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Channel: Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた
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カトリック司祭たちは、イエズス様の羊をイエズス様に代わって、イエズス様の為に牧するという使命を受け、良き牧者の後に従う、良き牧者になろうと努めています

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2021年4月18日(主日)御復活後第二主日(良き牧者の主日)
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄妹の皆さん、今日は良き牧者の主日です。このミサの後に、特別献金の袋がありますので、もしもご自由に、聖ピオ十世会の神学生の為にサポートして下さる方がいらっしゃれば、とても嬉しく思います。心から感謝申し上げます。義務でも強制でもありません。
今アジア管区で、特に私たちの日本のミッションの関係するところでは、韓国の神学生が2人神学校に、そして日本の国籍を持っている神学生も今アメリカで勉強しています。日本からもたくさん聖なる召命が生まれますように、お祈り致しましょう。
今日は良き牧者の主日ですので、カトリックの司祭職について少し黙想する事を提案します。
イエズス様は、「私は良き牧者である」と仰いました。イエズス・キリスト様だけが、唯一の、真の完全な意味で、良き牧者です。
なぜかというと、良き牧者に全ての羊たちは、つまり私たちイエズス・キリストを信じるカトリック信者は、イエズス様のものであるからです。イエズス様に属しているからです。イエズス様の羊であるからです。イエズス様こそが、全ての羊の所有者であるからです。それ以外の誰も所有されていません。ですからイエズス様こそが、真の良き牧者、そして私たちの為に命を与える唯一の方です。
しかしそれと同時に、聖ペトロを通して、イエズス様は御自分の羊たちを、子羊たちを牧する事を委ねました。「シモン、ヨナの子シモン、お前は私を愛するか?」「主よ、あなたは全てを御存知です。私を御身を愛しています。」「"私の"子羊を牧せよ。」
そしてカトリック司祭たちは、イエズス様の羊を、イエズス様に代わって、イエズス様の為に、良き牧者に代わって牧する、という使命を受けました。そして良き牧者の後に従う、良き牧者になろうと努めています。
カトリックの司祭職、これはまず、「司祭職の起源が、ミサ聖祭と非常に密接に関わっていた」という事、そして「十字架のいけにえに非常に密接に関わっていた」という事です。
私たちの主は聖木曜日に、御受難のその最初に、十字架で起こるいけにえを先取りして、初ミサを捧げました。そしてその時に同時に、十二の使徒たちを、新約の司祭として叙階しました。「これを私の記念として行なえ」と主が仰った時に、司祭の最初の叙階式が行われました。
これはトリエント公会議が、決定的に教義として、ドグマとして、不可謬を以て私たちに教えている真理です。「最後の晩餐の時に、最初のミサの時に、イエズス様は新約の司祭職を制定した。」そしてそれによって、旧約のすべての司祭職を完成させました。
それはミサのいけにえ、十字架のいけにえを祭壇の上で、世の終わりまで捧げ続ける為です。この為にこそ、司祭が作られました。ですから、「司祭は、『ミサ聖祭を捧げる』という事の為に作られている」という事をよくご存知下さい。
この為に、七つの秘跡の第六の秘跡、「叙階の秘跡」が制定されました。この叙階の秘跡は、洗礼の秘跡とは別の特別の御恵みであって、イエズス・キリストが、天主でありながら、人間の本性と天主のペルソナにおいて一致した、その「位格的結合」の御恵みを、司祭にも与える、という事です。
イエズス・キリストが神秘体の頭でありますけれども、その頭としての特別の聖寵を、司祭たちに与える。ですから司祭は、ここでミサを捧げる司祭は、もはや個人の名前によってミサを捧げるのではなくて、人間の名前によってミサを捧げるのではなくて、イエズス・キリストの名前によって、イエズス・キリストのペルソナにおいて、イエズス・キリストの代わりに、ミサを捧げます。
ミサとは、ですからミサを捧げる司祭はイエズス・キリストです。そして捧げられるいけにえはイエズス・キリストです。そして捧げられる場所は、その聖なる神殿は、イエズス・キリストの御体です。既に御受難の前に、このイエズス様は御自分の体の事を「至聖所」だとして話されていました。そして捧げられるその目的は、「罪の贖いの為」です。なぜかというと、罪は、天主聖父を無限に傷付けるので、無限の贖いが必要であるからです。
