2021年4月25日 復活後第三主日の説教:ドモルネ神父
尊崇の徳についての短い説教
はじめに
今日の書簡の中で、聖ペトロが私たちに思い起こさせるのは、天主のゆえに、私たちは自らの指導者たちに対して尊敬の念を持つべきだということです。
「あなたたちは、天主のために、被造物であるすべての人々に服従しなさい。優れた王に対しても、悪人を罰し、善人を褒めるために天主から遣わされた統治者たちに対しても」(ペトロ前書2章13節)と書かれています。今日は、指導者たちに対する尊敬の徳である、尊崇の徳についてお話しします。
1.尊崇(observantia)の定義
私たちがある人に尊敬の念を持つ義務を有するのは、その人が優れているからであったり、また私たちがその人から受ける恩恵のためであったりします。その人は優れているため、私たちより上位に立つのです。私たちがその人から受ける恩恵のため、私たちはその人に借りができます。その人が優れていればいるほど、また私たちがその人から受ける恩恵が大きければ大きいほど、私たちの尊敬の義務はさらに大切なものとなります。
私たちはこのような尊敬の念を、まず第一に、天主に対して持つ義務があります。天主は最高の存在であり、最高の優越性を持っておられます。天主は善であり、知恵であり、力であり、美であり、真理であり、すべてが完全でいらっしゃいます。天主はこの世の最高の統治者であり、すべては天主の支配下にあります。天主は私たちの最高の父でいらっしゃいます。天主は私たちの存在、私たちの人間性、そして私たちが持っているすべてのものを与えてくださいます。これらの理由から、私たちは天主に最高の尊敬と礼拝を捧げる義務があります。私たちが天主にそのような礼拝を捧げるとき、私たちは「宗教」の徳を実践しているのです。
第二に、私たちは両親や祖国に、特別な尊敬の念を持つ義務があります。天主は、私たちに生命、教育、財物を直接与えてくださるのではなく、両親や祖国を通して与えてくださるのです。両親や祖国から、私たちは教育を受けます。両親や祖国から、私たちはその財物を受け継ぐのです。したがって、私たちは両親や祖国に対して、特別な尊敬の念を持つ義務があります。そして、私たちが両親と祖国に対してそのような尊敬の念を持つとき、私たちは「敬虔」の徳を実践しているのです。
第三に、私たちは自分の指導者たちに対して、特別な尊敬の念を持つ義務があります。天主は、この世の統治において、人間をご自身に結びつけられます。天主は夫に、自分の家族に対する権威を与えられます。天主は市長に、自分の都市に対する権威を与えられます。天主は王に、自分の国に対する権威を与えられます。天主は教皇に、教会全体に対する権威を、司教に、自分の教区に対する権威を与えられます。指導者たちには、人民の物質的、また霊的な福利を提供する、天主の代理者としての使命があります。それゆえ、私たちは指導者たちに対して、特別な尊敬の念を持つ義務があります。私たちがそのような尊敬の念を持つとき、私たちは「尊崇」の徳を実践しているのです。
2.人間である指導者の尊厳と権威の根源
人間である指導者たちの尊厳は、天主の代理者として人々を統治するという使命から来ています。指導者たちが天主の法に従って人民を統治すればするほど、指導者たちは人々から尊敬され、愛されます。指導者たちが天主の法に反して人民を統治すればするほど、指導者たちは人民から軽蔑されます。
現代の民主主義国家を見てください。ほとんどの指導者たちは、自分の権威は人々から得ていると言います。天主の法に背いて人民を統治しているのです。ですから、会話や新聞、討論などで、そのような指導者たちがどれほど人民から批判され、ばかにされているかを見ても、驚くべきことではありません。
人間である指導者たちの権威は、人民に物質的、また霊的な福利を提供するという使命から来ています。天主が、指導者たちにこの使命を与えられます。そのため、天主は指導者たちに、この使命を果たすための権威を与えられるのです。天主は指導者たちに、人民を地獄に導く権威を与えてはおられません。
ですから、指導者たちには、偽りの宗教を奨励する権威はありません。メディアが天主を冒涜したり、まことの宗教に反する発言をしたりすることを許す権限は、指導者たちにはありません。指導者たちには、主日に不必要な仕事をすることを許す権威はありません。指導者たちには、人々がミサにあずかって秘蹟を受けることを禁じる権限はありません。指導者たちには、妊娠中絶、安楽死、離婚を容認する権威はありません。
指導者たちが天主の法に反する言動や行動をしたときに彼らに反対することは、無礼でもなければ、不従順でもありません。聖ペトロは「私たちは、人よりも天主に従うべきです」(使徒行録5章29節)と言いました。
結論
今日、教会が私たちに思い起こさせるのは、宗教あるいは世俗の指導者たちの尊厳と権威についてです。指導者たちの尊厳と権威は、人民の霊的、また物質的な福利を提供するという、天主から受けた使命から来るものです。
私たちは尊崇の徳を実践しましょう。私たちの宗教あるいは世俗の指導者たちをばかにしたり、嘲笑したり、非難したりするような、忌まわしい習慣を注意深く避けましょう。その反対に、指導者たちのために祈りましょう。なぜなら、指導者たちの使命は簡単なものではありませんし、また指導者たちは自らの指導ぶりについて、いずれ天主に説明しなければならないからです。王たるキリストが、すべての指導者たちのために取り成してくださいますように。