ヴィガノ大司教「聖金曜日のように、今日も、主を否むペトロ、逃げ隠れする使徒たち、教会にいばらの冠をかぶせ、顔を叩いてあざけり、鞭で打って嘲笑にさらし、教会を十字架につける者たちがいる。聖母と一人の使徒が十字架のふもとにとどまり、教会の受難の証人となるものもいる。悲しみ、死、墓の後には復活もある。」
キリストのご受難がキリストの神秘体においても成就しなければならない。
Abp. Viganò: A Meditation on the Passion and Death of the Lord
ヴィガノ大司教「主のご受難と死についての黙想」
PASSIO ECCLESIÆ
教会の受難
主のご受難と死についての黙想
今はあなたたちの時である。くらやみの力だ。
ルカ22章53節
聖なる三日間の典礼のテキストは、主がローマ総督の命令のもと、最高法院(サンヘドリン)の意思によって受けられた拷問の粗野な残虐性を、鞭のように私たちに叩きつけます。大司祭たちに扇動された群衆は、天主の子の無実の血を自分たちとその子らの上に呼び寄せ、エルザレムに入城したときに主のものとされた勝利をわずか数日の間に否定しました。ホザンナの讃美と叫びは、「十字架につけよ」という叫びに変わり、棕櫚の枝は鞭と棍棒になったのです。群衆はどれほど失望させることができるのでしょうか。彼らは確信をもって名誉を与えることができますが、その直後に同じ確信をもって死刑を宣告するのです。
この死刑の宣告の主役たちと責任ある人々は誰でしょうか。十二使徒の一人であるユダは、盗人であり、裏切り者です。銀貨30枚で主を教会の権威者に引き渡し、主を逮捕させました。最高法院、つまり、ご受難の瞬間にも有効な旧法の宗教的権威です。偽りの証人たちは、金で雇われているか、悪評を求めているかで、互いに矛盾しながら主を告発します。民衆、というよりも広場でのデモの準備をしている群衆で、数人の熟練した操り手に導かれるままに行動します。パレスチナにおける皇帝の代理である総督ポンティオ・ピラトは、不当な判決を下しますが、公的な権威を持っています。そして、無実の人間に対して、期待されているからという理由だけで、かつてないほどの残酷さで怒りをぶつける名もなき部下たち、すなわち、神殿の番兵、最高法院の兵士、ローマ兵、暴力的な暴徒です。
私たちの主は、正当な裁判官によってその無実が認められたにもかかわらず、死刑を宣告されます。「Accipite eum vos et crucifigite; ego enim non invenio in eo causam」(かってにこの人を連れていって十字架につけよ。私はこの人に罪を見つけない)【ヨハネ19章6節】。ピラトは大司祭たちも群衆も敵に回したくなかったのです。大司祭たちは群衆を、パレスチナを軍事的に占領しているローマ人への憎しみを利用して操ることができるのです。ピラトは、民衆のレビ人や長老たちが自分を軽蔑し、彼を異教徒とみなして距離を置き、総督官邸に入ることで自分を汚したくないと考えていることを知っています。彼らは、自分たちを抑圧しているこの世の権力が、自分たちのメシアを天主への冒涜、つまり宗教的な罪で断罪する共犯者になることを確実にしていてさえも、外に留まっているのです。いや、むしろ、無実の人を有罪判決なしで死に追いやるためにです。ピラトは言います。「Innocens ego sum a sanguine iusti huius」(この男の血について私には責任がない)【マテオ27章24節】。かくして、世俗の権力者は、傲慢と暴動の恐ろしさに直面して、正義の行使を放棄するのです。ちょうど、霊的な権威が、自分が独占している権力を失いたくないために、預言を隠し、彼が天主であることが次々と確認されているにもかかわらず、約束されたメシアと認めないと主張し、真理を語ってご自分が天主であることを宣言したという理由でイエズス・キリストを殺そうと陰謀を企てるようにです。司祭のかしらたちはピラトを脅します。「Si hunc dimittis, non es amicus Cæsaris」(もしあの人をゆるすなら、あなたはチェザルの友ではない)【ヨハネ19章12節】。そして、自分たちの王を死刑にするために皇帝の権力に身を委ねるというところまで行くのです。「Non habemus regem, nisi Cæsarem」(私たちの王はチェザルのほかにありません)【ヨハネ19章15節】。しかし、それはユダヤの王であるヘロデではなかったでしょうか。
十字架の上でさえも、主はご自身の犠牲の応誦を、詩篇の言葉で唱えられます。「Deus meus, Deus meus: ut quid me dereliquisti?」(私の天主よ、私の天主よ、なぜ、私を見捨て給うのか)。聖書を暗記している人は、この荘厳な叫びの中に、会堂に対する最後の警告があることに気づかないふりをしています。それは、40年後に皇帝ティトの手によって、レビ人の司祭職の廃止と差し迫った神殿の破壊があるという予兆を示していることです。この詩篇21篇でダヴィドは、ユダヤ人たちが自分の目の前にあったもの、盲目のためにもはや理解できなかったものを預言しているのであり、私たちは今日、聖金曜日の典礼のとがめの交誦の中で、この警告が繰り返されているのを聞きます。それは、選ばれた民の不忠実を容易に信じられず、さらに新しいイスラエル、その教皇、その役務者たちの不忠実が、それに劣らずがく然とさせるほど繰り返されていることに心を痛めているのです。