司祭の持っているものすごい特権というのは、「御聖体を聖変化させる」という事です。「パンを、イエズス・キリストの御体に変え、御血に変える、全実体変化を起こす事ができる」という特別の能力を権能を与えられた、という事です。天使でもする事ができない事を、奇跡を、毎日祭壇の上で行なう事ができる、という能力を与えられました。
そしてこの御聖体、イエズス様の御体を信徒の方々が受ける事ができるように、司祭は告解の秘跡、あるいはその他の秘跡を執行します。そしてイエズス・キリスト御自身の真理を、イエズス・キリストへと導く為に、永遠の命へと導く為に、真の門であるイエズス・キリストを通って、永遠の命に至る為に、これを行ないます。神秘体に触れながら、イエズス様をよく、真の良き牧者を受ける事ができるように、羊たちの世話をします。
しかし最も大切な行為は、「御聖体を聖変化させる」ここにあります。これこそ人類に与えられた最高の権能であって、聖ジャン・マリ・ヴィアンネ、アルスの聖司祭は、「この為に、天使たちでさえも、司祭の前に一歩後ろを歩く」と言っています。
このミサを捧げる司祭が私たちにはどうしても必要です。そしてこのもしもミサが捧げられなくなってしまったら、もしもミサが地上で行われなくなってしまったら、聖パドレ・ピオの言葉によれば、「地球は、太陽が存在しない方が、ミサが存在しないよりも、地球が存在する為にもっと楽だ」と言われています。
ですから、ミサが捧げ続けられ、司祭がたくさん出れば出るほど、私たちにとっては多くの御恵みがあります。この司祭が、イエズス・キリストに倣う司祭がたくさん輩出しますように、与えられますように、お祈り致しましょう。聖なる司祭が私たちには必要です。
ところが、第二バチカン公会議では、この「司祭職」という観念が180度変わってしまいました。もう、このような事を信じなくなってしまいました。2000年間の司祭職の司祭像というものが、あっという間に無くなってしまいました。
えっなぜですか?どんな事を言っているのですか?
第二バチカン公会議によると、「教会というのは、秘跡だ」と言います。これは七つの秘跡以外のもので、「全世界の人類の一致の秘跡だ。だからすべての信者は司祭として、司祭職を持っている。その一致の為に働くのだ。ただその職務的な司祭はそのリーダーとして、信徒たちを養成して、そして社会の悪はどこかという事を教えて、そして司会を行なって、でも本当の大切なものは、一番の核心は、平信徒の司祭職であって、そしてこの世を聖別する事にある。この世を聖化する事にある。福音化する事にある。」これが新しい司祭職です。
「御聖体の大切さ」ということから180度変わって、「人間が中心である」という事にお気付きになって下されば幸いです。
ですからこれによると、新しい司祭たちは、天主の民の民なので、ミサを捧げるのは民の民が、会衆がミサを捧げます。そして司祭、職務的な司祭というのは、司会者に過ぎなくなってしまいました。
いえ、そうではありません。カトリックの2000年間の教えによれば、七つの秘跡のうちの第六の秘跡、叙階の秘跡は、司祭に、洗礼を受けた青年に特別な、イエズス・キリストの位格的結合の特別の御恵みを与えて、キリストのペルソナにおいて、ミサを執行して、聖変化を行なって、たった一人でも、十字架のいけにえを捧げる事ができる。
しかし新しいミサは、新しい司祭職では、「世の一致の為に」という為に、十字架のいけにえというよりは、兄弟たちの食事をするので、「どうしても会衆がいなければならない、一人で会食をする事はできないからだ」と言います。ですから、「平信徒がいない時には、司祭はミサをする必要もない。司会者だけで会衆がいなければ、司会は意味がないからだ。」
そうではなくて、私たちにとっては、イエズス・キリストをこの地上にもたらし、イエズス・キリストを教え、イエズス・キリストの代わりにミサを続ける、秘跡を執行する、イエズス・キリストの為に捧げられた特別な人間が必要です。カトリック教会を続ける事が必要です。それが司祭です。
愛する兄妹の皆さん、天主様の御恵みによって、御摂理によって、聖ピオ十世会は、2000年間の司祭職を続けようと、カトリック教会を続けようとしております。その御恵みを心から感謝致しましょう。
そして元々の、元来のイエズス・キリスト様が御望みになった司祭職を続ける事ができるように、多くの司祭が、聖なる司祭が私たちに与えられますように、そして教会が、聖なる司祭があればあるほど、教会が発展するという事を思い、その御恵みを乞い求めましょう。マリア様にお祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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