司祭の召命についての短い説教(2021年4月18日、大阪にて)
ドモルネ神父
はじめに
今日の福音で、私たちの主イエズスは、ご自身を良き牧者にたとえておられます。そのため、この主日は「良き牧者の主日」とも呼ばれます。この日は通常、司祭や修道者の召命についての説教を行います。私もこの習慣に従って、司祭の召命についてお話しします。
司祭とは何か
司祭は仲介者です。仲介者とは、二人の当事者の間に立って両者を結び付ける人のことです。司祭は、天主と人間との間の仲介者です。司祭は、天主と人間とを結び付けるため、両者の間に立つのです。私たちの主イエズス・キリストが、この結びつきを実現させる唯一のお方です。
なぜでしょうか? それは、イエズス・キリストが、天主であると同時に人間でもある唯一のお方だからです。天主は、イエズス・キリストを通して人間に恩寵をお与えになりますが、人間はまたイエズス・キリストを通して、天主に礼拝、感謝、嘆願をお捧げするのです。このように、イエズス・キリストは、唯一にして普遍的な司祭でいらっしゃるのです。
しかし、イエズス・キリストは、ご自分の司祭職を特定の人々に分け与えられます。彼は使徒たちにこう言われました。「私に従え、私はあなたたちを人をすなどる者にしよう」(マテオ4章22節)。また次のようにも言われました。「諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19節)。人間であるカトリック司祭はすべて、キリストの司祭職を分け与えられた人なのです。
司祭の召命
司祭とは、二人の当事者を結び付ける仲介者です。そのため司祭は、天主と人間という双方の当事者に受け入れられる必要があります。この受け入れられるということが、「召命」と呼ばれるものです。召命は天主からのものであるとともに、人間からのものでもあります。
天主が任命なさらない限り、誰も天主の代理者にはなれません。聖パウロはこう言いました。「アロンのように天主に召された者のほか、この誉れを自分で受けることはできぬ」(ヘブライ5章4節)。天主は、その無限の知恵と全知全能によって、永遠の昔から、特定の人々を司祭職のために準備し、その使命を果たすのに必要な資質をその人々に授けてこられました。そして、時が来れば、天主はこれらの人々に、自発的に天主のご計画に従うように、彼らの心の中に呼びかけられるのです。これが天主の側からの召命です。
さて、人間の側から言えば、司教から聖なる叙階の秘蹟を受けなければ、誰も司祭になることはできません。司教は、司祭の義務を十分に果たすことができると判断した人々にのみ、この秘蹟を与えます。
司祭の義務とは何でしょうか? 第一に、天主の栄光と霊魂たちの救いのために祈り、ミサのいけにえを捧げることです。第二に、天主の啓示を教え、秘蹟を授けることによって、霊的に霊魂たちを養うことです。第三に、信徒を聖徳とあわれみのわざを実践するように導き、励ますことです。
司教は、これらの義務を果たすのに必要な資質を備えた人々を司祭職に呼び出します。この司教からの呼び出しが、人間の側からの「召命」です。
司祭の召命に必要な資質
一人の男性が司祭になるために必要な資質はどのようなものでしょうか? 主に三つあります。知識、聖なる生活、正しい意向です。
・第一の資質は、十分な神学の知識を持つことです。これが必要である理由は、司祭は、人々に天主の啓示を教え、悪魔や誘惑との戦いにおいて人々を導き、人々が天主のみ旨に従った決断をするのを助けるからです。私たちの主イエズスは、使徒たちにこう言われました。「あなたたちは世の光である。…あなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はその良い行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章14、16節)。司祭は神学校で神学を学びます。
・第二の資質は、聖なる生活を送ることです。これは、成聖の恩寵の状態で生活し、堅固な敬虔さを持つことを意味します。貞潔、寛大、従順といった聖徳が特に必要です。不純、頑固、怒り、不摂生といった悪徳は、特に不適格です。
・第三の資質は、正しい意向を持つことです。それは、天主に栄光を捧げ、霊魂を救うために司祭になりたいという願いを持つことです。それ以外の理由であってはなりません。
結論
天主が一人の男性を司祭職にお呼びになるとき、天主がその人に出現されて、「あなたに司祭になってもらいたい」と言われるのではありません。天主はその人に、司祭の義務を十分に果たすのに必要な知的・道徳的資質をお与えになり、また天主の栄光と霊魂の救いのために働きたいという願いをお与えになることによって、その人をお呼びになるのです。司教は、一人の男性に聖なる叙階の秘蹟を授けることを認めることによって、その人を呼ぶのです。
天主はお呼びになる若者に何を期待なさっているのでしょうか? 若者が、「はい」と答えることです。天主が私たちの主イエズスを大司祭に任命されると、イエズスはこう言われました。「私は『私はここにいます』と言った。…巻物の本には私のことが、あなたのみ旨を行うようにと書かれている」(詩篇39篇8-9節)。天主が童貞聖マリアを救い主の御母に任命されると、聖母はこう言われました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。天主から司祭職に呼ばれる若者たちが、私たちの主イエズスや童貞聖マリアと同じ寛大さをもって、その呼びかけにお答えしますように。
