い主は、ゲッセマネで世のすべての罪を御自ら背負われたイエズス、十字架にかけられたイエズス、最もみじめな人のように亡くなられたイエズスです。イエズス・キリストは、罪に対する完全な償いを捧げられ、悪魔の帝国を滅ぼし、天主に最大の栄光を与え、私たちにとってのいのちと霊的な力の源となられました。私たちは、この陰鬱で恥辱に満ちたご受難の時間が、贖いとなる栄光の時間であったと信じています。これが私たちのカトリックの信仰ですが、この信仰は「ユダヤ人にとってつまずきであり、異邦人にとって愚か(なもの)」(コリント前書1章23節)です。
聖金曜日には、童貞聖マリアだけがそのような信仰を持っておられました。ご自分のあらゆる苦しみにもかかわらず、偉大で揺るぎない聖母だけが、十字架にかけられた御子の死において救いのみわざが実現したと信じておられたのです。
救われるためには、私たちも、十字架につけられたイエズスが私たちのすべての罪を償ってくださったと信じなければなりません。私たちは、十字架につけられたイエズスが、悪魔とその罪の上に築かれた帝国に打ち勝たれたことを信じなければなりません。ですから天主は、イエズスの勝利を示す強力なしるしを私たちに与えてくださいました。そのしるしとは、私たちの主イエズス・キリストの死後3日目の肉体の復活です。
肉体の死は罪による結果であり罰である
自問してみましょう。なぜ天主は、キリストの罪に対する勝利のしるしとして、復活を選ばれたのでしょうか。それは、罪と死の間につながりがあるからです。聖パウロは「罪を死の刺(とげ)」(コリント前書15章54節)と呼んでいます。説明しましょう。
聖パウロはローマ人にこう言いました。「一人の人によって罪が世に入り、また罪によって死が世に入っ[た]…罪の払う報酬は死である」(ローマ5章12節、6章23節)。肉体の死は罪の結果であり罰です。天主はアダムとエバを創造されたとき、彼らとその子らに不死の賜物を与えられました。しかし、アダムは、天主に頼らずに自分のことは自分で決めたいという望みを持っていました。彼は天主の掟を破りました。禁断の果実を食べたのです。すぐに彼は霊的な死、すなわち犯した悪による苦さを経験しました。彼は天主の友情を失いました。いのちの源である天主から離れてしまったのです。アダムは地獄行きを宣告され、その子らもすべて彼と一緒でした。この霊的な死に続くものが、アダムの肉体の死の宣告だったのです。「おまえは額に汗を流して、糧を得るだろう。土から出たおまえなのだから、その土にかえるまで、ちりであって、ちりにかえるべき者よ」(創世記3章19節)。肉体の死は、罪による霊的な死のしるしとなりました。肉体の死は、罪による結果であり罰でした。
肉体の復活は罪の赦しのしるしである
贖いとは、人類の罪の赦しと償いを意味します。肉体の死が霊的な死のしるしであったのなら、霊的な復活を示す最も適切なしるしは何でしょうか。それは肉体の復活です。イエズスの肉体の復活は、イエズスの犠牲が人類のすべての罪を償ったというしるしです。聖パウロは、「キリストが復活しなかったなら、あなたたちの信仰もむなしく…あなたたちはまだ罪の中にいる」と言いました。言い換えれば、キリストの十字架上の死が私たちの罪を償ってくれたことの保証となるものを、私たちは何か持っているのでしょうか。私たちの持っている保証は、キリストのご復活という事実なのです。
肉体の死は、罪に対する罰でした。イエズスのご復活は、この罰が撤回されたことを示しています。私たちはいつか死にますが、その肉体の死は一時的なものです。私たちは世の終わりに肉体的に復活します。聖パウロはコリント人にこう言いました。「一人の人間によって死が来たように、一人の人によって死者の復活も来た。すべての人がアダムによって死ぬように、すべての人はキリストによって生き返る」(コリント前書15章21節)。私たちの主イエズスご自身は、「私は復活であり、いのちである。私を信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11章25節)と言われ、別のところでは、「私を遣わされたお方の御旨とは、私に賜ったものを一つも失わず、終わりの日に復活させることである」(ヨハネ6章39節)と言われました。
結論
キリストの十字架上の犠牲による罪に対する勝利は、キリストの復活による肉体の死に対する勝利よりもはるかに偉大なるものでした。
しかし、キリストの罪に対する勝利は、まったく霊的で、目に見えない、神秘的なものでした。それが、イエズスの肉体の復活によって、私たちにも見えるようになったのです。だからこそ、私たちは「イエズスの犠牲」である聖金曜日ではなく、むしろ「イエズスの復活」である復活祭を盛大にお祝いするのです。
さて、復活祭の特別な恩寵とは何でしょうか。天主は、イエズスの復活の功徳によって、特に私たちにどのような恩寵を与えようとなさっているのでしょうか。使徒たちのことを考えてみましょう。ご受難の後からご復活の前まで、彼らがどれほど恐れ、意気消沈していたことでしょうか。
しかし、イエズスが復活された時から、彼らの信仰はもう揺るぎませんでした。彼らは、殉教するまで、世界中で熱心に、たゆまず福音を伝えました。復活の喜び、キリストの勝利の確信があったからこそ、彼らはキリストの愛のためにどんな苦しみにも耐え、どんなわざにも取り組むことができたのです。これが復活祭の恩寵です。キリストの勝利を知ること、イエズスがもう死ぬことはないと知ること、イエズスが敵に負けたように思えるとき敵に打ち勝ったのを知ること、これらの知識は常に私たちを平安と霊的な喜びで満たしてくれるはずです。『キリストがもし私たちの味方なら、誰が私たちに反対できよう』(ローマ8章31節)。
この世での私たちの人生が終わるまで、私たちの祝されし母が私たちの心をこのような平和と喜びで満たしてくださいますように。