復活祭の前の三日間の典礼の中には、痛みと苦しみに満ちた告発のように聞こえない言葉は一つとしてありません。ユダとご自分の民が主を裏切ることで実現し、宗教と世俗の権力が主とそのキリストに対抗して一致して行う行動をご覧になる主の告発です。「Astiterunt reges terrae, et principes convenerunt in unum, adversus Dominum, and adversus Christum ejus」(この世の王たちは立ち上がる、主とその油を注がれた者に逆らって、君主たちは手を結ぶ)【詩篇2篇2】。
主はこう言われます。「この世があなたたちを憎むとしても、あなたたちより先に私を憎んだこと忘れてはならぬ。あなたたちが世のものなら、この世はあなたたちを自分のものとして愛するだろう。しかし、あなたたちはこの世のものではない。私があなたがたを選んでこの世から取り去った。だからこの世はあなたたちを憎む。『奴隷は主人より偉大ではない』と先に私が言ったことを思い出せ。彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」【ヨハネ15章19-20節】。この警告によって、救い主は、ご自分の至聖なるご受難が、ご自分の神秘体においても、つまり「彼らが私を迫害したなら、あなたたちにも迫害を加えるだろう」と、何世紀にもわたって個人においても、時の終わりに団体としての教会としても、成就しなければならないことを私たちに思い起こさせてくださいます。ですから、キリストのご受難と教会の受難の間の対応関係は重要なのです。
この対応関係は、今のくらやみの時代に一層明らかになっているように私には思われます。この時代には、不忠実にして腐敗した新しい会堂の権力が、主と主に忠実な人々を迫害するために、時の権力と同盟を結んでいます。今日もまた、権力に飢え、自分たちを服従させている帝国を喜ばせたいと思っている司祭のかしらたちは、ピラトに頼ってカトリック教徒を非難させ、自分たちの指導者の裏切りを受け入れたくないために天主を冒涜していると非難しています。昨日の使徒たちと殉教者たちは、今日の使徒たちと殉教者たちの中にもう一度生きています。彼らは今のところ、血を流す殉教の特権を拒否されていますが、迫害、排斥、嘲笑を拒否されているわけではありません。
もう一度、最高法院に善き牧者を売るユダを見ます。もう一度、偽証者、悪人、群衆を扇動する者、神殿の衛兵、総督官邸の兵士を見ます。もう一度、衣を裂くカヤファ、主を否むペトロ、逃げ隠れする使徒たちを見ます。もう一度、教会にいばらの冠をかぶせ、顔を叩いてあざけり、鞭で打って嘲笑にさらし、役務者の不祥事や信徒の罪という十字架に教会をつける者たちを見ます。今日もう一度、海綿を酢に浸し、槍で教会の脇腹を刺す者たちがいます。
しかし、聖金曜日と同じように、今日も教会の母と一人の使徒が十字架のふもとにとどまり、かつて「passio Christi」(キリストのご受難)の証人であったように、「passio Ecclesiæ」(教会の受難)の証人となるのです。
この沈黙と黙想の時に、私たち一人ひとりが自分自身をよく調べることができますように。終末の時代の典礼行為において、たとえ同調するためだけであっても、目をそらし、首を振り、カルワリオへの道行きで主につばを吐いた人々の中に入りたいかどうか、自問しようではありませんか。
この聖なる再現の中で、私たちは教会の荒廃したイメージの中で血にまみれたキリストの御顔を拭く勇気があるかどうか、キレネ人(キレネのシモン)のように、教会がその十字架を担うのを助ける方法を知っているかどうか、アリマタヤのヨゼフのように、教会の復活まで教会を安置するのにふさわしい場所を提供することができるかどうか、自問しましょう。
私たちは、最高法院や大司祭のようにキリストを叩いたことが何度あったか、信仰よりも人間を敬うことを優先したことが何度あったか、銀貨30枚を受け取って救い主を裏切り、主の善き役務者たちにおいて救い主を司祭のかしらたちや民の長老たちに引き渡したことが何度あったか、自問しましょう。
教会が暗くなった空の下で「Consummatum est」(すべては成し遂げられた)と叫び、大地が揺れ、神殿の幕が上から下まで引き裂かれるとき、キリストの苦しみの欠けた所(コロサイ1章24節)は神秘体において成し遂げられるでしょう。私たちは、十字架から降ろされ、墓に安置され、自然による完全で静かな沈黙、そして古聖所への降下を待つのです。この場合も、神殿の番兵がいて、「pusillus grex」(小さな群れ)が復活しないように見張っているでしょうし、信徒がそれを盗みに来たと言う人もいるでしょう。
聖土曜日は聖なる教会にもやって来ます。悲しみ、死、そして墓の暗闇の後には、「エクスルテット」(Exultet)と「アレルヤ」(Alleluia)もやって来ます。
「Scimus Christum surrexisse a mortuis vere」(われらはキリストがまことに死からよみがえり給うたのを知る)【復活の続誦からの引用】。私たちは、キリストの役務者たちがすべてが失われたと考えるであろう瞬間に、キリストの神秘体もキリストとともに復活することを知っています。そして彼らは、【エマオで】「in fractione panis」(パンの分割のとき)主を認識したように、教会を認識するでしょう。
これが、この聖なる復活祭と私たちを待ち受けている時代に向けた、私の心からの願いです。
+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2021年4月2日
聖金曜日