ドモルネ神父
はじめに
今日の福音で、私たちの主イエズスは、ご自身を良き牧者にたとえておられます。そのため、この主日は「良き牧者の主日」とも呼ばれます。この日は通常、司祭や修道者の召命についての説教を行います。私もこの習慣に従って、司祭の召命についてお話しします。
司祭とは何か
司祭は仲介者です。仲介者とは、二人の当事者の間に立って両者を結び付ける人のことです。司祭は、天主と人間との間の仲介者です。司祭は、天主と人間とを結び付けるため、両者の間に立つのです。私たちの主イエズス・キリストが、この結びつきを実現させる唯一のお方です。
なぜでしょうか? それは、イエズス・キリストが、天主であると同時に人間でもある唯一のお方だからです。天主は、イエズス・キリストを通して人間に恩寵をお与えになりますが、人間はまたイエズス・キリストを通して、天主に礼拝、感謝、嘆願をお捧げするのです。このように、イエズス・キリストは、唯一にして普遍的な司祭でいらっしゃるのです。
しかし、イエズス・キリストは、ご自分の司祭職を特定の人々に分け与えられます。彼は使徒たちにこう言われました。「私に従え、私はあなたたちを人をすなどる者にしよう」(マテオ4章22節)。また次のようにも言われました。「諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19節)。人間であるカトリック司祭はすべて、キリストの司祭職を分け与えられた人なのです。
司祭の召命
司祭とは、二人の当事者を結び付ける仲介者です。そのため司祭は、天主と人間という双方の当事者に受け入れられる必要があります。この受け入れられるということが、「召命」と呼ばれるものです。召命は天主からのものであるとともに、人間からのものでもあります。
天主が任命なさらない限り、誰も天主の代理者にはなれません。聖パウロはこう言いました。「アロンのように天主に召された者のほか、この誉れを自分で受けることはできぬ」(ヘブライ5章4節)。天主は、その無限の知恵と全知全能によって、永遠の昔から、特定の人々を司祭職のために準備し、その使命を果たすのに必要な資質をその人々に授けてこられました。そして、時が来れば、天主はこれらの人々に、自発的に天主のご計画に従うように、彼らの心の中に呼びかけられるのです。これが天主の側からの召命です。
さて、人間の側から言えば、司教から聖なる叙階の秘蹟を受けなければ、誰も司祭になることはできません。司教は、司祭の義務を十分に果たすことができると判断した人々にのみ、この秘蹟を与えます。
司祭の義務とは何でしょうか? 第一に、天主の栄光と霊魂たちの救いのために祈り、ミサのいけにえを捧げることです。第二に、天主の啓示を教え、秘蹟を授けることによって、霊的に霊魂たちを養うことです。第三に、信徒を聖徳とあわれみのわざを実践するように導き、励ますことです。
司教は、これらの義務を果たすのに必要な資質を備えた人々を司祭職に呼び出します。この司教からの呼び出しが、人間の側からの「召命」です。
司祭の召命に必要な資質
一人の男性が司祭になるために必要な資質はどのようなものでしょうか? 主に三つあります。知識、聖なる生活、正しい意向です。
・第一の資質は、十分な神学の知識を持つことです。これが必要である理由は、司祭は、人々に天主の啓示を教え、悪魔や誘惑との戦いにおいて人々を導き、人々が天主のみ旨に従った決断をするのを助けるからです。私たちの主イエズスは、使徒たちにこう言われました。「あなたたちは世の光である。…あなたたちも人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人はその良い行いを見て天にまします父をあがめるであろう」(マテオ5章14、16節)。司祭は神学校で神学を学びます。
・第二の資質は、聖なる生活を送ることです。これは、成聖の恩寵の状態で生活し、堅固な敬虔さを持つことを意味します。貞潔、寛大、従順といった聖徳が特に必要です。不純、頑固、怒り、不摂生といった悪徳は、特に不適格です。
・第三の資質は、正しい意向を持つことです。それは、天主に栄光を捧げ、霊魂を救うために司祭になりたいという願いを持つことです。それ以外の理由であってはなりません。
結論
天主が一人の男性を司祭職にお呼びになるとき、天主がその人に出現されて、「あなたに司祭になってもらいたい」と言われるのではありません。天主はその人に、司祭の義務を十分に果たすのに必要な知的・道徳的資質をお与えになり、また天主の栄光と霊魂の救いのために働きたいという願いをお与えになることによって、その人をお呼びになるのです。司教は、一人の男性に聖なる叙階の秘蹟を授けることを認めることによって、その人を呼ぶのです。
天主はお呼びになる若者に何を期待なさっているのでしょうか? 若者が、「はい」と答えることです。天主が私たちの主イエズスを大司祭に任命されると、イエズスはこう言われました。「私は『私はここにいます』と言った。…巻物の本には私のことが、あなたのみ旨を行うようにと書かれている」(詩篇39篇8-9節)。天主が童貞聖マリアを救い主の御母に任命されると、聖母はこう言われました。「私は主のはしためです。あなたのみ言葉のとおりになりますように」(ルカ1章38節)。天主から司祭職に呼ばれる若者たちが、私たちの主イエズスや童貞聖マリアと同じ寛大さをもって、その呼びかけにお答えしますように。